第二百六十話『認識阻害の矛盾』
――いや、なにも首をかしげているのはソマリだけではない。ツバキの名乗りを一緒に聞いていたガロンもあっけにとられていると言った様子で首をひねっていたし、何より俺も内心で大きく首をかしげていた。
影魔術を使っているところは見えたが、それにしたって変な感覚だったことには間違いない。実際に音としては聞いたはずなのにそれが意味のある情報として受け取れないような、いつまでも消化不良を起こしているような感覚が頭にずっとこびりついている。それがきっと影魔術の効力なんだと結論付けてもなお、その感覚を頭から振り落とすのは難しいだろう。
ある程度この現象のタネが分かっているであろう俺ですらそうなのだから、二人にとってこの現象がどれだけ不可解なものになるかは想像に難くない。……『絶対に聞き逃さない』なんて息巻いていたソマリなんか、特にひどい様子だ。
「……今、何が起きてるんですか?」
信じられないと言った様子で首を横に振りながら、焦りを一切隠すこともなくソマリはぽつりと呟く。ここまで一切自分のペースを乱すことがなかった彼女だが、こればかりは動揺せずにいられない様だった。
「あんたがそこまでうろたえるなんて珍しい――って言いたいところだが、そうもいかないぐらい妙な現状なのは確かだな。……お前、何か仕込んだだろ?」
調子を乱したソマリの姿を横目に見ながら、ガロンもツバキに向かって問い掛けてくる。ソマリよりはやはりショックも小さいらしく、ガロンの中で『ツバキが何かをしたことで声が聞き取れなかった』というところまでは思考が進んでいるようだ。
影魔術を使ってるような動きをしてた以上その思考プロセスは間違いではないのだが、そこから真実に近づくのはとてつもないハードモードだ。今の名乗りで自分のやり方を思い出したのか、少し浮足立っていたツバキの雰囲気がいつも通りに似たものになってきたしな。
「仕込んだ……? ボクがあなたたちの耳に対して何らかの仕込みをして、そのせいでお二人はボクの名前を聞き取ることができなかった、と?」
「まあそんなところだ。……風か何かに音がかき消されたわけじゃないって、俺の直感がうるさくてさ」
「え、ええそうです! 私は聞き取れなかったわけじゃない、聞き取った音が理解できる情報として変換できないみたいで、まるでずっと靄をかけられている様で……!」
状況を整理するガロンに追いすがるようにして、ソマリも自分の中に起きている状況をそう言語化する。……ちなみに言っておくと、その感覚は俺の中にもあるものだった。
これはあくまで推測でしかないのだが、ツバキはあの咳払いの一瞬で自分の声に影の魔力を付与するための下準備を終わらせたのだろう。影魔術が人の認識を阻害することができるのも、音に対して干渉ができるのも今までのツバキを見てれば分かることだからな。音を影で覆い隠して領域の外に聞こえないようにできるのならば、音自体に影を纏わせて認識できないものにすることだってできるだろう。
本当だったらリリスにでもこの仮説を披露して確かめたいところだったが、生憎今の俺たち二人は自由にしゃべれない状況だ。ツバキ本人を除いて最も状況を正確に把握しているであろうその横顔は、固く口を引き結んでいるところから変化していなかった。
「……靄をかけられている、ですか。となると、ボクが使ったのは認識阻害の類の魔術という事になるんですかね?」
「ま、そうなるな。 腹の探り合いに慣れすぎちまった俺たちだから、そんな発想も自然に出てきちまう」
一つ一つ状況を整理していくツバキに、ガロンはどこか呆れた様な、あるいは自嘲するような調子でそんなことを口にする。そこからは少し哀愁に近しいものを感じないでもなかったが、すぐにその雰囲気は消え去っていつものへらへらとした笑みが戻ってきた。
「お前さんが仕えてるアルフォリア家なんかも、そういう魔道具を開発してるって話だしな。俺たちが知らないうちに新しく開発した魔道具を持たされてて、その試運転に巻き込まれた可能性だって否定できねえわけだ」
「……なるほど、つくづく頭の切れるお方ですね」
アルフォリア家の事情と紐づけながら推論を広げていくガロンに、ツバキは賞賛とも皮肉とも取れないような笑みを浮かべる。一見すると確かにそれらしい推論ではあったのだが、『俺たちがアルフォリア家の魔道具事情について少しも知らない』時点でその仮説は外れていると言ってもよかった。
というか、ガロンが不自然なぐらいにアルフォリア家についての情報を持ちすぎてるような気もするんだけどな。主がお得意様なのか、それともガロン自身がアルフォリア家お手製の魔道具を愛用しているのか。いくら腹の探り合いになることがあり得るのだと言っても、本来来ないはずだった家のことについて知りすぎているような気がしてならないのだ。
