第二百三十四話『冷ややかな殺意、暖かな決意』
直前まで有していたツバキへの殺傷力をすべて放棄し、アグニの両手には一瞬にして二枚の盾が握られる。――扉の外から猛スピードで迫ってきた氷の鞭がそれに直撃したのは、変形が完了してから一秒もしないうちの出来事だった。
「ぐ、お……⁉」
今まで様々な攻撃を受け止めてきたはずの盾が、しかしその二本の殺意を受け止められずにアグニは思わず後ずさりをする。その矢先のこと、今まで傷つく気配を微塵も見せてこなかった半透明の盾に小さなほころびが生まれたのをツバキは見た。
「触るな、近づくな、手を出すな。……私が生きている限り、ツバキを殺せるだなんて思わないことね」
それを放った側にも手ごたえはあったのか、冷徹な声が扉の外から聞こえてくる。その冷たい響きの下に激情を押し隠すそれは、まぎれもなくリリスのものだった。
アグニを相手取ってツバキは結局二分しか稼ぐことができなかったわけだが、リリスが意識を失わずにいてくれたならば二分という時間は猶予として十分すぎる。……それだけあれば、治癒魔術を自らに作用させることなど造作もないのだから。
「……大した、根性だこって……‼」
気迫のこもったリリスの声に歯噛みをしながら、全身をうまく使ってアグニは氷の鞭の勢いをなんとか逸らす。押さえつけられていた力が急に解放されたことによって、壁に直撃したそれは客室に大きめの穴を開けた。
「……ち、しぶといわね。完全に殺すつもりで放ったのだけれど」
狙いが外されたことを悟り、リリスは足早に部屋の中へと戻ってくる。吹き飛ばされた弊害か体のあちこちに誇りのようなものが付いていたが、血を流している様子はなさそうだ。
「リリス、体は大丈夫かい? ……骨、折れたまま放置とかしてないよね?」
「大丈夫よ、時間稼ぎのおかげで治療は余裕をもってできたから。……それよりも、問題なのは貴女の傷の方なんじゃないの?」
堂々とした足取りでツバキの前に立ちながら、リリスは影で応急処置をしたわき腹を見つめる。しかしすぐに前へと視線を戻すと、ゆっくり体勢を戻しているアグニをキッと睨みつけた。
「……ツバキにここまで無理をさせた罪は重いわよ。制裁を受ける準備、できてるんでしょうね?」
「できてねーよ、こちとら驚きの連続だ。なんだよお前、さては不死身か?」
純粋な殺意をむき出しにするリリスに対して、まるで幽霊でも見るかのような目でアグニはそう尋ねる。……しかし、それに対する返答は背後に装填された無数の氷の武装と、先の攻防でアグニの盾にひびを入れた二本の氷の鞭だった。
ほかの武装と違って肩口から直接生えている鞭は、『魔喰の回廊』で相対した狼の触手をどこかほうふつとさせるものだ。次にそれが放たれれば、今度こそ盾が砕け散る可能性は往々にしてあり得るだろう。……アグニと言う強者の存在が、リリスをまた一段階上の領域に引き上げたのだ。
「……あーあ、こりゃ不真面目にやりあっても勝てなさそうだな。やればやるだけ損するだけだ」
もうすでに損害も出されちまったしな――と。
魔道具をひらひらと振って見せながら、どこか脱力したような口調でアグニはそう語る。……目を凝らしてみれば、魔道具の本体ともいえる小さな持ち手の部分にいくらかヒビが入っていた。
「認めるよ、こればっかりは俺のミスだ。……嬢ちゃんたちの実力を、俺は少々見誤っていたらしい」
「何終わった気になっているのよ。ここからも、それを味わってもらわなきゃ困るわね」
もう片方の手で頭を掻きながら戦闘の総括を始めるアグニに対し、リリスはいら立ちの感情を隠すこともなく氷の武装を構える。一つ直撃すればそのまま死もあり得るレベルの武装を大量の弾丸にしつつ、リリスはアグニを殺すための総攻撃を放って――
「悪い。こっちの都合もあるし、それはまたの機会に頼むわ」
――しかし、その暴威がアグニの体を押し潰すことはなかった。
二人に向かってひらひらと手を振ったが最後、アグニの姿はまるで幻だったかのように消え失せる。結果として行き場を失った氷の武装たちが部屋の壁に直撃し、壁面に飾ってあった多くの絵画もろとも大きな穴をさらに開けることになった。
