第五百十三話『隔絶された牢の中で』
「……開くわけがねえよな、そりゃ」
ドアノブを握って何度か前後に動かしてみるが、ガタガタと音が立つだけで扉が開く様子はない。やはり当然というべきか、牢獄のセキュリティは万全なものだった。
魔術的な仕掛けなら修復術で色々と小細工も出来たのだろうが、この扉に使われているのは単純かつ強固な錠前だ。施錠も開錠も外からしかできない特別製であり、ピッキングに挑む権利すら俺には与えられていない。
いっそ強引に扉をぶち破れるなら話が早いのだが、生憎俺の筋力じゃ不可能だ。クライヴは修復術師を知っているし、俺自身の事もよく理解している。俺が脱出を試みて失敗するのも、きっとアイツからしたら予定調和の一つでしかないのだろう。
アグニが訪れたのはきっと予想外の出来事なのだろうが、それを最後に俺はクライヴ以外と顔を合わせられていない。最近はやるべきことも増えてきたようで、定期的にこの部屋を訪れては食料の補充と生活用品の回収を済ませてそそくさと帰っていく。この部屋の手入れぐらい下っ端に頼んでも問題ないと思うのだが、妙なところで律儀な奴だ。
「いっそそれぐらいの隙を晒してくれるなら、もう少しやりようはあるんだけどな……」
ベッドに飛び込み、在りもしない仮定を口にする。牢の中に囚われた俺にできることなどあるはずもなく、降って湧いたような幸運を待つことしかできないのが俺を取り巻く現状だった。
例えば鍵をかけ忘れて帰っていったとか、錠前が急に不具合を起こすとか。仮に俺がここを抜け出すことができたんだとして、それに俺の実力はほとんど関係ないと断言していいだろう。あれやこれやと脱出手段を探すよりもクライヴに不運が降りかかることを祈る方がよっぽど生産的かもしれない。
ため息を吐き、やけに華美な装飾が施された天蓋に目を向ける。気分はまるで箱入りの令嬢、この息苦しい場所から連れ出してくれる王子様を待つことしかできない無力な存在だ。そう考えるだけで気分は悪くなるけれど、不気味なぐらいに真っ白で無機質な部屋を見つめ続けるよりはいくらかマシだった。
今俺がこうして何もできずにいる間にもリリスたちは色々と行動を起こしているのだろう。どんな計画が練られているにせよ、それがクライヴ達との正面衝突を伴う事は間違いない。――そしてそれは、クライヴからしても望むところな状況なわけで。
「……クソっ」
目を瞑り、ぐるぐると渦巻く感情を言葉にして吐き捨てる。リリスたちとクライヴの思惑が交錯する状況の中で、俺は今明らかに蚊帳の外だ。本当ならクライヴの真っ向に立って、その企みを打ち砕くための策を練らなければいけないはずの立場なのに。刻一刻と迫っているはずの戦いから、俺はどうしようもなく切り離されている。
この部屋で目覚めてからずいぶん時間が経った気はするが、何日経過しているのかを正確に把握する手段さえも俺は持ち合わせていない。今の俺にとっての一日は寝て起きてのサイクルを繰り返した回数の事であり、まともに太陽の光を浴びたのはクライヴと長話をした時が最後だ。衣食住に不満なく過ごすことができるのだとしても、そういう意味でここは間違いなく『牢獄』と言う呼び方が相応しかった。
もう一度深くため息を吐き、視線を右手に移す。探索できそうな場所はとうに尽き、コミュニケーションを取れる相手もいない。この広々とした牢獄ではもはやスタンダードになりつつある行き詰まりに陥った時、決まって考えるのは修復術の事だった。
クライヴの手によって、俺は修復術にたくさんの使い道があることを思い出した。魔術神経の修復なんてその要素のごく一部でしかなくて、本質を隠すためのカムフラージュでしかなかったことももう理解している。――修復術師は、あっけなく人を殺せる存在だ。
クライヴには到底及ばないが、記憶を失っている時よりも修復術の精度は確実に上がっているだろう。魔術神経の修復以外の事にも使えるだろうし、事実この部屋に魔術的な仕掛けがあるなら修復術を試してみることに躊躇いはない。見方によっては記憶を取り戻した恩恵とも言えるのだけれど、俺はそれが言いようもなく恐ろしかった。
