第五百八話『相棒からの誘い』
ツバキの言う通り、眠れない夜は焚火を前にして軽く手合わせや稽古をする習慣があった。だが、それはあくまで護衛時代の話だ。マルクと出会ってからは一度もしたことがなかったし、ツバキも今まで持ち掛けてくることはなかった。その事実が、余計にリリスの思考を混乱させている。
「……この時間、修練場って使えるの?」
「使えると思うよ、カルロがいつでも開いてるから便利ーみたいなことを言ってたし。先客がいないかだけが少し心配だけど、まああれだけの大きさがあれば一つぐらいは開いてるスペースもあると思うんだ」
困惑のままに飛び出した問いに、すぐさま的確な答えが返ってくる。初めからリリスを誘おうとしていたのではないかと思えてしまうぐらいに、ツバキは修練場についての情報を正確に把握していた。
城内の説明はリリスも一緒に受けていたはずなのだが、やはりツバキの観察眼と記憶力はリリスの何枚も上手を言っているらしい。……別の思考に気を取られて集中力が散漫だったことも、まあ否定はできないのだけれど。
「ま、仮にダメだって言われたら戻って来ればいいだけの話だしね。……それともリリス、今はそういう気分じゃないのかい?」
何とも言えない感覚に口をもごもごとさせていると、ツバキは心配そうにこちらを覗き込んでくる。それが素直な気遣いの感情から来ているものであることは、この状況でもはっきりと分かった。
「……いいえ、そんなわけないわよ。本当にできるか分からないけれど、とりあえず行ってみましょうか」
口元に小さく笑みを浮かべて、リリスはツバキの提案を受け入れる。聞きたいことは色々とあったのだけれど、それは全部後回しだ。今眠れないのがはっきりしているのなら、いっそ大胆に気分転換するのだって悪くはないだろう。
それを聞いたツバキの表情は一気に柔らかくなって、不安の色が安堵に変わっていく。それにつられるようにして、戸惑っていたリリスの心も僅かに穏やかになっていくような気がした。
あまり音を立てないように布団を抜け出し、ごそごそとお互い着替えを済ませる。護衛時代はそもそも寝間着なんてものを持っていなかったことを考えると、この半年で随分と贅沢できるようになったものだ。……そんなことを思うのも、ツバキの誘いがどこか懐かしいものだからだろうか。
ものの数分ほどで支度は終わり、二人は隣のベッドに視線をやる。……今の所、フェイとアネットが気付いた様子はなさそうだ。
「……じゃあ行こうか、リリス」
隣から聞こえるリリスの囁き声に頷き、月明かりを頼りにそろそろと出口に向かって歩を進める。四人で滞在してもなお広々として感じられる空間が、今ばかりは緊張の時間を引き延ばしていた。
足音を殺し、暗闇の中を恐る恐る進む。ここまで歩くという行為に慎重になるのは、もしかすると護衛時代に追っ手を差し向けられたとき以来だろうか。あの時もあの時でずいぶん危ない橋を渡ったものだが、それに勝るとも劣らない緊張感がリリスの全身に走っている。
やっとのことでドアの手前に辿り着き、リリスは壊れ物に触れるかのような柔らかさでノブに手をかける。回すにしたがって響くガチャリという音が二人の背中をにわかに跳ねさせたが、幸い夢の中にいる二人はそれに気づいていなさそうだ。
体ごともたれかかるようにして慎重にドアを開け、人一人が通り抜けられるかと言う隙間ができた瞬間にするりと体を潜り込ませる。廊下が結構明るい事も緊張を加速させたが、どうにか二人揃って音を立てずに外へと出ることに成功していた。
「……ふう」
小さな音を立ててドアが閉まるのを確認したのち、自分でも驚く程に大きく深く息を吐く。呼吸をすることすら躊躇っていたのだという事実に、部屋を出てようやくリリスは気が付いていた。
「はははっ、気分はまるで逃亡者だね。ボクたちのお客さんを狙った追っ手にしばらく尾行されてた時のことを思い出したよ」
リリスの隣に並び立ちながら、ツバキは屈託のない笑みを浮かべる。リリスが勝手に一人で緊張しているだけなのではないかと言う考えも少し頭をよぎっていたが、二人の間に走る緊張感はどうやら同じものだったようだ。
護衛として生きた十年の間、あれほどに息を殺さなければならない時間もそうそうなかった。あの緊張感を上回る隠密行動などそうそうないと思っていたのだが、やはり生きていると何が起こるか分からないものだ。
「私も同じことを考えてたわ。心臓の音、うるさくてしょうがなかったもの」
「バックバクだよね、本当に。普段なら生きてるーって感じがして嫌いじゃないけど、こういう時ばかりは少し焦っちゃうな」
お互い顔を見合わせ、笑いあいながら思い出を共有する。緊張から解放されたこともあってなのか、リリスの心は随分軽くなっているように思えた。
「……しっかし、こんな夜でも忙しないわね。一日中誰かは働いてるのかしら」
