第二百四十一話『薄明りの中で』
――風を切るような音がふと聞こえたような気がして、俺の意識は眠りから引き戻される。ふと窓の方を見ると外はまだ薄明るいぐらいでしかないあたり、少し早起きをしすぎてしまったらしい。
しかし、二度寝をする気分かと言われたらそれも微妙なところだ。不思議なぐらいにすんなりと俺の意識は覚醒していて、もういつも通りの回転を始めている。……リリスの言う通り早めに寝たことが、ここにきていい影響を与えてくれているのだろうか。
とはいえ、ほかの三人が起きてくるまで手持無沙汰なこともまた事実なわけで。何か時間を潰せる読み物や資料の一つでもないかと思い、俺はソファーから身体を起こして――
「……ん?」
薄暗い部屋の奥に見える人影に、俺の視線が釘付けになる。よく耳を澄ませてみれば、俺を目覚めさせた風を切るような音もそこから聞こえてくるようだった。
そのシルエットの動きを見る限り、剣の素振りでもしているのだろうか。一回一回をかみしめるように丁寧に振り込むその姿は、声をかけるのがためらわれるぐらいに整ったものだ。……それを見れば、顔を見ないでもそこに立っているのが誰なのかははっきりとわかった。
リリスと比べるとずいぶん儀礼剣術に寄った動きではありながら、振り抜く一撃は目にもとまらぬほどに鋭い。その太刀筋は、昨日俺を救ってくれたものとよく似ていて。
「……偶然でも何でもなく、あれが本物の実力なんだな」
一心不乱に剣を振り続ける影――バルエリスの姿を見つめながら、俺は思わずそう口に出す。……それが意外と大きかったのか、バルエリスは俺が起きたことに感づいたようだった。
「……ごめんなさい、起こしてしまいました?」
「いや、早起きの範疇だから気にすることはねえよ。……それにしても、きれいな太刀筋だな」
振り込む手を止めてこちらに駆け寄ってきたバルエリスの謝罪に手をひらひらと振りながら、俺はバルエリスのきれいな素振りを称賛の拍手を贈る。声をかけて遮ってしまうことが無粋だと思えるぐらいに、バルエリスが素振りをする姿は絵になっていた。
「そう言っていただけて光栄ですわ。……もう十年間ぐらい、こうやって朝に素振りするのは日課になっているんですの」
それに丁寧なお辞儀を返して、はにかむようにバルエリスは笑う。少し照れ臭そうにしているあたり、この姿を見られることはあまりなかったことなのかもしれない。……そう考えると、少しだけ悪いことをしているような気がしてならないな……。
「というか、俺のことは気にせず振り続けててよかったのに。俺は俺でやれること探しとくし、何もなかったらぼんやりお前の素振り見とくからさ」
「いえ、今日の分のメニューはもう終わったから大丈夫ですわ。……それよりも、今のわたくしはあなたと話したい気分ですの」
そう言って、剣を鞘に納めたバルエリスは俺の右隣に腰を下ろしてくる。そのまま体重を思い切り背もたれに預けると、大きく伸びをしながら目を細めた。
「……ううん、やっぱり素振りの後の伸びはいいですわね。一仕事終えたって気がしますわ」
「あんだけ真剣に振ったら結構消耗も激しいだろうしな……。あれを毎日こなせるんなら、城で見せてくれた実力にも納得だよ」
あの時はもっと実践的な振り方ではあったが、そこに少しのぎこちなさもなかったことを俺はよく覚えている。リラックスして戦ったバルエリスがあそこまで強いのは、バラックでの依頼をこなすにあたって嬉しい誤算だと言っても過言じゃないだろう。
きっと、俺たちが思っていた以上にバルエリスの騎士に対する思いは強いのだ。……まあ、だからこそ死ぬことに怯えた自分のことを中々許せなかったんだろうけどな。それは決して責められるべきものじゃないし、俺はその怯えを乗り越えたことに喝采しなければいけない立場だ。
ともすれば、今の姿は現役の騎士よりも埃高いものかもしれない。割と俺は本気でそう思っているのだが、横に座るバルエリスは謙虚に首を振っていた。
「そんな、わたくしはただいろいろなものを振り切っただけですわ。あなたが手助けをしてくれていなかったら、今もぶるぶる震えているわたくしの姿が容易に想像できてしまいますもの。そのことが分かっているからこそ、わたくしは手を差し伸べてくれたあなたと言葉を交わしたいんですわよ」
「なるほどな……。あれ以上お前のためになることは言えないかもしれねえけど、話し相手になってほしいってんなら大歓迎だ」
こちらに真剣な目線が向けられているのを感じながら、俺はその頼みを受け入れる。……その瞬間、年相応の少女のようにバルエリスの表情がきらきらと明るくなった。
というか、俺の周りにいる仲間たちは皆大人びすぎているのだ。それぞれがそれぞれに事情を抱えてるからあんまり強く言えないが、もう少し子供っぽく我儘に振る舞ったって誰も文句は言わないと思うんだよな……。
それを分かってもらうためにも、俺は普段から仲間の頼みをあまり断らない主義だ。そして今、バルエリスもその仲間のカテゴリーの中にばっちりと名を連ねていた。
「ええ、感謝いたしますわ! ……ええと、まず何から尋ねればいいのでしょう……?」
「何でも好きなところから聞いてくれ。基本的に隠し事はしない主義だし、聞かれれば大体のことは答えられると思うぞ」
