第四百五十話『揺るがない関係』
祈るしかできない。改めてそう結論付けても、心がそれを簡単に納得してくれるはずがなくて。フェイの忠告によって生まれた心のさざ波をどうにかして収めたくて、それが出来ないならばどうにか外に吐き出したくて。……いつまでも、この感情を独りで抱えていたくなくて。
「……それで、今こうして貴女に話してるの。ごめんなさい、まだ療養も終わってないのに」
自分の心の内をさらけ出しながら、リリスは深々と頭を下げる。いつになく弱気なその姿を見詰めながら、ツバキはベッドに横たわりながら首を横に振った。
「ううん、ボクはもう元気だから別にいいよ。むしろ話し相手がいない方が淋しいし、君がいてくれた方が嬉しい。……出来るなら、君にもいつも通り不遜に笑っていてほしいんだけどね」
「ごめんなさい。……今は、そんな気になれないわ」
「うん、分かってる。君がどれだけマルクの事を想ってたかは、ボクが一番よく知ってるよ」
謝罪を重ねるリリスをなだめるような口調で、ツバキは微笑しながらゆっくりと告げる。いつもと変わらないように思えるその態度が、リリスには何よりもの救いだった。
ツバキだって、あの戦いに思う事はたくさんあるだろう。マルクを奪われたことに、影魔術を完全に操られたことに、ツバキだって激発しそうな感情を抱いていたっておかしくはない。けれど、それをおくびにも出すことなくツバキはただリリスのどうにもならない感情を受け止めてくれている。
「……ごめんなさい。私だけ、色々ぶちまけてしまって」
「いいんだよ、ボクは感情を爆発させるのが得意じゃないから。ボクも今までたくさんリリスに助けてもらってるし、ごめんなさいなんて言いっこなしさ。それでも気が済まないって言うなら、『ごめんなさい』より『ありがとう』の方がボクも嬉しいかな?」
三度目の謝罪に、ツバキは明るい態度でそう返してくれる。その言葉に、ようやく少しだけリリスの肩の力が抜けていくような気がした。
「そうね。……ありがとう、ツバキ」
「うん、やっぱりそっちの方がボクも嬉しいよ。何度でも言うけど、ボクは君の相棒だ。ボクがどうしようもなくなったら君に助けを求めるし、君がどうしようもなくなったら遠慮なくボクに助けを求めてくれていい。力になれるかは悩み次第だけど、少なくとも悩みを受け止めることは出来るからね」
笑みを浮かべて感謝を告げるリリスに、ツバキはトンと自分の胸を叩きながら笑みを浮かべる。その姿を前にしていると、張り詰めていた感情の糸が半ば無意識に緩んでしまって。
「……ツバキ、ちょっといい?」
涙があふれそうになるのを必死にこらえながら、リリスは腕を軽く広げてツバキの方へ身を寄せる。それだけでツバキには十分伝わったらしく、同じように腕を広げてリリスを受け容れる体勢を取った。
その無言の肯定を見た瞬間、視界は急に潤んで不明瞭なものになる。まるで母に甘える幼子のように、リリスはツバキの胸に飛び込んでいた。
「う……うっ、わああああん……」
ツバキの背中に両腕を回し、リリスは声をあげて泣く。こんな風に声をあげて泣くなんて、一体何年ぶりの事だろうか。……いや、もしかしたら生まれてから初めてかもしれない。そんなことを考えてしまうほどに、リリスの感情は爆発している。
「私ね、私が嫌になりそうなの。マルクの事が好きだって分かったはずなのに、変わっちゃったマルクの事を好きになれるか分からなくて。私の『好き』ってそんな脆いものだったのかなとか、そんなことを考えちゃって……考え出したらもう、止まらなくて」
「うん、大丈夫だよ。……大丈夫、それは何もおかしくなんかない。君は今きっとね、初恋ってやつをしてるんだ」
優しく背中をトントンと叩きながら、リリスの泣きじゃくる声にツバキは落ち着いた声で応える。感情を爆発させてしまってもいいのだと、今のリリスを優しく肯定するように。
「ボクも君からその話を聞いた時ね、少しだけ怖いと思ったよ。ボクたちの頼れるリーダーが全く違う性格に変わってしまうなんて、出来るなら信じたくないしそんなことは起こらないって思いたい。ボクだってそうなんだ、初恋真っただ中の君はきっともっと怖いんだろうなって思うよ」
「怖いわよ……怖くて怖くて、冗談だったらいいって何回想ったことか……‼」
「そうだね。大丈夫、それは弱気なんかじゃないよ。だから、さらけ出すことをダメなことだなんて思わなくていい。少なくともボクの前では、ダメだなんて絶対に言わないから」
「ううっ……う、ううう……っ」
完全に体重を預け、リリスはツバキに身を委ねる。怖いとか信じたくないとか、怯んでしまった自分への自己嫌悪とか、そう言うのが全て涙になって自分の身体の外に流れ出していく。それで不安がなくなってしまえばいいのに、流れても流れても不安は湧き出てくる。
