第四百二十四話『燻る感情の名前は』
リリスが一つ息を吐くとともに、氷の大槌は再び細かな結晶へと形を変える。大質量に押しつぶされてひしゃげたその機体は完全に沈黙し、もう起き上がってくるとは思えなかった。
念のため目を瞑り、魔力の気配を探る方に意識を集中する。上の階ではまだ何やら魔力の気配がうごめているのが分かるが、今一階付近で感じられるのは今ここにいる三人の魔力だけだ。……敵もいなければ、味方となるかもしれない生存者すらもこの階にはもういない。
それはきっと機械が生み出した悲劇であり、この都市全体が襲撃に対して後手に回らざるを得なかったことの大きすぎる代償だ。都市庁舎は今、ベルメウとしての中枢の機能を果たせなくなる寸前にまで追い込まれている。
ほぼ確定してしまっているその結末に対して抗えるのは、この都市のためにずっと力を尽くしてきた存在だけだ。それが一人でも生き残ってくれるなら、未来に向けてのバトンを繋ぐこともどうにか叶う――の、だが。
「……とりあえず、撃破は完了したみたいだね。ケガはないかい、リリス?」
戦闘が終わったのを確認して、ツバキが足早にこちらに駆け寄りながらそう尋ねる。……その左手には、茫然自失の真っ最中と言った様子のジークの襟が握られていた。
「ええ、私は大丈夫よ。……むしろ、私が心配なのはそっちの方なのだけれど」
「そうだね、これはかなりの重症だと思う。――いきなり職場のこんな状況を見せつけられたら、無理もない事なんだろうけどさ」
ゆるゆると首を振りながら、ツバキは深く一度息を吐く。リリスもそれに倣って息を吐くと、この空間に充満する血の匂いが今更のように鼻についた。
ドアを開けてすぐに機械が居たのは、思えば二人にとっては幸運だったのかもしれない。これ以上ないほどにはっきりと『敵』であることを主張してくれたおかげで、リリスたちの感覚はすぐさま戦闘モードへと切り替わったのだ。五感から入ってくる情報を必要な物だけに絞り込み、何はなくとも目の前の敵を撃破することのみに集中する。それが出来たから、リリスたちは比較的時間を置いたうえでこの状況を見極めることが出来ているのだろう。
だが、それが出来るのは戦いに慣れてしまっている人間だけだ。都市庁舎に努めているとはいえ一般人と言って差し支えないジークには、そんなフィルターをかけている余裕などない。……否応なしに、日常を過ごしてきたであろう場所の変容を理解させられる。
カウンターがあり、待合のための椅子があり、カウンターの向こう側には職務机と書類棚がいくつも並んでいる。破壊されたいろいろな物の残骸からかろうじてそう推測することこそ不可能ではないが、今最も目につくのは床に転がる無数の死体と破壊されたインテリアたちだ。
「……酷なこと、しちゃったかしらね」
「もとはと言えばジークが望んだことだ、君が負い目を感じることじゃないさ。……ここに来られたことが彼にとって幸福なのかどうかは、ボクにもまだ分からないけどね」
リリスと同じようにあちこちに死線をさまよわせながら、ツバキは珍しく答えを保留する。そんなやり取りを聞いているのかいないのか、ジークの眼はうつろなままで宙を見つめていた。
「皆……皆も、死んで……」
まるでうわごとのようなかすれた声がこぼれ、静かなフロアに響き渡る。きっと普段ならば、この場所はもっと賑やかな場所だったのだろう。だが、今は静かだ。全てが破壊された今、この場所には冷たい静寂だけが残っている。
「……ねえ、リリス」
その沈黙がしばらく続いた後、意を決したかのような目でツバキはリリスを見つめる。一見すると迷いがないようなその眼こそが最もツバキの迷いを明確に示すものであることを、リリスはこれまでの経験から知っていた。
あっさりと結論が出せるような問題に対してツバキはこんなに真剣な表情をしない。ツバキはいつだって余裕に満ち溢れていて、その余裕が物事を俯瞰する大局的な視線にもつながる。外から見ると適当なことを言っているような素振りで提案してくるときこそ、ツバキが最も調子のいい時であると言ってもいいだろう。
だが、今のツバキにはそれがない。いつもの飄々とした雰囲気がない。――普段の振る舞いすらも忘れてしまうぐらいに、ツバキは自分の中で答えを出すことに躊躇しているという事だ。
ごくりと喉を鳴らして、リリスは言葉の続きを待つ。受け止める体制になったことに気づいてくれたのか、ツバキも一度ゆっくりと眼を瞑り、視線を一度ジークの方へとやる。……そして、ツバキは改めてリリスの方を向き直って。
「――ボクは、ジークをここに置いて行っていいと思ってる。これからの行動について、リリスの考えも聞かせてほしいんだ」
そんな重たい問いを、リリスへと投げかけてきた。
「……置いていくって、ここに?」
「ああ、ジークの心は重大過ぎるダメージを負ってる。まだ完全に狂うとかそういうレベルじゃないかもしれないけれど、ボクたちの力量でどうにかできる問題じゃないのは確かだ。……ボクたちは冒険者で、心の病を治療する医者じゃないんだから」
裏返りそうになる声を必死に収めながら確認すると、ツバキは重々しく首を縦に振る。決して最初からツバキがその結論に乗り気じゃないことは、それを見れば明らかだった。
「ボクたちの目的はマルクたちを助けることだ、ここに来たのもそのための手段を得るために過ぎない。……ただ、それにはジークの助力が必ず必要だった。いや、ジークが持ってる『知識』って言った方が確実か。とにかくそれは、今のジークに期待しちゃいけないことだ」
虚空に手を伸ばしているジークを指し示して、ツバキは沈痛な声で続ける。そこには、取り返しのつかない失敗を犯してしまったことへの後悔が滲みだしているような気がした。