「……確かに、ガロン様が言った理論なら筋は通りますね。その場合、私たちは体のいいお試し相手として利用されたことになるわけですが」
「勝手に俺まで巻き込まれたのは心外だが、まあ理屈だけで言えばそうだな。……従者としては未熟だってさっき言ってたような気がするが、お前もとんだ食わせもん――」
「――どうやって、ですか?」
ソマリの援護射撃も受けてさらに滑らかに話し出すガロンの言葉を、とうとうツバキの鋭い声が遮る。……その横顔を見つめれば、いつも穏やかな黒い瞳には鋭い光が宿っていた。
「認識阻害の魔術がこの世界にあるという事は、知識に乏しいボクも知っていることです。音や気配、ついには姿まで綺麗にごまかすことができる術師もいるという話をご主人様から伺いましたから。その知識が正しいのならば認識阻害とは情報の受け手にかけるものであるという事が出来ます。この場で言うのなら、ソマリさんやガロンさんがそれにあたるのでしょうが」
「……ええ、そうですね。『うまく聞き取れなかった、もしくは認識できない情報がある』という感覚を残してしまっている時点で不完全という事も出来ますが」
少し冷静さを取り戻した様子のガロンが、ツバキの確認に首を縦に振る。隣を見ればリリスもわずかに視線を上下させていて、その理屈が正しいことを肯定しているようだった。
そういえば、ツバキも影魔術で相手の認識を狂わせることで無力化することがあるもんな。五感を奪いとると言うと物騒極まりないが、あれも結局のところは『五感が機能していない』と勘違いさせているのが重要なわけだし。……そういう意味では、影で覆い隠すことでその存在を認識されなくする影の領域はいささか特異な例なのかもしれないな。
だからこそなのか、ツバキの説明を二人は何の疑いも持つことなく聞いている。……だが、俺の推測が正しいのならばその認識を持っている時点でもう正解には決してたどり着けないのだ。
ツバキが仕込みを加えたのは、あくまで自分の声だ。受け手の聴覚を狂わせたのではなく、あの時発されたツバキの名乗り自体に認識を阻むような特殊な細工がなされていた。その可能性に気づけない限り、二人の思考がツバキのもとにまでたどり着くことはないわけで――
「――それでは、不完全な認識阻害がお二人にかけられていたとしましょう。……それなら、なぜそれを仕込まれた瞬間に気が付けなかったのですか?」
「「……っ‼」」
いっそ笑みすら作って発されたツバキの問いに、二人は揃って息を呑む。……まるで、最初からその質問が致命的なものであると理解していたかのように。最初からそこが理論の弱点だと分かって、それでも戦い続けていたかのように。
「準備中、そして会話をしている間にもボクからガロンさんに触れたことは一度もありませんし、ソマリさんに至っては先ほどボクたちに合流したばかりだ。……その短い間に認識阻害を施されたのならば、それらしい瞬間に心当たりがあるんじゃないですか?」
「……確かに、もっともらしい理屈だな。だがそれも、アルフォリア家が新しい魔道具を作ったんだと仮定すれば解決するんじゃないか?」
ツバキの理詰めにたじろぎながらも、ガロンは焦りを顔に出すことなく反駁して見せる。……だがしかし、それにツバキはやれやれと言わんばかりに首を横に振った。
「……そう思うなら、アルフォリア家に直談判してみればいいでしょう。『認識阻害に関する最新の魔道具をよこせ』と、どんな手段を使ってでも。……まあ、その結果関係性が悪くなってもボクは知りませんが」
「……っはは、言いやがる」
どこまでも強気なツバキの言葉に、ついにガロンは言葉を詰まらせる。ソマリももう言葉が出ないと言った様子だし、この場の趨勢はもう決まったも同然だ。……それをツバキも悟ってか、改めて深々と頭を下げると――
「……ボクの名前、昔から『覚えづらい』とか『印象に残らない』ってことで割と有名でして。――それがあなたたちにも言えるのだとしたら、ボクには名前を隠す才能があるのかもしれませんね?」
――やりすぎなぐらい丁寧に、勝利宣言を叩きつけた。
最初からマルクたちとともにいたこともあって薄れがちですが、影魔術の存在というのも実はこの世界においてかなり希少な物だったりします。その知識的な優位を生かして状況を切り抜けたツバキですが、この先どのような問題が待ち受けているのか! ぜひお楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




