第五百五十一話『因縁の切れ目』
クラウスの目が唐突に見開かれ、声を上げる間もなく口からは血が零れる。両手で強く握りしめていたはずの魔剣が、からんと情けない音を立てて地面に落ちた。
リリスの蒔いた氷の種は見事に芽吹き、夥しい数の針となってクラウスの身体を宙に縫い留めている。作戦を完遂するための最後のピースは、簡単に言えば初見殺しの罠だった。
そもそも罠とは正面勝負を避けるために生み出された産物、少しでも安全に勝利するために編み出された知恵の結晶だ。当然、相手の危険度が高くなればなるほどその価値は高くなる。最大火力の一撃を受け止められた時点で、この結末に至るのはもはや決まっていたと言っても過言ではないだろう。
「……私の勝ちね」
文字通り針の筵となったクラウスから距離を取りつつ、リリスは堂々と宣言する。これが今のリリスのやり方で、この半年間で身に着けた新たな強さだ。――まあ、『プナークの揺り籠』で起こった戦いも同じような結末を迎えたような気がしないでもないが。
その時と違う事があるとすれば、リリス自身の心持ちだろうか。あの時はどこかその結末に納得することが出来なかったが、今は心の底から満足している。自分の全てを使ってクラウスを出し抜いた先に勝利があったのだと、胸を張って自分の勝利を誇ることができる。
「が……っ、は、てめえ、よくもまた俺を……ッ‼」
そんな態度がよほど癇に障ったのか、血反吐を吐きながらクラウスは憎悪に満ちた声をこぼす。だが、行動が伴わないのであればそれもただの虚仮脅しだ。最低限の緊張感さえ忘れなければ、今のクラウスを恐れる必要などなかった。
「罠なんてかかる方が悪いのよ、私を責められても困るわ。恨むなら自分の観察眼の無さでも恨んでおくことね」
クラウスの殺意をどこ吹く風と受け流し、軽く地面を踏みつける。それを起点として地面を迸った氷は、一秒と経たずして魔剣を封じる分厚い繭を作り上げた。
「あなたは自分の強さにしか興味がない、他人に目を向けようなんて考えたこともない。――いつまでたってもそんなだから、私みたいなのが仕掛けた罠にすらかかり続けるのよ」
リリスの仕掛けにも成す術がないのなら、ツバキの策を看破する可能性など皆無と言ってもいいだろう。この世界で唯一『強さ』にだけクラウスは真摯に向き合っていて、故にこそ視野が恐ろしいほどに狭い。あの仮面を付けられたのも、クライヴに上手くやり込められた結果だと思えば納得が行く。
今にして思えば、あの時ギルドでマルクがかけた言葉はどうしようもなく真理だった。自己愛にも似た『最強』への執着が変わらない限り、この戦いを何度繰り返しても結果は変わらないだろう。どんな経験を経てもなお変わらない本質は、クラウスを『最強』から遠ざける呪いだと言ってもよかった。
「もしどこかで人徳を身につけられていたら、あなたの運命も少しは変わったのかもしれないけどね。でも残念、もう時間切れよ。あなたの子供じみた執着にずっと構ってられるほど私たちも暇じゃないの」
「認め、ねえ……‼ 俺はまだ強く、強くならねえと……‼」
まるで駄々をこねる子供のように、自らの眼前に迫る結末をクラウスは拒む。ぶんぶんと首を振り、その度に傷口から血を漏らしながら。それがむしろ自分の命を削っているとも知らず、クラウスはただ敗北した自分を否定するために動いていた。
しかし、もう決着はついてしまったのだ。苦し紛れの不意打ちに拠るものでもなく、自らの行いがたたった自滅ですらなく。初めから計算し尽くされた罠にかかってクラウスは完全に敗北した。何をどうしたところでその事実は変わらないまま、冷たくクラウスの前に佇んでいる。
ただ、まっすぐ伝えるだけではクラウスはそのことを理解してくれないだろう。体は半ば死んでいても、『最強』を求めようとする心だけはまだ死んでいない。強い想いが魔力を帯び得ることを知った今、その心根を挫いたうえで殺さないと化けて出そうで面倒だった。
故に、リリスは一歩前へと進み出る。クラウスの魔力の気配が弱くなりつつあることを確認し、最大限の警戒を済ませて。その上で出来る限りの不遜な表情を浮かべて、影の刃を首元へと当てた。
「というか、もう少し決着まで時間がかかると思ってたんだけどね。あの仕掛けはあくまで一つ目の策でしかないし、やりようはまだいくらでもあった。……でも、実際はそうする必要すらなかったのよ」
