第五百七十四話『結ばれた因縁』
――あえて自己採点するとすれば、三十七点といったところだろうか。ぎりぎりのところで赤点は回避できているだろうが、答案を返却する教師は間違いなく苦い顔をしているはずだ。今回の場合、教師も生徒も全部自分自身なのだが。
魔術神経を壊すほどの無茶をして、手に入れたのは『決着の先延ばし』というほぼ敗北にも等しい結果だけ。ネルードにも人形にも有効打は与えられず、唯一獲ったと思った命も人形として蘇ってしまっている。何も失わずに済んだことにまずは胸を撫でおろすべきなのだろうが、何一つとして成果を得られなかったという観点で見れば何ともまあ情けない戦果だ。
「……はあ」
ベッドで寝息を立てるマルクの顔をまじまじと見つめながら、リリスはもう何度目か分からないため息を吐く。失われた血と魔力を取り戻すために眠りにつくマルクの表情が穏やかなことはせめてもの救いだったが、状況は何ら楽観視できるものではなかった。
マルクを含め『夜明けの灯』が負った負傷は全てリリスの手によって治療され、後はマルクの目覚めを待つばかりだ。裏を返せば、その時が来るまでリリスたちはこの宿の一室から動けないということになる。戦場にどんな異変が起ころうとも、リリスが最も優先するのは最愛の人の無事なのだから。
目下の所一番の脅威は人形を引き連れたネルードだが、あちらの戦力はもちろんそれだけにとどまらない。未だこの戦場に姿を見せないアグニも、反則じみた修復術を自在に操るクライヴも。――この戦いを簡単に終わらせかねない程の過剰戦力を、『落日の天』は有している。
リリスからしてみれば逆に最初から全戦力を投入して殴りかかってこなかったことが不思議なぐらいだ。そんな大味な指揮をしたとしても十分な戦果を持ち帰れるのがクライヴの手勢であるし、どれほど活かそうと策を練ろうと最低限の出力しか計算できないのが自称『戦いの国』である帝国の兵士どもだ。ケラーやカルロの実力を目の当たりにしたときの期待感は、今となってはすっかりしぼんでしまっていた。
もし仮に共同戦線を張っていなかった未来があるのだとしたら、帝位簒奪戦は一瞬にして決着を迎えることとなっていただろう。皆が皆軟弱なわけではないといえど、今の帝国に『落日の天』を退けるだけの戦力はない。何せ王国の戦力を加えた今でさえ奴らの戦力を押し返せているとは言えないのだ。
考えれば考えるほど状況は悪い方向に転がっていて、その責任の一端は少なからずリリスにある。挽回しようにもしばらくここを動くことは出来ず、きっとその間にも戦線はさらに損耗していくことだろう。……そしておそらく、死因の半分ほどは氾濫するネルードの人形たちが占めることになるはずだ。
一撃で仕留めるのではなく、セイカ・ガイウェリスをもっと丁寧に屠っていたら。もっとマルクの安全に重きを置いて、あの弾丸をはじき返すことができていたら。色々な『もしも』が頭をよぎり、その度に反省の念は強くなるばかりだ。――冷静になって思い返して見れば、あの時の判断は到底最善とは言い難いものだった。
「……その様子だと、お説教は身に沁みてくれたかな?」
愛しい人の寝顔を前に静かに歯を食いしばっていたその最中、背後から穏やかな声がリリスを呼ぶ。振り向けば、そこにはツバキがいつも通りの笑顔を浮かべて立っていた。
「ええ、これ以上ないくらいにね。……まさか私も、相棒の涙がここまで効くとは思わなかったわ」
肩を竦め、小さな笑みを浮かべながらそう返す。冗談めかした言い方こそしているが、あの涙声での訴えがリリスの心を揺らしたのは紛れもない事実だった。――咄嗟に渡った危ない橋が想像していた以上に不安定なものだったことを、改めて突き付けられたような気がしたのだ。
