第百四十五話『すべてを知るために』
「……氷よ」
リリスが小さく呟くと同時、リリスの手の中に氷の大剣が作り出される。もう戦いは決着した部屋の中で、リリスはそれを大上段に構えた。
「……体に異常はないか、リリス?」
「大丈夫よ、貴方が直してくれたんだもの。……ダンジョンを出るまで、へばるような真似はしないわ」
俺の問いにリリスは笑顔で応え、氷の剣を思い切りよく振り下ろす。その剣閃はリリスの手で両断された魔物の左手首付近を更に切り裂き、俺たちの顔など軽々握りつぶせてしまいそうな大きな手を本体から悠々と切断した。
「……ノア、これでいいのかしら?」
「うん、多分大丈夫……な、はず。なんせ非常時のためにここを作った人が残してくれたシステムだからね」
魔物の左手をノアに受け渡しながら、リリスは半信半疑と言った様子で問いかける。それに恐る恐るながらも頷いて、ノアはドアの方へと小走りで戻っていった。
「……本体は死んでるけど、呪印によってまだ術式は刻まれているはず。なら、ウチの魔力を介してそれを起動してあげることが出来れば――」
魔物の左手を閉じられたドアに当て、ノアはぶつぶつと何事かを呟く。そして、何かを決心したかのように大きく頷くと――
「……これで、開いて!」
ノアの祈りがこぼれだした瞬間、ドア付近から強烈な光が放たれる。直視したらしばらく視界がぼやけてしまいそうなその光量は、魔物が呪印を起動した時よりもさらに強烈だった。
だが、これが呪印軌道の証なのだとしたら大きな前進だ。今まで何も起きなかったこの部屋の扉に、ようやく影響らしい影響を及ぼせているという訳なのだから。
「……これで開いてくれなきゃ、とうとう俺たちもここで生活しなくちゃならなくなるぞ……?」
「考えるだけでゾッとする話ね。……だけど、幸いなことにそれは回避できそうよ?」
前進したとはいえ十分あり得る可能性に俺がひそかに怯えていると、リリスがドアの方を指さしながらウインクを一つ。意を決して扉の方に視線をやってみれば、そこには拳を強く握りしめるノアと、しばらくぶりに開け放たれた扉があった。
「とりあえず第一関門は突破、かな。ここで干からびるようなことにならなくて本当によかった」
「そうね。こんなところで死んだら誰も骨なんて拾ってくれないだろうし」
それじゃ犬死にもいいところよ、とリリスは苦笑する。扉が開いた原理自体は説明されていないからよく分からないが、とりあえず脱出に向けて前進できたことが大きかった。
いろんなことにまごついているうちに、いつの間にか呪印が紫色に変わりつつあるからな……。まだ赤みがかってくる気配はないから落ち着いていられたが、この手段が外れていたら今度こそまずかったと言えるだろう。ダンジョンの作り手が正しい解除方法を書き残しておいてくれたことに感謝するばかりだ。
「ありがとうね、ノア。君が危険を承知で分析に当たってくれなきゃ、ボクたちがここを出るのはもっと先になってたかもしれないよ」
扉の傍で大きく手を振っていたノアに合流するなり、ツバキが右手を差し出しながらノアに賞賛の言葉を贈る。その手をがっちりと握りしめて、ノアは安堵したような笑顔を浮かべた。
「ううん、ここまでウチは守られてばっかりだったもん。皆が経験してきた危ない事に比べれば、ウチのしたことなんて大したことじゃない。……最後に確信を得られたのも、このノートの記述からだしね」
『①』とだけ表紙に記載されたノートを胸の前に掲げ、ノアははにかむように笑う。それが直接的な解決手段だったことは否めないが、あの魔物を背にして冷静さを保ちながら文献に当たれるのは見事な精神力としか言いようがなかった。
それとも、それが研究者というものなのだろうか。目の前に未知を解き明かすための鍵があれば、どんなに危険な状況の中でもそれを求めなければ気が済まない。……リリスが呟いていた『自分勝手』という言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
