5月18日-3回目 ①集合
11時34分45秒、46、47。
火曜の2時間目、2年4組は数Ⅱの時間だ。担当の武田先生が3次式の展開公式を黒板に書き連ねている。
このクラスは授業が遅れているので今日の授業は飛ばしますよ、みなさんついてきてくださいね、なんて授業の始めに先生が宣言したのは冗談ではなかったようで、今日の板書は量がものすごく多い。先生は板書に夢中になっているようで、無言のまま生徒たちに背を向けて右手のチョークを走らせている。今日の授業は先に板書だけして、後から解説をつけ加えるスタイルらしい。クラスメイトたちも必死になって板書をノートに写しながら、先生の背中に邪魔されてしまう何人かは左右に揺れて格闘しているのが滑稽だった。
そんな他の生徒たちとは違って、教室の一番窓側後ろから二番目の席に座る神山悠莉はシャーペンすら持っていない。さらに言えば、彼女はまっすぐ前を見ているが、その視界が捉えているのは黒板ですらなかった。誤解がないように言っておくが、ユウリは別に数学が嫌いでボイコットをしている不良生徒というわけではない。むしろユウリは数学が好きだった。去年のユウリなら新しく触れる公式を喜々としてノートにまとめ、教科書の練習問題を勝手に解き始めていただろう。
だが、いまは数学の授業どころではないのだ。ユウリの視線の先で、教室の時計特有の独特な動きで長針が跳ねた。11時35分だ。
あと1分。心の中でつぶやいたユウリは、自分が無意識に左手を握りしめていたことに気づいた。意識してゆっくりと左手を開くと、手のひらにあたる空気が冷たく感じて汗ばんでいたのが分かった。
いやな緊張感を払いたくて時計から視線を外し、右隣の席に目を向ける。もう机の上には何も無くて、ただの空席と何も変わらなかった。つまらない空席、誰も使っていない机、それだけなのに目を逸らせなくて、形容することが難しい感慨が心に湧いてくる。
悲しいってほど明確じゃなくて、寂しいってほど湿っぽくもなくて、なんとなく思い浮かぶ単語を当てはめてもどれもどこかズレてしまっているような気がして、やっぱりどう表現するのが正しいのか分からない。
もう4週間、1ヶ月、思い起こした期間が長いのか短いのか分からなかった。自分が抱くべき感情を時期で考えようとしているみたいで嫌になった。また左手を握っていることに気づいて、意識してため息を吐いた。
視線を時計に戻すとちょうど長針が跳ねるとこだった。11時36分がきた。時計から目を離していたあいだに思ったより時が過ぎていて、ふいにきた11時36分に一瞬思考がフリーズする。
教室が静寂に包まれる。比喩ではない。太陽を隠していた雲が風に吹かれて急にあたりが明るくなるみたいに、唐突に、先生が黒板をチョークで叩く音も、みんながノートにシャーペンを走らせる音も、教科書をめくる音も、身体を動かした誰かの椅子がきしむ音も、全部やんだ。
静寂は当たり前のことなのだ。音よりもっと明確に、視覚が告げる。書き途中の板書、机の上の開いたままの教科書、誰かが椅子に掛けているブレザー、クラスのいつもの風景がそこにあるのに。火曜日、11時36分になったとき、また、教室から人が消えた。
ふいに教室の外から物音が聞こえた。次いで変な鳴き声みたいな音。多分前者は隣の教室の扉をがさつに開けた音、そして後者は多分くしゃみかな。
「よお、花粉症の薬もってる?」
教室の前の扉を開けて、前と比べればだいぶ伸びた感のあるショートカットの女子生徒、加瀬弥奈子が鼻声のセリフとともに入って来た。さっきのくしゃみといい、いまの鼻声、表情に不快感を張り付けた加瀬は花粉症がしんどいことを物語っていた。
「持ってるよ」
加瀬のセリフが言葉通りの所有の確認じゃないことは分かっていたので、机の横に掛けた自分の鞄を探って朝飲み忘れたとき用の薬を差し出す。
加瀬とは去年同じクラスだったから、お互いが花粉症なことを知っている。春先の教室では窓の開閉戦争における大切な戦友だ。医薬品のシェアは良くないというが、どうせ同じ花粉症患者同士使っている薬だって同じなのだ。
「サンキュー」