ただし、修復術にまつわるあれやこれやは除く――ではあるのだが、そもそもバルエリスは俺が修復術師であるという事はまだ知らない。そんな状況だから、バルエリスは実質俺に質問し放題みたいなものだ。出会った直後のバーレイやノアと違って、何らかの立場からこちらの正体を探ろうという意図がなさそうなのが俺からしてもありがたかった。ただの好奇心で質問をされるってのも、それはそれでくすぐったいものはあるけどさ。
「……はい、決まりましたわ。あなたも、答える準備はよろしくて?」
「まあ、大体のことにならな。こうなりゃパーティが無事に終わるまで同行するのは間違いないし、護衛として答えられることならどんとこいだ」
意を決したように頷くバルエリスに、俺は来いと言わんばかりに手招きをする。その仕草にクスリと笑って、バルエリスは一本指を立てた。
「……あの城で、あなたは自分自身のことを『最弱』と言っていましたわよね。……どうして、そんな風に名乗るんですの?」
「何でも何も、あの場で一番弱いのは俺だからな。ツバキとリリスは当然のこと、実力を発揮できてるお前の足元にも俺は及ばない。一応冒険者って肩書を持っちゃいるけど、俺は戦闘力としては何の役にも立たないって自分で理解してるんだよ」
ストレートな問いかけに苦笑を返して、俺は質問に回答を返す。しかしまだ思うことがあったのか、バルエリスは首をひねっていた。
とはいっても、これ以上の答え方が本当にないんだよな……。『そんなに弱くてなんで調査に来てるんだ』とか言われたらもう参るしかないが、バルエリスの眼にこちらを見下すような気配はない。……ただただ不思議と言いたげな様子で、バルエリスは言葉を続けた。
「そういえば、あなたはあの城で一度も魔術を使いませんでしたわよね。……どんな魔術を使うのかだけ、教えていただいてもよろしくて?」
少しだけ核心を突くような質問が飛んできて、俺は内心ハッと息を呑む。リリスたち二人がバリバリ魔術を使う中で一人ただ突っ立っているだけの俺の存在は、言われてみれば確かに違和感がありありだ。最近俺たちがその構図に違和感を感じないのは、ひとえに俺たちが慣れてしまったからに他ならない。そんなわけで納得の質問ではあるのだが、少しだけ踏み込みすぎなのは否めなかった。
「……悪いな、それはちょうど秘密にしときたいところだ。いずれ必要になったら出てくることもあるかもしれねえから、それを期待して少し待っててくれ」
教えてもいいんじゃないかという気持ちをグッと抑え込んで、俺はゆっくり首を横に振る。修復術の存在を教えるのは、本当に必要だと思った人物にだけだ。……明かさずに事が済むなら、それに越したことはない。
「というか、魔術を使ってないって言ったらお前もだろ。騎士って言っても剣術だけで戦うわけじゃなし、お前も何らかの魔術を練習したりしてるんじゃないか?」
その話を深堀される前に、俺はふと気づいた疑問を投げかけることで話題を転換する。魔剣を通じて使ってこそいたが、それ以外の方法でバルエリスが魔術に頼ろうとする場面はそういえばなかったからな。切れ味が悪いらしい魔剣のことも含め、一度聞いておかなければならないと思っていたのだ。
しかし、その質問を受けたバルエリスはどこか気まずそうに視線を下の方に向ける。今までまっすぐに俺の方を捉えていた瞳が、今は見えなくなっていた。
「大丈夫だ、何もお前を責める意図はねえ。……お前と同じように、念のため聞いておきたいと思っただけだよ」
「ええ、それは分かっていますわ。……あなたたちがそんな嫌味なことをしないって、わたくしは信じられますもの」
とっさに俺がフォローを付け加えるが、それに対して帰ってきたのは何かを考えこんでいるかのような、まるで独り言のような答えだ。……それを見れば、その問いがさっきのバルエリスと同じ――いや、それ以上に踏み込んでしまったものなのは何となく察することができた。
使える物をわざわざ使わないでいることには、大体の場合何かしらの理由がある。その理由が秘密にかかわっているのなら、今の俺がしたのはとんでもない勇み足だ。俺と同じように『秘密だ』といって話を流されたとて、それを引き留めることはできるはずもないのだが――
「………………あなたにならば、このことをお話してもいいかもしれませんわね。今までに出会って言葉を交わしてきた誰よりも、あなたたちのことを信じていたいですもの」
そうでなければ不公平ですわ――と。
――何か覚悟を決めたようなバルエリスの声が唐突に聞こえてきて、俺の背筋がピンと伸びる。気が付けば、うつむいていた赤い両目は俺の方をしっかりと向き直っていた。
その表情はいつもより硬く、どことなく緊張しているように思える。……それはまるで、叱られることを怖がっているかのようで。
それでも一歩踏み出すかのように、行き場なくさまよっていたバルエリスの両手がゆっくりと間県の鞘に触れる。……そうして、ゆっくりとバルエリスは言葉を紡いだ。
「……私の体に満ちる魔力は、この魔剣の切れ味を封じるのにその大多数を費やされておりますの。――『覚悟無きままに騎士にならぬために』という、父上のお言葉とともに」
そうして、バルエリスはゆっくりとそう打ち明ける。……それが質問への答えになっていると気づいたのは、声を聴いてから二秒ほど経ってからの事だった。
バルエリスの事情、マルクたちの事情、アグニ達の事情、そしてクラウスたちの事情。様々な事情が明かされつつ、第四章はパーティの日に向かって進んでいきます。重なり合う思いの果てに何が残るのか、ぜひぜひご期待いただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




