第百四十六話『解けた疑問、残る謎』
「……ふう、本当に消えた」
「そうだね……。これで消えなかったら本当に大惨事だったよ」
左手首をまじまじと見つめながら、俺たちは久しぶりに太陽の光を浴びる。俺たちの命に時間制限を設けていた不規則な呪印は、ダンジョンの外に出ると同時に跡形もなくその姿を消していた。
地下二階への階段を探すときのようにしてダンジョンの出口を探したこともあって、帰り道は特段何の危険も無く突破することが出来た。懸念事項があったとしたら脱出直前の呪印が少しばかり赤みを帯びていたことだが、まさか入り直した時に前のカウントダウンから再開されるようなこともあるまい。ひとまずのところ、俺たちに降りかかっている命の危機は去ったと言ってよさそうだった。
「良かった、皆無事に戻ってこれたね。……なんて、ウチが言うのもなんかお門違いな気もするけど」
「大丈夫だ、お門違いなんかじゃねえよ。お前があの資料を読み込んでくれなかったら、俺たちはあそこで時間切れになってた可能性だってあるんだから」
心の底から安堵したように胸をなでおろすノアに、俺は微笑みながらそう言い聞かせる。あの場面でノアが俺たちのことを助けてくれたのは紛れもない事実であり、ノアが居なかったら詰んでいた、あるいはもっとギリギリになっていた可能性はとてもじゃないが否定する気になれなかった。
ノア自身も未知の領域だと言っていた地下二階に突入してからは、間違いなくノアは俺たちに協力的だったんだよな……。結果として俺たちはお互いにしかできない役割を果たしあったわけで、その関係性は研究院が睨んでいた効果と似たようなものだということが出来なくもない。研究者には研究者の、冒険者には冒険者の領分がはっきりと有ったからこそ、俺たちはあの閉じられた部屋から抜けられたんだし。
仮に研究院がこういうことを見越して俺たちを寄越していたなら、実にクレバーなやり方だと言わざるを得ない。『ダンジョン攻略なら冒険者だろ』くらいの軽い気持ちで派遣したと言ってくれた方が、俺的にはまだ気が楽だった。
「……さ、早いところ拠点まで帰りましょ。こんなじめじめしたところ、いつまでもいたら気が滅入って仕方ないわ」
「そうだね。まだここに来て一日目なのに、あの宿の柔らかい布団が恋しいよ」
どことなく疲れた声色でのリリスの提案に、ツバキが冗談めかした調子で続ける。はた目から見ると二人の姿は対照的に映ったが、しかしツバキの声色にもわずかにだが本気の疲れの色が見えて来ていた。
「うん、良い収穫もあったことだしね。後はそれを整理して、今まで訳が分からなかったこの村の事、このダンジョンのことを少しでも解き明かさなくっちゃ」
高らかにそう宣言して、ノアはついてこいと言わんばかりに帰路の先陣を切る。おそらくノアの拠点に向かっているのであろうその背中を追って、俺たちはそそくさと歩き出した。
まだ朝早くの村の中に、俺たちが草を踏みしめる音だけがサクサクと響き渡る。この村は既に人がいなくなってしまったのだと、そう説明されても納得してしまうような静けさがそこにはあった。
「……ねえ、結局あの扉はどんな作りだったの? 拠点まで少し時間があるでしょうし、先に聞いておきたいのだけど」
しばらく無言の時間が続いた後で、ノアのすぐ後ろに続いていたリリスが声を上げる。沈黙の時間が耐えられなかったのか、それともあの部屋のことがよほど気になっていたのか。多分両方だろうなという結論を俺が得たと同時、ノアがこくりと首を縦に振った。
「うん、それじゃあ簡単にだけど説明するね。アレはこの村でも使われてる呪印術式とよく似たもので、対になる呪印を当てて起動しないと開かない仕組みになってるの。鍵と錠前の関係を呪印でやっているようなものだと思ってくれればいいよ」
