1.その人との出会い
エヴァン・ヘクターは、音高く軍靴を響かせながら、初めて歩く廊下をやや不思議な思いで眺めていた。
よく磨かれた窓から降り注ぐ光と、等間隔に置かれた、小瓶に入れられた野に咲く花に首を捻る。
ここはナシオ王国第三軍、つまりは第三騎士団と第三歩兵部隊の詰め所だった。敷地内には兵舎や、鍛錬場や、軍馬の馬房や、馬場、武器庫、そういったものが全て収まっている。
こういった詰め所は第一騎士団と第二騎士団にもあり、王都の貴族屋敷が途絶え始める辺りに、散らばって配置されている。
敷地だけは広い。が、本来むさ苦しい場所である。花などとは無縁だ。
だが、飾られているのが特に豪華な花などではなく、道端にいくらでも群れて咲いている野花であることが、よく見ていると似つかわしくも思えてくる。
前を歩いていた案内の騎士が振り返って、苦笑を浮かべながら言った。
「ヘクター殿。こんな場所におかしいでしょう。ですが、ここでは見慣れた光景です」
「失礼ながら、女性の高官がおられるからでしょうか」
「いや。副団長はこんなことはしませんよ。たまにご主人の様子を来る、副団長の身の回りの世話をするメイドが、あまりにも殺風景だと置き始めたのがきっかけではありますが」
彼は野花を目を細めて見やってから、エヴァンに「参りましょう。お待ちですので」と言って微笑んだ。
エヴァンは小さくうなずくと、前を歩き出した男の背を追って再び歩き出した。
「失礼します。第一騎士団からお越しの監察官殿をお連れしました」
部屋の中から、やや低めの女性の声で入室が許可される。
エヴァンは、部屋に足を踏み入れると同時に騎士の礼をとった。
堅苦しいのはよしてくれと言う声に、彼は顔を上げる。
そこには光に包まれた赤い髪の女性が立っていて、腕を組んで窓枠にもたれかかっていた。
彼女の名は、カリーナ・ウェイリン・フォイラー女伯爵。若くして第三騎士団の副団長を務める女性だった。
彼を見返す瞳には、茶色に中に緑の煌めきが見える。その、なんとも不思議な色の瞳に、エヴァンは見入った。
日に焼けた肌に、化粧っ気のない顔。
彼女の事は、かつて何度か夜会で目にしたことがある。その時は化粧も豪華な衣装も似合う貴族女性そのものだった。
彼女がその貴婦人である事は間違いないのだが、目の前にいる彼女は……そう……なんと言うか……。
彼女は一瞬彼を見て微笑んだが、すぐにその視線は窓の外へ向いてしまった。
「すまない。今、奴らがサボっていないか監視していたところだったんだ」
彼女はそう言うと、身を起こし、彼の方へ歩いてきた。
「待っていたよ。監察官殿。我が軍はそなたを歓迎、とは言わないが、快く迎え入れるだろう。
それにしても、出立の二日前まで人事が決まらないとは。そなたは貧乏くじを引いたらしいな」
エヴァンは、自分の少し前で立ち止まったその女性に、所属と名前を改めて名乗った。
彼は数日後に遠征に出る第三騎士団の目付け役として、ここに来たのだが、この役目ははっきり言って人気がない。戦況報告をする位で、自分で戦うわけでもなければ、誰かを守るわけでもないからだ。正直、戦場では彼らの後方に控えているだけの無意味な存在だった。
エヴァンが今回この役目を押し付けられたのは事実だった。
彼女もエヴァンに応えて名乗ったが、「まぁどうせ知っているだろうが」と言って笑った。
「それにしても今回は第一騎士団も気が利くことをする」
彼女が何を言っているのかわからずに、エヴァンは問い返すように首をかしげた。
「そなたのような美しい男をよこすとは気が利いていると言っている」
彼は返答に困った。
確かにエヴァンの顔は女性ウケするようで、自分では意識していないが、よく美しいと言われる。
第一騎士団の副団長からは、「有名な男好きらしいからな。弱みの一つでも握ってきたらどうだ」などと言われたものだが……。
だがもちろん彼も騎士の端くれだ。顔の造作などよりも、剣や弓の腕前の方に自信があるのだが、彼女に披露する機会はない。
彼女からしてみれば、自分は顔だけの男なのだろうかと、エヴァンは少し悔しくなって、表情が読み取り辛いといわれるその顔で彼女を見返した。
「失礼ながら、フォイラー副団長も大変お美しいですが、そういった言葉を仕事場で投げかけられるのは、快いものでしょうか?」
