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第五百三十七話『狂気の輝き』

 それに気が付いてしまったことは、結果的には大失敗だった。傷を見たことで得体の知れない熱は一瞬にして痛みへと変わり、思考を急速に鈍らせ始める。腹を刺されたのは初めてじゃないはずなのに、急所を捉えているのか体はちっともいう事を聞いてくれなかった。


「若いというのは良いものですな。目標に向けて一本気、それが正しいと信じて疑わない強さを持っている。一度捻くれてしまったわたくしのような老骨にはとても至れぬ領域だ」


 うずくまる俺に歩み寄り、腹に突き刺さった短剣の柄がガッチリと握られる。声色も朗らかで口元も微笑の形を作っているのに、こちらを見つめる目には冷たい輝きが宿るばかりだ。そういう目をした人間が一線を越えることに何の躊躇もないことを、俺は知っている。


 逃げるべきだった。問答をする余裕なんて与えないほどに、すぐにでも距離を取って場を凌ぐべきだった。背中を見せるのが怖いとか抜かしておいて、結局正面からでも対応できていないじゃないか。それほどまでに弱いのに、どうして背を向けることばかり過剰に恐れる必要があったんだ。


 反省と後悔とが頭の中を駆け巡るが、その全てがもう手遅れだ。短剣を握った手が少し動くだけで俺の身体からは血が溢れ、数分もしないうちに俺の命は潰える。ベガがくれた勝機は、一瞬にしてふいになった。


 手足の先から体温が失われ、思考がだんだん要領を得ないものになっていく。死に向かうとはこういう事なのだと、本能は今更理解した。……こんなにも冷たくて、救いようのないものなのか。


「わたくしはね、知りたいのですよ。あなたのような輝きが一体何を原動力として生まれてくるのか。それが行きつく先にはいったい何があるのか。そして、何よりも――」


 ウォルターの声もだんだん遠くなりゆく中で、短剣を握った手に力を込められたことだけが痛みを通じてはっきりと分かる。ずぶりと音を立てながら僅かに引かれた短剣が叫びだしそうなほどの痛みを生むのに、逆流してきた血が断末魔を上げることすら許さない。呼吸さえもままならない苦痛にもがく俺を一瞥しながら、ウォルターは剣を握った手を思い切り振り抜いて。


「――その輝きが穢れた瞬間に人はどの様に変わってしまうのか、わたくしは知りたくてたまらないのです」


 何故か恍惚としているように聞こえる声と、飛び散る自分の臓物。それらを眺めながら、意識は闇の底へと落ちていく。今までとは違い、それはもう二度と這い上がって来られない深い穴だ。クライヴにやり返すチャンスもリリスたちともう一度言葉を交わす機会も果たせないまま、俺はあっけなく命を落とす――


――そのはず、だった。


 いくら待てども俺の意識が途切れることはなく、不確かだった意識はなぜか鮮明な切れを取り戻し始める。体の冷えは無くなり、喉を塞いでいた血も気が付けば消滅している。何が起きたのかを全く把握できないまま、俺は二本の足で通りに立っていた。


 ふと自分の腹を見て、驚愕する。刺されただけでなく掻っ捌かれたはずの傷は完全に塞がり、何事もなかったかのように俺の身体はいつもの調子を取り戻していた。


 極め付きには地面に血痕が飛び散っている様子もないのだから、俺の混乱はさらに広がるばかりだ。傷がないだけなら誰かに治療されたでまだギリギリ説明が付くにしても、こぼれたはずの血の跡すら残っていないのは流石に不自然が過ぎる。……何かが、明らかにおかしい。


「…………お前、俺に何をした?」


 全てが巻き戻ったかのような景色の中、唯一消えなかったウォルターに向けて俺は剣呑な声を投げかける。何を仕掛けられているにしても、その中心にいるのは間違いなくコイツだ。何か思惑があって、コイツは俺との決着を先延ばしにしている。


「それに答える義務はわたくしにはございませんよ。全てを知りたいのなら己の力で我武者羅に見つけ出す、それもまた若者の特権と言うものでございまして」


「成程な。『何が起きたか知りたいならわたくしを倒して見なさい』ってか」


 ずいぶんのらりくらりと言葉を弄してはいるが、無駄な部分を切り落とせばそういう事だ。何事かぶつぶつと呟いていたのはあの痛みの中でも覚えてはいるが、それを思い返してもなおこの状況に繋がる答えはない。となれば、やることは一つだ。


 足に力を籠め、俺のやるべきことを明確にイメージする。なんで俺が無傷なのかは知らないが、今この瞬間が大チャンスであることに変わりはない。俺自身にそう言い聞かせながら、俺は肩を竦めてみせた。


「初対面で腹ブッ刺してくるようなイカれ紳士の理想なんざ聞き出したところで俺に何の得もねえよ。悪いけど、先を急ぐ身なもんだからさ」


 言うだけ言って踵を返し、出来るだけ身を低くしながら走り出す。正面からやり合って成すすべなく負ける敵が相手ならば、逃げる以外の選択肢などないも同然。……死ぬ直前の反省会で、そう結論を出したばかりだ。