「本当に万全を期すのなら、ボクの影でジークを覆っておけばよかったんだ。そうすれば先にボクたちが中を確認できて、ジークが何の覚悟もなしに残酷な景色を見ることもなかった。……そうすれば、こんな判断をしなくちゃいけない状況にだってならなかったはずなのに」
「落ち着きなさい、この状況は誰の責任でもないんだから。『負い目を感じる必要はない』、そう私に言ってくれたのは貴女でしょう?」
「……ッ」
とめどなく流れ出る自己嫌悪に思わず口を挟むと、ツバキが息を呑んでこちらを見つめる。じっと見つめていると吸い込まれてしまいそうなぐらいに黒い瞳が、不安を体現するかのように小刻みに震えていた。
「まず現状を整理しましょう。ここは都市庁舎の一階で、ここにいる人は皆あの機械に殺されてる。上の階からならいくつか魔力の気配も感じられるけど、それも大方これと同じような機械の物である可能性が高いわ」
破壊されるその間際、『当機のみの演算』では対処ができないとあの機械は漏らしていた。逆に言うのなら、当機のみで行わない演算の形があるという事だ。機械がいくら束になってこようと負ける気はしないが、同じことが出来る機械が残っている確率が上がったという事が何よりの懸念事項だ。
一体だけでビル型の都市庁舎を根こそぎ壊滅させるのは難しいが、機械一体ごとに範囲を規定し、分担して進めているのなら話は別だ。襲撃の狼煙であっただろう車の暴走から考えて少なくとも一時間は経過している今、隠れ切れている生存者を望むのはかなり難しい。
「ベルメウ全体の魔道具の制御を取り戻したいのなら、ジークは必ず連れて行かなくちゃいけない。……それは、分かってるわよね?」
「分かってるさ。君がこの上を目指すというなら、ボクはジークを引きずってでも連れて行かなくちゃならない。だけど置いて行くって言うなら、ボクたちはここで彼を見捨ててマルクたちを探しに出る。どちらが合ってるとかじゃない、どっちにもリスクとリターンのある選択肢だ。……だからこそ、ボクは君の意見を尊重したいんだよ」
こういう時はリリスの直観に従った方がいいってこと、ボクは知ってるからね――と。
ジークの頼みを前にしたときと同じような表情を浮かべて、ツバキはこちらに選択権を委ねてくる。まっすぐに向けられる視線には、今までとは計り知れないぐらいの重みが乗せられていた。
たとえ怒りや不快感であろうとも、ジークが何か反応してくれたならその方がよっぽどマシだった。現実はそうじゃなく、ただうわごとのように何かぼそぼそと呟きながら時折虚空へと手を伸ばしている。その五感が何を捉えているのか、彼の脳内には今何が居座っているのか。彼は今、何を思っているのだろうか。
「私――わたし、は」
考える。今までのやり取りを、ジークの想いを、そして自分の信条を。リリスが最も優先するのはツバキとマルクの無事で、他のあらゆることが二の次だ。他の何を成したとしても、それが保証されていなければ意味なんてない。英雄の称号も名誉も何もかも、リリスは必要だと思えない。
(――マルクなら、どうするのだろう)
きっと自分なんかよりはるかに英雄に相応しい、けれど自分からなろうとはしないであろうリーダーの思考を、リリスは自分の出来る限りで模倣する。きっとリリスと行動原理は変わらないけれど、それでも色々な人に手を伸ばしてきたのがマルクだ。本当に余裕がなくなればこの手は真っ先に離さなければならないと理解しながら、それでも助けることを端から諦めようとはしないのがリリスの想い人だ。
あのネックレスを贈った時、リリスの中で燻っていた想いにようやくまともな名前が付いたように思う。きっともっとずっと早く始まっていたであろう想いを、ようやく『恋』と呼べるようになった。だから今、マルクに胸を張れなくなるようなことはしたくないのだ。
「誰か……だれ、か」
ふらふらと手を伸ばしながら、ジークはうわごとのように繰り返す。その伸ばす手が、誰かの助けを求めているように見えて仕方ない。……そしてマルクなら、その手をきっと取って見せるのだろう。そして少し申し訳なさそうな顔をしつつ、こう口にするはずだ。
――『悪いな、力を貸してくれ』――と。
「……決めたわ、ツバキ。ジークはこのまま連れて行く。――私は、少しでも多くの人を助けることを諦めたくない」
本当に追い込まれたとき、リリスは迷いなくツバキとマルク以外の全てを切り捨てる。それに罪悪感はないし、間違っているとも思わない。けれど、それはきっと最初から助けない理由にはならない。マルクたちの居所がどうやっても掴めない以上、今のリリスにできるのは精一杯足掻くことだけだ。
「今と言いさっきと言い、反対の結論ばかり出しちゃってごめんなさい。……ツバキの力、貸してもらえないかしら?」
苦笑交じりにそう言って、リリスはツバキに手を伸ばす。それを見たツバキは驚いた様子で目を見開いたり軽く袖でこすったりしていたが、やがてにっこりと優しい笑みへと変化していって――
「ああ、もちろんだよ。何せボクは、君の相棒なんだからね」
――ツバキの口からはっきりと紡がれた心強い言葉を締めに、二人の方針は改めて決定された。
今までずっとそれらしい動きは見せていましたが、どうやらようやくその感情に名前を付けることが出来た様です。その傍から離れ離れになっているのは運命の悪戯としか言いようがありませんが、果たしてこの関係はどう変わっていくのか! ぜひご期待いただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




