第四百三十話『一発の弾丸』
相容れない二つの魔力がぶつかり合い、白く煙る水蒸気がフロア全体を一瞬して包み込む。その影響で霞む視界の中でも、二人は倒すべき敵の位置を見失わなかった。
氷と炎がとめどなく衝突し、そして相殺し合ってお互いに傷を付けることなく終わる。盤面だけ見れば拮抗しているようにも思えるが、火の手がとめどなく広がっているこの状況は明らかにリリスの方が振りだ。――段々と、呼吸にも気を遣わなければいけなくなってくる。
「……は、あっ」
口の周辺にだけ小さな風の渦を作り出し、それを一息で吸い込むことでどうにか呼吸を整える。喉があぶられるぐらいならばまだ動き回りながらでも治療は効くが、肺まで焼かれてしまったらそれも難しいだろう。……そうなる前に、この戦いに決着をつける必要がある。
「氷よ、刺し貫きなさい‼」
足踏みを同時に行う事で魔力の制御をさらに繊細なものとしながら、背後に氷の槍を無数に展開する。しかしそれでも男は怯えることなく、むしろ愉しそうに笑ってその槍たちを見返していた。
「いくらでも来いよ、踏みにじってやっからなあッ‼」
そして腕が振り抜かれ、それに伴うようにして炎の壁が男の眼前に広げられる。圧倒的な熱量を持ったそれを突破できるはずもなく、自然の摂理に従って氷の槍は消滅した。
力量の差がどうこうではない、単純な相性の問題だ。この戦場も相手の特性も、その全てがリリスに不利な形になるように働いている。それがどこまで仕組まれたものでどこまで偶然なのか、それを推し量るだけの要素はないのだけれど。
ただ一つ言えるのは、今配られたカードで勝負する以外の選択肢はないという事だ。窮地に追い込まれて覚醒する力なんてものはないし、突然水魔術が足踏みだけで制御できるようになるわけもない。……今まで慣れ親しんできた魔術たちだけで、リリスはここを突破しなくてはならないのだ。
「……風、よ‼」
改めてそう結論付けて、リリスは男の足元目がけて風の弾丸を放つ。火の回りが早くなりかねないこともあって出し惜しみしていたが、そんなことを言えるほど余裕のある状況ではない。
弾丸が着弾するのを見届けることすらなく、リリスは次の魔術に向けての準備を開始する。リリスの力だけであの炎魔術を正面から打ち破れる可能性があるとすれば、これ以外にはありえなかった。
「……氷よ、風よ」
リスクを承知で目を瞑り、自らの感覚をさらに研ぎ澄ます。二つ同時に魔術を同時に展開し、本来ならば相容れないはずのそれを一つの魔術へと合一させる。半年前にはなかった、奥の手中の奥の手だ。
「……く、おおッ⁉」
目を瞑っている中でも、風が無事吹き荒れたことは肌に伝わる感触と男の声で分かる。これで都市庁舎の寿命は少し縮まったわけだが、それも承知の上だ。……この切り札で戦いを終わらせてしまえば、縮めてしまった分をチャラにしても余りあるだけの時間短縮になるだろう。
そう信じながら魔力を制御し、反発しあう二つの魔力をどうにかなだめすかす。……やがてガッチリと噛みあう感覚が脳内を駆け抜けた瞬間、リリスは再び目を見開いた。
先の風魔術が思った以上に影響を与えていたのか、床どころか壁や天井にまで炎は燃え移っている。このまま行けばフロアが完全に焼け落ちるまであと二分――いや、一分半かかればよく耐えた方か。この戦いが敗北に終わってしまえば、リリスの一手は愚行として語り継がれることになるだろう。
(……でも、それだけあれば十分よ)
しかし、リリスの意識は既に燃え尽きようとしているフロアにはない。時間稼ぎの弾丸を完璧に打ち破り、こちらへと意識を引き戻した男の姿だけが、リリスの視界の中できっちりと焦点を合わされたうえで映し出されている。……それ以外の情報は、今だけ全て些細なことだ。
「――吹雪よ」
手の中で今にも暴れだしそうにしている魔術の名を呼ぶと同時、身体全体が鈍い音を立てて軋むような感覚が襲う。それはきっと魔力の性質に反した罰で、使っていくたびにリリスの身体を蝕んでいく物だ。……覚悟していたことだが、そう長くこの魔術を使い続けてはいられない。
この階が燃え落ちるのが先か、男が倒れるのが先か。――それとも、リリスの魔術神経が限界を迎えるのが先か。今から始まるのは、そんな我慢比べだ。
「腹は決まった、って顔してんな。踏みにじられる準備はできたか?」
「そんなものしてないわよ。私は最初から最後まで、負ける気なんて微塵もないんだもの」
男の挑発に笑みを返し、手の中に圧縮していた魔力をそっと解き放つ。……瞬間、リリス本人すらも目を見張るような凍てついた空気が肌を突き刺して――
「――さあ、荒れ狂いなさい‼」
獰猛な叫びが響き渡ったその瞬間、『待ってました』と言わんばかりに吹雪は目の前の敵へと突進していく。その軌道上にある炎を全て吞み込んでなお緩まないその勢力は、まるでそれ自体が意識を持つ竜か何かであるかのようにすら錯覚させて。
「……んだよ、それはッ⁉」
