10「小野の世界と作品と」①
雲の隙間から、ちらっと垣間見えた青空。
そこから飛び出た太陽の熱が、空気に当たってなんとも言い換えがたい雰囲気を漂わせる。
じめじめしたような、ぼやーっとしたような。
言葉にできない不快感を伴った感覚。
その瘴気に当てられ、妙な気分になったからか。
朝8時、人通りの少ない閑素なバス停で私は今日も叫んでいた。
「ほら、時間ギリギリなんだから早くいって!」
「そ、そんなこと言っても。こんなの初めてだし……」
公衆の面前で、なにやらもじもじと蠢く彼女。
黄金の瞳に大粒の涙を浮かべ、ぷるぷると震えながらこちらへ振り返って。
「やっぱりムリぃ……」
「いいから早くいきなさいっ!」
自ら望んだ結末なのに、永久に拒んで進もうとしない彼女。
私はそのすっかり縮こまった肩を持ち、無理やり押して詰め込んでいく。
本当、なぜせっかくの休日の朝からこんな目に合わなければいけないのか。
ガルムは自分の事を”天界でも偉い方の神”なんて言ってたけれど、それがどうしても本当だとは思えない。
というか思いたくもない。
これから訪れるであろう沢山の苦悩を思うだけで、なんだか大きなため息が出てくる。
バス前方から4列目。
向かって右側に手頃そうな席を見つけた私は、ガルムの肩を押し、少し顔をうつむかせながら乗り込んだ。
「はぁ、まったく。何今更バスなんかに怖がってんの……」
「いやいやいや。だって見たことはあっても、いざ体験するとなったら怖いじゃん……」
「乙女か!」
「ぬわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ」
見知りもしない色々な人が乗っているというのに、今にも泣き出しそうな目をしながら奇声を上げるガルム。
もう本当に一発殴っていいかな。
そうしたらこのガルムも少しは大人しくなるかもしれないし、私も恥ずかしい目に合わないで済むし。
……いや、まぁ流石にこんな場所じゃやらないけど。
「それでは出発しま〜す! シートベルトの方、きちんとお締めになってお楽しみくださ〜い!」
そんな事を考えている内に、とうとうバスが動き出した。
頑張って前に進もうと、掃除機のような音を上げるモーター。
運行会社特有の、花のような不思議な香り。
高校2年の修学旅行から、しばらくぶりに経験するこの感じ。
平然を装ってはいるものの、胸の高揚が収まらない。
「ほらガルム、今日のパンフレット。たぶん必要になるから持っておいて」
「えー、めんどくさいから小野が持っててよ。私邪魔になる物持ってたくないし……」
「いいから早くバッグ開けて! じゃないとお昼ごはん抜くよ!」
周囲の迷惑にならないように小声でそう言うと、ガルムは渋々水色のショルダーポーチを開けた。
中には休憩時間に食べる用のお菓子とお金、その他必要最低限の物が入っているようで。
「ガルム……何か余計なもの入れて無いよね?」
「まさかまさか。流石にそんなことはありゃーせんよ小野さん」
あぁだめだ。
この少しだけ語尾に敬語が入るこの感じ、絶対に何かを隠しているに違いない。
でもそれが私の思い違いだとただただ恥ずかしいだけなので、試しにちょっと詰めてみよう。
「ねぇガルム。本当にその中に変なもの入って無い? もし入ってたら夜ご飯も抜きだからね」
「そ、そんなわけ無いですよ小野さん。……ほら、私がそんな事するような顔に見えます?」
「うん」
ガルム悟られないよう、返事をする瞬間にポーチへ手を伸ばしてみた。
すると、当然のように指先から伝わってきた違和感。
硬い……というかメタリック。
爪で優しくつつくと、軽いプラスチックの音が聞こえる。
そして極めつけには、左右についているボタンとスティック。
「ガルム、ゲーム持って来たでしょ」
「……はい」
私は手に持ったそれを勢いよくポーチから取り出し、自分の鞄の中に入れた。
ガルムはあっけに取られた表情をしているが、こればかりはどう弁明のしようもない。
