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第五百六十七話『原点』

『嬢ちゃん、正直言って油断してたろ?』


 手から腕へと伝わっていく鈍い衝撃の傍ら、憎たらしくて仕方がない声が耳元で響く。ここにいない人間の、何なら言われたこともないような言葉はやけに現実味を帯びていて振り払えない。アグニ・クラヴィティアとの戦いは、今もリリスの記憶にこびりついている。最近になってようやく振り払えたかもしれないなんて手ごたえそのものが幻想だったと、たった今そう思い知らされた。


 体が僅かに硬直する。必殺だと思っていた一撃が通らなかったこと、それがアグニを思い起こさずにはいられなかったこと。……あの男、他人に入れ知恵するような人格者だっただろうか。


 衝撃と疑問がぐちゃぐちゃに入り乱れ、その結果として離脱が遅れる。時間にすれば僅かなものだが、戦場においては些細なタイムロスが致命的だ。少なくともリリスが稼いだ時間的なアドバンテージは一つ残らず消滅した。


「あはははッ、良いツラしてくれんじゃねえか‼」


 してやったりの高笑いを浮かべるネルードはこちらに一歩踏み込み、その勢いで体が僅かに押し戻される。その間隙が見逃されるはずもなく、巨人たちの拳が躊躇なくリリスに向かって振り下ろされた。


「風よ、お願い!」


 咄嗟に風を炸裂させて致命打を逃れることには成功するが、しかし距離は不十分だ。どちらかと言えばこれはネルードの間合い、詰めるか離れるかしなければ延々と後手に回らされる羽目になる。それだけは避けなければならないと、いつにもまして活性化した本能が叫んでいた。


 体の奥から突き上げるような衝動に従い、リリスはひとまず襲い来る危機からの離脱を目指す。最短で決着を付けるルートは既に途絶えた、求められるのは新しいプランだ。不利にも程がある状況をどうにか一度仕切り直して、アグニの授けた悪意すらも呑み込めるだけの何かを探しに行かなければならない。


 懸念点があるとすればあの時よりも随分と条件が簡単になっていることだろうか。今求められているのは致命傷になる一撃だけ、足止めなんて考える必要はどこにもない。これで並大抵の手合いなら殺される機など微塵もなかったのだが、相手がネルードともなれば話は変わってくる。


「……そら、逃げれるもんなら逃げてみやがれ‼」


 喜悦の表情を浮かべ、ネルードはくるりと魔道具を一回転させる。まるで前から愛用していたかのように慣れた手つきで変形が完了し、逃げ惑うリリスに銃口が突き付けられた。


 あちらも千載一遇の好機と見たか、どうも防いだだけで満足する気は微塵もないらしい。防御が手薄になったことは喜ばしいが、巨人の片割れが防御態勢を整えている時点で変形のデメリットもほぼ帳消しと言ったところだろうか。


 これでリリスだけに集中してくれているならばよかったのだが、変形した石畳はツバキにも抜け目なく襲い掛かっている。今の所直撃しそうな気配はないが、試行回数を稼がれるほどこちらが不利になるのは自明の理だ。


 そんな思考を遮るかのように魔力の気配が前方で弾け、リリスは咄嗟に身を逸らす。銃口から離れた教団は刹那もしないうちにリリスの頭があったところを通り抜け、僅かに吹いた風が金色の髪を揺らした。


 少しでも反応が遅れていたらどうなったか、想像するのはあまりに簡単だ。いくら治癒魔術を修めようと即死だけは回避できない。普段は弱点ともいえないようなそれが、今だけは随分厄介な物のような面をしてこちらを見つめている。


「……ち、相変わらず勘のいいこって。もう少し鈍い方が楽に生きられるんじゃねえの?」


「生憎生きづらさなんて感じたことないわよ。むしろ今更鈍くなる方が怖いわ」


 魔術神経が壊れたあの時、真っ先にリリスを襲ったのは恐怖心だった。今まで当たり前にできていたことが出来なくなり、感じ取れていた物がちっとも感じられなくなる恐怖。ある日突然呼吸の仕方を忘れてしまったようなあの違和感を、きっとリリスは一生忘れられないだろう。


 涼しい顔で返してはいるが、その言葉は紛うことなき本心だ。ツバキのことを思えばどうにか耐え凌ぐことができたが、あの奴隷市場での日々の中でいつ心が壊れてもおかしくなかった。そうならずにここに立てているのは、ひとえにツバキとマルクが居てくれたからだ。


 出来ることが減ればリリスは否応なしに弱くなり、その分大切な仲間たちを失う危険性は加速度的に高まっていく。たとえ研ぎ澄まされた感覚が過剰なほどに気配を感じ取ってしまうのだとしても、常に不意を打たれるかもしれない可能性に身を置かなければならない方がよっぽど嫌だった。