結果として渡り切れたから今こうして振り返れているものの、もしぶっつけ本番のアレが失敗していたら果たしてどうなっていたか。考えるまでもなく、『夜明けの灯』を待っていたのは無残な終焉だ。踏みにじられた亡骸すらも人形の素材として弄ばれ、今頃は無機質な軍勢の仲間入りをしていたって何らおかしくはない。……あの瞬間、リリスたちのすぐ後ろには確かに奈落の底が口を開けて待っていた
「もう、そうやってすぐ茶化す……。君からしたらたった一つの手段だったのかもしれないけど、ボクからしたらとんでもない光景だったんだからね?」
「そうでしょうね。……あなたとは長い付き合いになるけど、転移魔術なんて使うのは初めてだったもの」
ツバキの訴えに頷きを返し、あの時の感覚に改めて想いを馳せる。仲間の命がかかった鉄火場でリリスが選択したのは、『落日の天』の厄介さの根源である転移魔術を模倣することだった。
元々理論上不可能なことではないのだ。様々な魔術師が転移魔術へのアプローチを考え出しているし、魔道具技師の中にも転移装置を開発しようとしている者が少なからずいるという話もあちこちで聞くことができる。……本質的な問題は、そうした研究が全て同じ障害の前で停滞することにあるわけで。
「短距離の転移ならどうにかなると思ってたし、実際転移するところまでは悪くなかったんだけどね。まさかここまで早くガタが来ることになるとは思ってなかったわ」
リリスが行使した転移は二回、どちらもせいぜい数十メートルの見えている範囲内を移動しただけの物だ。だというのに一度目の転移ですでに体の内側がひしゃげたような音が聞こえ、二度目を行使した時には全身が鉛か何かに入れ替えられたかのような倦怠感が襲いかかってきた。敵の前だからどうにか気を張れていたが、そうでなければ即座に卒倒していてもおかしくないほどの負荷だ。
「本当はツバキの影で離脱した後、マルクの傷を癒すぐらいの余裕は残しておくつもりだったのよ。……ちょっと計算が狂ったおかげでその計画もぐちゃぐちゃになっちゃったけど」
「流石に見積もりが甘すぎるでしょ……。転移魔術が体に凄まじい負担をかける物だってのは誰もが認めるところだろう?」
呆れたように息を吐き、ツバキが首を左右に振る。その言葉通り、転移魔術が人体に凄まじい負荷をかけるのはどんな実力者であっても共通の見解だ。あのフェイでさえも、王都からベルメウまでの超長距離転移を実現させるために一日がかりの下準備を済ませておく必要があったのだから。
自分が知る限り最も魔術に長けた精霊がそうしているのにも関わらず、リリスは咄嗟の閃きで転移魔術を実践してしまったわけだ。準備など当然しているはずもない故に、フェイが様々な手順を経ることによって分散させていた負荷の全てが一瞬にして降りかかってきた――そう考えれば、無茶の代償があれほど大きかったのもまあ納得が行くというもので。
「ええ、到底耐えられるものじゃなかったわ。……どんな気持ちでアイツらがこれを連発してるのか、ますます訳が分からなくなるぐらいにはね」
マルクさえ無事なら修復術が使えるという打算は、転移魔術の行使に踏み切ったリリスの中にもあった。ただ、後々治ると分かっていたところで魔術神経を損なうあの感覚はそう何度も味わいたいものではない。いくら傷つくことを覚悟していたとはいえ、覚悟だけで苦痛の全てをなかったことにできるわけではないのだから。
それを改めて実感した今だからこそ、リリスは不思議でたまらない。――『落日の天』の幹部たちが気軽に転移魔術を連発できてしまっている、その現状が。
「苦痛を受け入れられるほどの忠誠心があるのか、それとも何かしらクライヴの手で弄り回されてるのか――個人的な意見を言うなら、九割ぐらいの確率で後者だと思うのだけれど」
「同感だね。アグニはともかくとしても、クラウスみたいな人間が所属してた時点で忠誠心なんてものが行き届いているとは思えないし」
ざっくりとしたリリスの推論にツバキも同調し、改めて『落日の天』を率いる男がどれだけ常識外れの存在なのかを改めて認識する。源流が同じものであるとは到底信じられないほどに、マルクとクラウスの操る魔術には大きな乖離があった。