ずかずかとわたしの席の前まで来た加瀬は、ようやく不快そうな表情を崩すと、軽い調子でそう言いながら受け取った。雑な登場ではあったが、3回目とはいえ、こんな状況であれば誰かと一緒にいられるのは心強い。
「あーでも飲む物ないよ。加瀬は持ってる?」
わたしはいつも昼休みにその日の昼食と飲み物を一緒に買っている。昼休みを迎えていない今日はまだ、手元に飲み物が何もなかった。
「え、あたしも持ってない。いいやじゃあさっさと購買行ってパクろう。どうせそろそろ他のみんなも来るでしょ。トイレの水だと口から出そうになるし」
教室近くのトイレの前にある給水機は下を向かないと飲むことができず、たしかに薬を飲むには向いていないなと思った。
わたしは加瀬の提案に乗ることにして席を立つ。机の上には開くだけは開いていた数学の教科書とノートがあるけど片付ける気分にはならなかった。どうせ片付けたところで大して意味はない。椅子にかけた制服のブレザーだけ羽織ると、さっさと教室から出ていこうとする加瀬の後に続いた。
廊下はさっきまで座っていた窓側の席とは違って少し冷えていてブレザーを着た選択は正解だったなと思う。加瀬は最初からブレザーの代わりに学校指定のジャージを羽織っていたからか、廊下の冷えは感じていないようだった。
「あれ、やばアヤノさんまだ教室いるかも」
いつの間にか取り出したレアルマドリードのカバーをしたスマホを操作しながら加瀬が言う。レアルのスマホカバーなんておおよそ女子高生らしさの欠片のないカバーだが、サッカー好きな加瀬らしいなとも思った。まあ一目見ただけで、そのデザインがレアルの物だと分かってしまうわたしも同じ穴の狢なのかもしれない。カバーはレアルを使っていてもジャージが部ジャーで無いことを突っ込んでいいのか分からなくて、グダグダ思考を巡らせている間に加瀬の言葉にうまく返答できなかった。
当の本人は返信を打っているようで、右手が忙しく動いている。変な無言になったかと思ったけど、加瀬は気にしてないようだった。
加瀬とアヤノさんがやり取りしているであろう連絡グループには心当たりがあったので、わたしも加瀬に習ってスマホをスカートのポケットから取り出した。わたしのスマホカバーは去年の誕生日に部活の同期がくれた黄色いシンプルなやつ。そのシンプルさが個人的にけっこう気に入っていた。
うちの高校は携帯の持ち込みは許可されているものの、授業中にバイブレーションであっても音を鳴らせば即没収という校則なのでほとんどの生徒が通知音を切っている。わたしもその例に漏れず通知音を切っていたので加瀬に言われるまでアヤノさんからのLINEに気づかなかったが、画面を操作するとやはりわたしにも通知がきていた。
『ユウリちゃん、加瀬ちゃん、まだ3階にいる?』
『います、います。いま2組行きます、すみません』
ちょうど加瀬の返信が送られたところだった。
そのまま2組の方へ歩いていくと、ちょうどアヤノさんがスマホを片手に教室から出てきた。不安そうって表現がこれ以上ないって感じの表情を浮かべていたアヤノさんだったが、わたし達2人に気づくと柔らかく笑顔を向けてくれた。
笹川亜弥乃さん、たしか152cmと言っていただろうか、小柄さと表情の変化の仕方がなんとなくリスとかモルモットとかそういう小動物っぽいなと初対面のときから感じていた。リスっぽいと感じたのは彼女のパーマがかった茶髪がリスの尻尾に似ている気がしたかもしれない。
「良かったぁ~。今回いよいよ一人になっちゃったのかと思ったよ。でも5組の方から声聞こえる気もしたし、なんか不安になっちゃって。ごめんねわざわざ2組まで来てもらって」
そう言われると今までの2回はわたしも加瀬も誰もいない教室が居心地悪くて、さっさと教室に出てきていたかもしれない。その後、なんやかんや毎回購買やらその隣の食堂に向かうことになっていた。だから必然的に食堂までの道中で2組の教室の前を通ってアヤノさんとも合流していた。
それが今回は、加瀬が花粉症の薬を求めてわたしのクラスまで来るものだから、いつもより教室で過ごす時間も長かった。
「いやこっちこそ、すみません。ちょっと加瀬が絡んできたもんで。アヤノさんの教室は食堂の途中ですし、全然大丈夫ですよ」