彼女は目を瞬かせ、「あ……」と囁くように言うと、恥いるように下を向く。そして貴婦人らしからぬ仕草で、顔を隠すように前髪をくしゃっと握った。
「悪かった。忘れてくれるとありがたい」
エヴァンは居丈高な反応が返ってくると思っていたからやや拍子抜けしつつ、「気にしておりません」とだけ、また表情を動かさずに言った。
彼女はほっとしたように、眉尻をわずかに下げた。
「よし、では、状況を説明しよう。現在、我らが団長殿が療養しておられるのは知っているな」
エヴァンは頷いた。現在の第三騎士団長は、もう老年に差し掛かっておられ、特別怪我を負ったとは聞いていないが休養中であるという。
そのため、若くして副団長となったフォイラー伯爵夫人であるこの女性が、一年ほど前から第三騎士団を事実上指揮しているという。
エヴァンよりも一つか二つ歳が上だったはずだから、まだせいぜい二十二歳か。
未婚の貴族女性としては、結婚相手を探すのに奔走する年頃だが、この人はすでに伯爵家の当主であり、結婚はしないと公言しているという。そして、複数の男性と関係を持つと噂されており、社交界での評判は散々だ。
だが、いざ近くでこうして向き合ってみると、ただ気高く美しい。男を手玉に取っているといわれる、その所以だろうかとエヴァンは思った。
今回の戦は、侵入してきた蛮族を追い返すという単純なものである。
現在は蛮族に侵入された領地の私兵が耐え忍んでいる状況だ。なんとか、こう着状態に持ち込んだが、多くの被害が出ており、追い払うには至りそうもない。
その救援要請が王都にもたらされたのが五日前、準備が整うのに後二日、現地に到着するまでは先に騎馬隊が先行するにしても、最短で二日はかかる。
「なるほど。緊急ですね。この状況では、自軍の補給以上の物資を運ぶ必要がある。出立までに時間がかかっているのはそのためですか」
「……その通り。そなた、第一騎士団でも詳細な情報を得てきたのか?」
「は? いえ、第一騎士団は今回の任務に関わっておりませんので。ただこちらへ行けと言われただけです」
エヴァンはこの副団長も余計な口出しを毛嫌いする人なのかと思った。自分が所属する第一騎士団ではそうだったから。
「出過ぎたことを申しました。申し訳ありません」
エヴァンのその言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げたが、すぐににやりと笑った。
「何も出過ぎていない」
彼女はいくつかの説明を付け加えると、エヴァンに、普段どこに住んでいるのか聞てきた。
エヴァンは自邸のだいたいの場所を伝えた。第一騎士団の詰め所に程近い、貴族街の外れだ。親の持ち物だが、好きに使っていいと言われているので、正式に騎士となってから移り住んだ。それまでは兵舎にいた。
「では、ここまでは少し時間がかかるな」
彼女は書面を渡してきて、サインしろと言った。それは、兵舎の使用許可証だった。
「出立が早まっても、そなたがいなければ置いて行くだけだが、後で第一騎士団から文句を言われても敵わんからな。
出立までは上級兵用の兵舎に部屋を用意した。足りない物があれば、今案内役を務めたエドに言ってくれ。彼の隣の部屋だから」
エヴァンは礼を言うと、その兵舎に向かった。出立が早まる可能性も考慮して自分用の荷物は持参しており、今は愛馬と共に馬番に預けてある。
エドと呼ばれた騎士は、「荷物は今頃部屋に届いていますよ」と言って兵舎に案内してくれた。
監察官などというものは散々だと、先輩騎士らが口々に言っていたが、今のところそこまで悪いものでもないという気がしていた。
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戦場に着くのも、現地の私兵を下がらせて、第三騎士団と歩兵部隊が戦場に立つまでも、エヴァンの体感的にはあっという間だった。
第三騎士団は移動中も当該領地とは緊密に情報交換を行なっていたようで、戦場に近づく頃には、本陣の設置場所や、補給部隊の待機場所、もちろん、大雑把な戦術も、副団長は全て部下らと共有していた。
明日には戦場だ、という最後の野営地の中心部に、軍幹部、そしてもちろん彼らを監視し報告書を上げなければならないエヴァンもいた。