声を裏返しながら放たれた炎は吹雪と正面から衝突し、その勢力をいくらか削り取る。だがしかし、風を纏った今炎だけで吹雪の勢力を削りきることは不可能だ。時間をかけるならいざ知らず、一撃だけで止められる道理はどこにもない。
「私の事も、忘れてもらっちゃ困るのよね!」
一撃で消滅しないのならば、リリスにだっていくらでもやりようはある。虚空に作り出された氷の槍は一瞬にして吹雪の竜の中へと取り込まれ、削り取られる前以上の勢力を形作るための礎になった。
「――エグいこと、しやがる……‼」
「先にえげつない手でこの都市を壊そうとしたのはあなたたちだもの、そんなこと言われても少しも響かないわ」
余裕の色が消え始めた男に対し、リリスはただそっけない言葉を返す。因果応報などと言うわけではないが、ここまで好き放題暴れた代償は払ってもらわなければ割に合わないというものだ。
そう思いながら、リリスは最後の仕上げの準備に入る。吹雪が暴れまわっていることで火の手は止みつつあるが、それでもまだ油断は禁物だ。男の炎は、どんな状況からであろうとこの施設を容易に破壊しうるのだから。
「……氷よ」
小さく呟き、手のひらの上に氷の弾丸を作り上げる。普段の氷の槍とは違う、地味で目立たないサイズだ。それ故にもちろん殺傷力は低くなるが、リリスの目的を果たすためにはこれが最適だった。
――そもそも、この施設とて最初から火事に無力だったわけではない。この都市の基盤を作り上げた天才がそんな事態を考慮していないなんてことは当然なかったし、実際に火事を未然に防いだ記録もあった。……問題なのは、それが全てシステムによって制御されていたという事で。
襲撃者の手によってこの都市のシステムが全て掌握されてしまった今、どれだけ優秀な防火システムがあろうとそれらは全て起動させることが出来ない。……だがしかし、たった一つだけあるのだ。きっと設計者すらも見落としていた、一つだけの例外が。
「……調子に乗るんじゃ、ねえぞ‼」
男はと言えば、未だに健在なまま迫りくる吹雪に対抗して炎魔術を展開している。それによってかなり勢力は減退しているが、しかしまだ男にとって脅威なのは変わらないままだ。仮に今リリスがやろうとしていることを見破られていたんだとしても、それを止めるまでの余裕はまず男には存在しない。
男の位置を見定め、ファイルにあった記述を出来る限り鮮明に思い出す。今男が吹雪と対峙しているのはもともと職員たちの席があった場所、位置取りとしてはほぼ完璧だ。……仕掛けるなら、このタイミング以外ありえない。
「――行きなさい‼」
手のひらの上の弾丸にそう命じると、見えない何かに弾かれたかのようにそれは男のいる方へと向かって行く。然しその軌道は徐々に男から逸れていき、ほどなくしてまだ健在だったフロアの天井へと激突した。
「……あ?」
それに気づいて男の顔が一瞬だけ天井を向くが、すぐに正面から迫りくる吹雪へと意識を戻す。当然だ、アレに呑み込まれればいくら炎魔術が使えようと無傷ではいられない。天井へと逸れていった氷の弾丸など、この状況の中では考慮する余地すらないだろう。
――その合理的な判断こそが、男の敗着だ。
ピトリ、と。液体が地面に垂れるような音がいやにはっきりと響いたのち、男の頭上から大量の水が噴き出す。まるで堰を切ったかのようなその大水は、一瞬にして男が立っている一角を完全に包み込んだ。
「な、ああッ……⁉」
地面に向けて打ち付けられる水は火の手を収め、男の生み出した被害を押し流していく。……それと同時に、吹雪によって凍り付かされてその勢力を上げる一端にもなっていく。突如発生した大量の水と吹雪によって作り出されるのは、決して逃れられない氷の監獄だ。
「クソ、が――ッ」
悪態をつきながら炎を展開しようとするも、頭上から降りかかる水と眼前から迫る吹雪によってそれは完全な性能を発揮するには至らない。むしろ水で弱められることによって吹雪すら満足に削れなくなってしまった今、男を待つのは必然の結末だけだ。
「……皮肉な物ね」
その様子を注意深く見つめながら、リリスは軽く息を吐く。男は今も抵抗しているが、大量の水で強化された吹雪はまもなく男をも完全に呑み込むだろう。それはきっと、男からしたら一つも納得できないであろう終わり方なわけで。
「『最強』を目指す人との闘いは、いつもいつも搦め手で終わってしまうんだもの」
小さな氷の弾丸を手のひらで弄びながら、リリスは嘲るようにそう呟く。……その一瞬の間に氷の檻へ呑み込まれてしまった男にその声が届いているのかは、もはや定かではなかった。
また一つ戦いを乗り越えたリリスたちですが、彼女らの目的は未だに達成されていません。果たして無事にマルクたちと合流することは出来るのか、そして『約定』は果たされるのか! リリスが仕掛けた『作戦』の全貌も判明する次回、ぜひお楽しみに!
――では、また次回お会いしましょう!




