第五百二十八話『血濡れ公』
その死体の目は何かを拒絶するかのように極限まで見開かれ、脇腹にできた傷口からは臓物が零れ落ちている。全身をすっぽりと覆っているローブは、男がクライヴ達の勢力であることを雄弁に語っていた。
魔力の気配が消えたことでほぼ確信はしていたが、二人で仕掛けた罠は期待通りの仕事をしてくれたようだ。罠にかかった男はきっと、自らがおびき出されていたという事実に気づかないままその一生を終えたのだろう。
「……とりあえず、戦果は上々って所かしらね」
見覚えのない、しかし間違いなくリリスたちが殺した男の亡骸を注意深く観察しながら、リリスはか細い声で呟く。そうやって口に出さなければ、いつまでも殺した実感がわいてこないような気がしてならなかった。この男がどんな戦い方をしてどれほどの実力を持っているのかはおろか、その名前すらも知ることがないまま戦いは幕を閉じてしまったのだから。
それに対して罪悪感を抱いてやるつもりはないし、罠を張る判断を下したことに後悔はない。ただ、いざそれが成果を出したとなると不思議に思えてしまうだけだ。待ち伏せをしたことは今までの中であったにしても、罠を使って直接手を下さずに殺すことは初めての経験だったから。
ツバキと二人で立てた作戦が成功したことの達成感と不思議なぐらいの呆気なさが混ざり合って、何とも表現しがたい感情だけが胸の中には残っている。今までに積んできた経験を思い返しても、今の感情にしっくりくる名前は中々見つけられなかった。
「……これ、多分帝国の人だよね。少なくとも顔に見覚えはないし、服装もどことなく帝国のに似てるような気がするし」
不思議な感情に内心首をひねるリリスの横で、屈みこんだツバキが一足先に男の詳細な観察を始める。知が付くことも厭わずにローブをはぎ取るその横顔に、少なくともリリスのような曖昧な感情は見て取れなかった。
気持ちの切り替えが早いのか、それとも外に出ない様上手く感情を押し隠しているのか。どっちだろうと一瞬考えて、『どっちもあり得る』なんて生産性のない答えがはじき出される。こと戦場での感情労働にかけては、昔からツバキの方が一枚上手だった。
普段なら何となくツバキの考えや感じていることを読み取れる自信があるのだが、他者の死や敵を前にするとその感情が一気に見えなくなるのだ。普段よりよほど硬い鉄仮面を被り、その上であたかも普段と変わらないように飄々と振る舞う。よほど鋭いかツバキと行動を共にしている人物でなければ、そのスイッチの切り替えにすら気づくことは不可能だろう。
意識的にせよそうでないにせよ、戦場においてツバキはリリスよりもずっと冷酷だ。その片鱗を垣間見る度に、リリスは自分の甘さをひしひしと思い知らされる。……殺した相手に想いを馳せることなど、少なくとも今この時においては無駄な行動でしかなかった。
少しでも感情の動きを見せれば、そこに付け込んでくる可能性があるのがクライヴ達だ。事実一度リリスはウーシェライトに出し抜かれ、自らの死と引き換えに与えられた役割を完遂された。あれと同じような失態を繰り返せば、今度こそ取り返しのつかない事態になるのは想像に難くない。
「……ふう」
いつもより長めに息を吐き、ツバキに倣って死体の傍らに屈みこむ。胸の中には未だ名前のない感情が居座ろうとしていたが、リリスはそれを意識的に脳の片隅へと追いやった。どんな名前をそれに与えるかなど、マルクを取り戻した後三人でじっくりと考えればいい話だ。
「カイルも言ってた通り、結構な数がクライヴ達についてるのかもね。それが帝国への不満があったからなのか、それともそっちの方が面白そうだったからなのかは分からないけれど」
しかしそれでも先遣隊として使われているという事は、クライヴ達の信頼を得ることは出来なかったという事なのだろう。言い方は非常に悪いかもしれないが、この男のように使い捨てられている帝国の人間も結構な数いるのではないだろうか。
そこにあるのがどんな信念であれ、帝国への裏切りが実際に起きているということ自体が問題だ。同じ素材のローブも貸し与えられているあたり、明確に組織の誰かと接触した上で作戦に組み込まれたことは目に見えている。つまり、クライヴ達も積極的に裏切り者を戦力としてかき集めていたという事で――
「……そ、それ、『血塗れ公』じゃないですか?」
本筋へと戻った思考がようやく回転し始めてきた頃、リリスの聴覚は遠くから聞こえた微かな呟きを拾い上げる。反射的に振り向くと、階段の四段目あたりに立っていたスピリオが微かに体を震わせた。
随分と距離を取ってはいるが、それでも延長された彼の五感にはその顔がはっきりと見えているらしい。……もっとも、見えていることがスピリオの恐怖心をより加速させてしまっているようにも見えるのが悲しいところだが。
