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 おじさんは最近、ものすごく忙しいみたいだ。


 鈴木虎呼郎がどんな仕事をしているのか、具体的にもおおまかにも里見達矢は知らないがこれまでの通常時もおじさんは夜遅くに帰ってきていたし、朝も早めに仕事に出ていた。それが最近は更に夜遅くに帰ってくるようになったし、ときには家に帰ってこないなんて事もあった。朝も少しだけ早まって、達矢の登校とは全く時間が重ならなくなってしまった。


 前は自然と顔を合わせて「おはようございます」と言えたのに今は頑張って早起きをしても達矢が急いで着替えている間におじさんはもう家を出てしまっているという感じだった。


 夜も夜で十歳の健康な小学生が起きていられる間には帰ってこない。


 達矢は、


「おじさんはすごいなあ。仕事人だなあ」


 と、まずは感心してしまう。勿論、達矢の父親も十分に仕事を頑張ってくれていたが十歳の達矢にとって朝の八時に家を出て夕方の六時に帰ってくる父親の仕事ぶりは「フツウ」であって、それよりも早くて遅い出社と帰宅の鈴木虎呼郎は「すごい」となってしまうのだった。


「でも大丈夫なのかなあ」


 と心優しい達矢はおじさんの心配もしてしまう。


「フツウ」に仕事をしているお父さんでさえ、お休みの日は「お疲れさま」だった。土曜日や日曜日に達矢が遊んでもらおうとすると母親から「お父さんはお仕事でお疲れさまだからお休みさせておいてあげよう?」とよく言われたものだった。むかしの話だ。何度か言われて「お父さんはお疲れさま」だとすっかり覚えた良い子の達矢は土日の休みにお父さんに遊んでもらおうとする事はやめた。


 そんな「お疲れさま」よりも「すごい」おじさんは「すごくお疲れさま」になってしまってやしないのだろうか。


「うーん」と達矢は唸ってしまう。


 頑張ってお仕事をしているおじさんに「がんばれー」と言ってあげたい気持ちと、頑張り過ぎてしまっているおじさんに「がんばりすぎないでねー」と言ってあげたい気持ちのふたつともが達矢にはあった。右と左みたいに反対の気持ちだ。でも、そのふたつとも本当の気持ちだった。


 普通にしていても頑張ってもおじさんには会えない今だからこそ、もし会えたときにはちゃんと声を掛けてあげたい。ううん。掛けたい。


 でも何て声を掛けたら良いんだろう。


 達矢の正直な気持ち? おじさんが喜んでくれそうな言葉?


 それってなんだろう?


 不意に、


「頑張ってるときに『頑張れ』とか言われるのムカつく」


 つけっぱなしになっていたテレビが言った。


「宿題やろうと思ってたときに『宿題やれ』とか言われるのもムカつくよね」


「マジで。今やろうと思ってたのに。やる気なくなる。自分の意思でやろうと思ってたのに今から始めたら『言われたからやりはじめた』みたいな。言ったヒトの手柄になる感が腹立つ」


「お前に言われなくても頑張るし。現在進行系で頑張ってるわ、みたいな」


「そうそうそう」


 徐々にボルテージの上がり始めていたテレビに顔を向けながら達矢が「えー……」と戸惑いの声を漏らすと、


「あ。何だっけ。あのアニメやってるんじゃないの? 今日じゃなかったっけ?」


 母親の里見梨央がリモコンに手を伸ばしてテレビのチャンネルを変えた。


 でも結果、2チャンネルでも7チャンネルでもアニメはやっていなかった。


「明日だっけ? ごめんね。お母さん、間違えちゃった」


 そう言いながら梨央が止めたチャンネルでは先程に達矢が眺めていた番組とは別の番組が流れていたが、別にきちんと見ていたわけでもなかった達矢は特に何も思いはしなかったのだった。


 次の日の学校。昼休み、


「凪ちゃんは『頑張れ』って言われるの嫌い?」


 達矢はクラスメートの黒谷凪に尋ねてみた。


「んー?」と少しだけ考えた後、凪は、


「別に」


 と短く答えた。それから付け足す。


「『頑張れ』って言われても頑張りようがないっていうか」


 凪は大仰にギプスを巻かれて二回りも大きくなってしまっていた左手をプラプラと振ってみせる。つい先日の事、ミニバスケットボールクラブの練習中に左手の小指を脱臼してしまった黒谷凪は現在、大好きな運動も愛犬とのじゃれ合いも禁止されて、とっても意気消沈中であった。


