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第四百七十五話『自分の言葉で』

――がばり、と。


 勢いよく上半身を起こしながら瞼を開けた瞬間世界が反転し、乱れていた血流が正しいペースと温かみを取り戻す。握りつぶされたはずの心臓は胸の内で鼓動を刻み、冷ややかな手の感触ももうどこにも残っていない。リリスが目覚めたことによって、あの空間で体験したことは本当に夢の中の話になった。


 そう、全ては夢なのだ。リリスの自意識が生み出した、現実では決してあり得ない空間。閉じた瞼に遮られ、決して現実と混じり合う事のない空間。……そう分かっているのに、なぜだろうか。


「……はあ、はあ、はあっ」


 それを理解してもなお、荒くなった息も早鐘を打つ鼓動も少しも収まってくれないのは。


 ウーシェライトから――夢で見ただけの幻影をそう呼ぶのもどこか相応しくない気もするが――から突き付けられた言葉が、問いが、その一つ一つがまるで心臓に棘のように突き刺さったまま抜けない。リリスの本質的な部分に楔を打ち込み、忘れることを決して許さない。破綻していると、壊れていると断じたあの女は自分の同族なのだと、そんな自覚がリリスの脳内には刻み込まれている。


 きっと今まで、目をそらし続けてきたのだろう。考えることをやめて、もうすでに奪った命として記憶の底に押し込むことを選んできた。そうして緩やかに忘れていく中で、ウーシェライトに感じた恐ろしさもいつか霧散していくのだろうと思っていた。……本当は、死に顔の一つとして忘れることができないでいたのに。


 夢で見た死に顔の一つ一つが、現実に回帰した今でもリリスの脳内を駆け巡っている。苦悶に満ちた表情、怒りや困惑を宿した表情、命だけはと懇願するような表情。一つ一つ多少の差異はあれど、その中に宿っているのは等しく負の感情だ。


 だからこそ、ウーシェライトの異常さはより際立ってリリスの心に訴えかけてくる、やるべきことを全てやりきった満足感、自らの理想のために命を捨てられることへの感激。……およそ他者の手にかかって死ぬ人間のそれとは思えない表情を、氷漬けになった死体は浮かべている。


 その背景にあるのは、自分の命よりも尊い理想の存在だ。その礎になるためならば、ウーシェライトは喜んで命を投げ出す。……その在り方と全く同じものを持っているはずもないが、その思考回路を完全に否定することは出来ない。少なくとも、今のリリスのままでは。


 夢の終わりに聞こえてきた忠告の言葉が、何度も反響しながら脳内に響いてくる。……総合して言えば、今まで生きてきた中で間違いなく最低の目覚めだった。


「私、は……」


 その原因となっている負のイメージをどうにか振り払おうとして、リリスは言葉を詰まらせる。ウーシェライトの主張を覆せるだけの答えを持っていないのは、夢の世界でも現実世界でも同じことだ。そういう所だけ、夢の世界はいやに現実的だった。


 窓の外を見てみれば、朝の光が窓から柔らかく差し込み始めている。普段と比べて随分早い目覚めになってしまったが、もう一度寝直そうという気は微塵も湧いてこない。……眠ればまた夢を見るかもしれない、それが恐ろしくて仕方ないのだ。


 夢の中で心臓を握りつぶされたとき、リリスは確かに『死』を感じた。今まで何度も与えてきたものが、自分に跳ね返ってくるのを感じた。……冷たくて、重たいものだった。


 たとえそれが偽りの物だとしても、リリスの精神はあの死をもう一度味わうことを拒んでいる。……いくら魔術師として強くなった自覚があっても、夢の中の脅威はそれだけで振り払えるものではなかった。


「ツバキ、は……まだ寝てるわよね、そりゃ」


 もう一つのベッドに目をやりながら、リリスは安堵とも落胆ともつかないような息を吐く。毛布をすっぽりとかぶったツバキがすうすうと穏やかな寝息を立てているのを、リリスはしばらくぼんやりと聞いていた。


 次第に頭の中が空っぽになっていって、全身を駆け巡っていた嫌な感覚が少しだけ遠ざかる。出来るならこれを聞いているだけの時間をもう少し過ごして居たかったが、それではいけないことをリリスは直感していた。きっとそれは、ただのその場しのぎに過ぎないのだ。


