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『ふぉおん・しぼるとのむすめ』吉村昭著をダイジェスト!

作者: 北風 嵐

上下2巻まで読んでみようとは思わないが、日本最初の女医、その後のシーボルトを知りたいと云う人もあるだろう。余韻が冷めぬうちに、ダイジェストを書いてみようと思った。このダイジェスト、なかなか難しいのである。ダイジェストが本編より長くなったという笑えぬ話があるぐらいなのだ。





はじめに


高校時代、歴史は世界史を選択したしとこともあって、ここでも勉強ノート代わりに、『戦争と革命の時代』という大そうな題の連載を、フランス革命から、冷戦の終結までを9編で書いた。日本の歴史は学校の教科書程度以上のことは知らない。それでは日本人ではあるまいと、明治維新から勉強し出した。そこで通史本以外に、司馬遼太郎の『飛ぶが如し』と、『一外交官の見た明治維新』アーネスト・サトー著(イギリス公使館の通訳兼外交官)の本を図書館で借りて来た。


サトーの著書の中で、英国公使館に通訳見習としてシーボルトの息子(長男)アレクサンダー・シーボルトがいたことを知る。維新がなって、西郷、大久保、木戸に次ぐ功労者とされた民部卿・大村益次郎が暴漢に襲われて京都の病院に入院し、サトーが見舞いに行く。治療するオランダ医師ボードインの助手として看護に携わる女性がいた。その女性がシーボルトの娘であることをサトーは聞かされる場面があった。


シーボルトに娘がいたのかと、早速検索をした。名前を楠本イネいい、日本で最初の西洋医学を学んだ女性と書かれていた。イネには一人、タカという娘があった。高を検索。その高がなんとも美人。美人に魅かれてこの本を読んでみようと思った。以前、吉村昭の代表作『戦艦武蔵』を薦める人があって読んだのだが、武蔵を建造する過程が丹念な事実の積み重ねで描写される。あまり軍艦が好きでないのか、冗長に感じられて面白くなかった。しかも、『シーボルトの娘』は上下2巻である。躊躇した。しかし、あれは軍艦の話、こんどは女性の話と納得させ、図書館で借りて読むことにした。


久しぶりに読み応えのある本に出逢った。また母滝、イネ、そして娘高、動乱の時代を生きた女三代、特にイネの生き方に感動した。維新といえばどうしても西郷や大久保、竜馬、海舟らの志士、男たちで語られる。司馬遼太郎の『飛ぶが如し』は、まさにこの世界である。両方を対比させていい勉強になった。


上下2巻まで読んでみようとは思わないが、日本最初の女医、その後のシーボルトを知りたいと云う人もあるだろう。余韻が冷めぬうちに、ダイジェストを書いてみようと思った。このダイジェスト、なかなか難しいのである。ダイジェストが本編より長くなったという笑えぬ話があるぐらいなのだ。


p1 シーボルトの来日


小説の出だしは、シーボルトが乗った帆船が長崎湾の外に姿を現すところから始まる。長崎の出島に、オランダ船が入って来るのは知っていても、どのように入って来るのかは知らない。見張り番屋から狼煙があがる。それが次の狼煙、その次となって長崎奉行所に知らされる。何百という和船が長崎湾に漕ぎ出される。その、ものものしい緊迫した様子が克明に描写される。わたしはすでに、江戸時代長崎の町に入り込んでいる。この出だしの文章は秀逸である。


鎖国の事実は知ってはいたが、貿易を許しているオランダ船にしてこれかと、いかに幕府の鎖国政策が骨幹にかかわるものであることを、読者に知らしめる。『戦艦武蔵』で感じた危惧はすでに吹っ飛んでいた。


出島のことは教科書の絵で知る程度のことであった。町とつなぐのは1本の橋だけである。島は四方を高い塀で囲まれている。小舟の接近も杭が打ち込まれ、できないようになっていた。外国人(オランダ・唐人)は市内に出ることは禁止であった。日本人も鑑札のないものは入島できなかった。しかも入出のたびに厳しい身体検査がされた。これらは極力両者の接触を避けることによって、密貿易とキリスト教を封ずるためであった。


女人の立ち入りはさらに厳しく、正門の傍には禁札が立てられていて、その一番に、禁制・傾城(遊女)之外ほか女人入る事と書かれてあった。遊女でもその身体検査を恥ずかしく思うものは多かった。