それは彼女自身もわかっているようで、ゲーム機を取られた後は窓ガラスを指でツンツンと叩きながら、ずっと何かをぶつぶつ言っている。
バス停といい出発後といい、立て続けに起こるガルムの奇行に呆れが止まらない。
「こうなることも、少しは考えておけばよかった……」
今日はいつもよりちょっと遠出して、ガルムと陶芸体験に行く予定だ。
なぜそんな事になっているかというと、それは数日前に遡るーー
ご飯を食べて、少しゆっくりして。
そうしてお風呂に入った後、いい感じに暇を持て余していた私が、スマートフォンでネット販売サービスの特売ページを見ていた時のこと。
背後から幽霊の如く這い寄って来たガルムが、突如『ここ行ってみたい!』なんて力強く指で差してきて。
丁度今週の土日が休みで暇だった事だし、ガルムが自分から行きたいなんて言うのが妙に珍しくて、”これならふざけずにちゃんと取り組んでくれるだろう”、とその要望を許諾してしまったから。
まぁ、思ったよりも静かにしてくれているし、大丈夫だろう。
2人で県外に行って何かをするというのも初めてだから、実のところ私も結構楽しみだ。
しかし、流石にこれはーー
「何かがおかしい」
さっきから”やけに静かにしているな”とは思っていたけれど、あのガルムがここまで静かなことに逆に不安になり。
彼女にバレないように、そっとカーテンの裏を覗いてみると。
「……お菓子は一人70個までぇ〜? ……少ないよ!」
寝ていた。
それもぐっすり、なんだか楽しげな夢まで見て。
普段は憎たらしいなとしか思わないけど、寝顔だけは可愛いもんだ。
でも、彼女が一体どういう環境で育ってきたのか、まったく想像もつかない。
ネリアとは昔から交友関係があったと言っていたが、どうしてここまでの違いが出るんだろう。
どうしてこんなに我儘に……。
「って寝るな!」
昨日の夜、バスの座席を決めるじゃんけんで、最多の7連続負けを記録したガルム。
しかし、どうしても窓側の席がいいと駄々をこねていたから仕方なく譲ったのに、なんで寝ているのか。
あぁだめだ、やっぱりこの顔を見ていると腹が立ってくる。
可愛いとか綺麗とか前言撤回。
そんなわけないから、さっさとほっぺたつねって起こそう。
「……いた。んん〜、ここはどこですか?」
寝起きだからだろうか、いつもとは違う彼女の雰囲気に背筋がゾッとする。
なんだか話し方がネリアっぽいというか、丁寧というか。
私の思う限り、彼女が絶対にしない。
というか、できないであろう話し方だ。
「だから〜ここはどこですか……幕張です!」
「長野だよ!」
あ、やってしまった。
ついついいつもの流れで、つっこみをしてしまった私。
静かな空間だからこそ、より声が響いて注目を集める。
痛い、周囲の視線が痛い……。
「ナイスつっこみ!」
彼女は私の全てをわかっているかのように、すかさずフォローを入れて煽る。
いつもの話し方に戻ったのはいいが、更に強くなる目線が耐えられなくて、私は苦言をていする。
「全然ナイスじゃないよ……」
そう言って俯き、どうにか存在感を消そうと試みる私。
しかし、そんな思いとは裏腹に、真後ろの席に乗っていた若い女の子が、親指を立てながら話しをかけてきた。
「いや、ナイスつっこみでしたよ!」
「こら! 恥ずかしいからやめなさいっ! 本当にすいません、この子バカで周りのこととか考えられなくて……」
ぐいぐいと、陽気な台詞ばかりを述べる頭を無理やり押さえつける彼女。
その手はぷるぷると震えていて、とてつもない力が加えられていそうだ。
「ほら、早く謝りなさい!」
「なんでだよ! 私は別に悪いことしてないだろ!」
まずい。
私があんなことをしてしまったばかりに、何も悪くない彼女たちが喧嘩になってしまった。
こんなつもりじゃなかったのに、どうやって場を収めればいいのか。
どんな言葉をかければいいのか分からず、テンパってあたふたしていると。
ガルムが席の頭頂部に身を乗り出して、彼女たちに声をかけた。
「なぁ、お前らは今楽しいか?」
な、なななな、何を言ってんのこの子!?
