第百八十七話『平等の証明?』
「……ん、う……」
――あの狼は何なのか、アゼルの理想はどこにあるのか、あの双子は何の役割を果たしたのか。積み重なる疑問にまつわる情報を二人で整理し始めて、いったいどれくらいの時間が経っただろう。いつしか時間も忘れるぐらいにのめりこんでいたその作業を中断させたのは、部屋の隅から聞こえてきたリリスの小さな唸り声だった。
「……ねえ、マルク――」
「ああ。ようやっとお目覚めみたいだな」
俺よりも早くその声を聞きつけたツバキが、リリスの方を見つめたまま硬直する。『ないよりはまだマシ』と駆けられた薄い毛布がもぞもぞと動く光景をじっと見つめながらツバキが零した言葉に、俺は笑みを浮かべながらそう答えた。
「……ここ、は……」
ゆっくりと上体を起こし、リリスは拠点の中をぐるりと見まわす。……ほどなくしてリリスを見つめていた俺たちとリリスの視線が衝突して、戸惑いに満ちていた表情が少しだけほころんだ。
「……そう……助かった、のね」
「ああ、全員駆けることなく帰ってこられたよ。……本当に、無事でよかった」
状況を理解したらしいリリスに歩み寄って、ツバキはその体を優しく抱きしめる。その抱擁は、ツバキとリリスが『タルタロスの大獄』で再開した時に交わしたものとよく似ているような気がした。
まあ、あの時とは立場が逆なんだけどな。ツバキが無事を喜び、リリスが健在をアピールするかのように抱き返す。……魔力切れに由来するものだと分かっていても、やはり不安は大きかったんだろうな……。
お互いに言葉も交わすことなく、二人はふんわりと、しかししっかりとお互いの体を抱きしめる。その光景に俺が言葉を挟むのが野暮なことだけは、あの時から何も変わりはしなかった。
「……ふう。やっぱり、目を開けている君の姿を見ると安心するね。魔力切れを起こしているだけって分かっていても、やっぱり君が気を失っているのは気が気じゃないよ」
「ほんと、貴女は昔っから私に対してだけ心配性よね。……ごめんなさい、心配をかけてしまって」
――そのまましばらく時間が経って、満足そうな言葉とともにツバキが抱きしめていた手をゆっくりとほどく。それに合わせるようにして、リリスも丁寧に背中に回していた手を引っ込めた。……そして、ツバキはすっかり壁と同化していた俺の方を向いて手招きを一つ。
「……ごめんね、また君のことを無視してしまって。……ここからは、三人の時間さ」
「お互いの無事を喜ぶのは当たり前のことだ、あんまり気にすんな。……俺も、お前たちが無事で本当に良かったって思ってるからさ」
気恥ずかしそうにするツバキの言葉に軽い口調で応えながら、俺は手招きに応えて二人に歩み寄る。いつの間にかリリスは布団に寝転ぶ姿勢に戻っていて、その枕元に俺たち二人が腰掛けるような形になった。
「……私だって、マルクのことを軽く見てるわけじゃないからね。貴方の助けがなかったら、私はもっと早く気を失ってたかもしれないんだもの」
「ああ、そこは疑ってねえよ。今はお前が楽な姿勢でいてくれることが先決だ」
どことなく申し訳なさそうに話すリリスに、俺は首を横に振りながら答える。リリスが俺とツバキに優劣をつける意図でそうしているわけじゃないことくらい、言われなくてもわかりきっていることだった。
しかし、その言葉を聞いてもリリスの表情は何となくしゅんとしたような状態のままだ。何とかしていつもの調子に戻ってくれないものかと俺が思案していると、一足……いやもっと先に普段の調子へと戻っていたツバキが悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あ、それならマルクもリリスとハグしてみるかい? そうすればリリスの中の引っ掛かりもなくなると思うんだけど」
「ちょ……は⁉」
あまりにいきなりなその提案に、俺は思わず目を見開きながらそう口にしてしまう。正直なところ情報整理続きで少しばかり疲労が出始めている頃だったのだが、その提案を聞いた後じゃ疲労なんてすべてどこかへ吹き飛んでいる。……それくらい、ツバキの提案は爆弾発言だと言ってよかった。
「なにさマルク、嫌なのかい? リリスはこんなに美人さんなのに?」
明らかに慌てふためく俺の姿を見て、ツバキは楽しそうに問いを重ねる。まるで俺がこういう反応をすると分かっていたような対応の速さを見て、俺はツバキに主導権を握られていることを悟った。
というか、割と今のツバキは本気の目をしている。これ自体はからかいの範疇なのだろうが、『美人さん』とリリスを評したツバキの言葉はまるで冗談には聞こえなかった。『下手なことを言ったら分かってるね?』――なんてツバキの剣呑な声が、脳内で簡単に再生できてしまうくらいには。
「別に嫌じゃねえけど! 嫌じゃねえけど! ……だけど、そういう話じゃないんじゃねえのか⁉」
まだ寝ているノアを起こさないように声を抑えて、しかししっかりと主張が伝わるように俺はツバキに反論する。しかし、ツバキはと言えばそれに対してわざとらしく首をかしげるばかりだった。