丸山遊郭は江戸吉原、京都島原と並ぶ日本を代表する大遊郭であった。丸山の遊女は三手に分れる。日本人を相手にするもの、唐人を相手にするもの、そしてオランダ人を相手にするもの。だれもがオランダ人相手を嫌ったが、お金が良かったのと、気に入られればオンリー的に、現地妻的になれることだった。


1.5ヘクタールの中に閉じ込められたオランダ人、唐人にとって遊女とふれ合うことは、淋しさをまぎらす最大の歓楽であると同時に、外部の空気にふれる機会でもあった。


私がシーボルトで知っていたことと言えば、優秀な門弟を育成し、日本の医学に貢献したこと。他には、日本地図を持ち出そうとして国外追放処分にあったことぐらいである。息子たちが日本に来たこと、ましてや娘がいたことは知らなかった。来日したシーボルトは27歳。資格はオランダ公館付医師であったが、ドイツ人で、日本人通詞にそのオランダ語を怪しまれたぐらいであった。日本人通詞は、言葉はわかっても地理は分らないだろうと、オランダでも高地の地域の出身だと偽ったのである。シーボルトさん中々の役者である。


オランダは国でも最高医学をおさめた優秀な医師として日本に紹介していた。シーボルトは医師としての仕事以外に、日本のあらゆることを克明に調べる任務が課されていた。オランダ政府は列強の日本進出を見越して、その貿易独占の優位を守るために、従来の商館長だけの報告情報だけでなく、より深く日本を調べる必要があったのである。その点でシーボルトは植物学、動物学と博物学をおさめていて適任者と認められたのである。


シーボルトの医学の知識と技量は高く、出島以外の診療も出来るようになり、教えを乞うものも多く、鳴滝に診療所兼教習塾の設置が許可されたのである。シーボルトは出島から出られる自由を例外的に得たのである。それはシーボルトにとって好都合であった。


当時、日本の医学知識は一家伝授の方法で、門外不出とされるのが基本であった。それが西洋の最新知識がオープンに教えられるのである。全国から俊英が集まった。壁は言葉であったが、長崎は蘭学のメッカでありその人材にも恵まれていた。


そんなシーボルトが好きになり、現地妻としたのが丸山遊郭でも美人で知られていた源氏名其扇そのおおぎ、本名滝であった。約束された勤務期間が終われば長崎を去っていく館員たち、しかし男と女、情も移れば、子供をなす関係にもなる。二人の間にできたのがイネであった。シーボルトはことのほか喜んだという。文政10年(1827)、滝19歳のときであった。


滝の父親は蒟蒻こんにゃく商であったが、商売に失敗して、家を支えるため長女のお常が丸山遊郭の女になった。それでも子沢山のため、イネも丸山に出たのである。お常はイネまでがと悲しんだが、なにかと滝を気遣ったのである。シーボルトが去った後、滝がイネをつれて廻船業を営む時次郎に嫁げる話をまとめたのも彼女であった。


p2 シーボルトの国外追放


鳴滝塾は全国から英才が集まり、高野長英、二宮敬作、伊東玄朴、戸塚静海らを筆頭に、その後医者として活躍する人材を輩出した。日本のことを調べるとしてもシーボルト一人では限界がある。そこでシーボルトはいいことを思いついた。


弟子たちにいろんな課題を出し、オランダ語で論文を出させることであった。優秀な論文はこれを表彰した。弟子たちの論文は見事なものが多く、シーボルトの日本研究に寄与した。


商館長が将軍に謁見する年がやってきた。またとない機会である。同行することを希望し、商館長の力添えもあって幕府からも許可された。弟子たちの何人かも従者として加わった。彼は下関海峡の深さを計り、瀬戸内海の島の位置を計測し、道中観察記録を克明に記した。そのようなシーボルトの振る舞いをいぶかる役人もあったが、シーボルトは巧みに誤魔化した。


江戸では役人に多額の賄賂を使い江戸城の絵図まで入手している。彼は医者である以上に、国からのミッションを託された人物であり、彼はそれに忠実であった。彼が一番欲したもの、それは正確な日本地図である。優秀な学者としてのシーボルトの名前は知れ渡っており、医学関係者以外にも著名な江戸の学者の来訪が絶えなかった。その中に天文方・書物奉行の高橋景保がいた。伊能忠敬の役務上の上司に当たる人物である。高橋が欲しがっていている書物との交換の話で上手くこれをまとめ、写しを得る。


