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「犬好き」の主張で一般人には理解が及ばないもの一つに、


「臭い! だがそれが良い!」


 というような意味合いの発言があった。


「一般人」という言葉を対義語のように使いがちな「オタク」の要素は持ちながらもその方面に於いては確かに一般人であった鈴木虎呼郎は、里見達矢が抱き着いてくるたびに言う、


「あはは。くさ~いッ」


 という言葉に「う……ッ」と地味に傷付き続けていた。


 臭い、臭いと毎夜の如く言われているのだ。前日の傷が癒える間も無く、その数は増していく。浅くとも無数に作られた傷は虎呼郎に確実な痛みを与え続けていた。


 そしてまた今夜も、


「おじさーん。くさーい。くさーい。あははは」


 恒例となってしまっていた少年の小さなナイフに対して、


「いや。少年。少年にはまだ分からないかもしれないが。これは加齢臭といって」


 中年男性はついに理論を武装し受けて立つ。


「紫外線を浴びて皮脂が酸化する事で発生する匂いで。若いうちの皮脂は酸化しても臭わないが歳を重ねると皮脂も変化して酸化で臭うようになるわけだが。人間の構造上、仕方が無い事で。ある程度、歳を重ねた男性が臭うという事は逆に言えば正常に新陳代謝が行われている証でもあるわけだから。健康であるという事で。この匂いは臭くとも悪い事ではなく。むしろ良い事なのであるとも言えよう」


 付け焼き刃の知識を披露するにあたって、多少、口調はオカシクなってしまってはいたが虎呼郎は頑張った。その結果、


「ん~……?」


 達矢は大きく首を傾げて、


「……分かんないかも」


 小さく呟いた。


 虎呼郎が「――勝った」と心の中でガッツポーズを取ったのも束の間、


「……カレーの匂いはしないよ? お昼に食べたの? 歯は磨かなかったの?」


 気が付けば、虎呼郎のすぐ目の前、口の前に顔を差し出していた少年がクンクンと鼻を鳴らしていた。匂いに集中する為だろう目を閉じて、身長に大きな差がある虎呼郎の口許にその鼻先を持っていこうとかかとを上げながら、首を伸ばすみたいにあごも上げていた。


 まるでキスをせがまれているかのような少年の仕草に虎呼郎は、


「ぱろんッ!?」


 と変な声を発してしまった。心の中で「これが論破か」などと悦に入ってしまっていたせいだろう。大人気なかった。


「か、カレーじゃなくて加齢だ」と虎呼郎は勢い良く顔を横に背けながら言った。


「か・れ・い。ライスやうどんのカレーじゃない」


「お魚の?」と達矢が目を開く。不思議そうな顔をしていた。子供特有というのか、子供みたいな顔というのか、それは実に素朴で愛らしい表情であった。虎呼郎はその顔をしっかりと横目で見ていた。むぐぐ……。


「魚でもない。加齢だ。加齢」


 何故かぶっきら棒に虎呼郎は言ってしまった。言ってしまってから「あ」と反省をする。何だか今日は「大人気ない」が出てしまう。……もしかしたら。自分で思っている以上に俺は傷付いているのか? こんな子供の発言で。仮にそうならば、それはそれで「恥ずかしいな……」と虎呼郎は思った。


「カレーとカレイの他にも『かれい』があるの? 初めて知った。その『かれい』をおじさんはお昼に食べたの? いいなあ。美味しかった? 僕も食べてみたいなあ」


 少年が無邪気な笑顔を見せる。眩しい限りだ。虎呼郎のささくれ立った心が洗われてしまいそうだった。


「……いやいやいや、そうではなくて。加齢……」


「いいなあ。いいなあ。その『かれい』ってどんな味なんだろう? 何に似てるとかある? あ、待って。言わないで。やっぱり自分で食べてみたい。だって。せっかく知らなかったのに話で聞いて知っちゃったらもったいないって思うかも」


「ぐ……ぬう……そ、そこまで言われると食べに連れて行ってやりたくもなるが」


「えーっ!? ほんと? いいの?」


「待て待て待て待て待て。少年。落ち着け。残念ながらその『かれい』は無いんだ」


「あー……売り切れちゃったんだ? なんだっけ。あの……すうりょお限定品だ? おじさんがお昼に食べたのが最後だったの? スゴイね。おじさん。ラッキーだ」


 達矢は「あー……」と本当に残念そうな顔をしながらも、その数秒後には「スゴイね」と笑顔で虎呼郎の「幸運」を喜んでくれた。


「う~ん……」と虎呼郎は微苦笑を浮かべる。この少年、里見達矢は悪い子ではないどころか確実に良い子なのだが。悪気の全く無さそうな子だからこそ困るというか。現在進行系で日々、困っているというか。「う~ん……」であった。