「え、そういう話じゃないのかい? リリスはボクとしかハグしてないことに対して、マルクを軽視してしまったんじゃないかって気に病んでる。……それなら、マルクもリリスとハグすれば全部解決だろう?」
何か間違っているかと言わんばかりにまっすぐ俺を見つめながら、ツバキはすらすらと持論を展開する。言っていることは決して間違いではないのだが、間違いじゃないからこそ否定するのが難しいのが厄介この上なかった。
「ねえリリス、君もそう思わないかい? ボクとハグをしたように、マルクともハグしちゃいなよ」
布団の隅を突っつきながら、ツバキはそれはそれは楽しそうにリリスへと提案する。もとはリリスと一緒に俺を置いてけぼりにしたことを誤っていたはずなのに、一分もしないうちにこの変わり身は見事なものだ。……いや、やっぱりもう少しだけ気にするべきな気もするが。
「……リリス、本当に無理はしなくていいからな? まだ体も重いだろうし、そのまま寝転んでても俺は何も気にしないからさ」
どうするべきかわからなくなった挙句、俺はリリスに選択権を委ねることにする。もともとツバキからリリスへの提案だったし、最終決定権はリリスにあるといってもいいだろう。……というか、俺がどうこう言える領域をすでにはみ出してしまっているような気がした。
その言葉を受けて、寝転んだままのリリスはもぞりと身を動かす。その顔色はまだ少し青白く、万全に回復するまでにはまだ時間がかかるだろう。だから、リリスが気に病むことなんて何もないのだが――
「……わかったわ。それじゃあ、来て」
――気が付けば、再び上体を起こしたリリスがまっすぐに俺の方を見つめていた。
その両腕は大きく広げられていて、それが何を求めているかはもはや明白だ。顔色はまだ優れないけど、それでも表情は柔らかい。……義務感とかでそうしようとしているようには、とても思えなくて。
「……俺への負い目とかでそうするなら、ほんとに気にしなくていいんだからな?」
「そんなこと考えてないわよ、ただ私がそうしたいだけ。……ほら、早く」
俺から目をそらす様子も見せず、リリスは俺をせかすように言葉を紡ぐ。その両目の中には俺だけが映し出されていて、俺は確認の質問がいかに野暮なものであったかを思い知った。
晴れ渡る大空のように澄んだ青色をしたその瞳に吸い込まれるように、俺はリリスの方へと体を傾ける。ひどく自然に手が背中の方へと回って、ひんやりとした感覚が腕を通じて伝わってくる。……心地よい冷たさのはずなのに、脳は今にも焼き切れそうなくらいに熱を上げている気がした。
「……そんなにふんわりしなくてもいいのに。私、壊れ物のガラス細工じゃないのよ?」
そんな俺の様子がおかしかったのか、俺の背中に手を回しながらリリスはくすりと笑う。俺としてはかなり頑張って抱きしめているつもりなのだが、本能的な何かがブレーキをかけているのだろうか。――これ以上加速したら顔の熱さに耐えられなくなりそうだし、それには感謝しないといけなさそうだが。
「ごめんな、これが俺の精一杯だ。……これ以上強くしようと思うと、今度は俺がベッドに寝かされる羽目になるかもしれねえ」
赤熱していく思考をどうにか抑えて、俺はリリスにそう告げる。言っている間にも力を強めようとしたのだが、、体が硬直しきって思ったように動けなかった。
「……まあ、それもそれでマルクらしいわね。なんというか、少しだけ安心したわ」
しかし、そんな俺のありさまをリリスは楽しそうに受け入れる。……そして、リリスは向かい合う俺の肩口に頭を預けた。自然とその分接触も増えて、俺の思考はさらに熱を増していくばかりだ。このままでは本当に倒れるんじゃないかと、シャレにならない危険信号が頭の中でなり始めていたが――
「……無事でいてくれてよかったわ。私の力不足のせいで貴方が死ぬとか、想像するだけで苦痛でしかないもの」
――脳が限界を迎えるよりも先に、リリスはそんな風に呟く。さっきまで見え隠れしていたからかいの色が一切消えた、本当に噛み締めるような声色が耳に届いた瞬間、強張っていた俺の腕から力が抜けたような気がした。……まるで、俺の腕を無意識に縛っていた何かがほどけたかのようだ。
その感覚のままにリリスの体を抱き寄せると、驚いたような呼吸の音が俺の耳に届く。その何気ない一呼吸が何よりの無事の証のように思えて、なんだかとても愛おしくて。
「……それじゃあ、寿命まで頑張って生きなきゃな。お前の誓いを、壊さないためにも」
「ええ、そうして頂戴。……私も、もっと強くなるわ」
ゆっくりとした俺の返答に、リリスは満足そうに笑みを浮かべてさらに答える。そのやり取りを最後に、俺たちに沈黙が落ちる。……この状況じゃどっちのものかも分からない鼓動の音が、規則的に俺の耳の中に聞こえていた。
いろいろな冒険を共にする中で、仲間たちの関係地というのも徐々に変わっていきます。その関係地が最終的にどこに行きつくかは……今より先の未来でのお楽しみということで、ぜひこれからも物語を楽しんでいただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