 安全と引き換えにできるのなら多少の不快感ぐらい喜んで差し出してやろう。たとえどれだけの代償を差し出すことになっても、それがリリスたちの日常を守るためならば躊躇はしない。そう誓えるぐらい二人の事が大切だから、リリスはここまでやってきたのだ。


(……あ)


 リリスにとって原点と言ってもいいところへと思考が舞い戻った瞬間、ドクリと心臓が強く跳ねる。緊張とも高揚とも言い難い、不思議な感覚だった。


 久しく感じていなかったような、なのに随分と馴染みがあるような。この感覚になら身を任せてもいいと確信できる温かみを、どうしてかリリスは強く感じている。


 何故だろうと考えて数瞬の後、リリスは思わず苦笑する。すぐに見つかった答えはあまりにも簡単で、しかしこの状況における真理だった。なぜ今までそれを忘れかけていたのだろうと、改めて自問したくなるぐらいに。


「なるほどな、お前のそれは天然モノか。……羨ましいよ、心から」


 どこか失望したような声とともに再び銃口が向けられ、束の間のやり取りは終わりを告げる。もっとも、それを惜しむ気持ちはすっかりリリスの中から消え去っていた


 声とは裏腹にどこか羨望を帯びた瞳も、さっきまでのヘラヘラとした表情が少し陰りを見せていることも。情報としては目の中に入ってくるが、それを取り上げて何か考える気は微塵も起きない。突き詰めた話、どうでもいいのだ。


 どうでもいいのだ、そんなこと。あっちがどんなことを考えていようと、どんな信念のもとに魔術を振るって来ようと。ネルードはクラウス側の勢力で、こちらに敵意を容赦なく向けている。それさえ分かれば殺すには十分、後は全部余分な情報だ。そんなものに想いを馳せる義理なんて、最初からリリスにありはしなかった。


(……ああ)


 今にして思う。フェイの手ほどきを受けてからと言うもの、他者の考えやイメージにまで想いを馳せすぎていたのだ。罠にかかって死ぬ帝国の人間の無念とかクラウスが抱える弱さとか、そんなものは全部リリスには関係ないことだ。あれらが敵で、リリスたちを攻撃してきて、その刃が大切な物を傷つけるかもしれない。そうなった時点でどうするべきかなんてわかり切っていたのに、どうして律儀に心を痛めてやる必要があったのだろう。


 その根源にも、今にして思えばマルクが居る。端的に言えば怖かったのだ。大切なもの以外を徹底して切り捨てるリリスの姿を見て、マルクからの印象が変わってしまわないか。『嫌われるんじゃないか』なんて懸念が、他者を無慈悲に切り捨てることを躊躇わせた。


 だって、マルクならそうしたから。全部に手を伸ばすことは叶わなくても、出来る限りの物を拾い上げようとするのがマルクだから。リリスもまた、その手に拾い上げられた一人だから。


 だから同じで居ようと思った。そうすれば、マルクも自分の方を見てくれるんじゃないかなんて期待を抱いた。……その動機が恋心だってことに気づくまでには、随分と時間がかかってしまったが。


 だが、その恋心は無事に実った。嫌いになんてなれそうもないなんて嬉しい言葉ももらった。……だから、もう、いいのだ。


(……ごめんなさい、フェイ)


 自分を新たな領域へ連れて行ってくれた師匠に内心で頭を下げる。今からの戦いでどれだけその教えを踏襲できるのか、正直自分でもよく分からなかった。だけど、そうやって戦うのが今は一番いいと思うから。


 リリス・アーガストはマルクが好きだ。ツバキも好きだ。二人が好きだ。世界の何と比べても二人は特別で、そこに追加で加わってくる存在がそうそう居るとも思えない。騎士団の面々やフェイ、レイチェルやノアに好感を抱くことはあっても、それは決してマルクたちへの『好き』には届かないものだ。


 だからこそ、それを奪われるのが怖い。壊されるのが恐ろしい。ならばどうしたらいいか。答えは実に乱暴で、故にひどく単純な答えへと収束する。


「氷よ」



――壊される前に、壊しつくしてしまえばいいだけだ。

 お待たせしました、次回反撃開始です! これから投稿ペースは落ちてしまうかもしれませんが、週に三、四回は最低でも更新していきたいと思っているのでぜひお楽しみにしていただければと思います!

 ベルメウでの戦いが終わってからと言うもの、リリスは結構迷っていたことも多いように思います。マルクの記憶に心を痛めたり、今までの死者たちに心を痛めたり。けれど案外そういう迷いを振り切るきっかけってすぐ近くに会ったりして、それさえ見つけられればすぐに吹っ切れられる人も少数かもしれませんがいると思うんですよね。そんな彼女が見せる戦い、ぜひご期待ください!

――では、また次回お会いしましょう!

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