第五百話『未知殺しの価値』
外の景色がまるで見えずとも、五感が伝えてくる情報の全てが馬車の異様な加速を現実のものだと自覚させてくる。少し力を抜いたら最後、リリスの身体は馬車の前方に向かってずるずると滑り落ちていくことになるだろう。
それほどまでに急な斜面を駆け抜ける馬や御者の事も心配にはなるが、それに意識を割いていられるほど余裕があるわけでもない。そんな状況がある程度落ち着きを見せたのは、馬車が急加速を初めて三十秒ほど経った頃の事だった。
下り始めの時にも感じた強い振動が一同の身体を縦に揺らし、それと同時に地面に引っ張られていくような感覚が消え失せる。リリスの近くで時折「ひっ」や「ふえっ」などと声を漏らしていたアネットが、荒い息を吐きながらゆっくりと口を開いた。
「……とりあえず、完全に地下に入ったってことでいいんですわよね……?」
馬車に乗り込む前はあれほど頼もしい返事を返してくれた人物と同じだとは思えないほど、その表情には明確な疲弊の色が浮かんでいる。急坂下りがもたらした凄まじい速度と音は、アネットの精神を削り取るには十分すぎる物だったらしい。
それを責めることは出来ないし、アネットだけでなく他の一同――ケラーでさえ例外ではない――の表情にも多かれ少なかれ疲労や消耗の気配は浮かんでいる。かくいうリリスも、護衛での経験値がなければもっと精神をすり減らしていておかしくはなかった。
戦闘となればリリスも今の下りに匹敵するほどの速度を出すことはあるが、自分でコントロールした上で速度を上げていくのと突如加速に巻き込まれるのではやはり心構えが違う。せめて事前に説明でもあればまだよかったのだろうが、それは今更言っても仕方のないことだ、
「ええ、今の地点がこの通路において最も深い場所となります。……もう少し配慮した移動が出来ればそれが理想だったのですが、そうするとどうしても到着時間の遅れが避けられないものでして」
「だから多少荒っぽくなろうと最速で行けるルートを選んだ、と。急いで皇帝に合わなくちゃいけない今の状況においては合理的な判断だね」
「ああ、それを事前に手配した上で動いていたことは賞賛に値する。……ケラー女史、まさかこれも最初から計画してあったことなのか?」
ケラーが手にした情報の詳細をまだ知らされていないロアルグが、ケラーに向かって尊敬とも疑念とも取れないような表情を浮かべる。帝都に到着するなり手際よく準備を整えてかつ最速で移動するために必要な馬車も用意してあったとなれば、確かに全て手の内なのかと思ってもおかしい話ではないだろう。
ただ、それがケラーの努力によって生み出された結果であることをリリスたちは一足早く知っている。それを裏付けるように、ぶんぶんと首を左右に振りながらケラーはその推測を否定した。
「いいえ、むしろ今起こっているのは緊急事態ですよ。そうでなければこの通路を使おうとはなりませんし、この馬車も昨夜私の下を訪れた帝都からの伝令に頼んで念のために用意しておいてもらったものですから。……正直なところ、これを使わないで済むならその方が何倍もよかった」
どこか自虐的な笑みを表情を浮かべながら、ケラーは目線でリリスたちを示す。騎士たちの道行きを先導する馬車で行われていたやり取りこそが、今リリスたちをここまで急がせることになった最大の要因だった。
「順を追って説明しましょう。昨日の昼頃、帝国でも五指に入るほどの有力者が賊の襲撃を受け、ヌーラル街道を走行していた馬車が破壊されました。……端的に言えば、賊の武力に屈した形です」
あの馬車の中でリリスたちにした説明をさらに簡潔にして、ケラーは改めて現状を周知する。そこから導き出される危機がリリスたちのこじつけでないことは、だんだんと深刻になっていく騎士たちの表情を見れば明らかだ。
「皆様からもたらされた情報に拠れば、敵方は転移魔術を使用することができるとのこと。そんな勢力に対して城の内部の構造が割れているのはあまりにも危険が過ぎるので、私たちも今取れる中で最短の経路を使って城内へ向かおうとしている次第です」
「オーケー、状況は何となく理解できた。……その推測が当たってるとすると、僕たちはこの時点で相当後手に回されてるってわけだな」
「ああ、たとえ杞憂であろうと可能性がある限り妾たちはそれを潰しに行かざるを得ない。……転移魔術を自由自在に行使できるという事は、戦闘においてあり得ないほどの優位になるからの」
完全な対策などできる道理もない――と。
僅かに焦りをにじませるガリウスに対して、フェイは苦笑いを浮かべながらそう零す。それはどこか、転移魔術と言う存在に対しての愚痴であるようにも聞こえた。
フェイでさえ転移可能なのは事前に記憶しておいた場所だけであり、それも一度転移してしまえば再記憶を必要とする中々厄介なものだ。それですらすさまじい魔力を消費するというのに、あらゆる個所を自由自在に転移するとなれば一体どれだけの魔力を必要とするのか。……その疑問に対する答えは、まだ明確には出ていない。
だが、それが明らかに常識の枠をはみ出した無茶苦茶であることだけは分かる。……そうなれば、理外の転移の裏側にも修復術が何かしら関係しているように思えてならなくて。