「出来れば、三日で終わらせたい」
「敵さんも相当疲弊しているでしょうからな。一気に畳み掛ければ、それくらいで終わらせられるでしょうよ」
歩兵部隊長に頷き返した副団長は顎に指を当てながら、ランタンに照らされた地形図を睨みつけている。
そこには山のように情報が書き込まれており、もはや地形図としての原型を留めていなかったが、彼女はそれに時々指をやり、トントンと叩いては、また別の場所に指を持って行く。
そんな指の動きに視線を奪われていると、急に彼女が声をかけて来た。
「監察官殿」
「はい。なんでしょうか。副団長殿」
「あとは私の頭の中で考えるだけだ。頭の中を覗く術を持たないのなら、もう休まれてはいかがか」
エヴァンは「では、ありがたく」と言うと、律儀に礼をしてその場を去った。彼はあくまでも部外者であり、異分子だ。せいぜい彼らの邪魔にならないように気をつける事しかできない。彼は自分に割り当てられた場所で、寝袋に包まってすぐに眠りについた。
「フォイラー副団長! よくおいでくださいました!」
傷だらけで、くたびれた表情ながら、まだ気力は十分とばかりの甲冑姿の領主は、わざわざ後方までやって来た。感激した様子で彼女と握手を交わす。
「このように早く来ていただけるとは。兵らの士気も上がっております!」
「これまでよく耐えてくれた。せっかく士気の上がっているところ申し訳ないが、後方に下がってもらおう」
「……どういう事でしょうか……?」
「疲れた顔をしているぞ、男爵。兵らも限界だろう。気力は続いても、体力はそうはいかない。我らが敵の気を引くから、そなたらはその機に乗じて後方へ下がれ」
「……我らはもう使いものにならないと?」
領主は侮辱されたかのように、顔をこわばらせた。
「今、炊き出しの準備もさせている。医薬品も衛生兵も。わかるか? そなたらはもう限界を超えている。そう目を血走らせるな。私はただ、休めと言っている。英気を養い、最後のとどめはそなたらが刺せ」
「ここは我が領地! 兵らは下がらせましょう。しかし、私が下がるわけには参りません! しかも最後の手柄のみを譲られるなど!」
彼女は微笑んでいた。
自分よりも二回りは体が大きく、年齢も一回りは上だろう、そして、戦いに気が昂っている様子の相手に詰め寄られていると言うのに、臆する様子は微塵も見えない。
「そなたは戦い続けて来た。もう三週間はまともに寝ていまい。私は手助けをしに来ただけだ。ここはそなたらの戦場。それを奪うつもりはない。ただ一時の休息と傷の手当ては必要だ。どんなに勇猛果敢な男たちにも。そうではないか?」
彼女の声は、ただ優しかった。戦場の勇者を讃え、そして頷かせた。
「では、行こうか」
彼女の、そのなんの飾り気もない言葉に呼応して第三軍は出撃していった。
エヴァンは常に後方にいた。
戦況を確かめに行っては、甲冑に血糊を付けて帰って来る副団長と、第三騎士団の幹部の話を横で聞き、それを手元に書き留める。
それくらいしかやることはない。
休息がてら、他の兵士たちと同じように干し肉にかぶりつく彼女は、三つ編みにした髪が乱れているのにも気づいていないようだった。そんな食べ方をしていても下品に見えないのが不思議だった。
エヴァンはさすがに何もしていないのに耐えられなくなって、何か手伝うことはあるかと聞いた。
彼女は口の中の肉を飲み下し、水を口にふくんでから、エヴァンの方を向いて微笑んだ。
「猫の手も借りたいくらいだが、他軍の兵を戦場に立たせるわけにはいかないな。気持ちだけいただこう。ありがたく」
「ではせめて」と、彼女に髪を直してもいいかと尋ねて了承をもらうと、食事を続ける彼女の髪を、櫛など持っていなかったので手櫛でとかし、三つ編みにしてさらに邪魔にならないようにまとめ上げる。
彼自身も髪を伸ばしていて、簡単に髪を結うくらいは出来る。
紐を結び終わると、周りから、「手慣れているな、坊主」「副団長よりよほど上手いじゃないか」と声が飛んできた。坊主と呼ばれる歳ではない。
彼女は後ろを見たがったが、残念ながら鏡もないので、それは諦めてもらった。剣を翳して反射させることは出来るが、流石に他軍の指揮官の首元で剣を閃かせるわけにはいかない。
「器用だな。私はメイドに教えられたやり方しか知らないから」
