第三百十三話『突き付けられた天秤』
「バルエリスッ‼」
俺と同じ事実に気づいたリリスは即座に地面を蹴り飛ばして、倒れ伏すバルエリスの下へと一秒でも早くたどり着こうと駆ける。普段は壮大さを感じさせる城の広さが、今だけはとてつもなく恨めしく思えた。
地面に転がる物も器用に交わしつつ、最短ルートで進むリリスの身のこなしには一切の無駄がない。……だがしかし、唐突に聞こえた笑い声にその足取りは停止を余儀なくされていた。
その笑い声の出どころは、バルエリスと重なるようにして倒れ込むもう一つのシルエット。カラカラと乾いた常に何かをあざ笑っているようなその声には、俺たち全員聞き覚えがあって――
「……アグニ・クラヴィティア……‼」
「おう、三日ぶりだな。……ずいぶんと疲れた声をしているが、何かあったか?」
この計画の中心人物と言ってもいいその名前を口にすると、アグニは白々しい様子で俺たちに挨拶を返す。倒れているところから見るに消耗はしているのだろうが、それでも普段の軽薄さはまだ抜けきっていなかった。
「……まさか、あの人が言ってた計画って」
その俺の一歩後ろで、メリアが驚きを隠しきれないといった様子でこぼす。その口調から考えるに、やはりアグニとメリアは初対面じゃないのだろう。……おそらくだが、クラウスも。
「何があったか、ですって? ええ、そりゃ色々あったわよ。……でも一つ、これだけは断言してあげるわ」
俺たちをおちょくるようなアグニの問いに、リリスは立ち止まって低い声を上げる。氷の槍が無数に生み出されて、地面に倒れ伏しているであろうアグニへと照準を合わせた。
「あなたを殺したら、この面倒事もすべて終わる。……残念だったわね、計画は失敗よ」
「っはは、相変わらず強気な嬢ちゃんだ。まあ、今回ばっかりは何も言い返せねえが」
剣呑なリリスの態度に怖気づくことなく――いや、むしろそれを好ましく思っているかのようにアグニは笑って言葉を返す。この距離からじゃ倒れている以上のことを理解することは難しいが、どう考えても詰んでいるはずの状況でその余裕を残せるのが恐ろしかった。
「ええ、だからここでおとなしく死になさい。これ以上あなたと話す価値はないわ」
「まあまあ、そう焦って話を進めるもんじゃねえよ。……無防備に倒れてる女一人道連れにするぐらいだったら、今の俺にだってできねえわけじゃないんだから」
くつくつと笑いながら、まるで世間話の一つでもするかのようにアグニは恐ろしい事実を突き付けてくる。バルエリスの命は、未だアグニの手のひらの上にあった。
「なら、それより早くあなたを殺せばいいだけね」
「その氷の槍でか? 冗談言うんじゃねえよ、それで俺だけの命を狩り取ろうってのは無理がある話だ。それが分かってるから、お前も脅すだけで実行には移さねえんだろうが」
より増したリリスの殺意にも、アグニは飄々とした様子で返す。……アグニ・クラヴィティアという人間の恐ろしさを、俺は初めて目の当たりにしているような気がした。
二人の会話には常に無数の死がつきまとっているはずなのに、アグニの言葉からはその重みを感じない。まるで死が傍にあることが日常の一部であるかのように、死に対して揺れ動くものがない。
究極的な話をするのなら、こいつはこの場所でものんびりとしたカフェでも同じような雰囲気を纏って会話をしてしまえるのだろう。――どれだけの死を見てくれば、そこまで達観して死を見ることが出来るんだ。
「こいつを道連れにしてでも俺を殺したいって言うんなら、それはそれで構わねえが……だが、それじゃあ俺たちの目的を阻止したとは到底言えねえな?」
言葉を詰まらせるリリスに対して、アグニは挑発するようにさらに言葉を重ねる。氷の武装を無数に携えているはずのリリスが、会話の主導権を完全に奪われていた。
『覚悟とは優先順位をつけることだ』なんて教えてくれたのはリリスだったが、そうやって切り捨てられるのは二つの事柄の間に明確な差があるときだけだ。その原則をこの問いかけにも適用しようとするには、俺達はバルエリスと言う少女に肩入れしすぎていた。