「……ああ、だからあの魔物の左手が必要だったわけだね。あの手のひらに刻まれた呪印こそ、あの扉を開くための鍵だったってわけだ」
「そういうこと。この村で使われているような呪印ならウチの手で解除できるんだけど、あのダンジョンにある呪印は上手いこと出来ててさ。あのノートに鍵のことが書かれてなかったら、ウチはこれが呪印に依る施錠術だってことにも暫く気づけなかったかも」
まして鍵の事なんてね、とノアは恥ずかしそうに頭を掻く。魔術構造の研究家であるノアを欺いたという事実は、俺の中に少なからずの驚きを残していた。
あのダンジョンが一体何年前の遺産なのかは分からないが、その技術が現代のそれを超越しているということだけは紛れもない事実だ。リリスの魔力探知を完全に無効化し、ダンジョンに足を踏み入れた者全員に呪印を刻んだりと、あの回廊の中で起こっていることが俺たちの想像をいちいち踏み越えてきたものである事は言うまでもなかった。
ノアの話によれば、この村の連中が使っている呪印術式はその劣化コピーでしかない。解除も容易で、触れなければ刻むこともできない。それでも無警戒な人間にとっては十分脅威だが、今気にするべきはそこではないのだ。
この村の技術は、『魔喰の回廊』の中にあったものを越えられていない。その事実が、あの空間の異質さを俺の中でさらにグッと引き上げていた。
「……にしたって、なんでそんな回りくどい事をしようとしたんだろうね。資料を移動させたいって思った時、毎回魔物の左手を切り落としてちゃ手間がかかって仕方ないだろうに」
ノアの話を聞きつつ俺がそんなことを考えていると、その背後から怪訝そうなツバキの疑問が聞こえてくる。しかしそれにはしっかり答えを持ち合わせていたのか、ノアはすぐにツバキの方を向き直った。
「ああ、それに関してもあの日記には記述があったよ。なんでも、あの魔物の意志を一時的にコントロールするための呪印があの魔物には試験的に刻まれてたみたい。その話をすると長くなるから、詳しくは腰を落ち着けて話をしたいところなんだけど――」
遠くに見えて来た一軒の建物を目で示しながら、ノアは簡潔にその仕組みについて解説してくれる。大雑把とはいえ隠し立てせずにすぐ答えを教えてくれたことに、俺は少なからずの成長を見ていたのだが――
「……ほう、それは興味深い話ですな」
「……ッ⁉」
突然俺たちの背後から聞こえて来た声に、俺たちは揃って振り返る。その声の主を探すより先に、ツバキとリリスは俺の事をかばうように前に立っていた。
「ふふ、警戒されてしまったものですな。……私の様な年寄りなど、貴方たちなら取り押さえるのは用意でしょうに」
「あなたが普通の人間なら、そうかもしれないわね。……けど、今更普通だと名乗られても信じる気にはなれないのよ」
しゃがれた声で笑う男を睨みつけて、リリスは低い声でそう返す。その右手の周りには、うっすらとだが霜が降りていた。
見るからに臨戦態勢と言った様子だが、そうなってしまうのも仕方がない話だ。だって、その声の主の好感度は俺たち三人――いや、四人そろって地に落ちているようなものなんだから。
「おお、これは随分と嫌われてしまったものだ。……茶飲み話に混ざることは、諦めた方がよさそうですかな?」
突き刺すような敵意を受けてなお、その男は悠然と笑う。この村を統べる者であり、俺に致命の呪印を刻み込んだ張本人――アゼル・デュ―ディリオンが、不気味な雰囲気を纏って俺たちの前に現れていた。
ダンジョンの外に出たからと言って、そこにマルクたちの安寧の場所があるとは限りません! 明らかにアウェイな状況が続く中、マルクたちは彼とどのような問答を繰り広げるのか、次回もぜひお楽しみにしていただければ幸いです!
――では、また次回お会いしましょう!