 いつもの事と言えばいつもの事なのかもしれないが。終始、会話の噛み合わなかったその日の翌日。会社帰りの虎呼郎は深夜まで営業をしているドラッグストアに立ち寄っていた。目的の売り場は、


「……加齢臭、か」


 デオドラントコーナーであった。


 昨夜、少年を「論破」した際に披露した理論は付け焼き刃かつ諸刃の剣であった。


 中年男性なので加齢臭は仕方がない。新陳代謝が正常に行われていてむしろ健康な証拠だなどとのたまってはみたものの、


「……自分では分からないが。臭い……のか?」


 その事実を否定どころか積極的に受け入れるというような結果となってしまった。


 どんな理屈で言い繕おうとも「臭い」は社会生活を営む人間としてはマイナスの現象だ。直接的な被害を被る周囲の人間の為だけではなく、その反応を受ける自分自身の為にも「臭い」は消失させられるなら消失させた方が良い。


 ドラッグストアの大きな棚には「最強」の制汗剤やら「優しい香り」の衣料用柔軟剤やら「働く男性用!」スプレータイプの消臭剤やらが所狭しと並べられていた。


「臭い」商戦は大盛況だ。それだけ「臭い」に悩みわずらい「臭い」を解消したいと思う人間が多いという事か。


「臭いのは自分だけじゃないと思うと気が楽にもなるが。これだけ商品が多く出回っていると現状、使用していないのは自分だけかもしれないという不安も生まれるな」


 きっと速やかに購入するべきなのだろう。今はまだ「臭い」を面白がりながら抱き着いてくる少年もすぐに飽きて普通に嫌がるようになる。


 ……そう。このままでいれば少年に抱き着かれなくもなる、かもしれないが。


「社会人として。『臭い』を自覚しながらも放置するのは如何なものか。そう。社会人として。社会人として、だ」


 決して。少年に抱き着かれなくならないようにとか嫌われたくないとかそういった理由ではない。そんな感情は無い。微塵も無い。


 だが。ここでデオドラントグッズを購入してしまうと「本当に? 少年は関係無いの? 本当に?」と虎呼郎の心の中のリトル虎呼郎がにやにやしながら尋ねてきそうで。踏み切れない。手が伸びない。虎呼郎は、


「社会人だから。社会人だから。社会人だから」


 と、まさしく自分に言い聞かせるが如く三回、唱えた。


「社会人だから。社会人だから。社会人だから。社会人だから。社会人だから」


 追加で五回、唱えた。


 


 ――数十分後。虎呼郎の自宅にて、


「おじさーんッ」


 と抱き着いてきた里見達矢はその直後に「あれ?」と小さな声を上げた。


「臭くなーいッ!」


 ド直球に言われてしまった。何故だろう、貶し言葉ではないのだが「臭い」ことが前提の発言だからだろうか、虎呼郎は気恥ずかしく感じてしまった。


「いや。あの。たまたま。制汗剤を買って。偶然、見掛けて。それで。さっき」


 しどろもどろとなってしまっていた虎呼郎の言葉を聞いてか聞かずか達矢は、


「えらいねえ」


 と急に虎呼郎を褒めてくれた。まるでコドモ扱いだ。十歳の少年が三十七歳の中年男性に対して。虎呼郎の顔がカーッと瞬時に熱くなる。……「怒り」ではなかった。


 十歳の少年は、


「次の土曜日まで臭かったらシャンプーしてあげなくっちゃって思ってたのに」


 少しだけ残念がるみたいな顔をした。


「……しゃ、シャンプー?」


「うん。一緒にお風呂に入って、ゴシゴシゴシって」


「ごしごしごし……?」


「そっかあ。おじさんは『犬』だけど『おじさん』なんだもんね。一人でもお風呂に入れちゃうんだね。えらいねえ」


 昨夜の「加齢臭」云々はやっぱり全く通じていなかったらしい少年のそんな言葉は最早、虎呼郎の耳には一音も届いていなかった。


「……一緒にお風呂に……ごしごしごしって……」


 


 深夜の風呂場。鈴木虎呼郎は一人、


「後悔じゃない。後悔はしていない。この感情は後悔じゃない。『最強』の制汗剤を買った俺は何も間違っていない。グッジョブ。大丈夫。無問題。社会人として。社会人としてだから。そもそも少年とか何も関係無いから。『臭く』なくなって万々歳だから。少年にシャンプーとか別にして欲しくないし。だから後悔なんかしてないし。週刊少年ジャンプもとっくに卒業してるし。コミックス派だし。ごしごしとか意味が分からないし。後悔は無いから。むしろ少年にシャンプーとかされてたら後悔だし」


 顔を洗いながら、髪を洗いながら、身体を洗いながら、湯船に浸かりながら、心の中で都合百八回ほども「後悔じゃない」と唱え上げたのであった。




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