第百五十六話『眠りの傍で』
――よほど疲れがたまっていたのか、壁に背を預けた十秒後にはマルクはすうすうと寝息を立て始めていた。普段は大人びて見えるその顔つきも今だけはどこかあどけなくて、リリスは思わずぼんやりと見入ってしまう。
「……そう言えば、マルクがボクたちより早く寝るのって珍しいね?」
「そうね。あの舟の中でもそうだったし、一番最後に寝るのが癖になってるのかも」
無防備なリーダーの姿を見つめながら、静かな声でリリスとツバキは言葉を交わす。マルクは上手く隠せているつもりなのかもしれないが、彼がいつも気を張っているのは二人ともが知っている事だった。
いつも何かを考え、不慮の事故の可能性を考慮する。それが危機回避につながったことだって一度や二度ではない。いつも安全な位置にいるように見えて、マルクも大概自らを危険な場所に晒しているのだ。
実際アゼルとの初対面の時マルクが真っ先に前に出てくれなければ、呪印を刻まれていたのはツバキかリリスのどちらかだったかもしれないわけで。……二人が魔力切れに陥っていたのだとしたら、今日の探索はあきらめざるを得ない状況になっていた可能性は著しく高かった。
「……私たちからしたら、貴方の存在の方がよっぽど命綱よ」
少し癖のある茶髪をやんわりと撫でつけながら、リリスは眠るマルクに向かってそう語り掛ける。きっと夢も見ないほどに熟睡しているマルクには届かないだろうが、聞こえないくらいがちょうどよかった。
もしも何かがあってマルクが失われるようなことがあれば、冗談抜きでリリスはこの村にいるツバキ以外の全員を殺すだろう。そうなったときはノアも同罪だ。……ああ、こんな仕事を投げつけて来た研究院も断罪していいかもしれない。リリスたちの後ろ盾になりうる存在とはいえ、研究者という生き方自体が気に食わないことは間違いないし。
「……まあ、そんな事にならないことを祈るばかりだけど」
脳裏をよぎった最悪の想像を、リリスはそんな言葉を付け加えることで強引に打ち切る。最悪の想定をすることには慣れているが、今となってはそうすることによる心労が護衛時代の比ではなかった。
ツバキが簡単に死ぬとは『タルタロスの大獄』での一件もあって中々思えないが、マルクはふとしたことで命を落としかねないのだ。死の光景をリアルに想定してしまえるからこそ、考えるだけで背筋に寒気が走る。……その想像を現実にしないために命をかけなければならないと、そう思える。
「……不安でしょうがないって感じだね、リリス。この村に来たこと、後悔してるかい?」
そんなリリスの感情の機微を目ざとくとらえて、ツバキが微かな笑みとともにそんなことを問いかけてくる。リリスには中々真意を明かしてくれないくせに、こちらの感情の動きは正確に捉えてくるのだから困ったものだった。
もっとも、そんなツバキだからリリスの相棒になれたのだろうという確信もあるのだが。他者への接し方があまり上手だとは言えないリリスにとって、その真意を汲み取ってさりげないフォローに動いてくれるツバキの存在はとてもとてもありがたいものだ。
「後悔してないって言うと、嘘つきみたいになっちゃうわね。こんなに複雑な事情が絡み合ってる場所だとか、いくらなんでも想像してないでしょ」
だから、リリスは素直に胸のうちにある感情を吐露する。この村が纏う異質な雰囲気に、そして先に進めば進むほど増えていくいろいろな情報に、リリスは少なからず振り回されていた。
いや、きっとリリスだけではない。こうやって話を聞いてくれるツバキも、そしてマルクでさえも振り回されているのだろう。現にマルクは、呪印術式の恐ろしさを一番最初に見つめた立場なわけで。
「……呪印術式なんて訳の分からないものが出て来て、私たちが知らない間にマルクは殺されかけていて。それはノアが助けてくれたからいいけど、そのノアも書く仕事ばかりしてるからいまいち信用できなくて――考えていくだけで、頭がこんがらがりそうだわ」
マルクを助けてくれたノアをヒーローとして素直に信じられていたら、少しは楽観的に今の状況を見つめることが出来たのだろうか。しかし、それをするにはノアに疑わしい点が多すぎる。今まで後出しにしてきた情報の全てが、リリスたちにとっては不利益をこうむりかねないものに他ならないわけで。……いろいろな人間を見つめて来たリリスの直感が、ノアのことを油断ならない人物だと判断していた。