「まあ。励ましてくれてるっていうか、気を遣ってくれてるっていうのはわかるんだけど。それはそれでさ、こっちも気を遣い返して元気な顔をしてみせなきゃいけないみたいな感じになるし」


「そっかあ」と達矢が小さく頷いた。


 達矢は鈴木虎呼郎の事を考えていた。一方の凪は自身の事として答えていた。


 どちらかと言えば達矢が言葉足らずだったせいだろう。「自分の事を聞かれた」と思った凪を「自意識過剰」だと断じてしまうには可哀想な状況だった。


 全治30日以上の「重傷」を負って意気消沈中の人間が「『頑張れ』って言われるの嫌い?」と聞かれれば、その「言われる」対象は自分だと思うのが当然だろう。


 凪は言う。


「だからフツウで良いんだよ。いつも通りのフツウにしてくれてたら」


「フツウかあ」と呟いた達矢はまさに今さっき、普段通りにフツウの相談風世間話を凪にしていたのだった。


 怪我をしてしまった凪と最初に顔を合わせたその時こそ、


「うわっ。その手、どうしたの? 大丈夫? 痛い? 何か手伝う?」


 と騒いだ達矢だったが、


「大丈夫。別にもう痛くないし。左手だし。問題無い。気にすんな」


 凪にそう返されて「ほんとに?」「ホントだ」「んー。分かった」と頷いて以降は本当に、まるで達矢の左手を大袈裟にくるんでいるクリーム色したギプスなど全く見えていないかのように、少しも気にしなくなってしまっていた。


「いつも通りのフツウ」になれていないのはむしろ黒谷凪の方かもしれなかったが、それも含めて凪は「いつも通りのフツウ」で居てくれる里見達矢に寄り掛かるような気持ちでここ数日の休み時間の全部を達矢と過ごしていた。


「……楽だわ」


「え? 何か言った? 凪ちゃん」


「別に。何も言ってない」




 まぶたを閉じて、開いたら朝になっていた。


「――うおッ!?」


 と虎呼郎は声が出てしまうほどに驚いた。


 眠っていたつもりもなければ眠っていた気にもなっていない。


「時間が飛んだ……」


 そんな感覚であった。


 鈴木虎呼郎はこの一ヶ月、二ヶ月の間、突如として倍増した仕事の量に忙殺されてしまっていた。数少ない同僚の一人が急な病に伏したのだ。その同僚の携わっていた仕事の殆どが同じ系統の仕事をしている虎呼郎に回されてしまった。


 一つ一つの仕事は小さく簡単なものばかりだったがその分、量が多かった。


 単純に時間が足りないでいた。


 かといって同僚から一時的に受け継いでいるだけの仕事をおざなりに済ますわけにもいかず、どうにか時間を稼ごうと思えば移動時間や睡眠時間や食事の時間といったところを削るか圧縮、短縮させるしかなかった。


 虎呼郎本人は、


「逆夏休みだな」


 などと笑っていた――笑おうとはしていたが、四十連勤を過ぎた頃にはすっかりと顔色を悪くしていて「おいおい。大丈夫か。仕事は頼むが病気は受け継ぐなよ」などと上司に肩を揉まれたりもしてしまった。苦笑いだ。


 とにもかくにも。忙しかった。


 愛想笑いが苦笑いになってしまうくらいに疲れ果てていた。


 そんな虎呼郎の様子には社内のみならず取引先の多くでも心配や同情の声は上がっていたがそれはそれとして進めている仕事を止める事は出来なかった。


「大変だとは思うけど。あとここだけ頑張ってもらえるかな」


 と各所で言われる。虎呼郎にとっては多くある仕事の一つでもその相手にとってはたった一つだけの仕事なのだ。適当に手や気を抜ける仕事は一つもなかった。


「無理をさせて悪いね」とは言ってくれるが誰も「無理はしなくても良いから」とは言ってくれない。それが仕事だった。


 夜中も夜中に帰宅した虎呼郎は差し入れで貰ったパンを噛み締めながら気絶した。その数時間後の今、本人にとっては一瞬であった「まばたき」を終えた虎呼郎は社会人のエチケットとしてシャワーを浴びて、歯を磨き、髭を剃ったら部屋を出る。