バルエリスを守ろうとすれば、俺達はアグニのことをみすみす見逃すしかない。逆に殺そうと思うのならば、必然的にバルエリスは巻き添えになって死んでしまう。……殺すか生かすかというひどく単純な二者択一だけが、リリスの前に横たわっていた。
アグニの命『だけ』をどうにか狩り取ろうにも、そのための行動を取った瞬間にアグニはバルエリスを手にかけるだろう。その可能性を思えば中途半端な折衷案は何もかもを取りこぼす可能性のある最悪の一手であり、安易に選ぶべきものじゃない。……結局のところ、どちらかを選ぶしかないのか。どちらも生かすかどちらも死なせるかしかない、最善なんてあり得ないような二択を――
(……いや、少し待ってくれ)
二つの選択肢に目をやって、そのどちらにも『嫌だ』と首を横に振る。そんな我儘な子供のような思考を何度か繰り返したのちに、俺の脳は一つの違和感を拾い上げた。――なぜ俺たちは今二者択一に臨めているのだろうという、ひどく初歩的な疑問を。
バルエリスを殺してしまえば、アグニの目的は達成される。それが百パーセントかどうかは分からないが、アグニの言葉を思うにそれは確かだ。……なら、どうしてアグニはリリスを呼び止めた?
交渉まがいの回りくどいことなどしなくても、共倒れのような状況になってすぐにアグニはバルエリスの命を奪ってしまえばよかった。そうすれば最悪でも相討ち、うまく行けば転移魔術で逃げ切れるという最高の展開も十分にあり得る。そんな簡単な選択肢、まさかアグニが気づいていないという事はありえないだろう。
(……もし、それが出来ないような『何か』があるんだとしたら)
ある種の信頼とも言っていいアグニへの分析が、俺の脳裏に僅かな可能性を提示させる。その可能性が示す先に賭けることだけが、アグニの二択を否定するための唯一の道のりのように思えた。
当然、失敗すればここまで積み重ねてきたものはすべてチャラだ。どちらか一つを選ぶことすらできず、両方を取り落としてこの戦いは終わる。……仮に成功したとしても、きっと俺は後でこってりと絞られることになるだろう。
(……それでも、やるしかねえ)
どっちかを選んでどっちかを手放すとか、そんな選択肢はまっぴらごめんなのだ。最後までアグニの命は奪いに行くし、バルエリスのことだって絶対に助け出す。……全部拾いきるための我儘を通した仲間のことを、俺は隣で見てきたじゃないか。
「……さあ、選べよ嬢ちゃん。俺を逃がすか、人質ごとまとめて殺すか。そのどっちもを取り落とさずにいられるぐらい、現実って奴は甘くないんだぜ?」
リリスから向けられる殺気を丸ごと押し返すかのように、アグニの口調はだんだんとヒートアップしていく。……その言葉に対しても、リリスはただ小さく氷の武装たちを震わせただけだった。
きっとアグニの言葉は正論なのだろう。常に自分が望む全部を掴むことなんて不可能で、全てを満たそうとすれば逆にすべてを失うリスクが伴う。そのリスクを負いたくないのならば、人は大切なもの同士を常に天秤にかけて、持てる分だけを抱えながら生きていくしかない。
(……だけど、だけど)
だけど、正しいと分かっていても嫌なのだ。大切な物に順位をつけるなんて。……『あれはこれより大切じゃないから切り捨てても別にいいんだ』って、確かに大切だったはずのものが零れ落ちていく様を言い訳しながら見送っていくなんて。
「……そんなこと、していいわけがあるかよ」
――ズキリと、頭が一瞬痛む。里の事を思いだそうとすると襲ってくるあの痛みが、なぜだか今この瞬間にその存在を主張してくる。……もしやあの里でも、そんなことを思ったことがあったのだろうか。
だが、その疑問を俺は痛みとともに黙殺する。……今ここで全部を掴むための選択をできるのは、きっと俺しかいなかった。
ゆっくりと、俺は一歩アグニの方に歩み寄る。アグニの警戒は今リリスがぶつけてくる殺気に向けられており、外野である俺たちには向けられていない。倒れたテーブルもやたらと遠く感じる距離も、こうなってしまえば好都合だ。