いつでも殺せる状況を維持しながら、リリスはあらん限りの嘲笑を口元に浮かべる。さらにダメ押しと言わんばかりに屈みこみ、至近距離で視線を強引に交錯させて。
「最初から最後までずーっと弱かったわね、あなた」
――誰の目から見ても分かりやすい地雷を、敢えて全力で踏み抜いた。
魔術師としての才能はあった、それを生かせるだけの修練も積んでいた。だが、いかんせん他者に対する敬意がなさ過ぎた。どこまでもクラウスのやり方は独りよがりで、だからこそ一度空回りするとどうにも止まらない。リリスにとってのマルクやツバキのように、間違いや勘違いを止めてくれる存在がクラウスにはいないのだ。
「弱い……だぁ⁉」
予想通り激昂したクラウスがじたばたと体を動かすが、氷の針には小さなヒビすら入らない。その怒りの感情さえも誘導されていることに気づけないまま、クラウスはじたばたともがき続けている。そんな負け惜しみに意味などあるはずもないのに、もがいてもがいてもがき続けている
この半年でずいぶん差が付いたものだと、その様を見ながらリリスは思う。今改めて比較してみれば、クラウスよりもアグニやウーシェライトの方が脅威度で言えば圧倒的に上だ。ただ己の強さを証明するために向かってくる敵よりも、こちらを観察した上で的確に策を打ってくる敵の方がよほど恐ろしい。
「弱いわよ。クライヴとやり合ってもすぐに負けるのが目に見えてるわ」
いや、それどころか動きを読まれたアグニに阻止されて終わるだろうか。どちらにせよクラウスが思い描いていた未来は机上の空論でしかなく、現実はその前哨戦だったはずのリリスにこうして惨敗を喫している。それが弱さの証明と呼ばずしてどう評すればいいのか、きっと誰もが首をひねるはずだ。
「違う……何かの、何かの間違いだ……‼」
そんな状況にあっても、クラウスは自らの弱さを認めない。自分は最強の称号に足る存在だと信じて疑わず、これでもかと露呈した欠点に目を向けようともしない。――それも又敗因の一つなのだが、クラウスがそれを理解する日はきっと来ないだろう。
思わずため息が出る。ここまで鬱陶しいとしか思ってこなかったクラウスの事を、初めて哀れだと思った。誰よりも一途に強さを求めたことで『最強』へ至る道を閉ざした剣士の姿は、その末路まで含めてあまりにも惨めなものだった。
これを反面教師にしよう、とリリスは心に誓う。自分の中にある弱さと向き合う事を忘れた瞬間、リリスは今のクラウスと同じになる。想像するだけでおぞけがするのだから、自らの戒めとしてこれ以上最適な物もなかった。
それを得た今、いよいよクラウスに用はない。後に残されたやるべきことと言えばこの因縁に決着を付けることだけだ。もう二度と死に損なわないよう、それはもう徹底的に。
「じゃあ、そろそろお別れにしましょうか。……いくら頭の悪いあなたでも、死ねば自分が負けたって理解できるでしょ?」
「認めねえ……認めるわけがあるかよ……‼」
首に触れさせていた影の剣を軽く振り上げ、無防備に晒されているうなじに照準を合わせる。そうなってもなお喚く声はうるさく響き、リリスの眉間にしわが寄った。
結局どれだけ諭して身に沁み込ませたところで、リリスの言葉が届くことは一度たりともなかった。現実ですらもその心を折ることが出来ず、クラウスは今でも『最強』へ至る道が続いていると信じている。その姿は何というか、こう――
「――あなた、本当に可哀想な人なのね」
心からの軽蔑の言葉を吐き捨てて、影の刃を振り下ろす。想像していたよりもあっさりと骨は切り裂かれ、鈍い音を立てて地面に首が落ちる。それから一呼吸置いた後、剥き出しになった血管から滝のように血が噴き出した。
その様を見届けて、ようやくリリスは自らの勝利を確信する。マルクと出会ってから今に至るまでの間、うんざりするほどに続いてきたクラウスとの因縁にケリを付けた瞬間だった。。
と言う事で、リリスの完全勝利でクラウス戦は決着です! この半年で変わったリリスと変われなかったクラウス、勝敗を分けたのはその二つの差でした。見守っていたマルクはこの結末に何を見るのか、ぜひお楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




