第四百五十五話『常識という名の型』
「ロアルグ団長が奔走してくださったこともあって、王国も共同戦線の形成に向けて順調に準備を進めているそうですわ。……まあ、それでも一度王都に皆様を呼び戻さなければいけなかったのは申し訳ないのですけれど」
「気にしないでいいわよ、王都に戻らなきゃできないことも多いでしょうし。……それに、ベルメウまでならフェイが転移魔術で連れて行ってくれるって話だしね」
共同戦線を取り巻く現状を簡潔に整理したアネットが苦笑交じりに付け加えたのを聞いて、リリスははっきりと首を横に振る。そして隣に座るフェイに目配せすると、フェイはその期待に応えるように堂々と頷いた。
「うむ、ベルメウを離れる際に少しだけ小細工をしておいた故な。王都に向かう道筋のみが血と面倒じゃったが、それを乗り越えた今移動面の心配事は無用と言っていいじゃろう」
「へえ、そんなことが出来る細工があるんですのね……。少し前まで転移魔術なんて遠い存在だと思っていたのに、なんだかどんどんと身近になっていく気がしますわ」
移動問題が解決したことにアネットは安堵の息を漏らすが、その表情は感心とも呆れともつかぬものになっている。事実リリスも転移魔術に関しては半ば机上の空論であると考えていた身だからこそ、その感情を抱くのにも納得できた。
「違うよアネット、転移魔術が僕達の身近な位置に近づいてるわけじゃない。どっちかって言えば僕達が常識外れの領域に入り込んでるだけで、傍から見れは転移魔術は実現困難な魔術のままだ」
しかし、その共感を示すよりも早くツバキがアネットの認識にそう付け加える。本人が独特の魔術体系を持つ村の生まれだからなのか、その言葉には妙な説得力があるように思えた。
「そうじゃな、影の小娘の言う通りじゃ。魔術にも世間一般に通じる常識や概念がないわけではないが、その常識はあくまで『大多数がそうだと信じ込んでおるもの」以上の物にはならぬ。――貴様らにとって一番身近な例でいえば、小僧の修復術師がそうじゃろう?」
「……確かに、そうですわね」
ツバキの言葉を引き継いだフェイの指摘に、アネットだけではなくリリスやレイチェルも軽く息を呑む。この半年で身近になりすぎて気づいていなかったが、マルクもまた常識から大きく外れた位置に立っている魔術師だ。
魔術神経を激しく損傷した魔術師は基本的に復帰できないし、よしんばできたとしてもその時の肩書は『魔術師』では絶対にない。修復術を用いて魔術師としての才覚を復活させることは、魔術的に見れば死者蘇生と同等と言っても過言ではないだろう。
「あの小僧と、そして修復術と深く関わった時点で、貴様らは魔術世界の常識と袂を分かっているも同然じゃ。それがあの小僧だけならいざ知らず、敵もまた修復術を使う勢力と来ている。――無事に生きて目的を果たしたいのならば、今まで身に着けてきた『常識』などと言うものは今の内に捨てておくことじゃな」
それが貴様らの命を奪うこともあり得るからの――と。
少し前まで歓談していたのが嘘のように冷淡な口調で、フェイはここにいる全員に警告する。リリスたちは既に常識が鼻で笑われるような世界に足を踏み入れているのだという事実を、フェイは一切の容赦なく全員に突きつけていた。
「そもそも魔術世界における『常識』などただの枷にしかならぬものじゃ。魔術は、そして魔力は常に可能性に満ちた物であり、妾たち魔術師の意志に応えてその形を自在に変化させる。――常識と言う型は、術師の自由な意志を無意識に縛り付けてしまうものじゃ」
両手を使って枠組みを作って見せながら、フェイは慣れた口調で講釈する。その考え方は初めて聞いたと言ってもいいものだったが、思った以上にすんなりとリリスの頭はそれを理解することが出来ていた。
「まあ、このあたりは手ほどきの最初にまとめて教えようと思っていたところでもあるのじゃがな。想定していたより受け手が増えてしまったが、まあ貴様らは理解しておいて損はないじゃろう。……小僧とともにいることを選ぶ限り、貴様らはいつまでも魔術の摂理の外側にいる存在となるのじゃからな」
軽く胸を張ってここにいる一同を見回しながら、フェイは改めてそう結論付ける。魔術に最も触れてきた存在だと誰もが理解しているからこそ、その勧告はあまりにも重かった。
リリスにとっては初めてとも言っていい、魔術の概念そのものが根底から覆されるような感覚がある。てっきりもう少し悔しさがあると思っていたのだが、存外リリスの胸の中にはすっきりとしたものが漂っていた。