 この感覚を完全に振り払うには、リリス自身の言葉で夢の中の問いに答えを叩き付けなければならないのだ。誰かに貰った答えではなく、自分で納得して選んだ言葉で。……そうでないと、リリスはいつまで経ってもウーシェライトにやり込められたままだ。


 だからきっと、ツバキに頼るのも本当はあまりするべきことではないのだろう。相棒の支えもない状態で、リリスはこの胸の中に燻る感情を言葉にしなくてはならない。直感で得ている答えを言葉にして理解して初めて、リリスは反論する立場に立てるのだから。


 ウーシェライトの言っていることが全て間違っているわけではないことは、もう認めざるを得ないことだ。だが、その指摘がそのままリリスに当てはまるかと言ったら全く違う。……少なくとも、笑って命を差し出すようなことだけは絶対にしない。


 なら、その間には何の差があるのか。二人は何が違うというのか。……それを見つけ出して言葉にすることが、リリスに与えられた至上命題だ。


「……行ってくるわね、ツバキ」


『眠れなかったから少し散歩してくるわ。お昼までには絶対戻るから』とだけ書きつけたメモをテーブルの上に置き、リリスは自分の頬を軽く叩く。胸の奥に棘が刺さっているような感覚はまだ消えてくれないが、それでも幾分か気持ちは前向きになっていた。


 起こさないようにドアをゆっくりと開き、支部の廊下に出る。ふと周囲を見渡してみれば即興で補習されたような跡の残る棚が目について、襲撃の余波をありありと感じさせた。


『機能が死ななかった』と自虐的にガリウスはこぼしていたが、騎士団の中からも死傷者は多く出ているはずだ。その中でも騎士団は住民の先頭に立ち、都市の再興に向けて、そして襲撃者への反撃に向けて力を尽くしている。……それはきっと、ガリウスが築いてきた財産がそうさせてくれたことで。


(あなたはよくやってる――なんて、私が言ってもあまり響かないんでしょうけどね)


「そんなことはないさ」と謙遜するガリウスの姿がありありと目に見えて、リリスは思わず苦笑してしまう。賞賛の言葉はもちろん中身も大事だが、誰が口にするかと言うのも多分に重要な要素だ。


 いや、きっとどんな言葉でもそうだ。その言葉に重みが乗るかどうかは、それを発した側が今までにどんな経験を積み重ねてきたかによって決定される。……襲撃において確かに死の淵をさまよったユノの言葉は、リリスたちの『死』に対する捉え方を揺らがせるには十分すぎた。


 それを聞かなければ悪夢を見ることもなかったと考えると少し恨めしくも思えるが、いずれにせよこの問題とは向き合う時が来ていただろう。……仲間のために躊躇いなく命を投げ出せてしまうままでは乗り越えられない壁は、もうリリスたちの前に現れている。


 だから、いまするべきは答えを探すことだ。どんな些細なところからでも、それが物であろうと人であろうと構わない、構っている余裕などない。必要なのは、あと一歩届かない答えへの距離を詰めるためのきっかけで――


「……はいそこです、そこにお願いします! ……ですね、最高です!」


「……ユノ?」


 そんなことを考えていた最中、窓の外から昨日聞いたものと似たような声をリリスの耳は聞き取る。昨日とは違い明るいトーンで張り上げられてこそいたが、この声質は確かにユノの物だった。


 聞いている感じ、この朝早くから再興に向けた作業に取り組んでいるのだろうか。こんな早朝だというのにユノの声色には疲れや眠気の気配一つなく、その言葉に応える住人たちの声も弾んでいる。……それを聞いていると、胸の奥で何かが疼く様な感覚があって。


『……もしやあなたは、マルク様の命と自身の命を天秤にかけて自身を優先するおつもりで?』


(……あなたなら、どう答えるのかしら)


 ガリウスと自分の命を天秤にかけた時、ユノはどんな選択を下すのか。『死』をきっとリリスよりも身近に知っているユノの答えが知りたくて、リリスはくるりと反転する。……当てのない散歩の目的地は、予想よりも早く定まっていた。

 感覚派のリリスはウーシェライトの主張が完全に自分に当てはまる者でないことには気づいていますし、それを燻りと言う形で受け止めることもできています。なら、それを言葉にしようとしたときリリスはどんな形を選ぶのか。帝国へ向かう前に現れた最後の課題に取り組む姿、ぜひ見守っていただければ幸いです!

――では、また次回お会いしましょう!

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