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 今日は土曜日。まだ日も高いうちから、


「おじさーんッ!」


 お隣さんが御出ます。


「お、おはようございます。少年」と虎呼郎は軽く怯えながら里見達矢を出迎えた。


 つい先日、達矢が口にした「次の土曜日まで臭かったらシャンプーしてあげなくっちゃって思ってたのに」という発言を虎呼郎はしっかりと覚えていたのだ。というか忘れられないでいた。


 急いで買ったデオドラントグッズのお陰でもう臭くはないはずなので大丈夫だとは思いつつも警戒をしてしまう。親子でも親戚でもない少年と個人的に風呂など入ってしまったらもうそれは性犯罪だ。……大袈裟かもしれないが鈴木虎呼郎の倫理観では完全なるアウトだった。虎呼郎は警察に出頭しなければいけなくなってしまう。


 玄関口に立っていた少年に対し、虎呼郎は半身に構えて「どうぞ」とばかりに道を空ける。当然のようにまた部屋の中へと入ってくるのだろうと思っていたのだが、


「あのね。あのね。おじさん。今日はね――」


 この日の達矢は靴を履いたまま、軽くもじもじとした後、


「――じゃーんッ!」


 後ろ手に隠していた野球のグローブとボールとを嬉しそうに見せびらかしてきた。


「キャッチボールしよう! おじさん!」


 満面の笑みだ。断られるどころか嫌がられるとも思っていない顔だった。


「あー……」と虎呼郎は返答に困る。


 コドモにそんな顔をされてしまっては。オトナとしては非常に断りづらい。現在の関係性も相まってそれは最早、提案というよりも決定事項の伝達であった。


 虎呼郎は、


「おじさんは引っ越してきたばかりで分からないんだが。この辺でキャッチボールの出来る場所なんてあるのかい? おじさんと少年で遠出は難しいと思うよ?」


 無駄であろうとは思いつつも抵抗はしてみた。


「うん。すぐ向こう。歩いて五分くらいのところに大きな公園があるんだ」


 無駄な抵抗であった、やっぱり。……だが、まだだ。


「公園か。最近の公園はボール遊びが禁止になってるところもあるけれど」


 虎呼郎は諦めない。令和初期現在に三十七歳の鈴木虎呼郎は「あきらめたらそこで試合終了ですよ…?」のリアルタイム世代だった。


「うーん」と少年が小首を傾げる。


「でもホントに広い公園で。実際にキャッチボールしてる人たちもけっこう見かけるから。大丈夫だと思うよ? ――名前も『キャッチボール公園』だし」


「……きゃ、キャッチボール公園て言うんだ? その公園の名前……」


 虎呼郎は挫けそうになる。それは正式名称だろうか、それとも近所の方々が使っている通称だろうか。


「ちょ、ちょっと待ってね」と虎呼郎はスマホを手に検索してみた。その結果、


「……正式名が『キャッチボール公園』なのか。そんな公園が存在するのか……」


 行政が運営している公式ホームページでは、野球の試合やノックの練習等でバットを使用する事は禁止していたが手と手で投げ合うキャッチボールは可となっていた。……試合終了である。


「えー……と。少年」


「なに? なに?」


 達矢少年の目は明らかに輝いていた。そんな目で見詰められてしまっては、


「……着替えてくるから待っていてくれるかな」


 断りづらい。断れない。断る為の口実が何も見付からない。出来る限り、少年とは距離を取った方が「良い」はずなのだが。それがオトナとしての「正解」なのに。


「うん。動きやすいカッコウね。動きやすいカッコ。おじさん、いつもスーツだけどジャージとか持ってる? あ。持ってなかったら僕の着る? これ。ジャージだから伸びるよ。ほら。ね? ちょっと今、着てみる?」


 嬉々として近寄ってくるこの少年を上手にはねのける術が虎呼郎には分からない。


「ら、ランニング用の服があるから大丈夫だ。それは少年が着ていなさい」


「ランニング? してるの? 一人で?」


「ああ。此処に来てからはまだ走ってないけどね。前は気分転換も兼ねて、少しね」


「へえ~……そうなんだ」と妙に感心していた達矢を残して、虎呼郎は室内に戻る。


 ……少年とのキャッチボールか。虎呼郎は、憂鬱と興奮と幸せと恐怖がないまぜになったココロを抑えつつもさっさと着替えを済ました。


 玄関の鍵を締めながら、


「少年。親御さんには言ってあるのかい?」


 虎呼郎は尋ねる。少年は「うんッ」と元気な返事をくれた。


 言質は取ったがコドモの言葉だ。現実的には意味が無いかもしれない。


「一応、おじさんからも御挨拶をさせてもらってから行こうか」


 虎呼郎はお隣のインターフォンを押させてもらった。


 