「いいか嬢ちゃん、これが現実って奴だ。自分の腕に収まる物なんて少なくて、あれもこれもと抱えようとしたら全部を取り落とす。……それを知って打ちひしがれることが、大人になるための第一歩って奴なんだよ」
真剣な口調で、アグニはリリスへと語りかける。それは嘲るというよりも、むしろ諭すかのような響きを伴ったものだ。きっとこれはアグニ自身が抱く人生観のようなものなのだろうと、俺はそう直感する。
ああ、きっと間違っちゃいないのだろう。その考え方だってきっと間違えてなくて、だから本当に大切な物だけを選んで守るって選択肢も決して間違いじゃない。その選択をする人を、臆病者だと責めることはできない。
アグニの視界に入らないように細心の注意を払いながら、俺はそんなことを考える。これから殺意を向ける人間に対して、俺はやけに強い既視感に襲われる。……同じようなことを言っている人間に、俺はどこかで会ったような気がして。
その時に、俺はどうしたのだろう。今みたいに嫌だと喚いて、その人を困らせたのだろうか。……ダメだ、うまく思い出せない。
だけど、それをすんなりと認めなかったことだけは断言できる。だって、そんなの嫌だからだ。大切な物は大切だって、そう断言していたいからだ。その中に区別はあっても、序列なんてあっていいものじゃないからだ。
「決断しろ、そんで大人になれ。嬢ちゃんほどの才能があっても自分の欲しい全部を守るなんて到底無理だ。いくら泣こうが喚こうが、現実からは逃れられねえんだよ」
まるで最後通牒のように、アグニはリリスへと言葉を叩きつける。……その時ようやく、俺の目はアグニの様子を詳細に捉えた。
脇腹あたりに負傷を負っているせいかやや姿勢は歪だが、その右手に握られた小さな筒はしっかりとバルエリスの喉元に突きつけられている。あれがきっと、リリスたちの言っていた変形する魔道具とやらなのだろう。
俺とアグニとの距離は、ざっと見積もって大体十メートルぐらいはあるだろうか。俺の魔術の才能を思えばまだまだ射程圏外と言わざるを得ない距離だが、今だけはここでも十分だ。……巡り会わせの妙と言うものに、俺は感謝せずにはいられない。
「……私、私は……」
アグニが突き付けた二択を正面から受け止めて、リリスは小さく声を上げる。きっとリリスの中では天秤が揺れ動いていて、どっちを優先するかを必死に決めようとしているのだろう。空中に装填された武装たちが、リリスの焦りを示すかのようにカタカタと細かく震えている。
アグニの言葉を借りるならば、その選択は大人になるための儀式のようなものだ。そこで選んで切り捨てて、そうした先にアグニの言う『大人』って存在はあるのだろう。
(……クソ食らえだ、そんなもの)
『大切なものは全部大切なんだ』って叫べなくなっていくのが大人になるってことなんだとしたら、俺はずっと子供のままでいい。たとえその想いの果てに何かを失うことになるんだとしても、その意志だけは絶対に捨ててやるものか。
背中に隠しておいた硬い感触に手を触れて、できる限り早くそれを引き抜く。そして、記憶の片隅にしかない襲撃者たちの構えを俺は脳内で必死にトレースして――
「――リリス、それ以上答えなくていいぞ」
「マル、ク……⁉」
「……へえ、面白いことをしてくれやがるじゃねえか」
想像していたよりも重たくて冷たい魔銃の感触に内心驚きながら、俺はアグニに向けて真っ直ぐに銃口を突き付ける。リリスとアグニの驚く声が、同時に俺の耳へ届いた。
何を選び取って何を切り捨てるか、何を自分は絶対に守りたいのか。登場人物たちのそんな思いが交錯して物語が動いていくというのは、第四章のテーマとして一つ明確になっているところだったりします。そんな中でマルクが下した決断が状況をどう変えていくのか、ぜひお楽しみにしていただければと思います!
――では、また次回お会いしましょう!