鎖国政策を取る幕府にとっては秘密にしておきたいものであり、西洋諸国にとっては喉から手が出るものであった。それを入手するということはオランダが一歩優位に立つことを意味する。シーボルトのオランダへの貢献度は計り知れないもので、彼の栄達を保障するものであった。


シーボルトの国禁を犯した行為は、多くの関係者を巻き込んだ。関係した者は過酷な処分にあった。地図を譲った高橋景保は獄死、その子供らは遠島、同行した長崎奉行は監督不行届きで百日の押込め、幕府方通詞らも同様の処罰が下った。優秀な門弟たちも協力したかどで、処罰された。塾頭だった高野長英は発覚することを予知し逃亡生活をした末に捕縛され絶命している。高弟、二宮敬作は長崎と江戸払いになり郷里の宇和島に帰っている。当然、鳴滝塾は閉鎖、弟子たちは全国に散らばっていった。長崎追放を免れた石井宗謙も、暫らくして岡山に帰り医者を開業。この二人が深くイネの運命に関係することになる。


シーボルトが国外永久追放処分されたのは1829年、シーボルト33歳、イネが3歳のときである。イネは父親の記憶がほとんどない。シーボルトは日本に6年いたことになる。去っていくについて、滝やイネのことを高弟たちに託す。


シーボルトが去った後の滝が1年ほどで結婚したことは先に書いた。相手の時次郎は下関と長崎を行き来する廻船業を営み、使用人も多く使っていた。最初の内こそ、滝はシーボルトを恋しがり、来航してくるオランダ船を通じて手紙のやりとりをしていたが、イネも引き取り可愛がてくれる、優しい時次郎を思って、それを禁じた。


p3 イネの学問修行ー宇和島

イネは寺子屋に通うようになっていた。物覚えもよく、寺子屋の師もその才を褒めた。イネの髪は薄茶色で目は青みをおびていたが、鼻筋が通った色白の顔を人々は「可愛い」と賞嘆した。当時の日本は外国人を見ること少なく、毛唐として忌み嫌っていた。また、尊王攘夷の武士たちは、外国人に対して血なまぐさい事件を数々起こしていた。しかし、長崎は外国貿易で栄えており、住民たちも外国人は珍しい存在ではなく、抵抗感も少なかった。日本の中では唯一外国人に開かれた町と言えた。


しかし青い目の〈あいの子〉はやはり珍しい存在で、奇異の目で見られることは避けられなかった。成長するにつれ、イネはやはりその違いを強く意識した。そして異端の目で見られても、父親が偉大な医師であったことを誇りにして耐えた。その思いは熱烈な学問志向となってあらわれた。寺子屋から帰って来ても外で遊ぶよりも机に向かうような子だった。


当時は、女が学問をしても生かされる道はほとんどなかった。それよりも、料理・裁縫等の家事見習い、花や芸事に興味を持って、適齢期には嫁に行くのが女の幸せと考えられていた。滝は習うことは他にあると、学問すること禁じた。それでもめげないイネに悩んだ滝は、宇和島の二宮敬作に諭して貰うよう相談の手紙を出す。しかし返って来た答えは期待とは違って、シーボルトの血を引くイネに学問の道を叶えてやるよう、ついては敬作が責任を持って引き受けることを言ってきた。滝は思案したが、敬作の意見に従うことにした。イネ13歳のときであった。


イネは敬作の紹介する商人一行と同行して宇和島を目指す。長崎から諫早に出て、船で熊本へ、陸路を大分の臼杵へ、そこから舟で四国に渡る。伊方から宇和島街道の険しい山道を経て宇和・卯之町まで辿る。初めての長旅は、女には辛いものであった。まるで作家吉村氏がその旅程を経験したかのように丹念に描く。それによって、イネの気持ちは語られないのだが、イネの強い気持ちが読む者に伝わって来るのである。


敬作一家は暖かく迎えてくれたが、1カ月たち、2か月たっても家の雑用を手伝うだけで、敬作が教授してくれる気配はない。イネは思い切ってそれを問うた。


「学問といっても何のためにするのか、それが大事」と、問われてもイネは答えられなかった。しばらく考えたが「わかりません」と正直に言うしかなかった。


敬作は医学の道、とくに産科を習得することを勧めた。産婦の中には男の医者に診てもらうことを恥ずかしがって、手遅れになるものもあったのである。女医者の道として産科をすすめたのである。医者といえば男性と限って考えられていた時代である。イネは普通の女の幸せでない道に自分が生きることを覚悟する。