生まれてから今に至るまで、リリスは徹底した『師匠』と呼べるような存在に出会ったことがない。体術なんかはツバキに教えてもらった覚えがあるが、それも習うより慣れろの考え方に基づいた実践的なものだ。……こうして理論的に自らの得意とする分野の始動を受ける経験を、リリスは今になって初めて経験している。
状況がもう少し穏やかな物であれば、リリスはあれやこれやと質問を投げかけてフェイが持っている考えを少しでも吸収しようとしていただろう。それはきっと、リリスの足を研究院に向かわせたものと同じ類の衝動だ。
「……ええ、肝に銘じておきますわ。わたくしたちが今から剣を交える相手は、常識の埒外に居る存在であるのだと」
「そうしておけ。……貴様がそれを肝要だと感じたのならば、団長の男にはこう伝えておくといい。『頭が固いままの者は襲撃者どもの幹部と相対させるべきではない』とな」
神妙な様子で頷いたアネットに、フェイもまた低い声でアドバイスを付け加える。少し前まで歓談していた組み合わせと同じとは思えないほどに、二人の間を漂う空気は張り詰めていた。
フェイから感じる圧迫感もさることながら、凄いのはアネットがそれに一歩も怯むことなく応じていることだ。フェイが過去にやってのけたことを知りながら、しかし臆することなく言葉を重ねる。……この半年間の積み重ねは、確実にアネットを一回りも二回りも成長させているようだ。
リリスがしたことと言えば何度かアドバイスを贈ってきたことぐらいだが、それでもアネットの堂々とした姿を見るとなぜか嬉しくなってしまう。フェイに対して抱いた感情が弟子としての物だとするのならば、アネットへのそれは師匠の気分になっていると言ったところか。
ただ、どこまで行ってもアネットに一番影響を与えたのがマルクなのは揺るがないことだ。……だからこそ、騎士団長の使者としてフェイと言葉を交わす姿を見逃しているのが惜しくてならなくて。
(……皆で、マルクの事を迎えに行ってあげないとね)
何よりの優先事項に据えている目的をもう一度心の中で握りしめて、リリスは深く長く息を吐く。クラウスを前にして掲げた『人徳』の力は、マルクが思っているよりもたくさんのものを変えている。そうして変わった景色を一つ残らず目に焼き付けてもらうためにも、リリスたちはマルクの手をもう一度しっかり握りしめなくてはならない。
「そうだ、特訓に関しての話もしなくてはなりませんわね。わたくしたち騎士団は本部にある設備を特訓用の施設して皆様方に提供し、代わりにフェイ様は特訓の風景をわたくしたちに公開する。間違いがなければこの通りの条件で進めますが、変更などはなさらなくてよろしいですの?」
「ああ、事前に提示した条件通りだ。妾の手ほどきについて行ける人間が騎士団にそういるとは思えないが、理論や考え方だけならば人間にも応用できるものは少なからずある故な」
軽く手を打ち鳴らしたアネットの問いに引っ張られ、話題は再び戦線の内情整備へと移っていく。騎士団側が提示した条件にすんなりと頷くと、人差し指をピンと立てながら付け加えた。
「それを踏まえて要求するが、特訓用の設備としてこの施設で最も大きな会議室を特訓用の設備として妾たちに提供してくれ。ああ、できれば壁面に記入できる機能などがあればなお望ましいの」
「部屋……ですの? ええ、それぐらいなら団長に申請すれば手続していただけるとは思いますけれど……」
突如追加された要求にアネットは戸惑ったような声を上げ、それにフェイは自信満々に頷く。その視線は一度リリスとツバキを捉えた後、正面に座るアネットへと戻ってきた。
「何、騎士団にとっても朗報じゃぞ? まだそこの小娘たちにも伝えておらなんだが、状況が状況故に五日間で一気に叩き込もうと考えておる。当然、その中には先に少し話したような座学の時間も含まれるわけじゃが――」
そこで一度言葉を切り、伸ばしっぱなしだった指を一度折り曲げる。その手つきに一同の視線が集まる中、今度は二本の指がピンとまっすぐ立てられて――
「その五日間の内の丸々二日間を座学のために費やすのが妾の手ほどきじゃ。……実質的に言えば、騎士団の者どもも四割は小娘たちの修練に同行できるという事じゃな?」
得意げに笑みを浮かべながら、フェイは迷いのない口調でそう断言する。……『二日間の座学』という言葉が意味を持って理解された瞬間、リリスの背中には冷たい物が走っていた。
自信ありげなフェイの手ほどきですが、それらはリリスたちにいったい何を与えるのか! 例外がいつ起きてもおかしくない状況に向かうリリスたちの姿、ぜひ見守っていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




