第四百五話『急転直下』
「二人とも、手を離せ! ――そいつは、間違いなくヤバい‼」
曲がりなりにも『双頭の獅子』の一員として生きてきた三年間の経験が、そして『夜明けの灯』として生きてきた半年と少しの記憶が、その全てが目の前の男を危険人物だと断定する。ともすればアグニと同程度――いや、それ以上にマズい。まともに相手取ったら百パーセント命はないと、そんな不吉な確信が俺の中で完了してしまっている。
二人もそれを直感したのか、手を離した俺たちは別々になって地面へと落下していく。軽くなっている影響で落下速度が遅くなるなんてこともなく、俺たちは今まで見降ろしていた場所へと自由落下する形になった。
どうにか体を捻り、一人変な場所へと墜落しないように奮闘する。俺の想定通りにいかなければもちろん潰れた肉塊になっておしまいだが、あのまま空の旅を続けていたところで俺たちは切り刻まれて肉塊と化していたことだろう。……同じ肉塊になる可能性を孕んでいるのなら、少しでも足掻く以外に選択肢はない。
落下していくことへの恐怖を生存本能で打ち消して、俺は大きく息を吸いこむ。――そして、俺よりも少し上空に見える背中に向かって大きく声を張り上げた。
「レイチェル、着地の補助は頼んだ――‼」
体が風を切り裂く音に負けないように声を張り上げ、喉が枯れることも厭わずに俺は叫ぶ。……意を決して眼下をちらりと見れば、硬い石畳がもうすぐそこまで迫っている。この声が届いていなければ、俺の命はあって後十秒かそこらだ。
だが、届いていればいくらだって延命のチャンスはある。それを信じながら少しでも体勢を整えると、俺の背中に柔らかい風の感覚が伝わってきて――
「……守り手様、お願い‼」
レイチェルの叫び共に炸裂したそれが俺たちの身体を柔らかに跳ね上げ、落下していた俺たちの速度をギリギリのところで相殺する。それだけにとどまらず、地上で俺たちの落下を待ち受けていた下っ端たちは風によって方々へと吹き散らされていた。
期待通り――いや、それ以上の成果を土壇場で見せてくれたことに内心全力で感謝しながら、俺は地面に柔らかく着地する。それに少しだけ遅れて、ユノとレイチェルも無事降り立つことに成功していた。
「……よかった、二人ともケガはないよね……?」
「ああ、お前のおかげで無事だよ。そうじゃなきゃ今頃潰れた肉の塊になってるところだった」
「それを言うなら先に気づいたマルクさんもですよ。貴方が迷いなく決断していなかったら、自分たちはあの剣に捉えられているところだった」
各々の無事を確認しながら、俺たちはとりあえず安堵の言葉を漏らす。……だが、状況は決して芳しくなかった。
あの男が墜落してくれているならそれに越したことはないが、転移魔術を使える存在が落下程度で負傷するとは到底思えない。アイツは『違う』とか言っていたが、あれだけ離れた距離を一瞬にして詰める魔術を転移魔術以外だと考えるのは無理がある話だ。そうじゃなきゃおかしいと、俺の経験が告げている。
ふと辺りを見回せば、『十番街』と書かれた看板の残骸が地面に転がっているのが見える。俺たちが合流したのが十四番あたりの所だったことを考えれば随分と短縮は出来たが、それでもここから丸々一区画分移動しなければいけないというのは大問題だ。……それも、あの怪物の襲撃を躱しながら。
それに、問題になってくるのはあの男だけではない。空路を行く俺たちを目にした下っ端たちも、かなりの数ここにいる。レイチェルが吹き飛ばしてくれたことで頭数は減っていたが、それでも俺たち三人で相手するには酷な量であることに間違いはなかった。