二人の過去にいったい何があれば、ここまではっきりと道を違えるようなことになってしまうのだろう。今の二人はまるでコインの表と裏のようで、同じ傷を抱えているはずなのに二人の視線が合う事は決してない。それが何をきっかけとして起きた変化なのかは、リリスもまだはっきりと聞けていないところだ。
ただ、何かがあったことだけは間違いない。マルクの記憶が封じ込められるきっかけとなり、クライヴが『落日の天』を率いるに至った何かが。そこで一体何が起きれば記憶を封じ込めて故郷から放り出すなんてことになってしまうのか、それは分からないけれど。
(……なんて、今はそんなことを考えてる場合じゃないわよね)
首を横に振り、答えの出ない思考に一度区切りを付ける。宿の一室は束の間の休息のような雰囲気を醸し出してはいるが、今もなおリリスたちは戦場の真っただ中だ。戦線に疲弊が見えている以上、ここからはクライヴも積極的に打って出てくることだろう。少しでも気を抜けば最後、『落日の天』が持つ得体の知れない勢いにそのまま呑み込まれてしまいかねない――
――ぴりり。
「……リリスさん。もしかすると、まずいかもしれませんよ」
そんな思考に『是』とでも告げるかのようなタイミングで、肌を刺すような感覚が全身を駆け抜ける。それとほぼ同時に聞こえてきたスピリオの警告が、今のそれを自意識過剰が生み出した錯覚ではないのだと証明してくれていた。
虫の知らせ、とでも言えばいいのだろうか。普段から感じ取りこそすれ軽く流している遠くからの魔力の気配が、今はなぜかとてつもなく嫌な物であるように思える。
覚えがある――というよりも、ついさっきまで感じ取っていた魔力の気配と、それはよく似ている気がするのだ。しかもそれは一定の速度で、リリスたちの下へと接近しているように思えて――
「……足音が、変です」
「……ッ」
スピリオがそう呟いたことにより、はっきりとしなかった懸念は確定した危険へと変わる。ツバキもそこで何かを察したのか、弾かれたように扉の方へ視線を投げていた。
いずれ覚悟していたし、そもそもこちらから向かうつもりだった。アレを好きにさせたら間違いなく戦線を崩壊させるほどの戦力を勢いづけてしまった責任がリリスにはある。噴水広場での戦いを経て、二人の間にはすでに並々ならぬ因縁が結ばれてしまっていると言ってもいいだろう。……だが、それにしたっていささか予想外だ。
「早すぎるでしょう、いくらなんでも……‼」
こちらの体制は未だ整わず、マルクが目覚めるのは短くてあと数十分先の事だ。自然ここから動くことは出来ず、リリスたちはここで人形の進軍を迎え撃たざるを得ない。事前にいくらか罠を仕込んでおいた分少しは足止めもできるかもしれないが、残念ながらそれも気休めにしかならないだろう。……何せその罠は、踏んだら大人しく死んでくれる人間たちの襲撃を想定して作ったものなのだから。
ままならない現実に舌打ちをして、体内に流れる魔力の感覚を今一度確かめる。修復のおかげで調子は上々、戦闘に対して不安はない。この宿で人形を迎撃し、誰一人として欠けることなくマルクの目覚めを待つ。それこそが、今リリスが全力を賭してやるべきことだ。
「……どうやら、やるしかないみたいだね」
剣呑な声で呟くツバキの両腕からもゆらゆらと黒い影が立ち上り、『夜明けの灯』を支える最強の魔術師たちの臨戦態勢が整えられる。四階建ての宿を舞台とした籠城戦が開幕するまで、そう長い時間は残されていなかった。
否応なしに始まる籠城戦、リリスたちは無事にマルクを守り切れるのか! こちらも楽しみにしていただきたいところですが、次回から視点は一旦戦場に散る面々へと移ります! 『夜明けの灯』の奮闘の影で帝都で何が起こっているのか、ぜひお楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