敬作のもとで6年修行をし、一通りのことを習得した。敬作はさらに高度な産科のことなら石井宗謙が優れているので岡山行を勧める。イネは長い間母滝に逢っていなかった。一旦長崎に帰った上で岡山に行く。


p4 イネの学問修行ー岡山

 

宗謙は、勝山藩の藩医であったが、シーボルト事件さえなければ、自分はもっと評価されてしかるべき存在だと不満であった。田舎医者で終わりたくないと、岡山藩に派遣を頼み了承され、岡山で開業する。顔立ち、身のこなしは中々で、女性にもてるタイプあった。医業の腕も達者であったが、女性にも達者であった。妾を外に囲い、生まれた子供は本妻、シゲが引き取って自分の子のように育てていた。シゲはそのような宗謙に何も言わず、そのことによって家の秩序が保たれているのだとイネは思った。その子供が久吉といって聡明な目をした子供で、イネは可愛がった。


イネは宗謙の家で働く年下の下女お七と寝起きをともにした。宗謙のもとで助手をこなせるようになっていた頃、滝がイネに逢いに岡山までやってきた。暫らく逗留して滝が帰るのを宗謙と共に下津井まで見送る。その帰りの船の中で、イネは宗謙に手籠めにされる。そのときに出来たのが高である。帰って来たあとのイネの不自然さに、シゲはそれと気付き、泣いて謝罪するがせんのないことであった。


宗謙は外に家を借りて、従来通りの関係で世話をすると言ったが、イネは長屋を借りて貰うが、宗兼の来ることはきっぱり断る。そこで子供を出産したのである。産気づいたイネに気付き、シゲは産婆を呼ぼうとするが、それを断り、シゲの助けも拒絶して、自分の手で取り上げ、へその緒も自分で切る。さすがに、赤ん坊に湯を使うことだけは、お七の世話になる。壮絶な出産である。その決意にイネという人の強情というか、意思の強さ、プライドの高さを計りみるのである。


そのことは、生まれた子供を抱え、長崎に帰るとき、見送る宗謙夫妻の前でイネは宗謙に向かって「人でなし」と云う言葉になってあらわれる。生まれた子供の名前をタダとつけた。天から貰ったタダの子の意味である。後年、タカと改める。


滝は驚き悲しんだ。母の悲嘆にどのように接していいのか、イネにはわからなかった。産んでも、タダの子には強い愛情が湧くわけでもなく、また医学への道にも熱情が湧かなくなって、いたずらに日々を重ねるような生活であった。滝はそんなイネに代って高を世話することに生き甲斐を見出していた。


そんなときに敬作が長崎を訪ねて来た。もう一度宇和島の自分のところに来ないかと誘ってくれる。イネは行く末を考え、子供とともに強く生きていくことを決意し、タダを滝に預け、再度の宇和島行を決意する。


長崎に蒸気船研究に来ていた宇和島藩士の一行があった。敬作もその一員であった。イネを彼らに紹介する。その中の一人が村田蔵六で、後の大村益次郎*である。イネは敬作の甥の三瀬周三と一緒に源六にオランダ語を習うため月に2度程度、卯之町から宇和島の城下に山道を通った。イネは周三の語学の才能に驚き、歳の差はあるが好ましい青年とイネは気に入る(三瀬は後に高の夫になる)。しかし村田源六の藩侯に従っての江戸行に伴って、半年ほどでその授業は中断することになる。


p5 シーボルトの再来日


敬作の代診も任されるようになっていた頃、イネは思わぬ知らせを滝からの手紙で知らされる。シーボルトの追放処分が解かれて、近く日本に来られるかも知れないというのであった。幕府は外国と通商条約を結び、鎖国政策を解いた以上、シーボルトの追放処分は不要のものとなったのである。


敬作は大いに喜び、イネに帰ることを勧め、自分も是非シーボルト先生に逢いたいと、結局、周三を入れて三人の長崎行きとなる。イネはタダの成長ぶりを見たいと長旅も苦にならなかった。シーボルトはオランダ貿易会社顧問として再来日を果たす。30年振りの日本であり、63歳になっていた。出島で、シーボルト、滝、イネ、高の涙、涙の対面となったのである。シーボルトは長男アレクサンダー(12歳)を連れてきていた。異父姉弟の対面でもあった。