「え、あたしのせいかよ。お前だって自分の教室で呆けてだろ」
「うるさいな薬あげたでしょ」
アヤノさんが謝ってくるのが申し訳なくて、何となく加瀬のせいにしてみた。別にわたしだって教室で呆けていたわけではない。ただ、11時36分を身構えてなかったから、なんというか少しびっくりしたのだ。でもそれを口にしたら3回目なのに何言ってんだって加瀬に突っ込まれそうで、適当にあしらうことにした。
「薬?生理痛?大丈夫?」
まあ女子高生が薬をシェアするってなったらほとんどの理由がそれだろう。純粋に心配してくるアヤノさんにまた申し訳なくなった。
「いや違いますよ。加瀬はただの花粉症です。私もですけど。こいつ今日薬飲むの忘れたらしくて」
「ただのってなんだ。ただのって。お前は同じ花粉症患者でありながらこの苦しみが分からんのか!?もう顔面のパーツというパーツが不快感を訴えてくる。いいよな!スギ花粉だけでヒノキの苦しみが無いやつは!!」
地雷だったらしい。加瀬が語気を強めてわめいてくる。そういえばわたしはスギ花粉だけだが、彼女はスギに加えてヒノキのアレルギーも持っていると言っていた気がする。でもそんなに騒ぐならちゃんと薬飲んでくればいいのにとも思ったが、これは彼女なりのジョークだし、言ったら余計にうるさくなることは目に見えていた。
「へー2人とも花粉症なんだ。わたし全然そういうの無いからよく分からないや」
加瀬の騒音の合間にアヤノさんの緩い声は面白いコントラストだった。
わたしは騒ぐ加瀬をかわしたくてスマホに視線を落とすと、ちょうどマイからメッセージが届いた。
『先輩方、今回は食堂集合じゃない感じですか?』
また教室前で時間を潰してしまったから、今度は1年生に心配かけてしまったらしい。
『ごめん、2年3人いま行くよ』
とりあえずそれだけ送って、2人に向き直る。
「もう食堂に集まってるっぽい。こっちも早く行こ」
「りょ~」
「ん」
適当な返事はもちろん加瀬で、いつもよりちょっと高い音で可愛い返事をくれたのがアヤノさんだ。加瀬はさっさと歩き出して、わたしとアヤノさんがその後についていく形になった。
だいだい加瀬、お前に関しては大騒ぎしてないでさっさと食堂行って薬を飲めばいいじゃないか。そう言ってやろうかと思ってやっぱりやめた。前を歩く加瀬の両肩が少し上がっていて、なんだこいつもなんだかんだ緊張とかするんだなと思ったからだ。
1組の教室の前を通って、その横の階段で一階分を下れば二階だ。二階の渡り廊下を行けばすぐに購買とその隣の食堂が見える。食堂の手前の席に1年生2人の姿があった。
2人は並んで座っていて、奥側に座っている日焼けとポニーテールといういかにもスポーツ少女って見た目なのがさっきLINEを送ってくれた永野真依だ。実際に陸上部に入部すると言っていた気がするから、スポーツ少女であることは間違いない。1年の5月にして加瀬と同じくブレザー代わりにジャージを着ているあたり筋金入りだろう。しかも加瀬とは違ってジャージの前をキッチリ閉めていて、同じスポーツ少女とは言ってもマイの真面目さがうかがえた。
対称的に手前に座るいかにも大人しそうな長い黒髪が特徴的で色の白い子が尾上かすみ(オノウエ カスミ)だ。カスミは何となく下を向いて元気が無さそうに見えたが、それが彼女自身の性格がゆえか、この状況のせいかは、この短いカスミとの関係性では分からなかった。
「ごめん、ごめん」
向こうがこっちに気づいたので、謝りながら手を上げる。なかなかみんな集合せず1年生2人では不安だっただろう。
「すまん」
前を歩く加瀬も手を上げ謝意を口にするが、一言それだけ言うと食堂の手前の購買に入っていった。彼女の目的は知っているので特に声はかけず食堂の2人のもとに行く。
「あれ、加瀬先輩どうしたんですか」
事情を知らないマイが購買に入っていく加瀬を目で追いながら不思議そうに尋ねてきた。
「飲み物ほしいんだって」
アヤノさんがマイの問いに答えてくれた。アヤノさんに飲み物のくだりを話した覚えはないから、さっきの薬の話から察したのだろう。まだ知り合って間もないが、ユウリはアヤノのこうした察しの良さをけっこう気に入っていた。
