07
昼休み。教室の端っこで、
「達矢。なに? 聞きたいことって」
里見達矢は友達の黒谷凪にこっそりと相談を持ちかけていた。
「あのさ。凪ちゃん家の犬ってさ。最初から、その、可愛かった?」
「はあッ!?」と凪は大きな声を上げて、
「ちょっと。しぃーッ!」
達矢に注意を受ける。しかし凪の勢いは少しも衰えず、
「ちょー可愛かったに決まってんじゃん。過去形じゃねーわ。今も可愛いわ」
噛み付くみたいな迫力で達矢に答えた。
この凪こそが「かわいい」「可愛い」「カワイイ」「見ろよ。もう。超ヤバい」と達矢に犬の可愛らしさを摺り込むように教え込み、敢えて言葉を選ばずに言うならば洗脳をしてしまった達矢のお犬師匠で、鈴木虎呼郎にとっては諸悪の根源であった。
「えっと。じゃあさ。最初から凪ちゃんの言う事とか聞いた?」
珍しい気がする達矢の困り顔を見て、凪は「んー」と真面目に考える。
「まあ。最初の最初は違ったかもな。けどウチのは地頭が良いからすぐに慣れたぜ。あっという間に黒谷家の立派な一員になったかんな」
真面目には考えたのだが凪の答えは結局、我が子自慢のようになっていた。
「何だよ。達矢。犬飼い出したのか? 良かったじゃん。何犬? いつから?」
凪に問われて、達矢は「うんッ! あのねッ」と即答しかけるも、
「んむッ」
と踏みとどまった。
余所でおじさんの事を犬だと言ってはいけない。一般人に魔法の本の事がバレたら大変な事になる。虎呼郎との「約束」と魔法絡みの「お約束」を思い出して、達矢は横を向く。
「なんだその顔。……はっはーん。達矢、お前。犬を飼ってみたは良いもののウチのみたいには言う事を聞かなくて、なんかチョット違うカモとか思ったんだろ。思ってたほど可愛くなくて、飼っちゃった事をチョット後悔とかしてんじゃねーのか?」
故意か素か挑発的な発言をしてきた凪に達矢は、
「違うもんッ!」
今度は即答してやった。それを受けて、凪は「へへへ」と満足げに笑っていた。
「ま。達矢ン家の犬が何犬でもウチのより可愛いとかはありえないけど」
「むぅ~ッ」
顔を真っ赤にさせながら、頬を膨らませて、唇を突き出して、まるでタコみたいになりながらも達矢はそれ以上、何も言わなかった。言えなかった。
「んで」と凪が話題を変える。いや、戻す。
「話って結局なんなんだよ?」
「ああ。うん。ええと。あのさ。もし、なんだけど。犬を飼って、懐かなかったら、どうしたら懐くようになるのかなあって」
「んー。懐かないってどのレベルだ? 隠れられちまうとか、吠えられるとか、噛み付かれるとか」
「えっと。なんかね。頼ってくれないっていうか。エンリョされてる感じ?」
「遠慮ッ!?」
ビックリした後、凪は「わはは」と笑った。何がおかしかったのか達矢には分からなかった。
「遠慮は分かんねえけど。もしかしたら警戒されてんのかなあ」
「警戒? そうなのかな。それだったらどうしたら良い?」
「やっぱ、まあ、仲良くなる事だろうな」
「どうしたら仲良くなれる?」
真剣な表情で尋ねる達矢に、
「そこはもう『エサ』だな」
凪はニヤリと口許を歪めてみせた。これが不敵な笑みというやつだろうか。
「ここだけの話、裏技でさ、犬と一瞬で家族になれるエサのやり方が――」
犬の飼育本にもインターネット上にも載っていない黒谷凪オリジナルのその裏技を達矢は「なになになに? ……ふむふむふむ」と前のめりに授かった。
授かってしまったのであった。
このマンションに引っ越してきて三日目の夜。今日も今日とて、
「おじさーんッ!」
その小型ハリケーンは鈴木宅に襲来していた。
「少年。小学生がこんな夜更けに家から出てはいけないな」
「コレね。お母さんが持ってってってって。あのね、お母さんがパートしてるパン屋さんのパン。残り物でアレなんだけど良かったら食べてくださいって。ゴメイワクのお詫びとご近所付き合いなんだって」
会話になっているような、いないような玄関口での応酬であった。