シーボルトが再来日したときには滝はすでに夫を亡くし、自分の手に合う商売として油屋を始めていた。しかし、滝には30年という時間は余りにも長すぎる時間であった。出島で流した涙は、イネが父親と出会ったという感動の方が大きかったのである。シーボルトは塾として使っていた鳴滝の家に住むことを希望する。それは滝に買い与えていたものであった。嫁いだ滝には不要なもので売り払っていたが、シーボルトの再三の督促でそれを買い戻す。そこにシーボルトの身の回りを世話する女中として〈しほ〉という若い女をイネは雇い入れる。


滝はシーボルトの来日した当初はイネと一緒にシーボルトを訪ねたが、そのあとはめったに鳴滝に行こうとしない。不思議に思ったイネがそれを問うと、滝は「お前は何も気づいていないのかい」と、シーボルトと〈しほ〉との関係を匂わせる。イネの父親としか見なくなった滝ではあるが、そこは元夫婦、女としての嫉妬も入るのであった。


イネにはショックなことであった。偉大な医師、尊厳ある父としてしか考えてこなかったのである。それが生身の人間、シーボルトの男の部分を見せられたのである。イネの不幸な男性経験はそれを許されないものと感じた。もう一人、下女を雇い入れることによって特別な関係を防ごうとする。しかし〈しほ〉は新しい女に解雇を言い渡す。頭に来たイネは使用人の主は自分であり、勝手な振る舞いは許せないと〈しほ〉を詰る。


シーボルトが〈しほ〉の肩を持ったから、イネの怒りは収まらず、口論になる。イネのオランダ語は不十分なものであり、シーボルトの日本語も30年使っていないものであった。感情のもつれは、言葉の乱れとなって、さらなる感情のもつれを産む。


鳴滝を訪れなくなったイネ。父と娘の関係を心配した敬作がイネを慰め、諭すも、かたくなになったイネは、自分がオランダ語をちゃんと話せないからこんなことになったと、言葉のせいにして、オランダ語を習いたいと云う。敬作はイネの強情さに飽きれながらも、丁度、村田蔵六が長崎に来ているので、再び習うように言う。敬作のとりなしで、イネはシーボルトに言葉の行き過ぎを謝罪し、シーボルトは〈しお〉に暇を出して、一応は収まったのであるが、イネの鳴滝へいく回数はほとんどなくなった。


言葉の先生といえば、シーボルトは周三の才能を評価し、医学修行を兼ねて手元に置く。そして息子に日本語を教えて欲しいと頼む。まだ幼くて目的意識のはっきりしないアレクサンダーには日本語は難しく退屈なものであった。周三はアレクサンダーのやる気のなさをイネにこぼすようになる。


貿易商社との契約期間が切れたシーボルトは、幕府に外交顧問として自分を売り込む。思案の末、幕府はシーボルトを雇う。このとき幕府にも通詞がいたが、シーボルトが頼りにしたのは周三であった。周三はシーボルトのもとを離れたがっていたが、江戸へ行くことは勉学の面でも魅力に感じられ、同行したのである。


p6 周三の災難


長崎ではイネは産科医として忙しくしていたころ、1通の手紙を受け取る。それは宗謙の息子石井信義(久吉)からで、宗謙の死を知らせるものであった。66歳であった。信義は成人し長崎に勉学に来たおりに、イネを訪ね、父親の非礼を詫びている。  高は10歳になっていた。周三とは婚約の儀がなりたっていた。二人の間には文通も頻繁にかわされ、高はすでに妻になる自覚も出来ていた。このころ娘は15、16ぐらいで結婚するのが普通であった。


さらに周三から驚くべき知らせが届いた。シーボルトが幕府から役職を解かれたという内容であった。シーボルトの目だった動きは諸外国の公使の反発を招いたのである。彼らにとっては、シーボルトはやっかいな存在でしかなかった。その非難はオランダ総領事にも向けられ、総領事もシーボルトを庇う気はなかった。


シーボルトと周三が長崎に帰る準備を整えていたとき、思わぬ災難が周三に降りかかった。「尋問の筋あり」とされたのである。シーボルトが解任された今、周三は通訳に立ち会い、幕府の外交政策の秘密を、全てを知る人物とされたのである。逮捕の表向きの理由は藩士でもないのに帯刀していたことを理由とされた。シーボルトという人は、よくよく人を災難に巻き込む人のようである。


