第三百五十三話『目覚めと災難の山』
「マルク。……ねえマルクってば、聞こえているの?」
「ん……あ?」
少しじれったそうなリリスの声を呼び起こされて、俺の意識は現実へと浮上していく。なぜだか背中がずきずきと痛くて目を開けてみれば、呆れた表情を浮かべるリリスの姿が目に飛び込んできた。
「まったく、やっと目を覚ましたわね。起きたら布団に居ないわ返事してもなかなか起きないわで私たちも結構焦ったのよ?」
少しだけ安心したような表情を浮かべた後、リリスは俺にそんなことを言ってくる。……そう指摘されて初めて、俺は壁にもたれかかっていることに気が付いた。
それもただの壁際じゃない、ここはロアルグが作ってくれた読書スペースだ。俺が寝ていたはずの布団が遠くに見えることが、その信じがたい事実を補強していた。
「あれ……なんでこんなとこで寝てんだ、俺」
「それはこっちの質問よ。どういう寝相をしてたら布団からこの本棚まで移動して、おまけに仕切りとライトまでつけて寝るなんて芸当ができるの?」
いかにも訳が分からないといった様子で、リリスは俺の方をまっすぐに見つめてくる。その疑問に答えるための記憶を頭の中から探そうとするが、生憎そのための情報は少しも残っていなかった。
夜中に何か夢を見て起きたような気はするが、それだけだ。そこから本棚のあたりに移動したつもりはないし、仕切りを上げたり読書したりした記憶なんて微塵もない。今ここで起きたという事実と背中にかいた大量の脂汗のべっとりとした嫌な感触だけが、このどう考えてもおかしい状況をどうにか現実だと証明してくれている。
「今回もお前の冗談――なんてことはないよな、流石に」
「ないわよ、だったらもうとっくに話しているわ。というか、私の方こそ貴方にからかわれていると思っていたのだけれど」
「んなことねえよ、俺も本気でこの状況が分からねえ。今日にはベルメウに着くってのに、どうしてこんな寝心地悪いところで俺は寝てんだ?」
原因として一番あり得るのが寝ている間に馬車が大きく傾いたことなのだが、それだと俺だけがここにいることの説明が付かない。反対側の壁まで滑り落ちてしまうぐらいの傾きなら身体能力なんて関係なく皆こっちの壁に寄るはずだし、何なら他の設備だって滑り落ちていなきゃおかしいんだ。
「……一体、何が起こってる……?」
起き抜けに襲い掛かった難解な状況に、俺は唸り声を上げることしかできない。俺の身に何かが起こった事は理解できても、その『何か』の部分がすっぽり抜け落ちてしまっているのが問題だった。
「あ、マルクもやっと起きたんだね。どうしてこんなところで寝てたのか、その理由は聞けたかい?」
目の前の謎に二人揃って沈黙している中、身支度を整えていたらしきツバキが笑顔で歩み寄ってくる。リリスはその問いに首を振ると、困ったものを見るような様子で俺の方を目で示した。
「それがねツバキ、マルク自身もここにいる理由を覚えてないって言うのよ。最初は冗談の類かと疑ったけど、この反応は本気で言ってるときのそれだわ」
「そりゃ嘘を吐く理由もないしな、俺の脳内は戸惑い百パーセントだよ。仮に布団が寝心地悪かったんだとしても壁際じゃなくて椅子で寝るだろうし、こんなところにいる意味が分からねえ」
現に背中は今鈍く痛んでいるし、壁際で寝たことによって得られたメリットは間違いなくゼロだ。誰も意識的にやっていないなら後に残るのは俺が寝ぼけていた可能性ぐらいなのだが、だとしてもこんなに移動することなんてそうそうあることじゃないだろう。
「……だけど、それ以外に考えられる可能性ってなさそうなんだよなー……」
「貴方の寝方に貴方が戸惑ってどうするのよ……」
あまりに理解できない状況に頭を掻いている俺を見て、リリスは深くため息を吐く。その隣ではツバキが俺の周囲へと視線をやっていて、やがてそれは一冊の本へと向けられた。
「……もしかしてマルク、寝ぼけながらこれを読んでたんじゃないのかい?」
「あー……だとしたら、寝ぼけた俺も相当ベルメウに向けて気合を入れてるってことになるな」
その本を丁寧に拾い上げ、表紙などを確認してからツバキは俺に向けて差し出す。その正体を目にした俺は、苦笑とともにそんな答えを返すしかなかった。
綺麗な装丁に『精霊の献身』というタイトルがでかでかと配置されたその表紙には、幸せそうな二人の人物の全身がデフォルメされて描かれている。このデザインの感じを見るに、どこかで商品として販売されていたものをロアルグが買いこんで資料として加えたのだろう。
この約定のもとになった御伽噺だし、資料を充実させるならそりゃこれもあった方がいいからな。脚色が二割含まれているとはいえ、裏を返せば八割は真実を書き記しているのがこれの凄いところなわけだし――
「……づ、あッ⁉」
そこまで考えた矢先、俺は激しい頭痛に襲われる。生まれ育った里での記憶を思い出そうとするときに走るのとよく似た、不愉快な痛みだった。