「その行動自体は良い事でも、それが善意から来てない可能性だってある。……というか、善意じゃない可能性の方が高い。私とツバキは、それを誰よりも知ってるでしょ?」
「ああ、そうだね。マルクを助けてくれたからって、ノアのことを完全に信じるわけにはいかないんだ。……ノアが本当に善意でボクたちに接してくれているなら、申し訳ない話ではあるんだけどさ」
やるべきことは怠れないよ、とツバキは複雑な表情を隠さない。それでも迷い無く疑うことを選択できるところが、リリスの思うツバキの最も強いところだった。
「アゼルのこと、ダンジョンのこと、ノアのこと。目を向けなきゃいけない部分が多すぎて、正直なところ警戒してるだけで思考がパンクしちゃいそうだね。……あの時の言葉を信じるなら、村全体としてボクたちに敵対してくることはないんだろうけど」
「だからと言って安心できるわけじゃない、わよね。アゼル直々に送り込んだ襲撃者がしくじったから、とっさに『過激派の暴走』って言い訳を付けただけかもしれないし」
というか、そうであってくれた方がいくらか気が楽だ。この現状からさらにややこしくなっていく今後の展望など、考えること自体が億劫で仕方なかった。
そんな願望交じりのリリスの返しに、ツバキはこくりと首を縦に振る。ツバキの目にどこまでの状況が映っているかは分からないが、リリスだけが全く見当はずれの方向を見ているということはとりあえずなさそうだった。
「まあ、その可能性も十分にあるね。……ボクたちを取り巻く何もかもに関して、ボクたちははっきりとした答えを出せないんだよ。それが何より面倒で、ボクたちがとりあえずダンジョンに挑むしかない状況に追い込まれてる一番の原因だ。そして、その状況はしばらく改善しないことがほぼ確約されてる」
まったく、気が重い話だね――などと言いながら、ツバキも拠点の壁に思い切りもたれかかる。その表情には珍しく疲労の色が色濃く見えていて、リリスは思わず驚かざるを得なかった。
この場にマルクとリリスしかいないこともあってある程度素直に感情を発露しているのもあるだろうが、それを差し引いてもツバキはポーカーフェイスと言っていい方だ。いつも飄々と現状を見つめているツバキがここまで疲労の色をあらわにするなど、いったいいつ以来の事だろうか。
「……疲れてるなら、無理して起きていなくてもいいのよ?」
「うん、もう少ししたらボクも寝るつもりだよ。出来る限り頭は冴えた状態にしておきたいし、この先熟睡できる環境があるとも思えないからね。……だけど、その前に一つだけ、今のうちに聞いておかなきゃいけないことがあってさ」
脱力した状態で背を壁に預けながら、ツバキはリリスにまっすぐ視線を向ける。まるで残された体力んの使い道を思考力とその視線に全て当てているような真剣さに、リリスは思わず息を呑んだ。
「……それは、ノアに聞かれたくない話?」
「その通り。マルクの修復術にしてもそうだけど、ボクたちだけが持っている情報とか視点は少しでも多い方が後々役に立つかもしれないからね」
ツバキがそう言いながら影のカーテンを見やったのにつられて、リリスもノアが居るであろう方向に視線を向ける。隔絶された空間の中で分析される情報は、果たしてリリスたちの現状を好転させてくれるのだろうか。……まあ、それは後の楽しみに取っておくことにして。
「……それじゃ、その気になる事とやらを聞かせてもらおうかしら。相当眠気も来てるでしょうし、出来る限り手短に済ませちゃいましょ」
「そうだね。君の厚意に甘えて、単刀直入に行かせてもらうよ」
リリスの提案に乗り、ツバキは一度しっかり目を瞑る。ともすればそのまま眠ってしまうのではないかという不安が一瞬だけ脳裏をよぎったが、そんな事はなくツバキは目を開けてリリスの瞳を見据える。そして、ゆっくりと口を開いた。
「この村にはびこる呪印術式について、君はどう思ってる? 万能の魔術師たる君から見た、率直な感想が聞きたいんだ」
マルクが一定の見解を示した傍らで、リリスたちは呪印術式に何を思うのか! 二人が何を思ってこの村を取り巻く問題にに身を投じているか、是非ご注目していただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