虎呼郎も虎呼郎で「てってってって? ちょっと多くないか? ……くそッ。カワイイ……」と奥歯を噛み締めながら身悶えていたせいで「うん。ありがとう。少年。すぐ隣とはいえ本当に夜に出歩いては危ないから。もうしないようにね。おじさんが送っていくから。もう帰りなさい」というような適切であろうと思われる対応が全く出来ていなかった。ツッコミが遅れに遅れていた。
「お邪魔しまーす」
「……え?」
気が付けば、少年こと里見達矢は虎呼郎の脇を通り抜けて鈴木宅の中に入り込んでしまっていた。
そこだけドアを開けっ放しにしてしまっていたからだろうか、玄関から入ってすぐ左手の部屋に、
「ちょ、ちょっと。少年。待ちなさい」
すっと達矢は滑り込んだ。虎呼郎の言葉は聞こえていたのか、いなかったのか。
慌てて追い掛けた虎呼郎を待ち受けていたものは、
「えいッ!」
手にしていたビニール袋を今まさに逆さまにしてその中身を全部、ざばーッとぶちまけていた達矢の姿だった。二人掛けソファの手前、小さめのローテーブルの上には幾つものパンが無造作に転がっていた。その内の一つなどは勢い余って床の上にまで転がり落ちていたが、どのパンも一つ一つ袋詰めされてあって床に転がり落ちた程度なら食べるのに支障はなさそうではあった――ものの、
「行儀が悪いぞ、少年。食べ物を粗末に扱わない」
虎呼郎はついつい達矢を叱ってしまった。
「ごめんなさい。おじさんに早く食べてほしくて」
少年はしょんぼりとしてしまった。虎呼郎は、
「ん。まあ、何だ。次からは気を付ければ」
もごもごと口の中で言う。どちらが叱られた側なのか分からなくなりそうな姿だ。
「あのさ。おじさん。夜ご飯はもう食べちゃった?」
しょんぼりから一転、何故か期待に満ちているような顔で達矢が尋ねてきた。
唐突だった質問に「いや。まだだけど」と虎呼郎は正直に答えてしまった。
達矢は、
「遅くまでご飯も食べずにお疲れ様でした」
三つ指をつくように深々と頭を下げてくれた。そんな事をされるようないわれも関係性もないはずなのだが虎呼郎は何故だか、
「……じぃーん」
と胸に沁みてしまった。俺、疲れてんのか……?
いかん、いかん。虎呼郎は頑張って気を取り直す。
「お、遅いといえば。少年。昨日と同じ時間だからな、眠いんじゃないのか? もうパンは頂いたから。ありがとう。無理しないで家に帰って寝て良いんだぞ」
およそ二十四時間前の事、眠りに落ちてしまった達矢を抱きかかえて彼の家にまで運び、御両親に引き渡したのだが、その際は色々と大変だった。大変な思いをさせられてしまった。色々と。あのような事はもう「二度と御免だ」と虎呼郎はまるで自分自身に言い聞かせるみたいに強く思った。そう思うようにしていた。
「えっと。学校から帰ってきてからお昼寝……じゃないや。夕方だから『夕寝』? したから大丈夫。眠くないよ?」
「そ、そうか。あー……パンを持ってきてくれただけなのに帰りが遅いと御両親が心配されるんじゃないか?」
「三十分だけ遊んだら帰るって言ってあるから。まだ大丈夫だよ」
「……それ、少年が勝手に言い捨てて来たんじゃなくて御両親は了承したのか?」
「うん? うん。遅くならないようにねって言ってた」
「御両親んんんんんッ!?」と虎呼郎は心の中で叫んだ。
あんたらは獅子なのかッ? 我が子を突き落とした千尋の谷の底に俺みたいなンが巣食ってる可能性も考えろよッ!
いや、別に。何もしないよ? 俺はしない。無邪気で無垢で無防備な少年が夜中に自宅を訪れてくれたとしても、神に誓って、仏に誓って、桜田門にも誓って、何もしないサ。俺が好きなのは二次元のショタであって。三次元の少年ではないし?
それでもイマドキ、危機感は過剰なくらい持っていた方が良いだろう。大人だって襲われるんだ、より非力な子供はもっと敏感に、危ない所は勿論、危なそうな所にも近付かない、近付かせないようにしないと。危険が危ないんだッ!
