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10.5

 

「あの……おじさん? 怒ってる? ごめんなさい。大事な毛だった?」


「ハッハッハーッ。おじさんは何も怒ってなんかいないぞ、少年。何故ならば『何も起こってなんかいない』からだ」


「え? でも。僕、おじさんの毛を食べちゃ――」


「ハッハーッ! 何も。何も起こっていないのだよ、少年。だから、おじさんは何も怒っていないのだ。ハッハーッ!」


「……はっはー?」


「ハッハーッ!」


「はっはー」


「そうだ。ハッハーッ!」


「はっはー!」


「ハッハーッ!」


「あははは。はっはーッ!」


「ハッハーッ!」


 只今の時刻を忘れてしまっている大人と初めから考えてもいなかった子供、二人の高らかな笑い声が夜遅くのマンション内に軽く響き渡った。


 翌朝、出社と登校の為にそれぞれの玄関から出てきていた鈴木虎呼郎と里見達矢の二人を前に、達矢の母親である里見梨央は「自分の子供に対して」というていで、


「そうだ。昨夜は隣のウチまで大きな笑い声が聞こえてたわよ。夜なんだから静かにしなさい。楽しいのは良いけどはしゃぎ過ぎて御近所迷惑になるようだったらお隣に遊びに行くのを禁止にしますからね。わかった? もううるさくしないのよ?」


 と言った。我が子を叱っているふうに見せて、実質、虎呼郎が叱られてしまった。


 当たり前と言えば当たり前か。うるさくし過ぎてしまった昨夜のあの場に居たのは三十七歳の大人と十歳の子供だ。普通に考えれば虎呼郎の監督不行き届きだったし、実際には虎呼郎の方から「ハッハー!」と達矢を誘ってしまっていた。


「す、すみませんでした。昨夜はお騒がせしてしまって」


「あら。いいえ。こちらこそウチの子と仲良くして頂いて。ありがとうございます。ウチでは夜に騒いだりするような子じゃないんですけどね。鈴木さんに遊んで頂くのが本当に楽しいみたいで。この子ったら」


 応えてくれた梨央の口許は微笑んでいたが、その目は全く笑っていなかった。


「ウチの子に悪影響は与えないでくださいね」と言外に強く匂わされてしまった気がした虎呼郎は、


「いや。ははは……」


 と苦笑する。


 二十年近くも社会人をしていれば、仕事上の関係者から理不尽であろうと思われるようなお叱りを受ける事もないわけではなかったが、本当に「御尤もで御座います」と頭を下げ続けるしかないような正当な理由で他人様に叱って頂いたのはいつ以来の事だろうか。それこそ虎呼郎が「少年」だった時代を思い出してしまう。


 しかもまだ顔見知りとなって間もないお隣さんという、ほぼほぼ赤の他人の上に、同世代――厳密に言えば三つ年下の女性から受けたお叱りだ。


 正直、虎呼郎はゾクゾクッとしてしまっていた――が、その内訳は敢えて考えないようにした。「やぶ蛇」的に新たな趣味の扉が開いてしまってはかなわない。


「……何度も何度も叱られていくうちに、済し崩し的に不可抗力的に変な癖となってしまわないよう、真面目に生きよう……」


 虎呼郎はそっと心に誓ったのであった。




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