理屈も原理も飛び越えたようなそれは、俺がある一定の記憶に触れようとするのを罰するかのように痛みを与えてくる。それが何を守りたくてそうなっているのか、誰の意図がそこに絡んでいるのかも分からないまま、俺はその思考から撤退せざるを得なくなるのだ。
「マルク、今度はどうしたの⁉」
突然頭を押さえて呻きだした俺に、二人は心配そうな様子で肩を掴んでくる。遠くで荷物を整理していたレイチェルも驚いたような視線をこちらに向けているあたり、かなり大きめの声を上げてしまったようだ。
「大丈夫、だ。この痛みを引かせる方法は、経験上把握してるからな」
一瞬にして荒くなった呼吸をどうにか整えて、俺は二人と視線を合わせる。意識をあの御伽噺から逸らした瞬間に痛みが消えたところを見るに、どうやら原因はアレの中にあるようだ。
そうと分かればそのことを考えなければいいだけの話なのだが、今回の事件に関してはそうはいかない。約定を理解するために、御伽噺の存在は避けて通ることのできないものなのだから。
「……その言葉、信じるわよ?」
「信じてくれ、現に痛みは引いてきてる。この痛みは風邪とか体調不良の類じゃねえからな」
種類で言うのならば呪いとかそっちの方に近いのかもしれないが、それを今言い出したところで状況が好転するわけでもないしな。あの痛みが俺の思考次第で何とかできるものな以上、無用な心配を二人にかけるわけにもいかなかった。
「そっか、それならボクも安心したよ。なんせベルメウまでもう少しなんだ、アクシデントを抱えたまま街の中に向かうのも問題があるからね」
体のあちこちを動かしながら健在をアピールした俺に、ツバキが安堵した様子でそんなことを伝えてくる。それをきっかけに耳を澄ましてみれば、周囲からは確かに騎士団のものとは違うざわめきのようなものが聞こえてきていた。
「……え、もうそんな時間なのか?」
「そうよ、もうすぐ太陽が南に上りきる頃合いなんだから。……もっと言うなら、本来もう街の中に入っていてもおかしくない時間帯なのよ?」
大真面目な表情で答えたリリスを見て、俺の背筋にさっきまでとは違う冷や汗が伝う。ついに街中へとたどり着くというのに、その当日に俺はとんでもない寝坊をかましてしまったようだった。
「最後の最後で何やってんだよ、俺……‼」
未解決の疑念とか魔物の襲撃とかはちょこちょこあるにせよ、ここまでの六日間は特に大きなトラブルもなくうまいことやってきたはずだ。なのに最終日にこの体たらく、まるで今までのツケを返すかのようなやらかしぶりじゃないか。変な寝方はするし頭痛に襲われるし寝坊はしているし、とにかく何もいいことが起きていない。
自分の詰めの甘さに思わずため息が出そうになるが、寝相と頭痛に関してはもう何を言っても仕方がない事だ。……せめて、せめて最後のやらかしだけはカバーしなければ。
「マルク、とりあえず着るものはまとめておいたよ。本格的な着替えは後にして今は見かけだけでもしっかりさせとけば問題ないって、御者さんがさっきアドバイスしといてくれたから」
俺が着替えの在り処を探していると察したのか、ツバキが足元から服一式を俺の方へと放り投げてくれる。ズボンの上からもう一枚ズボンをはくのは何となく違和感があったが、現状それ以上の策は見つかりそうにもなかった。
大慌てで俺は上下の服を着て、乱れた襟をおぼつかない手つきで整える。この半年で何回か礼服を着る機会もあったのだが、何回着ても服に着られているような違和感は残ったままだ。
「これで一応大丈夫……だよな?」
「ああ、それだけきっちりすれば大丈夫だね。ぎりぎり間に合ったみたいで何よりだよ」
肩口を手で払いながら確認する俺に、ツバキが笑みとともにその出来に太鼓判を押す。それに安堵の息を吐こうとしたのも束の間、ずっと止まっていた馬車が軽い振動とともに動き出した。
本当に走っているかどうかも疑わしくなるぐらい静かに走るこの馬車も、動き出す時だけは相応の振動を避けられないらしい。俺が寝てるときにもそれはきっとあったはずなのだが、どうしてこれだけの揺れを受けてまだ壁で眠っていられたのかは謎のままだった。
だがきっと、それをのんびりと考えている暇などはないのだろう。緊張感がありながらもどこか穏やかだった移動時間はもう終わり、ベルメウへと降り立つまであともう少しだ。……そしてそれは、数百年の時を超えた約定を果たす時が近づいているという事でもあるのだから。
「さて、管理官がお呼びみたいだね。行こうか、皆」
窓を叩く軽やかな音に反応して、ツバキがいつも通りの様子で俺たちを促す。その慣れたような振る舞いを見ていると、俺の緊張も少しだけほぐれていくような気がした。
不穏な要素は数多く、しかしそれらに答えは出ないまま一行はベルメウへと向かって行きます。果たしてマルクの身に何が起きているのか、そしてベルメウの街には何が待ち受けているのか! ぜひご期待いただければと思います!
――では、また次回お会いしましょう!