「副団長が不器用なだけでしょうが」と誰かが言い、笑い声さえ上がった。
「いっそ短くしたいが、そんなことをしたら皆が発狂するんだ」
「……なさったことがあるのですか?」
エヴァンは思わず聞いた。彼女は「子どもの頃に」とこともなげに言う。
彼女は現在フォイラー伯爵家の当主だが、元はウェイリン辺境伯のご令嬢だ。それはさぞかし皆を驚愕させたことだろう。
そんな彼女に慣れているらしい部下たちは「短くしてもいいんじゃないですか」「夜会ではかつらを被ればいいですしね」と笑い合う。
エヴァンは真剣に「長い方がお似合いです」と言った。貴婦人が短髪だなどとは外聞が悪いにも程がある。ただでさえ社交界では誤解されているようなのに。
彼女はそんな彼に、人の悪そうな顔で笑いかけた。
戦いは、彼女が宣言していた通り、第三軍到着から三日目に終わった。
二日間の休息を得た領主とその兵士が、別働隊として敵の本陣を撃ったのだ。
これは第三騎士団副団長の作戦だった。
彼らの本来の任務は敵を追い払う事だったが、その支援を受けた領主が攻め入ってきていた敵の大将首を上げることに成功した。
敵は、ある者は討たれ、ある者は逃走した。
戦いは終わった。
エヴァンは負傷者の手当ての場を視察し、衛生兵や騎士見習いの少年たちが立ち働く邪魔をしないように、すぐにその場を去る。
そして行き着いたのは、死者が安置されているテントだった。エヴァンは彼らに「ナシオラの元で待て」と悔やみの言葉をかけると、なんの返答も得られないそこを後にした。
自軍でも同じような場面に遭遇したことが何度かはある。
基本的に第一騎士団は王都を離れないが、それでも地方反乱の討伐に駆り出されることが無いわけではない。
死の匂いは彼の体にまとわりついて、しばらく消えることはないだろう。
副団長の元に戻ると、彼女は丁度、負傷者や死者数の報告を受けているところだった。彼女が手に握った紙には名前が並んでいる。
「十九人か……」と彼女は呟くと、近くの鞄から紙の束を取り出した。
そして、そこから視線を上げずに、「監察官殿」と声をかけられた。「同じ書類はそちらにも渡すように言ってある」
「ありがとうございます。……お聞きしてもよろしいでしょうか」
彼女は疲れた声で「どうぞ」と言った。
「その紙は一体? なんの報告書を作成されるのですか? 必要なものはこちらで作成しておりますし、貴軍にも写しをお渡しいたしますが」
彼女はエヴァンの目を見た。あの、神秘的な瞳に、見たことのない色をのせて。
「これは、報告書ではないよ、監察官殿」
彼女は手に握っている死者の名前の書かれた紙を見下ろした。
「彼らの死を知らせる手紙だ。家族にとっては、受け取りたくないものだろうが」
「……自ら戦死の報を書かれるのですか」
「もうこれくらいしか、してやれることが無いんだ」
彼女の声は心なしか震えているようだった。エヴァンはなぜか苦しくなって、拳を握った。
彼女は何かを吐き出すように話し出した。
「のちに正式な文書が届くが、時間がかかるから。それ以前に自分の死を知らせて欲しい者がいれば、それを聞いておいてある。中には身寄りがないからいらないと言う者もいるが。この中にも……四人いる」
彼女は紙を指で辿って確認してから言った。
エヴァンはなんと言っていいか分からずに、「……十五人分も書くのですか」と、言わなくてもいいことを言った。
「いや、全員分書く。送り先がない者は、本人と一緒に埋めるだけだが」
そう。高官でもない限り、一般の兵は戦場の近くにまとめて埋葬される。連れて帰る余裕はないからだ。
埋葬する余裕があればまだいい方で、そのまま放置される事も珍しくはない。
「全員出て行ってくれ。もう、ここにそなたらの仕事はない」
エヴァンは、他の者と共に礼をとるとテントから出た。
「しばらく、ここには近寄らないで差し上げてくれ。帰りの事で何かあれば俺に言ってくれればいい。報告書に必要な物もこちらで用意しよう」
エドがそう声をかけてくれた。この遠征中に何かと気にかけてくれる彼とは、気安く話ができるようになっていた。主に歳上のエドの言葉が崩れただけだったが。その彼の顔にも沈痛な色が見える。
戦いが終わればそうなる。勝っても、負けても。これが正常な反応なのだと、エヴァンは改めて確認して、どこかほっとした。
つづく……