第四百六十九話『そういう所が』
「そんじゃま、後はテキトーにくつろいでてくれ。お前さんが妙なことをしない限り、身の危険なんてものは何一つないんだからな」
「言われなくても何もしねえよ。こっちが何もできないことを分かったうえで釘を刺してくるの、大人にしては性格悪すぎると思うぞ」
去り際に残した一言に、マルクから反抗的な言葉が返ってくる。敵地のど真ん中、あるいは心臓部にいるというのに堂々としたその在り方に、アグニの口の端は無意識に吊り上がっていた。
「ほんと、アイツもとんでもない天才なこった。……敵にさらわれて味方と離れ離れにされたら、人は普通動揺しちまうもんなんだぜ?」
扉を完全に締め切ったことを確認してから、アグニは決して本人の前では発しない賞賛の言葉を送る。かつて彼を『天才』だと見抜いたのは間違いではなかったのだと、今の交渉を経て改めて確信できた。
戦闘面で見れば凡人も凡人、線上にいたところで取るに足らない存在でしかないだろう。だが、現にアグニ達はその取るに足らない存在が率いる集団に作戦を二度も阻止されている。……ベルメウ襲撃だってマルクを回収できたから良いものの、『精霊の心臓』の確保には完璧に失敗しているのだ。
はっきりと言語化することは出来ないが、マルク・クライベットは何かを『持っている』のだ。自分の周囲を変えていけてしまうような、常人には持ちえない何か。――それはきっと、クライヴも宿しているある種の才覚のようなもので。
「……俺は妬ましいぜ、お前さんの事が」
閉まりきったドアをちらりと振り返りながら、アグニは自嘲気味な笑みを浮かべて呟く。――その瞳には、隠し切れない羨望の情が宿っていた。
想いさえあれば、そしてそれを貫き通せる意志さえあれば世界は変えられると、そう思っていた時期があった。自分の大切な人たちが泣かないで済む世界を作れるのだと、ひたむきに信じて進み続けていた時期があった。……それが出来るのは才能がある人物だけなのだと知ったのは、大切な存在を全て取り落としてしまってからの事だった。
もしこの身にマルクのような才能があれば、アグニは今でも『大人』になどならずに済んでいたのだろうか。子供の夢のような理想を抱きながら、大切な存在とともに前に進むことが出来ていたのだろうか――
「――いつにもましてジジ臭いわよ、今のあーた」
いつになく深まっていくアグニの思考は、一人の女性がぺしっと背中を叩いたことによって中断される。ふと振り向けば、小さな翡翠色の瞳がこちらを見上げていた。
最低限不便がないように結んだとしか思えない朱色の髪と全身を包む明らかにオーバーサイズな白衣は、出不精な彼女の気質をこれでもかと表している。それだけ見るととても大人の振る舞いとは思えないが、それでも彼女が貴重な協力者なのは間違いようのない事実だった。
「おいおい、あんまストレートな言葉で言ってくれるなよ。オッサンだって気にしてるんだぜ?」
「気にしてるかどうかは知らないわよ、客観的に見てあーたが普段より三割増しで老けて見えるからそれを指摘しただけ。それとも何、このセイカ・ガイウェリスの観察眼にケチをつける気?」
アグニが肩を竦めながら反応すると、女性――セイカは不服そうな表情をしながら胸を張る。もう少し上背があれば威圧感もかすかに出てくるのかもしれないけれど、目算百四十五センチほどの細身なスタイルでそれをやられてもただほほえましくなってしまうだけだ。
「……何よ、今度はいきなりニヤニヤしはじめて。それはそれで五割増しで気持ち悪いわよ?」
「相変わらず言葉に容赦がねえなあ……。別によこしまな事なんか考えちゃねえよ、ただお前さんでもお前さん自身を客観視するのは難しいんだなって話だ」
「客観視……? 出来てるわよ、あーしは世界一の天才魔道研究者だし」
笑みをこぼしながらのアグニの指摘に、セイカは首をかしげながらそう応えるだけだ。小さな体に見合わないほどの自尊心がその振る舞いからはあふれていたが、あながちそれが間違いでもないのが彼女の凄まじいところだった。
セイカ・ガイウェリス。表の研究会に名前が挙がったことは一度としてないが、日の当たらない場所では随分と名を馳せていた天才魔道学者だ。本人は研究者を自称しているが、アグニからしたらその本質は学者と言う方が相応しいものだった。
クライヴとともに動き出してから割とすぐに組織に引き込んだこともあり、付き合いはもう二年近くにはなるのだろうか。その間にも彼女は数々の結果を出し、クライヴ達の勢力拡大に多大な貢献を果たしていた。
アグニが愛用する武器も、セイカが一つ一つ丁寧にチューニングを重ねているものだ。才能に欠ける己が何故戦場で生き残れるかと聞かれれば、アグニは迷わずクライヴとセイカの名を挙げるだろう。アグニに才能があるように見えるなら、それは二人がくれた模造品だ。
セイカからすれば星の数ほどある研究成果のうちの一つでしかないのかもしれないが、それを作り上げてくれたことにアグニは大きな恩を感じている。――マルクと交渉を試みたのは、言うなればその恩返しのような意味も込めての事だった。
「……まあいいわ、とりあえず痕跡の回収は終わったから。ボスにも秘密で作ったものだからバレることは絶対にないし、あのあたりにあーしたちが立ってたって記録はあたしたちの頭の中以外には残らない。……考えられる限り一番マズいのは、あの男の子がうっかりボスに漏らすことだけど――」
「大丈夫だ、しっかり口止めはしてあるからな。こっちだって少なからず情報を明け渡したんだ、それを無駄遣いするほどアイツは焦っちゃいねえよ」
