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03

   

 おもちゃみたいな可愛らしい手が、アラフォー男性の年季が入った大きく硬い手を無遠慮にぎゅっと握った。


「え?」


 虎呼郎はどぎまぎとしてしまう。何だか懐かしい感情だった。


 小さい手だ。弱い手だ。儚い手だ。それはうかつに握り返しでもしたら簡単に壊してしまいそうなくらい繊細に感じられた。虎呼郎の方からは決して求めてはいけない手だった。


「行こう」


 まるで無邪気に少年は言った。虎呼郎の手を引っ張った。


「え、ちょ。行くって何処に?」


 虎呼郎は慌てふためいた。


 実は鈴木虎呼郎はもうすでに死んでいて、しかし、その事に気付かずにいた浮遊霊的な状態の虎呼郎を天使である少年が迎えに来てくれているのだと言われても今なら信じてしまいそうだった。


「僕ん家」


「え?」


「あのね。本当は今、友達の家から帰る途中だったんだけど。もう五時過ぎちゃったかなあ。そろそろちゃんと帰らないといけないんだけど。おじさんも一緒に帰ろう」


 少年は実にあどけない表情でなかなかに大変な発言をしてくれた。虎呼郎は、


「は? あ、いや。おじさんの家は此処だから」


 と困ってしまう。


「おじさんは僕の犬なんだから。僕が僕ん家で飼うんだよ」


 当たり前でしょと言わんばかりに。決定事項を語るが如き口調で少年は言った。


「ちょ、ちょっと待ってくれ」


「うん? うん。ちょっとね。ちょーっと。はい。待ったよ。もう良い? 行こう」


 何だか上機嫌に見える少年には申し訳ないが、


「いやいやいやいやいやいやいや。少年。少年の御家族は」


 虎呼郎は異議を申し立てる。


「お母さんとお父さんが居るよ。お祖父ちゃんとお祖母ちゃんは成田に住んでるよ」


 どうやら虎呼郎の言葉を「異議」としては受け取ってくれていないらしい少年が素直に個人情報を答えてくれた。これはこれで問題とされかねない案件かもしれないが今は正直、それどころではなかった。


「お、お母さんもお父さんもびっくりしちゃうんじゃないかな。急に『おじさん』を連れて帰ったら」


「えー。でも。おじさんは『おじさん』だけど僕の犬だから」


 ついさっきまで上機嫌だった少年の表情が明らかに曇り始める。虎呼郎はぐぐぐと奥歯を噛み締めた。単純な罪悪感とはまた少し違うような胸の苦しみに耐える。


「おじさんはほら、少年の犬ではあるんだけど。一応、人間だからね。暮らす場所は別々じゃないと」


「僕の犬なのに」


「えっと。あのね。あー、ほら。犬だけど。犬のままだと、このマンションはペット禁止だから。人間として暮らさないと、おじさん、このマンションから出ていかなくちゃいけなくなっちゃうから」


「うー」と不服そうに小さな唇を尖らせながらも少年は、


「そっかあ。そうだよねえ。ペットは禁止だってお母さんも言ってた」


 と一応の納得をしてくれた。


「そうそう。お母さんの言う事は聞いておかないとな」


「でも」と少年が天然の上目遣いで虎呼郎を見る。


「おじさんは人間だけど僕の犬なんだよね?」


「そ、そうだな」と虎呼郎は幾つかの意味でたじろいでしまった。


「うー。じゃあ、わかった。おじさんと僕は別々に暮らすんだけどおじさんは僕の犬だからね。またね、だよ? 今度はちゃんと遊ぼうよね? またね?」


「お、おう。『またね』だ」


 これでようやく解放されるのか。


 鈴木虎呼郎の「少年趣味」は創作物に限られており、仮にそうでなくとも自制心は強い方だと自負していた彼の人生に於いてリアルな少年とのふれあいなど望むべくもない事柄であると考えていただけに、正直を言ってしまえばこの「お別れ」には一抹の寂しさも感じながら――ただそれも「終わり」が見えた今だからこそ感じる「安心含みの寂しさ」だ――ふうっと虎呼郎は吐息した。


 少年の尻。笑顔。泣き叫ぶような声。その感情の起伏。高い体温。手を握られた。などなど。それらは甘美が過ぎる一瞬の夢であった。もう限界だ。これ以上の摂取は毒になる。依存性もありそうな猛毒だ。今ならば、まだ今ならば全ては「夢」として処理する事が出来るはずだ。


 このマンションの廊下で出会ったのだから当然、少年はこのマンションに住んでいる可能性が高いと考えられる。少年の母親が「ペットは禁止」だと言っていたらしいがこのマンションに限らず「ペット不可」の物件は多い。また別の理由からペットを飼う事に反対していた母親が方便として「ペットは禁止」だと言った可能性もある。この情報はどちらの決め手にもならない。一方で少年は「友達の家から帰る途中」だとも言っていた。その「友達」の自宅がこのマンションの一室で、そこから帰る途中だったとしたら、少年の住まいはこのマンションの外に在るという可能性も十分にあった。


「またね」と互いに言い合いながらも、もしかしたら、もう二度と顔を合わせる事はないかもしれない。


 たとえ少年がこのマンションに住んでいたとしても、このマンションは十階建てで戸数も多い。偶然、廊下ですれ違うというような確率は決して高くないだろう。小学生と会社員では生活時間のサイクルも違う。今日は引っ越してきた初日だという事もあって虎呼郎はこの時間にこの場所に居たが「いつも」なら仕事中だ。反対に少年は「いつも」通りに帰宅したからこそこの時間、この場所に居たのだ。虎呼郎が日常を取り戻せば、少年とは別の意味で「すれ違う」事になるだろう。


 この少年の自宅が虎呼郎の部屋の隣でもない限りはきっと、すれ違う。そして、そんな偶然が起こる確率はそれこそ、このマンションの廊下ですれ違う事なんかよりもずっとずっとずっと低い。


「じゃあ。ホントにまたね」と少年は玄関を出た。


 虎呼郎の勘は「またね」ではなくて「さようなら」だと言っていた。


 事案化の危険性を考えて、万全を期すならば可及的速やかにこの場所からまた別の場所に引っ越した方が良いという事は解っているのだが、本当に今しがたこの場所に引っ越してきたばかりなのだ。そうそうすぐには出られない。資金の都合もあるし、何よりも気力の問題があった。物件探しはラクなお仕事ではないのだ。


 願わくば、少年の自宅はこのマンションの外にあって欲しい。


 虎呼郎はこの期に及んで往生際悪く開かれたドアの陰に体の半分を隠しながら少年の後ろ姿をこっそりと見送る。虎呼郎の部屋を出た少年は何処へと向かうのか。


 エレベーターに乗れ。一階に下りろ。このマンションから出ていってくれ。


 鈴木虎呼郎は柄にもなく神様に祈る。仏様にも祈る。――奇跡よ、起これッ!


 背後からの熱い視線に気付かないまま少年は一歩、二歩、三歩、進んで横を向く。


「ただいまぁー!」


 と言いながら目の前のドアを開けると少年はあっさりとその中に入っていった。


 少年の御自宅はこのマンション内にあったどころか、虎呼郎が引っ越しきた部屋のすぐ隣であった。なんという、


「逆奇跡……ッ!?」


 虎呼郎はゆっくりと膝から崩れ落ちた。


 図らずもその格好は四つん這い。鈴木虎呼郎はまさに犬のような姿とあいなってしまっていた。



 こうしてこの日より、地獄のような、天国のような、それこそ虎呼郎の趣味であるところの「ファンタジー」な毎日が始まってしまったのであった。




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