少し心に余裕が出来れば、その分視界も広くなるものだ。吹き抜けになっている廊下の端から階下の様子を見渡して、リリスはそんなことを考える。これで廊下も暗ければあの緊張感が再びやって来るところだったが、この様子を見るに大手を振って歩いても大丈夫だろう。
「『帝位簒奪戦』の布告もあったわけだし、いつもより人が増えてるのは確かだろうね。……何人か入れ替わってる人もいるから、一日中休みなしで働きづめってわけでもないだろうけど」
カルロもお仕事って感じじゃなかったしさ、と付け加えつつ、ツバキはリリスの疑問にすらすらと答えていく。城で働く私兵たちの顔まで覚えていることがさらりとほのめかされたことに、リリスは驚きを隠さずにはいられなかった。
城を案内されてから部屋に着くまでの間、リリスは一人として新しい顔を記憶してなどいない。そこかしこに私兵があるいてことは認識していたが、それまでだ。……『私兵である』こと以上の価値を、リリスは見出さなかった。
だが、ツバキはそういう所からも推測を組み上げ、それを作戦や次の行動に生かすだけの力がある。……その様を隣で見る度に、ツバキには敵わないと思うのだ。
「さ、修練場はこの城の一番地下だ。宿泊スペースからも一番遠いところに作られてるし、ひょっとしたら寝てる人が起きないようにって気遣いが最初からされてたのかもね」
「確かに、それはあり得なくもない話ね。いくら熟睡してても隣でドンパチやられちゃたまらないし」
リリスたちが夜に手合わせをするとき、決まって選ぶのは魔術を用いない組手だった。お互いに寸止めなら音も立たないし、何かの反動で焚火を消してしまうようなこともない。リリスがツバキを体術の師と呼ぶのは、他でもないあの時間があったからこそだった。
そんなことを思い出しながら、二人は足並みを揃えてゆったりと地下に向かって歩いていく。その間に何人かの私兵とすれ違ったが、咎めるどころか丁寧に会釈を返してくれた。
「私たちの事、もう皇帝から通達が行ってるのかしらね」
「正式に共同戦線を張るに至ったわけだからね。いきなり王国から来たよそ者をどう思ってるかは知らないけど、私兵としては皇帝の意向に沿わなくちゃダメってことでしょ」
遠ざかっていく私兵の背中をしり目に問いかけると、ツバキがつらつらと答えを返してくれる。あの男も明後日になれば、皇帝に付き従うものとして共に戦場を駆け抜けることになるのだろう。会話すらしたことのない、何ならほぼ見ず知らずと言ってもいいような面々と同じ勢力として戦うというのも、なんだか妙な気分だった。
とりとめのないやり取りを交換しながら階段を下っていくと、予想よりも早く修練場はリリスたちの前に姿を現す。明かりが灯されていることもあって使える状況にはあるようだが、入り口に最も近い部屋は誰も使っている様子がなさそうだった。
それを確認してから中に入ると、扉の裏にはいくつかの部屋番号が書かれた大きな木の板と『使用中』『空室』が両面に印刷された短冊状の木の板が配置されている。ツバキはその札の一つをおもむろに手に取ると、『使用中』に裏返して再びかけ直した。
「よし、これで大丈夫だね。結構人が入ってたし、今開いてたのはもしかしたら幸運だったりして」
「そうかもしれないわね。ここまで来て引き返すのも複雑だったし、すぐに入れて助かるわ」
そんな言葉を交わしながら、二人は揃って修練場に足を踏み入れる。そこに広がっているのは、国境警備所で見た修練場の規模をより引き延ばしたような風景だった。
地面の凹凸はより強調されており、岩もその数を大きく増やしている。よく見るとぬかるんでいるような場所もところどころあって、足を取られると少し面倒なことになりそうだ。
「騎士団の修練場とは大違いだね。リアリティがあるし、使える物もたくさんある。……ここなら、ボクの目的を果たすのにもちょうどいいかな」
一通りあたりを見渡してから、ツバキは足早に修練場の奥へと駆けていく。そのまま二十メートルほどの距離を取ると、ツバキはこちらに向かって大きく手を振ってきた。
「いつ次の人が来るか分からないしさ、早速始めちゃおうか。……それにあたって、一つだけお願いがあるんだけど」
離れたリリスにも届くように声を張り上げながら、ツバキはそこで一呼吸の間を作る。……それにリリスが相槌を打とうとしたその瞬間、ツバキの纏う魔力の気配が爆発的に膨れ上がって。
「……魔術も体術も使って、本気でぶつかり合おうよ。リリスとカルロがやってたのと同じルールで、さ」
感覚が優れない城の中でもびりびりと肌を刺してくるような強い気配を立ち上らせながら、ツバキはそんな提案を持ち掛けてくる。……背筋が、確かにゾクリと震えた。
大きな衝突を前にして、それぞれの想いはより複雑に、そして急速に募っていきます! ツバキの想いの裏には果たして何があるのか、ぜひご注目いただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