「ごめんね、遅くなって。不安だったでしょう」
1年生たちに声をかけながら、アヤノさんがカスミの向かい側に座った。
「いや全然全然大丈夫ですよ」
マイはそう言うが、実際不安でないはずがないのだ。
わたしもマイの向かい側の席についた。カスミは何も言わないし、何となく顔を見ても目を逸らされる気がするから正直苦手で、アヤノさんがカスミの向かい側に座ってくれたのは助かった。
「そういえば、ナリ先輩たちは?」
席について思ったが、3年2人の姿が見えない。
「ナリ先輩たちもまだ来てないんですよね。LINEの既読はついているんで、食堂に集まっていることは分かっていると思うんですけど」
携帯を取り出してLINEグループを確認すると、たしかに6件の既読はついている。
『おーいナリ先輩?ミサキ先輩?生きてますか?』
とりあえずメッセージを送ってみる。
「あれ、ナリ先輩たちは?」
加瀬がマイの隣の席に座ってきた。購買に売っている緑茶のペットボトルを7本持ってきたようで、先輩すみません、なんてマイが体育会系を発揮している。なんだかんだ行動も言動もがさつだが、加瀬は気が利かないやつではないのだ。
「いまその話してたとこ。LINEみて」
加瀬が持ってきてだけで放置したペットボトルを、マイがそれぞれに配ってくれる。3年のぶんは加瀬の隣とわたしの隣にとりあえず置いておいた。
「ありがとう」
マイから自分のぶんを受け取って一口飲んでみた。飲んで分かったが、自分で思っているより喉が渇いていたようで、一口では終わらなかった。
飲んでいる途中で、ナリ先輩からの通知がきた。確認してみると、腹立つ顔をしたウンチのスタンプが一つ。
「は?なにこれうざ」
思わず口に出していた。人が心配しているのになんだってんだ。加瀬はゲラゲラ笑いだしたあたり、加瀬とナリ先輩の感性は似通っているのかもしれない。向かいの1年2人は、わたしが少し不穏な発言をしたからかマイは苦笑、カスミは困惑した表情を浮かべていた。
なんて返信もとい文句を言ってやろうか考えていると、渡り廊下のほうから足音が聞こえてきた。視線をそちらへ向けると、大口開けて欠伸をしているナリ先輩、渡邉雪成先輩と、高身長とウルフヘアが最高に格好いい相原岬先輩が歩いてきたところだった。
「おはよ~」
ナリ先輩が欠伸のせいで涙目になった右目をこすりながら隣に座ってくる。その様子はすごく眠そうで、というか寝起きに見えて、もしかしてこいつ寝てたのか。おおよそ先輩に向けていい言葉ではないなとは思いつつも、ナリ先輩なら良いかとも思える。
「もしかして、寝てました?」
内心思った言葉よりは少しばかりマイルドにした表現で聞いてみる。
「寝てた」
悪びれもなく短文で返ってくる。わたしの隣に座るとさっき加瀬が持ってきてお茶をがぶがぶ飲み始めた。
「11時36分過ぎてから8組のほう行ったら全然物音しないから、ユキナまで消えたのかってビビったよ。でも教室のぞいたら思いっきり寝ててさ大物だなって思った。しかも起こしたらユキナ寝起き悪いから、なかなか動かなくて。ごめんね遅くなっちゃって」
ミサキ先輩がそう言いながら加瀬の隣に座る。大物だな、のあたりで隣のナリ先輩がニヤッと笑ったから、褒められてないですよと小声で言ってやった。
前回より7人が揃うのに時間がかかった。初回のときとは違ってけっこうみんなが好き勝手してたせいなあたり、案外みんな慣れてきたのかもしれない。というより、多分3回目にもなると、慣れないとやってられないという気持ちの方が強いのかもしれない。
冷静に省みたとき、異常なのだ。わたしたち7人以外、校舎に誰もいなくて。いままでと同じなら恐らく街中にも誰もいない。けどその事実をクリアに頭に置いておくのはしんどすぎるから、みんな何となく話題に出すのを避けている。それをお互い分かっているから適当な内容がないような会話が飛び交う現状が生まているんだろう。
遅筆で稚拙で中途半端ですまぬ~。デジャヴ感じたら仲良くしような。わいもその人のデビュー作めっちゃ好きやねん