 里見達矢の両親からは「すみません。休日にまでお邪魔してしまって。本当によろしいんですか?」と頭を下げられてしまった。


 あの御様子ならば虎呼郎が余程の事を仕出かしてしまわない限り、通報はされないであろう。いや。「余程」どころか本当に「何も」しないけれど。


「……ただ『安心』と一緒に『責任』も背負い込まされた気もするな……」


 マンションから公園までの片道五分、こちらを見ながら後ろ向きに歩いたりや急に走り出したりする達矢の大事を取って虎呼郎は「ぐぬぬ」となりながら手を繋ぐ。


 達矢は「えへへ」と嬉しそうだった。その顔にまた虎呼郎は「ぐぬぬ」となる。


「――少年」


 達矢の話では人が多いらしい公園に着いてしまう前に一言、虎呼郎には確認しておかなければならない事柄があった。


「分かっているかもしれないけれど。外で、人前で『犬』の話は」


「うんッ。内緒なんだよねッ」


 元気な即答にかえって不安を煽られるが、これ以上はどうしようもない。猿ぐつわだのボールギャグだのをその小さなお口にねじ込んで物理的に黙らせるわけにもいかない。……「犬」呼ばわりなんかよりも犯罪度がドーンと跳ね上がってしまう。


「…………」


 一瞬、ほんの一瞬だけだ――閉じられない口の端からよだれをだらだらと垂れ流す少年の顔を想像してしまい、虎呼郎の胸が早鐘を打つ。その鼓動が普段の速度を取り戻すよりも前に虎呼郎と達矢の二人は「キャッチボール公園」に到着してしまった。


「おじさーんッ。いくよーッ!」


 実際に来てみれば、思っていたよりも広く取ってあった「ボール遊びエリア」には虎呼郎と達矢以外にもキャッチボールをしている親子や子供同士が何組も居た。その何組もが互いの邪魔にならないような距離を十分に取れるくらいその場は広かった。


 遠い「隣」の掛け声くらいは聞こえてくるが話し声となると意識して聞き耳を立ててでもいなければその内容までは把握する事が出来ないだろう。


「ピッチャー、ふりかぶってー、だいいっきゅうぅー……、――なげましたッ!」


 今はまだ大丈夫そうだがこの先キャッチボールでテンションの上がり過ぎてしまった達矢がうっかりと「犬」だなんだの単語を発しても「隣」との距離がこれだけ空いていれば何とでも誤魔化せそうであった。虎呼郎はほっと気を楽にする。


「――おッととと。惜しい惜しい。ギリでボールだな。もうちょっとだけ低く投げられるかな?」


 背の低くない虎呼郎が膝と背筋と腕を伸ばしてようやくキャッチしたボールを、


「行くぞー。よいしょー」


 少年に向けてふんわりと山なりに投げ返す。少年こと里見達矢は普段、近くで見ていても小さいが遠くに居るとまた新鮮に小さく見える。とてもではないが全力では投げ返せない。半分の力も出しづらい。当然の事だろうか、それとも鈴木虎呼郎と里見達矢が「親子」ではないからだろうか。以前、テレビのトーク番組で誰だったかパパタレントさんが「息子とのキャッチボールでは最後の一球だけ本気の本気で投げるんですよ。バシンッ! てね。本気のお父さんはこれだけ凄いんだぞっていうのを植え付けるんですよ」なんて言っていた覚えがあるが、虎呼郎では、最後の一球だろうが最初の一球だろうが、あんな小さな達矢に向かって本気の本気でボールを投げるなど出来そうになかった。


 なんか違うような気がしつつも一応は懐いてくれている少年に対して、申し訳ないような、虎呼郎自身としても寂しいような切ないような妙な想いが胸に留める。


「おじさーん。じょうずー。すごーい」


「はは。少年も上手だぞー。投げるときになー、左腕を引いてみろー」


 達矢の「おじさん」呼ばわりよりも実は虎呼郎による「少年」呼びのせいかもしれない――公園内で遊んでいる小さな子供らの親達らしき大人が何度かちらりちらりと虎呼郎に視線を寄越したりもしていたが、


「おじさーんッ、かまえてー、いいー? いくよー、ひっさつわざー! あははは」


 相対する達矢の笑顔や元気や本当に楽しそうなその様子のお陰なのだろう、虎呼郎「おじさん」はすぐにその場に馴染んでしまった。溶け込んでしまっていた。


 最早、誰も虎呼郎の事を気になどしていなかった。「うーん……良いのだろうか、色んな意味で」と、いつまでも気にしていたのは虎呼郎自身だけだった。


「あははははッ!」


「力み過ぎだぞー。もっと簡単に投げてみろー」


「にゃー」


「届いてない、届いてない。今度は力を抜き過ぎたなー」


「なげるーとみせかけて、なげないー、とみせかけて、なげるー」


「残念。野球の試合だったらボークだなあ」


「まきゅう、だいななごー!」


「おお? ッと。……魔球は取れないなー。キャッチボールで魔球は禁止だー」


 里見達矢は終始、楽しそうだったが楽しみ過ぎているせいか結果的には非常にノーコンだった。右に左に上に下に、届かなかったり、大暴投したりと取る方の虎呼郎は転がるボールを追い掛けてあっちに行ったり、こっちに来たりと大忙しだった。気分転換にしていたランニング以上に今日は走らされてしまったかもしれない。


