第五百二十九話『破獄の一閃』
俺の掌の中に納まる程度の小さな懐中時計が、コチコチと音を立てながら規則的に時を刻む。『帝位簒奪戦』が開幕する時間を過ぎても、この牢獄が怖いぐらいに静かなことは変わらなかった。
ベガが懐中時計を渡してくれたおかげで、これでもまだ気分は楽になってるんだけどな。これが一つあるだけで時間の感覚が正確になるし、何より終わりが見えなかった行き詰まりに明確な終わりが見えた。ベガが来たことで起こった変化は、間違いなく俺を救っている。
一度だけ深呼吸をして、時計に視線を戻す。事前に予想していた通り、ベガが戦力として投入されるのは開戦から少し経った後になるようだ。投入されたらいの一番に俺を連れ出しに来るって、あの爺さんは堂々と宣言してたからな。
嘘をつかないことがベガのアイデンティティになっていることを、俺はこの眼で目の当たりにしている。これがアグニやクライヴの言葉だったらきっと少しも信じていなかっただろうが、ベガだから俺は素直に信じることができていた。……なんだかんだ言って、俺はあの絶対的強者の事が嫌いではないらしい。
「まあ、それと怖くないのとは別の話だけどな」
全ての計画が上手くいった先にあるのは、ベガと俺たちの直接対決だ。あくまで俺が全力を出せる環境を整えたいから助けてくれるのであって、そこに敬意はあれど善意はない。それだけは、肝に銘じておかなければならないだろう。
無事にリリスたちと合流できたが最後、俺とベガは改めて敵同士になる。あの時結んだのは一時的な共同戦線、役目が終わればすぐにでも切れる繋がりだ。
もしこの勢いのまま俺たちの味方になってくれたらと、そう考えたことが少しもないとは言い切れない。リリスにとっても貴重なエルフの先達になってくれるだろうし、腕を磨く相手としてこれ以上の存在もそうそう居る物じゃないからな。……だけど、アイツが絶対強者である限りそれは叶わない話だ。
ベガにとって、己を曲げることは敗北宣言と同義だ。故に言ったことは守るし、自分の信念は貫き通す。後にスタンスが変わることがあっても、その時々で出た言葉に嘘は微塵も含まれていない。そういう意味で言うならば、クライヴは無意識にとんでもないやらかしをしてることになるけどな。
だからきっと、俺とベガがいつまでも味方同士で居るのは無理な話なのだ。お互いが生きて目的を果たそうとする限り、いつか敵として向かい合う時が来る。かつてベルメウの街で邂逅した時のように、死に物狂いで頭を回してアレを打ち倒さなければならない日が来る。
それを悲しいと思えばいいのか良いことだと捉えればいいのか、今の俺には分からない。ただ、その結論を出すのが今じゃないことも事実だ。少なくとも今この時だけを考えるのならば、ベガ・イグジスはリリスやツバキにも劣らないほどの絶対的な味方なのだから――
「遅れて済まぬな、マルク。儂が考えている以上に、首魁は儂を貴重な戦力だと考えていたらしい」
俺の考えを裏付けるようなタイミングで、どこからかしわがれた声が聞こえてくる。けれどその響きに老いの悲しみはなく、ただ楽しげな笑みの色が混ざっていた。
――俺の頭上を銀色の光が走ったのは、その直後の事だ。
音もなく光の筋が天井に走り、それは一瞬にして大きな裂け目となって俺を捕らえていた牢獄を一刀両断する。あれだけ狭苦しく感じていた天井が一秒ごとに遠くなり、広がった視界の先には青空が見えた。それはつまり、俺が牢獄ごと地面に向かって落下しているということで。
「う、おわああああああーーーッ⁉」
あまりに突然で強引な脱出劇に口からは叫び声が洩れ、雲一つない青空に叫び声を響き渡らせながら真っ逆さまに落ちていく。その視界の端に写り込んだ巨大な城の姿が、かろうじてここが帝都であることを俺に理解させてくれた。
だが、その理解が無駄になるのも時間の問題だ。牢獄もろとも落下しているとはいえ、これほどの速度で地面に叩きつけられれば俺は間違いなく肉片になる。強者のベガはそんなこともないのだろうが、こちとら突然の落下に対応できる魔術など修得してはいないのだ。
修復術を使えば何とかする道も開けるかもしれないが、まだ思い出したばかりのそれに命を預けるのも怖くて仕方がない。これがベガの立てた脱獄計画の全貌ならば、弱者にやさしくない欠陥プランだと文句を垂れずにはいられないが――