周囲の静観とした空気が、余計に私達を突き刺すような視線に変わる。
私がこういうの嫌だってわかってるはずなのに、どうしてこんな仕打ちをするんだろうか。
そんなにゲームを取られた事が嫌だったなら、始めからそう言ってくれればよかったのに。
ガルムの唐突な奇行に、どうしても驚きを隠せないでいると。
「ーー楽しいぞ!」
「え!? 葵、あなたいきなり何を言ってるの!?」
「だって嘘ついてもしょうがないだろ? それとも、羽奈は楽しくないのか?」
「ま、まぁ。楽しいとは……思うけど。だって、だってこの子が!」
付き合い初めの初々しいカップルのような会話をする彼女たちが発したそれは、望んでいた返答だったらしく、なんだか嬉しそうに笑うガルム。
それにつられて、彼女らからバス全体が微笑ましい空間に変化していく。
「そっか! じゃあもういいや、後は好きに痴話喧嘩してていいよ。別に私は迷惑とか思わないし」
「「ーーそ、そんなんじゃないからっ!」」
意図した行動ではないのだろうが、息がしっかりと合った2人の声。
一番最初にその意味に気がついたのは当然彼女らで、今ではお互い赤面をして笑い合っている。
す、すごい。
あれだけ言い合っていた彼女たちを、この一瞬で仲直りさせてしまった。
今日のガルムは、本当の神様みたいだ。
私も、こういうところだけは見習わなくちゃいけないかな。
「やっぱり、ガルムって凄いんだねーー」
珍しく神らしい姿を見せてくれたように、私も珍しく褒めようとして。
そんな甘い言葉を投げかけようと、ガルムの方を向いた時。
理解することなど到底し難い、信じられない光景が広がっていた。
「ほれほれほれ〜、早く話せって! そんな2人してもじもじしてないでさ、さっきの元気はどこ行ったんだよ〜」
満足げな表情をしながら、照れる2人を追撃するガルム。
そして、呼びかけようとしたこちらに気がついたようで。
「ん? 小野なんか言った?」
「……いや、やっぱりガルムって凄い馬鹿だなって」
「ばか!?」
”良いことをしたのになんで怒られなきゃ行けないんだ!”と、私の右肩を等間隔で殴り続けるガルム。
対して痛くはないので、力加減はしてくれているのだろう。
(ご飯が気に入らなかった時とか、たまにめちゃくちゃ強くつねってくるからなぁ……)
そうして、幾しばらくと時間が経っていくうちに、窓の中から日本で一番有名であろう”あれ”を見つけた。
「ガルム、ほら外見て! 富士山だ〜! 私初めて生で見たよ!」
「……いや、あんなのただの山やんけ。天界にも昔あったよ、今はあんまり見ないけど」
「あんまり見ないって……天界で何かあったの?」
「いやぁ……その、昔ちょっと……ね?」
そう言って、あちらこちらと目線を揺らめかせる彼女。
普段天界の話をしていても、絶対にこうはならないのに。
……何かがおかしい。
その時、私はその行動の背景、もとい全貌を悟った。
「ふーん……まぁいいや、どうせそれもガルムがやったんだろうし!」
「んな!? なんでそうなるんだ!」
私の憶測を、勢い確かに否定するガルム。
常日頃から疑われて続けているせいか、振り向く速度が速すぎて、首がもげてしまわないか心配になる。
「まぁ、流石にそうだよね。あの大きさの山を消すなんて、いくら神様にだって出来るわけ無いし!」
「いや……まぁ、実際合ってはいるんだけどね……」
「本当だったの!?」




