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16

 

 レンジで「――チンッ」をするときに規定時間が三分と書かれているところを三分二十秒くらい温めちゃう人もいれば、三分でセットしてスタートさせたのにあと数秒が待てないで二分五十何秒といった途中でレンジの扉を開けちゃう人もいる。勿論、きっちりと規定通りの時間で温める人が大半なのではあろうが。


 鈴木虎呼郎は完全なる前者であった。


 三十七年間の人生経験を踏まえるに虎呼郎は家庭用電子レンジの威力をあまり信用してはいなかった。特に今から十数年前、電子レンジを多用し始めた頃である一人暮らし当初に購入した安物では、パッケージに書かれていた規定時間通りに「――チンッ」をしても弁当の底が温まっておらずに三分の一程度を食べたところで気が付いて温め直すというような二度手間、ときには三度手間を掛けさせられていた。虎呼郎にはその頃の印象が強く残り過ぎてしまっていて、無駄な手間を取らされぬようにと先回りをして気持ち長めの時間で「――チンッ」をするようになってしまっていたのだった。


 今夜も今夜とて。虎呼郎は温め過ぎてグツグツと泡立った形跡が残るカレー弁当をテーブルの上に置いて、


「ふぅ……」


 と一息を付いていた。


「食べないの? おじさん」


 向かいに座った少年、里見達矢が不思議そうに小首を傾げた。言わずもがなの事を言わせてもらえば、此処は鈴木虎呼郎の自宅マンションであった。当たり前のような顔をして一滴の血縁関係も無い赤の他人の少年が居座ってはいるが。


「トリヒキサキさんがオススメしてくれたお弁当なんでしょう?」


「いや。まあ。そうなんだけどね」と虎呼郎は頭を掻いた。


 このマンションに越してきてから、実にひょんな事を経て、このように夕食は隣の部屋に住んでいる少年と向かい合いながら食べる事が恒例となってしまっていたが、基本的に時間が遅い為、少年は事前に自宅で夕食を摂っており、虎呼郎も軽い食事で済ます事が多い中、今夜は珍しくカレー弁当などという中年の胃には重そうな、また十歳の少年の胃にとっては魅惑的過ぎるようなメニューをこの向かい合ったカタチで食べなくてはいけないという事で、


「たとえ自分一人では美味しく食べられる量を越えてしまっているとしても。たとえ少年に欲しがられても。ただでさえ他所様のお子様に余計な食べ物を与えてはいけないのに加えてこの時刻だ、自制の効かない子供の望みを鵜呑みにして叶えてやっては絶対にいけない」


 といった虎呼郎一流の生真面目な精神から、


「仕事の一環でね。きちんとおじさんが食べないといけないんだよ」


 残念ながら少年には分けてあげられないのだという旨の言い訳を、また先回りして口にしてしまっていた。


 丸切りの嘘ではないのだが。少しだけ大袈裟に言ってしまった。本日、仕事の出先でカレー弁当の話を聞かされて食べてみたくなってしまっただけであって、虎呼郎が一人で完食をした際の感想を先方に伝えなければいけないわけではなかった。いけないわけではなかったがこれを話の種にすれば仕事に活かせるとは思っていた。だから嘘ではないのだ。


「……食べないの?」


 もう一度、少年が言った。


「……ちょっと温め過ぎたかな」と虎呼郎は苦笑いを浮かべる。


 台所のお手伝いを始めたばかりの子供の失敗みたいで、ちょっと恥ずかしかった。


「え。おじさんて猫舌なの?」


「『犬』なのに」と少年が笑った。


「どうかな。自覚は無いけど。おじさんが猫舌というよりは単純に弁当を温め過ぎただけ――んごッ!?」


 喋っていた最中の虎呼郎の口にズボッといきなり少年の人差し指が突っ込まれた。


 虎呼郎は、


「あ、あにをして……?」


 右に左に後ろにと頭を動かして少年の指から逃れようと試みたが、同じように左、右、奥へと少年は指を動かして執拗に虎呼郎の口を追い責め続けた。


 虎呼郎も両の手を縛られているわけでもなければ、何か絶対にこぼしてはならない物を持たされているわけでもないのだから空いている手で少年の手を払えば、それで簡単に済むようにも思えるが。「リアルで少年に手を出す輩は死ねば良い!」が信条の虎呼郎としては出来る限り、少年の身体には触れたくなかった。少年の方からの接触に関しても甘んじて受け入れるというよりは可及的速やかに距離を取るべきなのだと考えていた。……過去、そのようには出来ていない場面もあったかもしれないが。それはそれとして。あくまでも鈴木虎呼郎の基本方針は「YES 少年、NO タッチ」であった。