まあ、それが無ければ魔物を倒せていたとしても詰んでいたのだから何とも言えないんだけどな。ノアの思惑が何であれ、俺たちの命はノアに救われた。それだけは、間違えようのない事実だ。
「どういうふうにこの部屋を閉じてたかもちゃんと説明したいんだけど、ここは分からないことが多すぎるからね。……いったん撤退して、色々と分析を始めよう」
「そうしたほうが色々とよさそうね。……あんまり悠長にやりすぎるのも、私の性には合わないのだけど」
「いつも向き合っている問題とは少しばかり毛色が違うからね。ある程度のイレギュラーは柔軟に対応するしかないってことさ。……どうせ、『アポストレイ』の迎えが来るのももうしばらく後の話だろう?」
ツバキがあの舟のことを口に出して、俺は初めてこの村に到着してからまだ一夜を明かしただけであることを思い出す。アポストレイを降りてすぐノアに遭遇してから、時間の流れが分からなくなるくらいにはいろんなことがありすぎたからな。
定期的に確認に来るとは言ってくれたが、しかし一日に一回来るわけでもあるまい。……事前に宣言してくれていたことを忘れていた俺たちの責任でもあるが、ある程度の長期滞在になるのはどうも避けられなさそうだった。
「……とりあえず、ここを出たら皆ウチの拠点においでよ。何もないなりに快適な作りにしてる自信もあるし、広さもそこそこ保証されてる。そこで、次に向けての作戦会議と行こう」
「ああ、そうしてくれると助かるよ。パーティがバラバラになるのがどれだけ危険か、ちょっと前に味わったばかりだし」
「そうね。村の連中に触られなければいいんでしょうけど、あまりにも大人数で来られたら回避するのもさすがに無理があるし」
あんまりこっちから強引な手も使えないしね、とリリスはため息を吐く。ダンジョンと違って村の問題は単純な力技で片付けられないだけあって、その表情から辟易しているのがよく分かった。
この村がヤバいという確固たる証拠さえつかめれば全部ぶっ飛ばしても構わないんだろうが、それがないうちは俺たちが悪者になりかねないからな……。もし実力行使しなければならなくなった時のために、覚悟だけは決めておかなければいけないと思うけどさ。
「うん。食料とかの受け渡しは全部ウチがやるし、君たちは拠点に引きこもってくれていて構わないよ。……君たちを守るのは、この事態に巻き込んだウチが背負うべき責任だからさ」
「……その割には、私たちに隠してることがあまりにも多かったけどね?」
少し笑みが混じったリリスからの指摘に、ばっちり決意を固めていたノアが「うぐ」と呻き声とも何ともつかないような声を上げる。本格的に責める意思はもうないにしろ、結果的にそのような形になってしまったことはノアも責任を感じているようだった。
まあ、だからと言って完全に疑いが解けたわけじゃないけどな。これを失敗だと感じて繰り返さないのならそれでよし、もし致命的な形で繰り返したのならばそれ相応の対応を取る。その判断基準だけは、俺の中で鈍らせるつもりはない。
「……そういうことを繰り返さないためにも、早いところ拠点に戻らないとね。このドアがどんな仕組みだったのか、このダンジョンでどんなことが研究されてたのか。そこらへん、皆も気になってるでしょ?」
「ええ、興味津々ね。……少しでも早く答えを得るために、私も力を尽くすことにするわ」
何かをほのめかすようにそよ風を纏いながらの返答に、ノアも思わず明るい表情を浮かべる。――俺たち四人のダンジョン探索は、初回とは思えないほどの多くの収穫とともに帰路に就いた。
戦略的撤退を選択した四人を一体何が待ち受けているのか! 一つ目の山こそ越えましたが、まだまだ第三章は終わりませんので、ここからの展開を楽しみにしていただければ嬉しいです!
――では、また次回お会いしましょう!