――その間、一秒。超高速で思考していた虎呼郎に達矢が声を掛ける。
「おじさん。お腹空いてるでしょ? どのパン、食べる?」
「え? あ、いや」
「食べさせてあげる」
「食べさせてあげるぅぅぅぅぅぅ!?」と虎呼郎はまた心の中で吠えた。
ぎゅーんッと締め付けられる胸を押さえて、虎呼郎はぐっと堪える。
「は、ははは。少年。大丈夫だ。おじさんは大人だからね。自分で食べられるんだ。あーんとかはいらないんだよ。あーんとかは」
「いいからッ。いいからッ。食べさせるからッ。おじさんはお疲れ様だからッ」
苦しげに弱々しく断る虎呼郎と、むきになっているかのような強気で強引に攻めてくる達矢。果たして軍配はどちらに上がるのか。
「いや、あの。少年。本当に」
「どれ食べる? チョコのパン? クルミの堅いパン? ソーセージの?」
「え、ソっ、いや、その……目玉焼きが乗ってるやつを」
少年の勝ちであった。
いや、だって。少年の持ってきてくれたパンは結構な数で。普通に考えれば、この一食で全てを食べ切る事は出来ないであろうと思われた。明日の朝なり昼なりにまた頂くとするならば、明らかな生モノが上に乗っかっていた「目玉焼きパン」は早めに今日の内に処理――食べておくべきだろう。
「ソーセージのパン」も生モノではあったがソーセージは加工品だ。目玉焼きの方が消費期限的に足が早そうだと虎呼郎は判断していた。
……うん。俺は何も間違っていない。論理的に。大丈夫だ。
鈴木虎呼郎は論点をずらして自身を納得させようとしていた。自己欺瞞である。
「うんッ。わかった。これだね」
達矢は虎呼郎に指定された目玉焼きのパンを手に取ると、そのまわりを覆っていた透明なビニールの包装を丁寧に剥がす。それから達矢は軽く口を開けた――ので、
「あーん」
と言いながらパンを差し出してくれるのだとばかり思っていたら。何のつもりか、達矢はそのパンを虎呼郎の口にではなくて自身の口許へと持っていってしまった。
「ん? え? おい?」と虎呼郎は当惑してしまう。
まさか「ポッキーゲーム」の要領で口移し的に食べさせてくれるとでもいうのか。
いよいよ「ソーセージ」のパンじゃなくて良かった。違う。そんな問題じゃない。これは駄目だろう。それは完全にアウトだ。止めるんだ少年。法に触れてしまう。
虎呼郎の頭の中では様々な台詞がぐるぐると渦巻いていたが、
「…………」
実際の口からは何の音も出ていなかった。虎呼郎は少年の仕草に見入ってしまっていた。息を呑み、瞬きも忘れて。目と心とを奪われてしまっていた。
薄色の小さな唇に触れるまで、あとほんの少しだけ。目玉焼きのパンを自身の口許へと寄せ切った達矢は、
「――ぺッ!」
と唐突に唾を吐き出した。
「は……ッ!?」と虎呼郎が目を丸くする。何だ? 何が起きた?
少年が今、手に持っているパンに唾を吐き掛けたように見えたが。嘘だろう?
「ペッ」という音だけじゃない。お芝居的に「唾を吐く」というポーズを見せたわけでもない。現実に、少年のおちょぼ口から飛び出た液体の塊がパンの上に乗っかっていた目玉焼きの黄身部分にしっかりと、ねっちょりと付着していた。
「え? は? ええッ?」と混乱しきりの虎呼郎が見えていないのか、達矢は、
「はい。あーん」
まるで何事も無かったかのように、その手の目玉焼きパンを虎呼郎の口許へと差し出していた。
……あの十数秒は虎呼郎にしか見えていなかった幻だったのだろうか。
達矢の「あーん」に従って、虎呼郎はその口を開けてしまっても良いのだろうか。これはアウトか、それともセーフか。どっちだいッ!?
いや。そもそも、あの十数秒は本当に現実として存在しているのか。
本当に、この少年のような「良い子」が食べ物に唾を吐き掛けたりや、あまつさえその唾が掛かった食べ物を他人の口の中に入れようとなどするだろうか。
これは、全て夢なのか……?
「あーん、だよ。おじさん。はい。あーん」
「あ、う……む。あ」
虎呼郎は、その口を――。