 冷蔵庫には食べかけのパンや弁当やカップラーメンまでもが幾つも押し込まれていた。洗濯物も随分と溜まっている。今日は下着とワイシャツを買い足しておこう。


 身綺麗にはしていた虎呼郎であったがその顔色は酷かった。背筋も曲がっていた。


 マンションの廊下を疲れ切ったのそのそとした動作ながらも可及的速やかに歩く。


 ――ガチャリ。数歩程度過ぎた左斜後方から玄関のドアが開く音が聞こえた。


 お隣の里見さん宅だ。多分。


 虎呼郎はその音は聞きながらも振り返りはしなかった。


 玄関のドアを開けたのは少年か母親か父親か。考えもしなかった。


「おっじさんッ」


 と大きめの声を掛けられてからようやく、


「ん……?」


 虎呼郎はゆっくりと振り向いた。そこにはパジャマ姿の里見達矢少年が居た。


 朝もまだ早くから「えへへ」と元気で明るい表情の少年と目が合う。虎呼郎の顔は土気色だった。目許に力が全く入っておらず、重力に不戦敗して非常にどんよりとしていた。


 鈴木虎呼郎がここまで気の抜けた表情を里見達矢少年に見せるのはおそらく初めての事だろう。


 俯き加減に肩を落とした情けない姿を晒すのはきっと初めての事だろう。


 達矢少年を前にする時、今迄の虎呼郎はいつも何かしらの気を張っていた。


 それは少年趣味者(但し二次元に限る)の自制であったりや、大人としての矜恃であったりとしていた。


 が今の虎呼郎はそんな自制や矜恃を前面に持ってくる為の気力を欠いていた。


 取り繕う気力どころか、取り繕わなければと思う気力すらも失っていた。


「…………」


 ほんの数瞬ながらも無言で棒立ちなどしてしまっていた不審な虎呼郎の腹に、


「おじさん、おじさん、おじさん、おじさーんッ」


 達矢少年が強く抱き着いた。顔面と両手の三点でもってワシャワシャワシャワシャワシャワシャワシャ……と虎呼郎のワイシャツを撫で揉み擦る。


「……少年」


 と最初こそ反応の鈍かった虎呼郎も、


「おじさーん、おじさーん、おじさーん。あははははッ」


 ワシャワシャワシャからゴシャゴシャゴシャを経てグシャグシャグシャへと徐々に徐々に強くなりながら延々と続けられていた少年による腹部への三点攻撃によって、


「あの……ちょ、しょ、少年? 何を」


 完全に「無」であったその表情をゆっくりとだが戸惑いの色に染めていった。


「おじ、おじ、おじ、おじ、おじさん、さん、さん、さん、さーんッ」


「いや。そろそろ落ち着きなさい。少年」


 ついには「大人の顔」を取り戻して静かに諭す。更には叱る。


「まだ朝も早いから。あまり大きな声を出しては御近所迷惑にもなるから」


「はーい」と少年は頷きながらも、


「でも。だって。おひさしぶりだったから」


 無邪気な笑顔を見せていた。


 虎呼郎は何も言えずに苦笑する。とは言え、いつだったかに上司へ向けてしまった力無い苦笑いとはまったく違う、微笑みのような優しい微苦笑だった。


「ふう」と息を吐く。虎呼郎は、ウエストからも引き抜かれて、シワだらけのグチャグチャにされてしまっていたワイシャツをきちんと整え直した。それから、


「改めまして。おはよう。少年」


 真っ直ぐに達矢の顔を見る。達矢に顔を見せる。


「はーい。おはようございます」


 少年は笑っていた。何だか楽しそうだった。


「うん。あー。それじゃあ。悪いんだけどおじさんはもう行かないといけないから」


 少年は「あー……」と少しだけ残念そうな顔をしたすぐ後で、


「じゃあ。いってらっしゃーいッ」


 と、またまた笑って見せてくれた。


 虎呼郎は、


「はい。行ってきます」


 と少年に背を向ける。ピンと伸ばした背中でもって少年の視線を感じながらシャキシャキとマンションの廊下を歩き始める。


「ふふッ」と背後で少年の笑みが聞こえた気がした。


「ふッ」と虎呼郎の口許が久し振りに自然と緩んだ。




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