第四百三話『危険人物』
レストランの襲撃にアグニが直接関与しているという情報が津k得たされるだけで、騎士団を取り巻く状況の危険度は一気に跳ね上がる。いくら騎士団を統べる二人が食い止めていると言えども、アグニを完全に抑え込めるビジョンは中々想像しづらかった。
アグニ達の組織が分かりやすい恰好をしてくれていて本当によかったなと、俺は初めてそんなことを思う。何も心構えをすることなくアグニの名前を聞かされていたら、驚くなんて表現では済まないぐらいに俺は混乱していたはずだ。そんな中で正しい判断を探し求めるなんてこと、とてもじゃないが出来るとは思えない。
「……マルクさん、その名前がどうかしたのですか?」
あれこれと考えているのが表情に出ていたのか、ユノがこちらを覗き込みながら少し遠慮がちに問いかけてくる。その眼には微かな不安が宿っていたが、それを振り払ってやれるだけの要素は持ち合わせがなかった。
「ああ、俺にとっちゃ絶対に忘れられねえ名前だよ。……アグニ・クラヴィティアは、どんな手を尽くしてでも野放しにしちゃいけない奴だ」
古城で好き勝手暗躍されたことを思い出しながら、俺はユノの問いに頷きを返す。結果的にその目論見を阻むことこそできたが、半年たった今でもあの事件は最も後味が悪いものの一つだった。
結局主犯格のアグニの足取りを掴むことは出来ず、リリスとツバキでも、そして吹っ切れたアネットでも仕留めることが出来ず。その上俺のハッタリまで見抜いて逃げ切って見せたのだから、俺たちは誰一人としてアグニに勝てていないのだ。あの事件に関しては甘く見積もって引き分けでしかないし、何なら『俺たちの負け』だと言われても反論できない。
そして今回、アグニ達の目論見通り奇襲を受けた俺たちは一瞬にしてこんな状況にまで追い込まれている。あの時は俺たちの存在が完全にイレギュラーだったわけだし、この結果こそがアグニの本領だと言えるだろう。このままアグニの手のひらの上から抜け出せなければ、待っているのは絶対不可避の敗北だ。
「マルクがさっき呟いてたの、その人の名前だったんだね。……なんというか、凄く怒ってるような感じだった」
「ああ、アイツとは一生かかっても分かり合えないからな。……その上で俺たちにぶつかってくるって言うんだったら、完膚なきまでに叩きのめすしか選択肢はねえ」
合点が言ったような様子で声を漏らすレイチェルに、俺は語気を強めて返す。アグニ達との因縁がどこまで続くことになるのかはともかく、その結末はどっちかが潰される以外にない。全てが終わった後に俺たちが肩を並べられるなんて、そんな美談じみたことは絶対に起きえない。そう断言できてしまうぐらいに、俺とアグニの考え方は致命的に食い違っていた。
アグニの持論が本当に正しい『大人』の在り方だというのならば、俺は一生大人になってならないでいい。大切なもの同士を平気な顔で天秤にかけてしまえるようになった自分の事なんて、想像することさえしたくないほどにおぞましかった。
「……ユノ、ちょっと計画を変更させてくれ。騎士団を統べる二人が戦ってるなら安心できてたけど、その相手がアグニだって言うんなら話は別だ」
世界そのものを皮肉るかのようなあの笑みを思い返しながら、俺は先を急ぐことを提案する。ロアルグやガリウスの実力を疑いたいわけではないのだが、リリスとツバキのコンビを単独で相手取れる奴と向き合っているとなると余裕は全くないと言ってもよかった。
アグニ曰く自分は『凡人』であるようだが、その自己評価は見当違いもいいところだ。策士としても戦士としてもアグニは一流の領域にあり、その料率こそがアイツをさらに面倒な存在へと押し上げている。……それこそ、野放しにすれば何人の犠牲が出るか想像もできないほどに。
もしも俺たちが到着する前にガリウスたちが敗北していたら、逆転の眼はほぼ潰れると断言してもいいだろう。トップを欠いた騎士団たちで食い止められるほど、アグニ達の勢いは中途半端なものではない。
それに、レイチェルが果たすべき『約定』の所在地を詳しく知るのはガリウスを含めた一握りの人間だけだ。もし仮にガリウスとの合流に失敗すれば、俺たちが『約定』を果たせる可能性は大きく下がる。……それはつまり、この襲撃を終結させられる手段を失うという事でもあるわけで。
「危ない橋にはなるけど、このままガリウスたちを放っておくほうがもっと危ねえ状況なんだ。……二人とも、俺の提案に乗ってくれ」
何も誇れることじゃないが、アグニの危険性を一番知っているのはあの古城に居合わせた俺たちなのだ。それが少しでも二人に伝わっていることを願いながら、俺は二人に頭を下げた。
やはり即答と言うわけにはいかず、人気のない通りに沈黙が落ちる。その一秒すらも惜しく感じ始めたその時、ユノがおずおずと口を開いた。