相手にするとなるとあの冷静さは恐ろしいが、秘密を共有するといううえでならこの上なく頼もしいものだ。マルクならばこの情報の最も正しい使い方をすでに察知してくれているだろうと、そんな確信がアグニにはあった。
あの瞳を見れば、マルクがまだ何一つ諦めてなどいないことは明らかだ。つまりそれはクライヴの計画にも支障が出るという事なのだが、不思議とアグニの胸は高鳴っている。
「ふうん、随分とあの男の子を高く買ってるのね。基本的に全員の事を見下してかかるあーたにしては珍しいじゃない」
「そんな斜に構えてるわけじゃねえよ、俺だって尊敬するべき人間はわきまえてるさ。お前とか大将とかを見下してるところでも見たことがあんのか?」
「基本的に、ってあーしはちゃんと条件付けたわよ。組織の屋台骨を担うあーしやボスの事を尊敬するのは当たり前。……あーしが聞きたいのはどうしてそことあの男の子が並ぶのかってことなんだけど」
得意のはぐらかしも通用せず、セイカのまっすぐな視線がアグニを射抜く。まだまだお互いの私室までは距離があり、このままなあなあにして解散するのも難しそうだ。
「道具越しにあーしも交渉の中身は聞いてたけど、随分あーしらの内情をバラしてたみたいだしね。……あの子もまた修復術師である以上、凡人どもより多少なり価値がある人間だってのは分かるけど――」
そんなアグニの考えを知ってか知らずか、畳みかけるようにセイカは言葉を重ねてくる。……その中に唐突に混じってきた『読み違い』に、アグニは思わず頬をニヤリと吊り上げた。
「――あー、安心しろよセイカ。勘違いしてるかもしれねえが、俺が提示した情報に価値なんざねえ」
「……は?」
アグニから返された答えに、セイカの目が初めて丸くなる。普段から頭が切れる彼女だからこそ、驚きを隠しきれないようなその表情を見るのはどこか痛快だった。
だが、セイカが勘違いするのも無理はないことだ。……なにせ、これはどちらかと言えばアグニのホームだと言ってもいい領域なのだから。
「確かにアイツにとって俺の情報は価値あるものだったかもしれねえが、俺が流したのはいずれあっち側にも知れ渡っちまうような所だけだ。……最悪アイツが仲間と合流するようなことがあったとしても、あっち側の情報量が増えることはねえよ」
「さっきから一体あーたは何を言ってるのよ、私たちから情報を聞けるのはあの子だけでしょ? 仮にその子が合流できちゃえば、バックにいる冒険者たちやら騎士団たちやらもその情報を知ることになるわけで――」
「いいや、それは間違いだなセイカ。……さっき俺が話した情報は、もう騎士団たちにバレてたっておかしくないレベルの奴でしかねえよ」
少しワタワタとしながら反論しようとするセイカに笑みを浮かべ、アグニは人差し指を軽く立てる。セイカの疑問に対する答えを用意するその表情は、無意識の内に自嘲の色が濃く現れていて――
「一人いるだろ? 騎士団たちに捕まえられて、情報を吐いちまいそうな奴が」
「……あ」
死角からぶん殴られたかのような表情で、セイカの表情が固まる。……そのままでしばらく硬直していたセイカが冷静さを取り戻した時、アグニを貫いたのは汚物を見る様な視線だった。
「……あの子、あーたのことを心の底から慕ってたわよね」
「ああ、けど俺はそいつを見捨てた。……もともと俺への感情が組織に居つくモチベーションになってたみたいな奴だ、俺に失望したら黙秘する理由なんてなくなる。……もしかしたら、俺がアイツにこぼした以上の情報が今頃騎士団に漏れてるかもしれねえな?」
騎士団長たちと戦い、そして破れたあの時の記憶を思い出し、アグニは苦々しげな笑みを浮かべる。口調こそ軽いものだったが、アグニにとってアレは間違いなく屈辱的な記憶だった。
「大将はアイツを見捨てるつもりだ、もう助け出せる見積もりはねえ。……なら、ある程度の情報は洩れる前提で交渉を続けた方がこっちの得られる情報もデカい。どうだ、理論的だろ?」
それを押し隠し、アグニはあくまで戦略的に立ち回る。それが天才ではないアグニが出来る最善手で、高望みしない安定択だ。……いろんなものを天秤にかけて、リターンの大きい方を選び取るだけだ。
「ええ、確かに理論的ね。あーしにとってもめちゃくちゃ有益な情報が聞けたし、そういう意味では感謝もしてるわ。……だけどね」
それを語るアグニに何を見たのか、セイカは渋々と言った様子で頷く。だが、アグニを見つめるその視線がどこか反抗的な色を含んでいるのは変わらなくて――
「――あーたのそういうところ、あーしはあんまり好きじゃないわ」
「……嫌いって言わねえだけアイツより優しいな、お前さんは」
忌憚のない嫌悪の情を投げかけられて、アグニは思わず苦笑する。自分たちを繋いでいるのはやはり利害の一致なのだろうと、改めてそう実感する。……だが、それでいいのだ。それでこそ安心できるのだからと、そう思う。
ひとたび大切になってしまえば、それを取り落とさないために数えきれない困難と向き合う必要がある。――それを乗り越えられるだけの力が自分にないことを、アグニは誰よりもよく知っていた。
第五章でちらっと顔見せしていた研究者の彼女ですが、第六章では本格的に物語へ絡んでくることとなります。無数の思惑が帝国を舞台に交錯していくことになりますので、ぜひお楽しみいただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




