第四百七十八話『皆で生きるための無茶』
何度払ってもなかなかとりきれない木くずを改めて払い落としながら、リリスは宿泊部屋の扉をゆっくりと開ける。それでも微かに響いた音を聞き逃さなかったのか、部屋の真ん中のあるソファーに座っていたツバキが機敏な動きでこちらを振り返ってきた。
「おかえりリリス、こんな朝早くから外出だなんて珍しいね。書き置きが無かったら何かの事件を疑ってしまう所だったよ」
君は寝起きが悪いからね――と。
にっこりと笑いながらリリスを迎え入れるツバキの顔を、リリスはいつもよりも注意深くじいっと見つめる。目にクマが出来ているなんてこともなく、体調は上々のようだ。……いつも通りのツバキが、そこにいる。
「……? どうしたんだいリリス、ボクの顔に何か変なところでもあった?」
その視線に気が付いたツバキが少し戸惑った様子で首をかしげるが、リリスはただ首を横に振ってその可能性を否定する。リリスが見つめているのは、あくまでいつも通りの、今まで何回だって顔を合わせてきたツバキの顔だ。
あの最悪な環境で出会って相棒になってから、リリスは何度もツバキと向き合って言葉を交わしてきた。精神的に参って目の下にくっきりとクマが出来ている時も、護衛対象との距離感に悩んで眉間にしわを寄せている時も、主への怒りで目が吊り上がっていた時もあった。……けれど、やはり一番多く目にしてきたのは今のような穏やかで柔らかい表情だ。
最近ではツバキの隣にマルクが立っていることも多くなって、そのマルクも穏やかな表情をしていた。一番寝起きが悪いリリスを受け容れて迎えてくれる二人とのやり取りは、リリスにとって何にも代えられない日常だ。それがリリスにとっての『大切なもの』なのだろうと、改めてそう思う。
「……手放すなんて、とてもできないわよね」
ツバキの表情にいつも通りの、けれどどこか欠けてしまった日常を見出しながら、リリスはぼんやりと呟く。……たとえワガママだったのだとしても、それがユノとの会話の中で見つけ出したリリスの本心だった。
だが、ツバキがそれを理解するには色々と情報が不足しすぎている。早朝の散歩から帰ってきたと思えば意味深な呟きをこぼす相棒の姿を見て、ツバキの首はより深く傾げられた。
「……リリス、散歩で一体何をしてきたんだい? 少なくとも、厭なことがあったってわけじゃないのは確かなんだろうけど……」
珍しく戸惑いを隠さないツバキに、リリスの口元に笑みが浮かぶ。『もう少し年相応に振る舞っても誰も咎めやしないだろうに』なんてことを考えながら、リリスは疑問に答えるべく口を開いた。
「特別な事じゃないわよ、ただ下で再興作業の手伝いをしてただけ。どこを目的地にしようか悩んでた時にちょうどユノの声が聞こえてきてね、話してるうちにちょっとお手伝いしようってことになったの」
「へえ、こんな朝早くから……。この都市も、ちょっとずつ再建に向かって進んでるんだね」
「ええ、凄い情熱だったわよ。……たとえ元通りにならないんだとしても、本来のベルメウの姿を取り戻すことに彼らは大きな価値を見出してるんだと思う」
『たとえ立て直されただけの物なんだとしても、僕たちの中の思い出まで偽物になるわけじゃありませんから』と、迷うことなくそう答えてくれた住人の声をリリスは思い出す。今思えば、住民たちは何が大切なのかよく理解していた。――ともすれば、ユノと会話する前の自分よりもずっと。
「だから区切りがつくまで手伝おうって思ってたら、いつの間にかこんな時間まで手伝いをすることになっちゃってたの。……ごめんなさい、心配かけたかしら?」
「うん、実をいうと少し心配だったよ。……寝る前に見た君の表情は、どことなく思い詰めてる感じがしたから。今までの考え方を根っこから覆すような結論がでたことが君の重荷になってなかったかなって、ちょっと――ううん、凄く申し訳なかった」
少しうつむきがちになりながら、ツバキはリリスに対して謝罪の言葉を漏らす。ツバキは自分の話し方に責任があると考えているようだが、今のリリスからすればそれは大きな間違いだ。ツバキの出してくれた結論は、決して間違っているわけではないのだから。
「あのね、別に窮地に陥った仲間を見捨てろって言いたかったわけじゃないんだ。ただ、命を投げ出して何とかなるばかりじゃないんだよってことが言いたかっただけで。……そうじゃないと、君はいつかどうしようもない死地に身を投げてしまいそうで――」
「ええ、解ってるわよ。……仮に私の命を代償にして仲間の命を助けたところで、貴女やマルクの大切な物を守り抜けたことには絶対にならないってことよね」
あたふたとした様子で言葉を並べるツバキを遮り、リリスは自分の中でようやく言葉にできた燻りを口にする。『自分を大切にしたい』と願うユノの言葉が、リリスを悪夢から解き放ってくれていた。