今や、周三はイネにとっては頼りにする最大の男性であった。一人で帰って来たシーボルトを「周三を捨てて来た」となじるが、せんないことであった。シーボルトに、バタビア総督府からバタビアに帰ってくるように命令書が届いた。外交主任に任命し、将来オランダ公使として日本に派遣する道もあると記されていた。シーボルトの懸念はアレクサンダーのことであったが、なんとか英国公使館の通詞見習いとして採用される。周三から日本語を習ったことが生きたのである。再び日本に帰って来ることを夢見てシーボルトは長崎を去るのであったが、二度と日本の地を踏むことはなかった。


本国に帰ったシーボルトは医学の発展からも取り残され、日本学者としての評価も過去のものとなっていた。ミュンヘンで、70歳で没した。シーボルトが長崎を去っていく同じ日に、シーボルトを敬愛してやまなかった二宮敬作も病床で息を引き取った。同じ日に亡くなる、二人の師弟としての深い関係を象徴しているようにイネには感じられた。自分がいま女医としての道を歩んでこれたのも、父娘の関係もなんとか断たれなかったのも、みな敬作のお陰であった。シーボルトが去ったことも寂しかったが、イネにはそれ以上に敬作を失ったことに大きな虚脱感を感じた。


周三の釈放を願い、滝や高らと神社にしばしば足を向け祈願していたが、宇和島藩主伊達宗城侯が敬作を通じて女医イネに関心を持っていて宇和島に来るようすすめてくれていたことを思いだした。イネは周三の救出に宗城候の力を借りられないかと思ったのである。第二の故郷でもある卯之町にいくことを決意した。イネは36歳になっていた。容貌は依然として美しかったが、その顔は年とともに異国人の特徴を示すようになっていた。


藩主に招かれ、イネ母娘は登城した。宗城候は上機嫌でイネに夫人や奥女中の医学的な相談者になることを命じた。夫人は高の初々しい美しさを気に入り、傍に仕えることをすすめた。イネは有難いこととしてどちらも受けた。そして敬作の友人であった藩の蘭学者大野昌三郎を通じて、周三釈放の件を藩侯に働きかけて欲しいと懇願した。周三は牢獄の過酷な扱いの前に死にかけるが、洋学に深い理解を持つ宗城候の働きかけや、状況の変遷によって無事釈放される。周三は宇和島藩の翻訳係として召し抱えられる。


長崎に残してきた母滝のことも気になり、イネは宗城候に暇を乞い長崎に帰る。宗城候は周三を気に入り、夫人は高を気にいっていた。適齢期になった二人である。藩侯の計らいで婚儀を執り行う運びとなったことが大野昌三郎を通じて知らされる。宇和島には滝も同行すると云う。その年齢や長旅を心配したが、滝の意思は固かった。二人の婚儀は藩侯も出席し、浜御殿で執り行われた。イネはあふれる涙を抑えきれなかった。イネは自分にとって最も嬉しい日だ、と思った。滝も「もー、思い残すことはない」と涙した。しばらく宇和島に滞在したのち、滝とイネは満足な心持で長崎に帰った。


p7 時代は明治


徳川慶喜は大政奉還をし、王政復古が発令され、もはや内戦は避けられないと人々は語り、イネはこの先どうなるのか全く読めなかった。長崎の人々の不安は激しく、町は落ち着かない状態が続いた。イネは産科としての仕事もこなしながら、ボードインの講義に通うのを楽しみにしていた。


新政府が樹立され明治となった。イネは男たちの行動力の激しさにあらためて驚嘆した。不可能としか思えなかった倒幕という大事業に挑戦し、多くの死を乗り越えてそれがなされたのである。時代は大きく変わることだけは確かだと思えた。そんな中、明治二年、滝は息を引き取った。


滝の死によってシーボルトが初来日したおりに親しくしたものは全てこの世を去った。長崎は寂しくなったとイネは思った。今は大坂の病院勤務の周三夫婦の一緒に住もうと云う誘いがあって、イネは大坂に移ることにした。イネがボードインについて大村益次郎の看護にあたったのはこの時である。


新政府は日本医学の手本をドイツ医学として採用した。ボードインは東京に創立されていた医学校兼病院(後の東大になる)に招かれた。イネはボードインについて東京に行こうと思った。新しい時代を、自分の後半生を、一人で生きてみたいと思ったのである。