そんなことを考えている間にもレイチェルに吹き飛ばされた下っ端たちは立ち上がり、全方位からじりじりと距離を詰めてきている。それを突破することが出来なければ、あの男がどうこうというのも全て机上の空論だ。一つ一つ突破していくしか、ない。
「お二人とも、後ろは任せてください。道を切り開くのは貴方たちに託します」
「そうだな、それが最適解だ。……行くぞ」
ユノから出された案に即座に乗っかって、俺とレイチェルはユノに背中を預ける。そうしている間にも包囲網はじりじりと狭まり、俺たちを搦め取ろうと牙を剥く準備を整えている。……いざとなれば、出し惜しみはしていられないだろう。
腰に差した魔銃にも触れながら、俺たちは身構える。そしてついに、俺たちの間に成立していた妙な均衡が消滅して――
「――儂の愉しみを奪おうとは大した度胸だな、木っ端ども」
俺が剣を抜きレイチェルが魔術を展開しようとした寸前で、男の不機嫌そうな声が耳朶を打った。
それと同時、俺たちの目の前にいた二人の下っ端の胴体が不自然な場所で折れ曲がる。そのまま崩れ落ちた二人の背後に立っていた男はブルリと身を振るわせたかと思えば、右斜め前にいた下っ端の胴体に剣が突き刺さっていた。
「……何、だ?」
そのまま血しぶきを上げながら倒れ伏す下っ端の姿を、俺はあっけにとられながら見つめることしかできない。……目的を同じとする味方同士じゃ、ないのか?
俺の理解が追いつかないままで、男による下っ端の蹂躙劇は続く。誰一人として声を上げることすらできないままにその命は次々と散っていき、形成された包囲網は三十秒と経たずに崩壊した。
「まったく、アグニの小僧も教育不足じゃな。『ベガ・イグジスには敵の位置だけ伝えればいい』と、そう教え込むだけで十分だというのに」
全てを終わらせた男――ベガ・イグジスは、呆れた様な表情を浮かべてアグニへの愚痴をこぼしている。……それを聞けば、やはり俺たちの敵でしかないことは一瞬にして理解できた。
これで敵を装った協力者だったら、どれだけ状況は好転しただろうか。だが、そんなものは希望的観測でしかない。俺たちに向けて放たれていた殺意も、間違いなく本物だったのだから。
複と同じぐらいに真っ白な毛髪はところどころ返り血に染まり、まるで血の色をそのまま落とし込んだような真紅の瞳が正面に立つ俺たちを捉えている。だが、それよりも目立つのは左右にピンと尖った、見覚えのある耳の形状だった。
「……エル、フ……?」
「左様、直接目にするのは初めてかの? ――いやあり得ぬか、貴様の仲間にはエルフもおることを失念しておった。寄る年波とやらは無情な物じゃ」
冗談めかしてそうこぼし、ベガは楽しげに笑う。まるで世間話でもしたかのように、だがしかしその全身からあふれ出す闘気は一切薄れることなく。……これを相手に意表を突くことは不可能なんじゃないかと、そんな思いすら頭をよぎった。
「同族と戦う機会を逸してしまっていることだけは残念じゃが、なかなかどうして残りの二人も気骨のある童と見える。超然としたあやつがあれほどまでに執着するのも納得と言うものじゃな」
「……悪いけど、その執着とやらに構ってる暇はねえんだよな。そこをどいてくれねえか、爺さん」
竦みそうになる足を必死に踏みとどまらせ、俺は剣に手をかけながらそんな問いを投げかける。……だがしかし、それに対して返ってきたのは心底楽しそうな笑みだけだった。
「かかかっ、儂を前にしてまだ『爺』と呼ぶだけの度胸があるか! 佳いぞ、想像以上に佳い! 壊してはならぬと言いつけられておるのが煩わしくて仕方がないぐらいにの!」
まるで新しい玩具を買い与えられた子供のように純粋な表情で、全身を大きくゆすりながらベガは喜びの感情を爆発させる。何がこいつの好感度を上げるためのトリガーとなるのか、俺には全く以て見当がつかなかった。