「……少年。そろそろ、終わろうか……」


 走り尽くめの三十七歳、流石にへばってきた虎呼郎が少年に懇願する。


「少年、もう」「まだー」「少年」「もうちょっとー」「あの」「あとすこしー」といった遣り取りを散発させた後だった。懇願にもなる。


 虎呼郎は「はあ……はあ……」と息を切らせながら尻餅をつくように座り込んだ。


「も~……しょうがないなあー」


 少年の許可を耳にした虎呼郎は「ふぅー……」とそのまま仰向けに倒れ込む。


 しばらくの間、目を閉じて息を整えていると――すぐ近くから「ふふふ」と少年の声が聞こえてきた。


 左の脇腹辺りが「むにっ」と暖かくなっていた気がしたが「……気の所為だな」と無理矢理に無視をした。目も開けない。……今回に限って言えば、本当の本当に邪な気持ちは一切無かった。情けない話、体力的に疲れ過ぎてしまっていてもう今だけは何も考えたくなかった。


 ……それなりの時間を使って、息を整え終えた虎呼郎は、


「おい。少年。こら」


 ひとの脇腹を枕にして、いつのまにか「くぅ~、すぅ~」と可愛らしい寝息を立てていた達矢を揺り起こす。……触るのは肩だけだ。他のところには一切、触れない。


「んあ~……?」と寝ぼけ眼の達矢を言葉で立たせ、虎呼郎は「ボール遊びエリア」を後にする。ちょうどその際、遠く向こうの「隣」から野球ボールが転がってきて、


「すみませーん。投げ返してくださーい!」


 と声を掛けられた。


「はーい」と足元のボールを拾い上げたのは達矢だった。


 先程までの経験で分かった通り、残念ながらノーコンである少年を慮って虎呼郎は「そのボール、おじさんが投げようか」と提案してみたのだが、達矢は、


「ううん。大丈夫。――いきまーすッ!」


 と言って「隣」に投げ返してしまった。


 達矢の手を離れた白球は、山なりというには低い弧を描いて――スパンッとあちらさんのグローブに収まった。あちらの方はその場から一歩も動かず、上下もせずに、左手のグローブも胸の高さから動かさなかった。


 グローブで迎えにいったのではなく、グローブに白球が収まったのだ。


「ありがとうございまーす!」


 あちらさんは一礼をして、自分達のキャッチボールへと戻っていった。


 ……おや? と虎呼郎は首を傾げる。おやおやおや……?


「……少年。もしかして、さっきまでのキャッチボール……」


「駄目だよ。おじさん。まだ内緒だよ」


 虎呼郎の口に両手を伸ばして、少年は虎呼郎を物理的に黙らせようとしてきた。


「あ、いや。うん。まあ。大丈夫。言わない。言わない。何も言わないから」


 虎呼郎は慌てながら顔を背ける。少年は「えへへ」と微笑んでいた。


 その五分後、鈴木宅の玄関口にて。虎呼郎の後に付いて入り込み、後ろ手にドアを閉めた達矢が、


「――おわッ!? しょ、少年? 何を……?」


 紐靴を脱ぐ為に屈んだ虎呼郎の頭をその華奢な胸に抱き寄せながら、


「ぐっぼーい。ぐっぼーい。良い子、良い子。元気にボールを取ってこられてたね。えらいぞー。えらいぞー。外では褒めてあげられなかったからね。遅くなっちゃったけど今いっぱい褒めてあげるからねー」


 そんな言葉を掛けてくれた。嫌味でもおべっかでもなく、冗談でも言葉遊びでも、話の流れ上でもなく、単独で改めてただ「褒められる」というのは、実のところなかなかに貴重な体験かもしれない。子供だった時分以来――と言いたいところだが果たして「子供」だった頃まで遡ってみても、ここまでストレートに褒められた事などはあっただろうか。もしかしたら。ここまでの「褒められる」は「子供」どころか更に「幼児」にまで遡らなければ無いかもしれない。当然、虎呼郎の記憶には残っていなかった。


「しょ、少年……」


 返答に困る。表情にも困る。どんな顔をして何と返せば良いのやら。今、虎呼郎のココロでは何とも複雑な感情が渦巻いてしまっていた。


 それにしても。休日の昼間から遊んであげていたつもりが、本日、遊んでもらっていたのは自分の方だったのか。……意外と得難い経験だった。




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