断章4-1『繭』
――『あの日』からずっと、どこか世界から切り離されているような気分だった。
意識ははっきりとしていて、だけどそれがどこに向かえばいいのかは分からない。体は動くけれど、もともと何のために動かしていた体なのかは分からない。こうなる前の自分は一体誰で、どんな人物だったのか。その答えを得ようとする道のりは、今の自分を包み込む繭に阻まれて届かない。
どん底に落ちたあの日から、差し出された手を取ったあの日から、意識はいつも繭の中にある。その中以外の居場所なんて考えることもなく、そこが安住の地であると疑う事もなく。ただそこにいて、繭を作り出した主の意志を聞いていた。
それに自分が何を思っているのかも、今の自分には分からない。分かるのはただ一つ、ここで意に背けばこの繭は崩壊するという事だけだ。繭が崩壊すれば、自分は不完全なままで外の世界へと再び放り出される。そうなれば待っているのは死だけだと、ぼんやりする本能ですらもそう分かった。
五感を通じて得た景色は、全て繭がフィルターとなって希釈されたうえで自分の身へと届く。水の中から世界を見るようにそれはぼやけ、考えは自らの中で像を結ばない。……そんな中でも、唯一濁らないで自分の中にあり続けたものがあった。
『最強』への渇望。自分以上に強い存在などこの世界には存在しないのだという、とても傲慢にして壮大な、到底実現不可能にも思える野望。それだけが理由も分からないまま自分の中には燃え上がっていて、繭の中にいる自分にもぼやけることなく伝わってくる。何もかもがぼやけて不明瞭な世界の中、その願いだけが、『最強』を求めているときの渇きだけがリアルだった。真実だった。
『たった一つ、てめえにとってどんな物よりも大切な物を心に定めろ。それをずっと手放さないままで俺たちにしがみついていられるなら、てめえにはまだ使いようがある』
そんなことを言われたのは一体いつで、誰からの事だったか。男の声だったことまでは分かるが、それ以上の記憶はぼやけたままだ。……それでもこの言葉の意味を忘れていないあたり、今の自分にとってはとても大事な事なのだろうが。
しかし、なぜ今になってそれを思い出すのか。あの日からずっとずっと、思い出すなんて行為は試そうとしてすら来なかったのに。
はたと理由を考え出して、すぐにたどり着く。……今の自分は、『最強』とは程遠いザマを晒しながら動けずにいた。
冷たい氷の檻が、自分の周りを取り囲んでいる。あれほどにまき散らしたはずの炎は全て消し去られ、自爆機構であるところの自分自身も完全に凍り付かされている。『最強』にあるまじき敗北が、今自分の目の前には横たわっていた。
主の読みは完璧だった。『必ずここを取り返しに来る輩が現れる』と断言したのを信じた甲斐はあった。それを潰したのは誰だ。『最強』を目指しながら、逆に踏みにじられたのは誰だ。
「……俺だ」
凍り付いた中でどうにか口を動かして、自問にそう自答する。誰の責任でもない、今負けたのはほかならぬ自分自身だ。こちらの策を打ち砕かれ、策の質で上回られ。こうして繭にこもる前にも積み重ねてきたであろう研鑽を全部ふいにしたのは、誰だ。
「……俺、だ」
またしても自答する。今までおぼろげだった『自分自身』の輪郭が、『最強』を目指しながらも負けた愚かな存在として再定義され始める。……繭によってぼやけた世界が、少しずつ再構築されていくような錯覚がある。
吐くたびに白く曇る呼吸の音も、肌に伝わる氷の感覚も、全てが鮮明に自分の身体を伝いはじめる。死に瀕したこの状況が、自分と言う存在を鋭敏にし始める。
このまま負けてしまえば、自分は永遠に『最強』を奪い返す機会を失う。リリスとか呼ばれていた氷魔術使いより下だと証明されたまま、この世界を去ることになる。それは、いつかもらったあの言葉に背くような結果になってしまう事と同義なのであって――
「――リリ、ス」
そこでふと、自分の中で何かがふと引っかかるような感覚を覚える。今思い浮かべた名前に、何か違和感があるような。初めて口にするはずなのに、なぜかそんな気がしないというか。
粉々に散らばってしまっていた『自分』の欠片を捕まえたような感覚が、自分の思考を何故だか鮮明にし始める。……何かにヒビが入るような音が、どこか遠くで聞こえた気がした。
リリス。氷魔術師のリリス。思い返せば返すほど、覚えのないはずのその人物には既視感が湧いてくる。前にもこうして『最強』を踏みにじられたような、そんな感覚。こんな状況に追い込まれるまで気づけないとは大した道化っぷりだが、それも今はどうでもいい。
この記憶にしがみついて『自分』の欠片を探すことが、『最強』を取り戻すための第一歩だ。今こうやって踏みにじられた『最強』を、自分のプライドだったはずの『最強』を、衆人環視の中で穢されてしまった『最強』を――
「……な、あ?」