東京に行く決意をしたイネは、東京にいる石井信義に手紙を出した。信義は政府の興した医学校の教官として要職についていた。身寄りのない初めての東京である。やはり心細さはいがめない。思い切って手紙を出したのである。信義からは上京の折には出来るだけのことはするとの返事が届いた。その中に、アレクサンダーがイギリス公使館付通訳として働き、かたわらオーストリア公使館の通訳も担当し、オーストリア皇帝から男爵の称号が贈られたとその活躍が記され、弟のハインリッヒも前年に日本にきており、二人にイネのことを話したら、逢うことを楽しみにしていると付け加えられていた。


イネは上京して信義に会った。30歳の壮年になった信義は宗謙とそっくりであった。ただ、宗謙の目は冷ややかなものを宿していたが、信義は優しい目をしているところだけが違った。イネは44歳であった。アレクサンダーにも出会った。彼は24歳になっており、住むところを用意してくれていた。


産院を開くお金を援助するとアレクサンダーは申し出てくれたが、そういうわけにもいかず、イネは長崎の鳴海の家の権利書を差し出して買ってくれるように言った。金額は150円。イネは麻布で産院を開いた。


三瀬周三も監獄新制度の役職に就き東京に越して来た。夫婦はイネが忙しくしているのを喜んだ。周三とアレクサンダーはイネの家で久しぶりに対面した。周三はアレクサンダーの日本語の先生であった。シーボルトの子供たち、高弟であった二宮敬作の甥の周三、石井宗謙の子信義、あらたなシーボルトの縁ある者が東京に一同集まったことになったのである。ハインリッヒはオーストリア公使館に正式に雇われることになった。すべてがうまく行っているようであった。


大坂の医学校の校長で移っていた信義が、また東京医学東学校に復帰したと云う知らせを受けて、イネは人力車で信義の家を訪ねた。帰り際に、福沢諭吉が女医としてのイネに関心を示していて、一度会う機会を作るのでよろしくと、信義はイネに伝えた。


石井信義、三瀬周三とともにイネは福沢の家を訪れ、四人は楽しく歓談した。三瀬はその年の4月、文部省の命令で大阪の医学校兼病院(後の阪大)に勤務することになった。イネは思わぬ人の訪問を受けた。宮内省役人で宮内省に出頭せよということであった。イネは見当もつかなかった。福沢の推挙もあって、宮内省御用掛に任じられるというのである。葉室光子、公卿の権大納言葉室長順の息女で若い天皇のお側に親しく仕える身になって懐妊が明らかになったのである。産科係の医師として招かれたのである。


結果は母子ともに悲運となった。光子は脚気の持病を持っていたのである。宮中ではイネの労をねぎらい、金一封を下賜した。宮内省御用掛となったイネの名声は上がり、患家の依頼は増した。福沢がイネを訪ねて来た。福沢の縁者である今泉とうという女性を見習いとして仕込んで欲しいというのであった。今泉とうは24歳で寡婦となり、一人息子を養育していかねばならない身であった。彼女は見習い助手としてかいがいしく働いた。三瀬が東京土木局勤務になったとまた東京に戻って来た。


信義と三瀬がイネを訪ねて来た。三瀬はまた大阪に転勤と苦笑いをした。信義は言いにくそうに躊躇していたが、福沢が立腹していると云うのである。ついては〈とう〉の見習いも止めさせたいと、理由はイネに大病院を起こすことを期待していたが、市井の町医者で満足していて、一向にその気配が感じられない。応援する積もりでいたのに期待を裏切られたと云うのがその理由であった。信義にイネの真意を聞いてきてほしいということであった。


「福沢様のお苛立ちはよくわかります。私のようなものに目をかけてくださり、身に余る光栄と思っています。御恩はわすれません。私は福沢様からも医業を盛大にするようにたびたびお励ましの書簡も何度か頂きました。しかし、私は町の一開業医として終ろう、それで十分すぎるのだと思っています。御維新を迎え、全てのことが大きく変わりましたが、私が女であることには変わりません。女医者として仕事をさせて貰い生活の糧を得られるだけで満足すべきだ、とも思っています。そのような私が大病院を作り上げるなどということは、夢のようなことであり、力もありません。たとえこのような御時世になりましても、私には、そのような大それたことをする気などないのです」


「御維新で、将軍様から天子様の御代になり、あらゆる仕組みが変わり、その変わり方に呆気にとられています。汽車や人力車が走り、ランプが灯りガス灯も据えられたとききます。しかし、たとえざんぎり頭、洋服が流行っても、人間そのものが変わるのでしょうか・・私は異人を父に持ち、女医者になりはしましたが、昔通りの日本の女です。このような椅子に座るより畳に座る方がはるかに楽な日本の女です。そのような私に、大病院などつくれましょうか」イネはお茶を一口飲むと、