修復術は本当に多彩だ。極めれば魔力の絡む事象のほとんどに干渉できるようになり、この世界の常識さえも容易く覆すだけの力を持っている。――それ故に、日常のあちこちで『修復術で何とかする』という選択肢が候補に名乗りを上げてくるのだ。
それが誰かを守るために使われるのならまだいい、俺が認識していた『修復術』の在り方からはみ出さずにいられるなら迷うことはない。……恐ろしいと思うのは、修復術が誰かを傷つけるための選択肢として現れた時だ。
一度それを選んでしまったが最後、俺はクライヴや里の奴らを糾弾できる立場ではなくなる。修復術で誰かを殺してしまえば俺もアイツらと同類だ。その先にどんな末路が待っているかは、クライヴはじめ先人たちが証明してくれている。
俺はアイツらと同じようにはならないし、なりたいとも思わない。故郷で過ごした日々を思い出した今でも、クライヴをはじめとした修復術師の面々に歩み寄る気は微塵もなかった。
「……そう決めたところで、状況が変わるわけでもねえんだけどな……」
もう何度目になるかも分からない決心を今日も済ませたところで、俺の口から半ば無意識に言葉が漏れる。どれだけ強い拒絶の意志があろうと、この中に放り込まれている限り俺は何もできないままだ。殺されることもないだろうが、かと言って逃げ出すこともできない。クライヴの計画を俺がずっと突っぱね続ければ、最悪この部屋で一生飼い殺されたままってのも十分あり得る。
俺は今変化を起こせる立場にない。状況を動かすための手段は一切合切奪われて、外で何かが起きることに期待することしかできない。何か一つきっかけが生まれない限り、俺は永遠に世界から切り離されたままだ。
「……誰か」
本当に誰でもよかった。それが俺に何をもたらすものであろうと、この無機質な部屋に変化が起きるなら何でもよかった。それが奇跡だろうと災厄の類だろうと、この牢獄に綻びが生まれるならそれはひとえに幸運だ。全てが手遅れになってしまう前に、どうか――
「――成程な。妙な気配がするとは前々から思っておったが、まさかこんな仕掛けだったとは」
――そんな俺の願いは、あまりにも乱暴な形で叶えられた。
派手な破砕音が耳をつんざき、俺を閉じ込めていた扉があっさりと崩れ落ちる。それに混じっても霞むことなくはっきりと聞こえた男の声は、俺の記憶にはっきりと焼き付いていた。
掠れていながらも確かな活力を感じさせる声は、聴くだけで俺に本能的な死の恐怖を呼び起こさせる。抗うな、ただ平伏してその意志に従え。――こいつにとって、俺の命など木っ端よりも軽いものでしかないのだから。
無自覚の内に身体は硬直し、心臓が早鐘を打ち始める。往来での遭遇だったのなら尻尾を巻いて逃げ出しているところだが、この環境ではそんなことが出来るはずもない。空気そのものが凍り付いたような緊張感の中で、それを発する張本人は少し乱暴に牢獄の敷居を跨いだ。
「久しいのう、マルク・クライベット。壮健でいるようで何よりじゃよ」
何色にも染まらない白い装束に、それと同じくらい白い色の抜けた毛髪。明らかに気を使っていないことが分かるぼさぼさの髪の隙間から覗く、血の色を落とし込んだかのような真紅の瞳。その左右に張り出すピンと伸びた長い耳は、種族としてのアイデンティティをこれ以上なくはっきりと表明している。いっそ見間違える方が難しいぐらい、そいつは全身特徴だらけで――
「……ベガ・イグジス」
ベルメウで出会った『絶対強者』の名を、俺はやっとのことで舌の上に乗せることに成功する。乱暴が過ぎる訪問の仕方を見れば、それが予定調和から外れた存在であることは明らかだった。
突如現れた絶対強者、その思惑やいかに! 決戦前に動き出す人物たちの策謀はこの先さらに加速していきますので、どうぞお楽しみいただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