大切な人さえ守れれば、自分の命がどうであろうと関係ないと思っていた。だが、それは大きな間違いだ。マルクが切り捨てたくないと願う『軸』の中にリリスの事を含めてくれているのだとすれば、リリスが命を投げ出した時点で『軸』にはどうしようもなく大きな傷がつく。リリスの命を犠牲にした時点で、マルクの理想は完璧な形で叶わなくなってしまうのだ。
そして、それはリリスにとっても同じことだった。リリスが守りたいと思った日常は、マルクとツバキがいてくれることで初めて完璧になる。裏を返せば、一人でも欠ければその時点で不完全なのだ。……仮にどちらかが命を賭してリリスを守ってくれたんだとしても、リリスの愛した日常はもう絶対に戻っては来ない。
「貴女やマルクの事を本当に思うのなら、私は私自身を大切にしなくちゃいけない。――二人を想うのと同じか、もしくはそれ以上に。そうよね?」
ユノとの会話の中で得た結論をツバキへと投げかけると、ツバキの目が見る見るうちに大きく見開かれていく。黒い瞳の中に浮かぶ自分自身の表情は、どことなく誇らしげなように思えた。
「……ああ、その通りだよ。大切な人が助かれば自分は死んでもいいなんて、そんなことは絶対に言っちゃだめだ。だって君、死にたがってるわけじゃないだろう?」
「そりゃそうよ、マルクやツバキがいてくれるのに死にたいなんて思うわけがないじゃない。……どれだけたくさんの死を見届けてきたんだとしても、自分が死ぬのはやっぱり怖いわ」
クライヴによって戦闘不能にされたとき、リリスの心の中には間違いなく恐怖があった。マルクを奪われることへの恐怖、一瞬にしてリリスたちを打破して見せた道の魔術への恐怖。――そして、目前にまで差し迫った『死』に対する根源的な恐怖。……生きていく中でどれほど凄惨な現場を経験してきたところで、自分の死に対する恐怖心を拭い去ることは不可能だった。
もしも本当に死が一寸たりとも怖くなかったのなら、リリスは刺し違えてでもクライヴに一撃を与えようとしていただろう。マルクに意識を集中させている間だったならば、チャンスはないわけではなかった。だがリリスはそうしなかったし、しようとする意識には本能がブレーキをかけた。――それこそがきっと、リリスとウーシェライトの決定的な違いだ。
「……だけどね、マルクやツバキが死ぬのも私は同じぐらいに怖いの。死にたくないし、死なせなくないって思ってる。だから私は、その願いが叶わなくなる最後の一瞬まで私の大切な人たち全員が助かる道を探して動くわ」
リリスの手によって追い詰められたウーシェライトは、自らの命を捨てる結論へと至った。それを破綻しているだなんて今はもう言えないし、一つの判断としてそれは尊重されるべきなのだろう。……ただ、リリスに同じ末路を辿る気はさらさらないというだけだ。
それが簡単な道でないことは分かっているし、結果として大切ではない多くの物を切り捨てることにはなるのかもしれない。……だが、これがリリス・アーガストの結論だ。他の有象無象を切り捨てることになったのだとしても、リリスは愛しい日常を守るために最後まで全力を尽くす。その道に立ちふさがろうというのならば、誰であろうと払いのけるだけだった。
「ツバキ、私は私自身の命も含めて皆の事を大切にしたい。……その中で、貴女の力を借りて無茶をすることもあるかもしれないわ。それでも、貴女は私に力を貸してくれる?」
たどり着いた結論を全部言葉にして、リリスは改めて相棒の意志を確認する。これでもまだツバキが言いたかったことには足りないかもしれないし、周囲が考えているのとは全く違う方向性に自分は走っているのかもしれない。……そんな不安は、ツバキが笑顔で首を縦に振ったことできっぱりと打ち消された。
「当然だよ、リリス。捨て身じゃなくて皆で生き残るための無茶なら、ボクも迷いなく全力で援護できるからね」
笑顔でリリスの言葉を肯定したツバキは、そのままこちらに駆け寄って勢いよく抱き着いてくる。リリスの肩に回された腕は、ほんのわずかにだが強張っている。……それが昨日からの不安によるものなのだろうと、リリスは何となく察してしまって。
「ええ、ありがとう。……大丈夫よ、もう二度と『命に代えても』なんて言わないから」
その背中にゆっくりと手を回し、リリスは優しく、しかしきっぱりと誓う。……靄を振り払ったリリスの心の中には、目指すべき目標が鮮明に映っていた。
と言う事で、帝国入りの時間もいよいよすぐそこまで迫ってきています! いろいろな思惑が渦巻いたり悩みが発生したりで長くなってしまいましたが、その時間は皆に何をもたらしたのか! ご期待いただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