「この男、それなりに有名なの?」
「……ええと、それなりどころじゃないかもしれません。本名はともかく、『血塗れ公』って異名だけはあまりに有名です。悪い方向で、ですけど」
それでも話しているうちにだんだんと落ち着いてきたらしく、話す速度もだんだんと普段通りの物に戻ってくる。死を目の当たりにすることに対して慣れているのかいないのか、未だにスピリオにはよく分からない部分が多かった。
性格の点だけで見るなら、とにかくスピリオは不安定だ。礼儀正しいかと思えば強引な行動には断固抗議したり、偵察兵筆頭を自称する割には見ることに対する恐怖心を拭いきれていないような行動をとったり。どれが素のスピリオなのかは、今でも分からないままだ。
「血濡れ公は帝国有数の戦闘狂として有名でして、成り上がって都市や人を統べる立場となってからも戦線に出ることを躊躇せず、返り血を浴びることを厭わないような方でした。およそ人の上に立つ器でないことは誰の目からも明らかで、付いた蔑称がそれってわけです。……このようなきっかけがなくとも、いつか血濡れ公は帝国を裏切っていてもおかしくありませんでしたし」
階段をゆっくりと下りながら、『血濡れ公』とやらについてスピリオは総括する。一つの都市を統べるような人間が裏切ってしまったとあれば、リリスたちのささやかな対策など効果がなかったのも当然の事だった。
「そんな人間でも強ければ成り上がれちゃう辺り、帝国のシステムが持つ限界ってのをひしひしと感じさせられるね。……まあ、どっちかって言うとそれでも回り続けてることが異常な気はするけど」
「今更止められないんですよ、五百年間回り続けてるものですし。どれだけ歪でも回り続けてしまっている以上、それを止めることは自らの力不足を認めることに他ならない。……この国でトップに立とうとするような方なら、過去の皇帝とも張り合おうとするのは至極当然の話でしょう?」
リリスの呟きに対する答えは、半ば食い気味な物だった。まるで今考えたものではなく、ずっと抱き続けている考えのように。騎士が礼を体に沁み込ませるように、スピリオはその答えをしみこませていた。――それがまた、リリスを内心で混乱させる。
思わず鳥肌が走ってしまうほどに、スピリオの考えは達観したものだった。さっきまでの恐怖はとうに消え、理知的な光が瞳の中にたたずんでいる。それを単純に『切り替えの早さ』と呼んでしまっていい物か、リリスは決断できずにいた。
思考の中心は血濡れ公ではなく、スピリオの方へと移動している。この少年は何かが普通ではないと、本能がそう結論を出している。そう評価されているのを知ってか知らずか、またしてもスピリオの纏う空気が一変して――
「――てのはまあ、僕を鍛えてくれた師匠が口を酸っぱくしながら言ってたことなんですけどね。とても強いのに帝国のシステムに身をやつすことを嫌う、傍から見ると変わった人でした。まあ、帝国を出ればそれがきっと普通の事になるんでしょうけどね」
過去を懐かしむように視線を上へと投げながら、人懐っこい口調でスピリオはそう付け加える。その切り替えが何を意味しているのか、リリスには全く掴むことができない。片目だけを動かして相棒の横顔を見てみるが、今のツバキからは何も読むことは出来なかった。
今分かることと言ったら、少なくともスピリオはこちらの敵ではないという事だけだ。切り替えが意識的に起きている者なのかも分からないし、それがどういう原理で起きている物なのかも分からない。……ただ、害をなさないと確定しているだけ気が楽になることもあるというもので。
「ええ、そうね。……たとえ戦闘狂だったのだとしても、戦うために国自体を裏切るなんて正気の沙汰じゃないのは明らかよ」
現段階でスピリオをこれ以上分析することを諦め、リリスはこの場の話題をそう締めくくる。スピリオは今のところ味方で、血濡れ公は完全な敵だった。それだけ分かっていればいいし、後のことは状況が変わってから考えればいい。……カイルのすぐそばに裏切り者が居た可能性など、本来ならば考えたくはないけれど。
「さ、そろそろ移動しましょ。この男がほぼ使い捨てだったって分かった以上、長居する理由もないわ」
半ば自分自身を言いくるめるようにしながら踵を返し、リリスは視線を出口の方へと向ける。今のリリスにできることと言ったら、クライヴ達の戦力を出来るだけ手早く削ることぐらいだ。
――どこかで美味しいところを待っている大将首を、早々に戦場へと引きずり出すために。
リリスをして読み切れない存在であるスピリオ君ですが、彼についてもここから掘り下げられていくとは思います。まずは順調に一つ目の戦場を制したリリスたちですが、その先にはいったい何が待ち受けているのか! 次回、視点はマルクへと移ります!
――では、また次回お会いしましょう!