今までに相対してきた襲撃者たちと同じだ。一見言葉が通じているように見えても、その実意図なんて一つも噛みあっちゃいない。根底にある考え方が違うせいで、どうやっても同じ視座に立って話すことが出来ない。……この男の心理を読もうなんて、やるだけ時間の無駄だ。
そんな結論を下すと同時、こちらを振り向いていたユノが腰に差した剣に手を触れる。純然たる敵意をその眼に宿して、ベガの姿を見つめていた。
「……御託はそこまでだ、襲撃者。ベルメウを破壊したことの報い、一つ残らず受けてもらうぞ」
白銀に輝くその刀身を露わにしながら、ユノはベガに宣戦布告する。……しかし、それを受けたベガの反応はとても面白くなさそうなものだった。
「誰だ貴様は、木っ端に口を開く権利など与えておらんぞ。折角興が乗ってきたというのに、場の空気が読めん小僧を相手にすると面倒なものじゃな」
一瞬前まで喜びに満ち溢れていた表情が一気に不快感に満ちたものに変じたと同時、ベガから放たれる圧迫感がより一層強いものになる。……今までに積み上げてきた経験だけでは振り払いきれない根源的な死への恐怖が、俺の足に絡みついた。
どこまでも、ベガは他者を見下している。常にベガは俺たちを品定めする側で、その命が繋ぎ留められているのはアイツがそういう気分じゃないからに過ぎない。……そうなってしまえば、俺たちを待つ結末はとてつもなく悲惨なものだ。
どうにか首だけを動かしてレイチェルの方を見やると、神のように白くなった顔が俺の視界に飛び込んでくる。……これだけ強烈な殺気に中てられているんだ、立って居られているだけでも大健闘だった。
「童どもには気遣わなければならぬが、そういえば木っ端の扱いには何一つとして命令が下されていなかったな。いいだろう、木っ端の蛮勇に応えてやる」
侮蔑に満ちた言葉を吐きながら、ベガはゆっくりと腰に差した剣を引き抜く。――その刀身は、まるで血を吸い上げてしまったかのように赤黒い光を放っていて。
「確か、『騎士剣は守りの剣術』――とか言ったか。なら、こちらから行くのが木っ端への温情よな」
不吉な輝きを放つ剣を地面スレスレに構えて、ベガは低い声でそう呟く。その次の瞬間、ベガの姿が一瞬にして視界から掻き消えて――
「づ、ああああッ⁉」
「ほう、騎士剣術の看板に偽りなしか。木っ端は木っ端でもアグニの小僧が教育したアレよりは優秀と見える」
その直後に甲高い金属音が響き渡り、ベガの剣戟を受け止めたユノが大きく後ろへと後ずさる。それでもその一撃の威力は殺しきれておらず、完全にベガが押し込む形になっていた。
何が起きたのかは全く分からないが、アレが俺では受け止めようのない攻撃であることだけははっきりと理解できる。……ベガは、ここにいる誰よりも絶対的な強者だ。
「じゃが、受けるだけの剣術など下らぬものよ。木っ端なら木っ端らしく無軌道に足掻く方が、儂にとってはまだ娯楽足りうる」
そんな予感を裏付けるかのように、ベガが剣の柄に添えていた左手を外してゆっくりとユノの構える刀身へと近付けていく。文字通り手抜きとしか思えないその挙動に、しかしユノは何も対抗策を打てず。ついにはその手が、刀身を優しく握りしめて。
「……木っ端らしく、無残に散るがよい」
――ベガがそう口にした瞬間、ユノの騎士剣が悲鳴のような高い音を放つ。……よく鍛えられていることが一目でわかる白銀の刀身が、その半ばで無残に圧し折られていた。
突如現れた規格外の刺客、果たしてマルクたちは九番街へたどり着けるのか! 物理的にも状況的にも急転したこの後に何が待ち受けるのか、ぜひお楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