「アグニ・クラヴィティアがもしも支部長を打ち破るようなことがあれば、ベルメウは間違いなく滅びの道へと向かう。……マルクさんが言っているのは、そういう事で間違いないですか?」
赤みがかった灰色の瞳が、俺の強張った表情を映し出す。口調こそ少し遠慮がちだったが、その視線はブレることなく俺を射抜いていた。
「ああ、まず間違いなくそうなる。ベルメウの被害を少しでも抑えたいなら、何を差し置いてもアグニを自由にさせないのが最優先だ」
アグニが属する組織の全貌はまだ見えていないし、もしかしたらアグニ以上の脅威がベルメウを完全に滅ぼすために控えているかもしれない。だが、そんな可能性まで考慮していられるほどの余裕がない事は疑いようのない事実だ。……今は、少しでもアグニの描いた計画を歪めることがベルメウの守護に繋がると信じるしかない。
「そう、ですか。……そうだというのなら、『先を急ぐ』以外の選択肢は自分にありませんね」
その答えを聞いたユノは、拳を固く握りしめながら首を縦に振る。瞳の中に僅かに残っていた迷いは、このやり取りを経て綺麗さっぱりと消えていた。
どこかおどおどとした雰囲気も消え、立派な騎士としての風格を再びユノは纏う。それにどれほどの自覚があるのかは分からないが、その威圧感だけならば普段のガリウスぐらいは余裕で上回っているだろう。とても入団したての新米だとは思えないぐらい、今のユノは様になっていた。
「『騎士の名を冠する以上、僕たちは何としてでもこの街を守る必要がある』と、入団式の時に支部長はおっしゃいました。たとえ守れない命が生まれてしまうのだとしても、ベルメウという都市の根幹だけは絶対に殺されてはならない――と。それはベルメウ支部の鉄の掟でもあると同時に、支部長自身が騎士として建てるたった一つの誓いでもあります」
「……ガリウスさんの、誓い――」
「はい。普段は真剣な様子をひた隠しにする支部長が、唯一茶化すことなく自らに課している物です。……支部長の指揮下にある騎士として、それが破れる危機は絶対に見逃すわけにはいきません」
握り締めた拳がゆっくりと開かれ、腰に吊った剣に触れる。……その決意表明を、俺はかすかな驚きとともに聞き届けていた。
俺たちの知るガリウスは、いつも飄々としていてつかみどころを見せず、その癖訳の分からないタイミングで話の核心に切り込んでくる面倒な奴だ。ロアルグの振る舞いを結構な間見てきたこともあって、その在り方はどうしても騎士らしくないものとして映っていた。
しかし、ユノの口ぶりにはガリウスへの確かな信頼がある。その誓いはロアルグが話している理想とは少し異なっていたが、それでも何かを守ろうとする意志がある事には変わりなかった。
だからと言ってレイチェルにしたことがチャラになるかと言われたらそんなことは全くないが、それでも少しだけ印象は良化する。今もガリウスがこの都市を守るために戦っているというのなら、それに全力で手を貸すのが騎士団に同行してきた者としての役割だろう。
「あたしも、急ぐのには賛成だよ。あたしたちが出来るだけケガをしないようにって時間を使う分だけ、ガリウスさんはどんどん危ない状況になっていくんでしょ? ……そんなの、絶対にあっちゃいけないと思う」
ユノの意思表明が終わったとほぼ同時、レイチェルも賛成の意志を固める。その理由には危うさがあったが、それも込みで今のレイチェルらしい決断だという事なのだろう。……もう少し自分を許せるようになってくれるのを祈りながら見守ることぐらいしか、今の俺にはできないみたいだからな。
「ああ、ありがとう。……早速で悪いんだけど、二人の魔術を頼らせてもらっていいか?」
俺たち三人の意志が一致したのを確認してから、俺は改めて話を切り出す。先を急ぐという提案ができたのは、それだけ時間短縮できる方法が思いついたからだ。ユノが自分の魔術を明かしてくれなけレば、この発想に至ることは出来なかった。
「はい、自分にできることならいくらでも。この街の危機を一番正しく把握しているのはおそらくあなたですから」
「うん、マルクの言う事なら信じられるよ。あたしの力でよければいくらでも利用しちゃって」
「返事が早くて助かるよ。……それじゃ、早速頼らせてもらうか」
二人を交互に見つめながら、俺は素直な協力に心からの感謝を告げる。改めて二人が出来ることを思い返した後、俺は二人の手のひらをそれぞれ指さして――
「ユノの魔術、重くするだけじゃなくて軽くもできるって言ってたよな。……それで俺たちを軽量化してレイチェルの風に乗れば疑似的に空を飛べると思うんだけど、どうだ?」
――最後に青々とした空を指さして、そう告げた。
一路ガリウスの下へと向かうべくマルクが打ち出した策、果たして成功となるのかどうか! 決着へ向けて加速する第五章、まだまだお楽しみいただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