 あっちにとっても予想外の一手だったのか、後ろから奴が追ってくる気配はない。ナイフが投げられてこないかだけが不安だったが、最初に二十メートルも距離を開けられれば上出来だろう。これだけ距離が開いたなら、ナイフに追いつかれようと致命傷にはならないはずだ。


 諦めたのか何なのかは知らないが、戦わないで済むならそれが一番だ。今の目標は生き残る事、そしてリリスたちともう一度合流する事。そのために必要ないのなら殺し合いに付き合ってやる必要は一つもないのだから。


 息が乱れるのも構わず夢中で走っていると、やがてさっきの三叉路が見えてくる。そこを左に曲がれば城まで一直線、仲間たちに繋がる手がかりも一気に近づくことだろう。ウォルターの事も共有しなくてはならないし、奴が次の標的を見つける前にどうにか誰かを見つけ出さなければ――


――ずぶり。


「……………あ?」


 体の向きを変えて走り出したその瞬間、鋭利な刃が肉を貫く音を俺の耳は確かに聞き取る。ついさっきのどころではない熱が、胸の奥で存在感を放っていた。


 冷や汗が伝う。俺は大きな思い違いをしていたのではないかと、今更ながらにまた気付く。ウォルターが俺を追ってこなかったのは、虚を突かれたからでも諦めたからでもない。もっと単純で、分かりやすい話だったんじゃないのか。


「おかえりなさいませ。ああ、気にしないでいいのですよ。逃れる事も尊い一つの選択だ」


 この場では通用しませんがと、そう付け加えて。


 至近距離で俺を見つめるウォルターは、また口元だけに微笑を湛える。……ちょうど胸の高さになるように構えられた短剣に突き刺さった俺を、冷たい視線で貫きながら。

 

 視線を送らなくても分かる、致命傷だ。一度も感じたことがなくとも身体ははっきりと告げている。生命を維持する上で絶対に侵されてはならない部位を、俺は今ぐちゃぐちゃにされている。


 腹を刺された時とは比較にならない量の血が逆流し、吐き出された血が俺とウォルターの服に紅いシミを作る。こぼれ出していく命が、言い訳しようのない失敗の証だった。


「さあ、次の選択の時間です。その時になったら、わたくしも少しは口を開くとしましょうか」


 ウォルターが何か言っているのは聞こえるが、思考能力の死に始めた脳ではそれはただの音声でしかない。そんな中、俺の心臓から剣が引き抜かれたのが止めだった。


 噴水の如く血が飛び出し、俺の身体は後頭部から地面に突っ込んでいく。逃げることすら敵わず、手のひらの上で踊らされて。何の結果も変わらないまま、俺の命は尽き果てる――


――はずなのだ。それが摂理で、覆らないことのはずなのだ。


「なんなんだよ、本当に……⁉」


 視界がぐるりと回転した次の瞬間、俺はまた二本の足で立っている。胸に空いた大穴は塞がり、あの大ケガの実在を証明してくれるものはどこにもない。混乱のままにあちこちに視線を投げる俺の姿を、ウォルターは笑いながら見つめていた。


「ええええ、混乱するのも当然でしょう。何せ二回も死んだとなれば、その時点で常人がするべきではない経験に足を踏み入れていると言っても過言ではありませんから」


 上機嫌にゆらゆらとステッキを振りながら、ウォルターはくるくると回りながら距離を取る。この状況がどうなっているか分からない以上、俺は言葉を遮ることが出来なかった。


「繰り返しますが、私はあなたの輝きが見たい。そして、それが穢れていくのを見届けたい。その変遷を見届けるには、悲しいかな一度の死では足りないのです。――それ故、ですね」


 ウォルターが言葉を切ったその直後、一息でお互いの距離がゼロになる。詰められてしまっては剣を振るう余裕もなく、ステッキが俺を強かに打ち据えた。


「く、あ……ッ」


「どれほどの苦痛を伴う終わりであろうとも、この空間で貴方が死ぬことはありません。――大丈夫です、数秒経てば苦痛は消えますから」


 びりびりと痺れるような衝撃の中、とても信じられないような言葉が耳を打つ。その次の瞬間俺の心臓にナイフが思い切り突き立てられて、また噴水のように血がこぼれて――それで。


「――終わら、ない」


「何せそのための空間ですからな。さあ、もっと輝きを見せてください」


 死をなかったことにされて立ち尽くす俺に、ステッキを構えたウォルターがまたしても距離を詰めてくる。それにまた対応できず、もろに一撃を食らった俺は次の一撃を避けられない。同じ失敗を繰り返してしまうのは、たどり着くのは前と全く同じ決着だ。


「これで四回目、ですね。……さあ、次の挑戦に参りましょうか」


 まるで流れ作業のように心臓が貫かれ、苦痛を残し死だけがなかったことになって元の状態に戻る。少し離れたところからそれを観察するウォルターの目が、今の俺にはとても狂気的なものに見えて。


「……う、あ」


――今から俺は殺され続けるのだと悟るのは、あまりにも自然な流れだった。

 ウォルターの策に囚われたマルクですが、果たして勝機を見出すことは出来るのか! ある意味マルクにとって真の試練となる戦い、ぜひぜひ見守っていただければ幸いです!

――では、また次回お会いしましょう!

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