リリスたちと接敵した時と同じように、いやそれ以上に突然の消失に、リリスは思わず唇を噛む。この戦いはあまり自己評価が高くなかったのか、その口の端から小さな血の雫が零れ落ちていた。
「……とりあえず、脅威は去ったとみてよさそうかな?」
「ええ、そうね。……アイツ、大規模な転移術式を使えるだけの余裕を残していたらしいわ」
この部屋に残る魔力の気配に目をやりながら、リリスは忌々し気にため息を吐く。しかしすぐに首を横に振ると、リリスは未だ寝転ぶツバキの傍らにかがみこんだ。
「……相当、無茶をさせてしまったわね」
「大丈夫さ、無茶ぶりには慣れてる。……それに、今回無茶ぶりをしたのはボクの方だしね」
アグニに撃ち抜かれたわき腹を治療しながら頭を下げるリリスに、ツバキはいつも通りの笑みを浮かべて言葉を返す。体中を覆っていた痛みの感覚が消し去られていく心地よい感覚に目を細めながら、ツバキは自分がやってのけた所業を思い返した。
結果的にうまくいったから万事問題はないが、それにしたってこの作戦はめちゃくちゃな前提をいくつも立てすぎている。リリスだって本当のところは万全じゃないだろうし、そもそも気絶していても何らおかしくない吹き飛び方だったし。何とか防御を間に合わせたと言えば聞こえはいいが、あれだって万全とは口が裂けても言えないレベルの出来でしかないのだ。
そんな状況の中でもツバキを助けに来てくれたリリスには、しばらく足を向けて寝られそうにない。リリスなら大丈夫だと信じられていたのだとしても、それが常人から見たら異常なことであるのに変わりはないのだから。
「……君はいつでもどこにいても、窮地に陥ってくれたボクを助けに来てくれる。十年間積み上げられたその実績に、また一つ大きな出来事が追加されたね」
「遠く離れた『タルタロスの大獄』にだって助けに行けたんだもの、いつだってどこにだって助けに行くわよ。……それに、メリアとの事もあるしね」
穏やかな笑みを浮かべるツバキに、リリスは真剣な表情でそう応じる。いきなり出てきた弟の名前に目を見開いていると、リリスはそのまま言葉を続けた。
「やり方は絶対に認められないけど、あの子だってツバキを守ろうとしていることには間違いがないんだもの。……その子を相応しくないってしたんなら、私はそれを言うに相応しい姿でいなくちゃいけないでしょ?」
目を瞑って淡々とそう言い切るリリスの姿を見て、ツバキは思わず息を呑む。……メリアの存在がリリスの在り方にさらなる重みを加えていたことを、ここでツバキは初めて知った。
ツバキがリリスとマルクを選んだのは、強さや相応しさによるものではない。ただどっちと一緒にいたいかを天秤にかけて、より大切な方を選んだだけ。……だから、リリスやマルクがふがいなくともツバキがそれを声高に責めることはない。守ってほしいのではなく、ともに歩みたいと思っているのだから。
だが、リリスはあの一件を経て自分の在り方にさらなるものを背負い込んだ。……それはきっとツバキのためであり、そしてメリアのためでもあって。
「……君は本当に真面目な子だね。おまけにとっても素直なもんだから、誰かに騙されるんじゃないかってボクは心配だよ」
ゆっくり立ち上がって体の調子を確認しながら、ツバキはしみじみとそう口にする。体を伸ばしても傾けたりしても痛みが全く来ないあたり、リリスは治癒術も超一流だ。だからと言って負担をかけられるわけでもないし、こんな命がけの事態はしばらく勘弁してほしいものだが。
「騙されないわよ、貴女とマルクが隣にいるんだもの。……ほら、早いところ下に置いてきた二人を探しに行きましょう」
「そうだね。寂しがりな二人の事、少しでも早く迎えに行かなくちゃ」
あえて冗談めかしたツバキの称賛をどう受け取ったのか、リリスはくすりと笑いながら立ち上がる。その動作とともに自然に差し出された手を、ツバキはすぐに力強く握り返した。
アグニとの闘いが一段落したところで、次回は二人が下に残してきたマルク・バルエリスペアへと視点が映っていきます! 短くも激しい戦闘の裏で二人は何を思うのか、そして何をしてきたのか、ぜひご期待いただければ嬉しいです!
――では、また次回お会いしましょう!