「あまり叫ぶものではないぞ、マルク。その気合は、殺さねばならぬ敵と出会った時に取っておけ」
部屋の壁に白い筋が何本も走り、ほどなくしてバラバラに切り刻まれる。そうしてまた開けた景色の先から伸ばされたベガの両手が、落ち往く俺の身体を力強くホールドした。
「いいか、今から地上まで一気に移動する。衝撃は全て殺す故、お前は儂に身を委ねておればよい」
ごうごうと風を切り裂く音に混じり、ベガの指示が耳を打つ。見たところまだ地上とは距離がありそうだったが、その距離すらも魔術を使えば一瞬、しかも安全に着地できてしまうらしい。
「転移魔術って奴は滅茶苦茶だな、相変わらず」
味方になれば頼もしい反面、敵が使えば奇襲も撤退もし放題の厄介すぎる魔術へと変わる。賞賛であり愚痴でもあるそれに返ってきたのは、からからと楽しそうな笑みだった。
「そうじゃな、儂もそれには同意せざるを得ん。……じゃがマルク、今から使うのは転移魔術ではないぞ?」
「は……?」
確かに『一気に移動する』としかベガは言わなかったが、安全に着地するなら転移魔術以外の方法しかないはずだ。これ以上加速して地面に向かえば、俺の身体がバラバラになるのは目に見えているだろうし――
「悪いのう、これ以上詳しくは言えぬのじゃ。嘘を吐いてはならぬ儂が秘密を守ろうと思うなら、その手段は沈黙以外残されていないからの」
「……なるほどな。それを言われちゃ俺もこれ以上何も聞けねえよ」
つまり、今からベガがやることには転移以外の何かが絡んでいるという事だ。ベガほどの強者が守らなければならない秘密ともなれば、それは余程強さの核心に迫る物と言う事に他ならない。そこまで考えれば、ベガが隠そうとしている物の候補は何となく予想が付いた。
だが、それをここでこれ以上深堀するのは野暮だろう。その答え合わせはきっと、いつか敵としてベガと向かい合った時にするべきものだ。俺からベガに返せる礼なんてそれぐらいしかないんだからな。
俺たちの落下は既に最高速度に達し、凍えるような風が時折頬を撫でる。無策で落ちれば当然即死、少しの負傷でも今の俺には大きな痛手だ。ベガが保証してくれたのはあの牢獄からの脱出までで、リリスたちとの合流はそれに含まれてないんだからな。
「頼むぜ、爺さん。俺の弱さまで踏まえて、しっかり安全に着地してくれ」
「野暮な心配をするでない、儂を誰だと思っておる。――最強たる者、そこに至れぬ相手への気遣いは心得ているに決まっておろうが」
俺の念押しに不遜な答えが返ってきて、俺の体を固定していた腕の一本が地面に向かって真っ直ぐ伸ばされる。一瞬背筋に冷たい物が走ったが、片腕だとは思えない安定感で俺の身体は支えられていた。
「さあ、空の旅もそろそろ終幕じゃ。――くれぐれも、舌を噛まぬようにの」
笑み交じりにそんなことを言った次の瞬間、耳元でうるさいほどに鳴っていた風の音が止む。いずれ本当に皮膚を切り裂くのではないかと思うほどの冷たさも消え、背中には硬い感触がある。……それが石畳の物であると気づくまでに、俺は少しの時間を要した。
ベガが何をして着地したのか、その全てを俺は感知できなかった。まるで時間を丸ごとすっ飛ばしたかのように何も分からないままで、ただ無事に着地できたという事実だけがそこにある。ふと目を動かせば、一足先に立ち上がったベガがこちらを見下ろしていて。
「何があったか分からぬ、と言う顔じゃな。……さしもの『弱者の論理』も、儂の切り札を見破ることは出来なんだか」
「ああ、何も分かんなかったよ。とりあえず無事に脱出できたってこと以外、何も」
だが、それさえ分かれば十分だ。ベガは約束を守り、俺を帝都へと連れ出してくれた。それ以外の事なんて、今からいくらでも考えればいいだけの話で。
「ありがとうな、ベガ。お前が居なかったら、俺はクライヴをぶん殴りに行くチャンスすら与えられずに終わってたよ」
久しぶりに浴びる日光を心地よく感じながら、俺は心からの礼をベガへ贈る。それに目を細めるベガは、それだけ見ればただの心優しい老人の仕草そのものだった。
囚われてから約百話ほど、ようやくマルクも帝都の地を踏みしめました! 果たして無事に合流は出来るのか、そしてベガはここからどう動くのか! 役者の揃い始めた第六章、ぜひぜひご期待ください!
――では、また次回お会いしましょう!