じゃあ泣くことが無駄なのかと問われれば、その答えは断じて否だ。恐れも無力感も情けなさも、その全てはリリスの中からいなくなってくれない。……けれど、それは少しずつ自分の中で具体的な形になっていく。今まで名前が付かないままでどろどろと澱んでいた己の感情を、少しずつではあれ捉えることが出来てきているような気がした。
結局リリスは今すぐにでもマルクの元に飛び出したくて、納得させられたつもりでもその感情はしぶとく生き残っていて。足並み揃えて連携するなんて言っても、その間にリリスの好きなマルクが消えてしまうのが恐ろしくて仕方がないのだ。
「わだし……マルクには、マルクのままでいでほしいの……っ」
「ああ、ボクもそう思うよ。……たとえ人格が変わってしまっても、その芯だけは変わっていてほしくない」
マルクの失われた記憶がそのままでいいとか、そういう事ではないのだ。リリスが真に恐れているのは、リリスが惚れ込んだ部分までもが変わってしまう事。……自分が大切にしたいものを何が何でも守ろうとするマルクの姿が、リリスは何よりも好きだった。
非戦闘員の癖に何度も何度も自分の身を危険に晒して、その度に傷つきながら帰ってきて。『プナークの揺り籠』での一件できつくお灸は据えたはずなのに、その後も何度リリスが肝を冷やしたか分からない。……それでも、そんなところを眩しいとおもってしまったからきっとリリスの負けなのだろう。
「わたじ、マルクが好き……絶対に、誰にも渡したくない……‼」
「ああ、君がこの世界で一番マルクの事を想ってる。あんな悪辣な野郎に大人しく譲る必要なんてないさ」
子供の癇癪のような感情の爆発を、ツバキは静かに、しかし力強く受け止める。お互いの背中を引き寄せる力はどちらからともなく強くなっていって、お互いの体温が混じり合いそうなほどに二人の身体は触れ合っていた。
取り戻さなければならない。それがたとえ、記憶を取り戻した末に変わってしまった後のマルクだったのだとしても。……それでもリリスは、大切な人のすぐそばに居たいのだ。こうして泣きわめいて、感情を余すところなくさらけ出して、ようやくそれが分かった。
ツバキに優しく抱きしめられて、一体どれだけの時間が経っただろうか。断続的に起こっていた感情の爆発にも少し区切りが出始め、荒くなっていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。声に混じって聞こえていた心臓の鼓動も、少しずつその速度を正常に近づけつつあった。
「……ねえ、ツバキ」
それでも抱きしめる力は少しも緩めないまま、リリスは小さく相棒の名を呼ぶ。「なんだい?」と優しい返事が聞こえたのは、その直後の事だった。
「私ね、フェイに手ほどきしてもらおうと思ってる。少なくともフェイは、クライヴとまともに戦えてたから。……クライヴに勝つためには、きっとフェイの力を借りなくちゃいけない」
「そうだね。治療にあたってる姿を見るだけでも、あの精霊がものすごい存在なのははっきり分かるよ」
落ち着いた返事が戻ってきて、リリスは改めて息を吐く。……今から言うのが我儘であることを自覚しながら、リリスは次の言葉を口にした。
「……それでね、できれば貴女にもフェイの手ほどきを受けてほしいの。まだクライヴに受けた傷も治ってないし、気が早い話なのは分かってる。……けど、私は貴女と――」
「もちろん、最初からそのつもりだよ。何回も言うけど、ボクは君の相棒なんだ。……たとえマルク相手でも、この立ち位置を譲る気だけはさらさらないからね」
君が必要としてくれるなら、ボクにできる全てを活かして力になるさ――と。
恐る恐る出した提案を食い気味に承諾され、リリスは一瞬目を丸くする。……その直後、自然と笑みが胸の奥からこみあげてきて。
「……ええ、そうだったわね。どれだけパーティが大きくなっても、私の相棒は貴女だけだったわ」
「そうだよ、それだけは忘れてもらっちゃ困る。……ボクにとっての相棒も、この先ずっと君一人だけなんだからね」
二人抱き合って笑いあいながら、リリスはツバキとの関係を改めて再確認する。……たとえ周囲がどう変わっても、ツバキがリリスの一番の相棒であることだけは絶対に揺るがない事実だった。
四章ではメリアを前にして迷ったツバキの背をリリスが押していましたが、今度はツバキがリリスの背を押す番でした。反撃を、そして奪還を誓った二人がこの先どう進化していくのか、ぜひぜひお楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