 結果的には、自分から手を出して少年の手を払っていればほんの数秒で済んでいたであろう少年の指と虎呼郎の口の接触時間も、右に左に後ろに逃れようとするも逃れ切れずに延々と追い掛けられ続けているせいで「ほんの数秒」の何倍もの長さとなってしまっていた。今もだ。現在進行系だ。今からでも少年の手を払うべきなのだろうか。いやもう少し頑張れば逃げられるのではないか。今更になって自分から少年に触れるのか。だったら初めからそうしておけば良かったのだ。それが出来ないから逃げたのではないか。今から手を出すのには最初に手を出すよりも強いパワーが必要になる。心を決めて、踏ん切りを付ける時間が必要になるのだから今度は逃げる方が早くなるのではないか。


 ジレンマであった。


「――おじさん」


 脳内処理が延々と回り続けているせいで傍目にはフリーズ気味となってしまっていた虎呼郎に向かって、少年が口を開いた。そして囁く。


「舐めてみて。僕の指」


「ひゃ――ッ!?」とその一言で現実に復帰した虎呼郎は勢い両の目と口とを同時に大きく開いた。


「この前ね、友達に聞いたんだ。猫の舌ってザラザラしてるんだって」


 達矢は言いながら、虎呼郎の口内に突っ込んでいた指を前後に軽く動かした。


 柔らかな子供の指の腹で虎呼郎の舌背――舌の上面が擦られる。


「はぐぁあ――ッ!?」と虎呼郎が情けない声を上げる。がそれは仕方の無い声であった。


 虎呼郎は、頑張って頑張って無理矢理にその口を開け続けていたのだ。与えられた刺激に反応して口を閉じてしまえば、少年の指をチュパってしまう。それだけは避けねばならなかった。その為ならば情けない声の一つや二つ……――。


「猫舌なおじさんの舌もザラザラしてるのかな?」


「あが――ッ!?」


 びくんッと虎呼郎の背筋が伸びる。いや。背筋が凍る。ぞくりとしてしまった。


 そして……逃げられない。腰が抜けてしまっていた。


「奥の方はぶよぶよだね。ぶよぶよ」


「おご……ッ!? おご……ッ!?」


 自分の人生の半分どころか三分の一もまだ生きていない少年に、肉体の弱い部分を弄られる。好きに弄ばれる。


「あ。真ん中はちょっとザラザラしてる?」


「――ほぐッ!?」


 ――……三つや四つ。


 虎呼郎は考えてはいけない事を考えてしまいそうになる。慌てて思考を放棄する。


 少年にされるがままの生き人形と化してしまった虎呼郎は、単にそういう仕組みであるかのように少年の指の動きに合わせて「あがッ!?」だの「はがッ!?」だのと鳴き続けていた。鳴かされ続けていた。


「横はちょっと硬いかな? あは。なんか縫い目みたいになってるよ?」


「はぐッ!? ふごッ!?」


「先っちょがザラザラしてるのは……乾いてきちゃったから?」


「はあ……あが……」


「舌の下にヨダレが溜まってる。乾いちゃってるトコに塗ってあげるね」


「ふが……あが……あぁ……ッ!?」


 八つや九つを越えて――十でとうとう限界を迎える。


「ああぁッ!?」と口の中に溜まっていたヨダレを撒き散らす勢いで虎呼郎は後方に跳ね退けた。


「はあ、はあ、はあ、はあ、はあ……」


 下を向いて息を整える。ふと目を上げると、


「結局、おじさんの舌ってザラザラしてたのかなあ」


 少し向こうで少年が小首を傾げていた。


「してたような。してないような。……僕と同じかなあ? 違うのかなあ?」


 少年は言いながら、さっきまで虎呼郎の口の中に突っ込んでいた人差し指を今度は自分の口の中へと――、


「STOP!」


 ――入れる直前で虎呼郎に手首を強く掴まれてしまった。虎呼郎のヨダレでびしょ濡れていた指先と少年の口との距離は一センチを切っていた。まさに間一髪。


「ほえ?」と少年が驚いた顔を見せる。それから、


「なになになに? どうしたの?」


 何故だか嬉しそうにはしゃぎ始めてしまった。虎呼郎は、少年の口元に寄せられていた手をそこから遠くにぐいっと離しながら話す。


「少年。まずはこの手を洗ってきなさい」


 虎呼郎に言われた少年は「はーい」と素直に席を立つ。……つまりはそうなのだ。少年は別に小悪魔気取りであんな事をしていたわけではなく、あれらは全てただただ無邪気な行動だったというわけだ。


「あ、洗面所の場所は」


「わかるよー。僕ん家と同じカタチだから」


「ああ、そう……なのか?」


「ふふふ。今度、僕ん家にも来て、確かめてみてよ」


「いや。それは……と。そんな事よりも早く手を洗ってきなさい」


「あ、はーい」


 どうにか少年を見送り、部屋に一人となった虎呼郎は、少年漫画の中二病的主人公よろしく自身の右手をじっと見詰めた。


「思わず。掴んじゃったな。……ジレンマも何も無かった」


 けれども。後悔は無かった。あれは正しい行動であったと思えた。


 やり遂げた――でもないが。妙に清々しい気分だった。


 ややマッチポンプ気味ながらも「おじさん」の魔の手から無垢な少年を救ってあげられたような。さながら勇者の気分だった。今更ながら一皮剥けてしまったような。




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