堰を切ったかのようにあふれ出してきた感情に声を上げ、自分は一度立ち止まる。少なくとも、自分にとっての『最強』は衆人環視の中で穢されたものではなかったはずだ。なのに、覚えのない屈辱的な想いが今胸からはこみあげてきている。……これはきっと、繭に籠る前の自分が体験した記憶だ。
油断するとぼやけそうになる意識を集中させ、覚えのないその記憶をつかみ取ろうと必死に手を伸ばす。それが『最強』を取り戻すための手がかりになるのだと、必死に信じ込んで。もうそこにしか、自分が縋るべき道は残されていない。
『最強』に、ならなくてはいけないのだ。『あの日』を境に全てがぼやけた中でも唯一鮮明に残る想い、きっと自分が選んだはずの最も大切な物。それをどんな気持ちで選んだのか、どんな人生を歩んでそう決意することになったのか。……それは、分からないけれど。
「手放すわけには、行かないんだよ……‼」
体中が冷え切っていく中、歯を打ち鳴らしながらもそう断言する。何も覚えていない中で、その思いだけが自分を導いてくれる灯だった。それを失えば最後、今度こそ自分はどこにも行けなくなる。何者でもなくなる。……何を犠牲にしたとしても、それだけは絶対に御免だ――
――その理想への執着こそが、繭の役目を終わらせるための最後のトリガーだった。
ピシャリ、と。今度こそ明確に何かが砕けるような音がした次の瞬間、目の前に広がる景色が鮮明になる。ふと気になって氷に映し出された自分を見てみれば、『付け続けるように』と命じられた仮面が真っ二つに割れていた。
しかしそれに驚く間もなく、とてつもない頭痛が容赦なく襲い掛かる。まるで脳内で無秩序に鐘が打ち鳴らされているようなそれは、端的に言えば記憶の塊だ。――繭の外にいた時の記憶と、繭に籠ってから今に至るまでの記憶。それら全てが、所有するべき人物の下へと正しく返却される。
結果として、脳内で発生しているのは記憶の洪水だ。思い出したことも、今まで記憶できなかったことも、全部が記憶として脳に刻み込まれる。……それに伴うようにして、氷の中の男はゆっくりと瞬きをした。
視界の中には、確かに自分の姿が映っている。仮面に塞がれてずっと見えなかった、自分の顔。今となればなぜ思い出せないのかと不思議に思えてしまうぐらい、今はしっかりと分かっている。……自分がいったい何者で、何を目指してここにいるのか――
「……炎よ、クソッタレな檻をぶちやぶりやがれ‼」
先の戦いのときより数段暴力的に、そして粗野に。
凍てついた空気を吸い込むことも厭わずに叫んだそれに、全身が『待ってました』と言わんばかりに応える。――そして数秒後、『蒼い』炎がリリスの作り上げた氷の檻を突き破った。
それでもなお炎は止むことなく、一度鎮火したフロアを再び火の海へと変える。リリスの念押しも虚しく、自爆機構は再び稼働を始めた。
「はは……はははははッ」
しかし、それはもうリリスたちが見た自爆機構と同じではない。繭の中でも自らを定義する灯を見失わなかった一人の男は、今繭を突き破って完全に羽化した。それを祝福するかのように、フロアには凶笑が響き渡り続けている。
「……俺の知らないうちに随分とまた好き勝手してくれたもんだな、リリス・アーガスト」
自分だとは到底思えない、けれど確かに自分自身が経験した戦いの記憶を脳内で再生して、男は愉しそうな声を上げる。それは間違いなく、踏みにじる事こそを喜びとする『強者』のそれだ。
記憶を取り戻した今ならば、リリスでさえも今までに踏み潰してきた弱者どもと同じように踏み潰せるだろう。それが真の『最強』と言うもので、新しくなった自分を飾るに相応しい称号だ。故にこそ、それを穢した不埒物にはまずご退場願わなければならないだろう――
「――うん、やっぱり羽化したね。戦力計算度外視で君をあの場所に配置した甲斐があった」
「――ああ?」
そんなことを考えてリリスを追いかけようとしたその刹那、この火の海にそぐわないのんきな声が聞こえてくる。それは繭の中にいた自分が何度も何度も聞いてきた、不思議と親しみを覚える声で。
「半年間もの間、君はよくぞ繭の中で理想を手放さずに耐え忍んでくれたよ。……改めて、僕達の組織にようこそ。――元『双頭の獅子』リーダー、クラウス・アブソート君?」
いつ崩れてもおかしくない床に堂々と立って、その人物――繭を作り上げた『主』はにこやかに笑みを浮かべる。――その姿を見たクラウスの背中には、言い知れぬ冷たい物が走っていた。
大方察しがついていた方も多いとは思いますが、ここでクラウス再登場となります。『魔術神経は壊れたはずだよね』とか『どうして記憶を失ってたの』とか色々疑問があるとは思いますが、そこは後程しっかり回収させていただきますのでどうかご安心を! 初の二話をまたぐ形となった断章、ぜひお楽しみいただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