「いっそのこと、なにかしらタネやトリックのある疑似的な転移なら話も楽になるというものですわよね。例えばガリウス様のような偽装魔術を用いて消えたと見せかけてる、とか」
「そうだったらほんとに楽だよね、理論上は僕も同じことが出来るってことになるし。……だけど、その手のズルが絡んでないことはフェイやリリスがしっかり確認してるんでしょ?」
ガリウスからの確認に、水を向けられた二人は揃って首を縦に振る。偽装などではなく、転移魔術を用いて襲撃者は何度もリリスたちの前から姿を消している。リリスからすれば、そんな状況の中で一人を参考人として捕縛できたことの方が奇跡的に思えるぐらいだ。
どういう原理化は知らないが、クライヴ達は本来人間に扱いきれないような魔術を自由に操れる魔術師を多数有している。そうと分かっていれば対策できることもあるだろうが、そうでなければそれらは最強の初見殺しだ。……いくら帝国が戦いに慣れていようと、『不可能』であるとされてきたことへの対策なんてきっと一度だってしたこともないのだから。
だが、不幸中の幸いはその可能性を事前に知れたことだ。……クライヴ達もまた想像や常識の外側を行く者たちであると分かれば、それを織り込んだうえでの対策を練られる。そこまでやって初めて対策のスタートラインに立てるというのは、正直厳しすぎる話ではあるのだけれど。
「今の私たちは、クライヴ達が出来ることを多少なりとも把握できてる。……それを共有するだけで、戦いの流れは相当変えられると思うわ」
魔術師同士の戦いは、『初見殺し』の要素を大いに含む側面が否めない。相手にとって未知の魔術を使えるならばそれは最強の伏せ札になり、逆にどれだけ強力な魔術であろうとその本質や御し方を理解していればその価値は低減する。『未知』であるか否かは、一度のミスが命取りになるような戦闘において大きな意味を持つのだ。戦場を生き抜く上で経験則が決して馬鹿にできない価値を持っていることを、リリスは身を以て知っている。
そして今、バラックとベルメウでの戦いを経たリリスたちの経験は一つの『未知』を看破した。……それはつまり、敗北の可能性を一つ消したという事にもなるわけで。
「皇帝サマへの手土産としてはこれ以上ないかもな、それ。……あの人は、価値があるなら賊にだって手を差し伸べてくるような奴だからよ」
「流石に無礼な物言いが過ぎますよ、クロウリー。……ですが、その主張には一理あります。言ってしまえば、正式な協力関係を結ぶ前に私たちは一つ貸しを作ってもらった形になるわけですから」
楽しそうに口を挟んだカルロをたしなめながら、ケラーはリリスたちに向かって深々と頭を下げる。……馬車がゆっくりと減速を始めたのは、それからしばらくの無言を経た後の事だった。
「さて、そろそろ到着ですね。私の記憶が正しければ、この馬車は城内に直接たどり着いているはずです」
「直接……ってなると、城の地下かどこかにはこの道を通ってきた馬車のためのスペースがあるのかい?」
「そういう事になります。……まあ、あまりその場所について深く知ろうとするのはお勧めしませんが」
地下通路への興味を示したツバキに対して、ケラーは含みのある物言いで釘を刺す。窓のない馬車を用いるほどの場所である以上、その機密度は並大抵のものではないだろう。うっかり深入りすればどんな結末を迎えるのかは、まあ想像に難くない。
それを察したツバキが曖昧な笑みを返したのとほぼ同じタイミングで、馬車は完全に停車する。ケラー曰くもうリリスたちは城内にいることになるわけだが、この中にいるだけではその実感の欠片もあったものではなかった。
「さて、城内は私がご案内いたします。皇帝はおそらく二階の円卓の間でお待ちのはずですから、まずはそこに向かいましょう」
馬車が停まるなり率先して立ち上がり、ケラーは皆を案内するべく扉を開く。――ケラーがその動作のままで硬直したのは、それから一秒もしない後の事だった。
国境に着いた時もこんなことがあったと、リリスはふと思い出す。だが、横顔からうかがえる驚愕の色はあの時の比ではない。――普段は変化に乏しい顔立ちに、とてつもない衝撃が駆け抜けている。
「なんだ、突然身を固くして。普段の怜悧な表情が見る影もないぞ?」
「……ッ、おいおいおい、そりゃ流石に不意打ちが過ぎるってもんだろうが……‼」
その衝撃を与えた張本人と思しき声が馬車の中に響いた刹那、カルロもまた驚きを隠せない様子で呟きを漏らす。……そこまで行けば、流石に外に誰が待っているかを察するのは簡単で。
深呼吸して意を決し、リリスはケラーの背後に立つ。……そして、開かれた扉の先に目を向けてみれば――
「――おお、お前が『共同戦線』とやらの一人か。王国からの戦力と聞いてどんな軟弱物が来るかと思っていたが、中々どうしていい表情をしている」
感心感心――と。
戦いが渦巻く帝国の頂点に立つ『皇帝』が、どこまでも上から目線でリリスたちを出迎えていた。
と言うことで、第五百話にして皇帝のお目見えです! 意外な形での初対面となりましたが、ここから同物語は動いていくのか! 少々お待たせしすぎたかもしれませんが、ここから第六章は一気に加速していきます!
――では、また次回お会いしましょう!