「私は正月がくれば50歳になります。老いました。この頃昔のことを振り返ってみることが多くなりました。二宮敬作先生、石井宋謙先生、大村益次郎先生、ポンぺ先生、ボードイン先生に師事させて頂きましたが御講義を拝聴いたします時には、常に私は、男の皆様の後ろに座っておりました。私は女であり、男の方の前に出る気など毛頭なく、拝聴できるだけでも女の分に過ぎたことだとありがたく思って参りました。


御維新になり、福沢様が男も女も平等と申しておられますが、私は日本の古い女です。医者と認められていますが、聴講させていただいた時と同じように、私はあくまで末席にいたいと思っています」


石井が息をついた。「よくわかりました。たしかに御時世は変わっても人間が変わるはずもありません。それはわれら男にしても同様です」。三瀬はそれに同意するように何度もうなずいた。


長い小説だが、イネが自分の考えを長く語る場面はほとんどない。イネの考えがまさにそうだったのだろうが、作者の考えもここに反映されているように思ったので、長々と引用した。


後日、福沢からは謝する手紙が届き、〈とう〉も従来通り使ってやって欲しいと書かれてあった。


p8 老いを感じるイネ


イネは往診先で思わぬ言葉を耳にした。「取り上げ婆さん」という言葉であった。それはイネの胸に突き刺さり、大きな衝撃であった。医業開業試験が制度として実施された。当然、イネも受験しなければならない身であった。しかし漢方医らの強い反対もあって、25歳以上の開業医には試験は免除され、免状は授与されることになったのである。世人はその処置を「お情け免状」と称したのである。そのことがイネの胸にわだかまっていたのである。


イネは改めて自分が身につけた医学について振り返ってみた。ポンぺ、ボードイン、マンスフェルトについて学んだといっても、オランダ語に未熟な身には理解も不十分であった。結局自分が得たのは二宮敬作、石井宗謙から伝授された知識だけで、それが自分の全てであることにも気づいていた。日に月に急速な進歩を示す医学から遠く置き去りにされていく自分を意識した。医業を続けるためには「お情け免除」を貰わねばならない。政府は制度を作ることに専念し、今後もさまざまな規則に縛られて仕事をしなければならなくなるだろう。イネは疲労を感じた。


このまま東京で忙しい毎日を送るのが煩わしく感じた。休みたかった。長崎に帰るのが好ましいと思った。イネは信義にその旨を伝え、福沢には手紙を出し、〈とう〉には事情を話し、他の医家に師事するようにすすめた。のちに〈とう〉は産科学を修め、宮中御用を拝命するまでになった。


長崎の町のたたずまいは変わらなかったが、薩摩士族の反乱が伝えられ、町は騒然としていた。西郷らの西南の役である。顔見知りのものから「先生」と呼ばれ、往診を乞われることもあったが、休養中だと云って応じなかった。


秋の気配が深まった頃、高からの手紙に驚いた。三瀬が亡くなったのである。コレラに感染しての急死であった。三瀬はまだ39歳で渡欧の準備をすすめ、大病院兼病理研究所を夢見ていたというのに、感染症で亡くなるとは、三瀬の無念を思い、心の支えであった三瀬を失ったイネの悲しみは大きかった。


高は長崎に帰って来てイネと一緒に暮らすことになった。一人ならなんとか東京で蓄えたものでと計算していたが、事情は変わった。東京の石井信義から手紙があって、医師開業免許の交付があったので長崎の役所で受け取るようにすすめてきた。イネはそれに従って免許を受けた。


イネは寡婦となった高が女として自活できる道について思案した。助手の〈とう〉は未亡人で自分に師事したが、同じ道を進ませるのがいいのではないかと思った。幸い東京には石井信義がおり、頼めば高の面倒を見てくれるだろうし、産科も紹介してくれるだろう。高はイネの突然の言葉に驚いて、「考えさせて頂きます」と答えるのがやっとであった。高はまだ夫を亡くした悲しみの中にあって、先のことなど考えていなかったのである。高は考えるといったが返事をする様子はなく、イネを避けているようでイネは苛立っていた。


そんなおり、一人の男が高を訪ねて来た。イネが「どなたです」と高に低い声で訊くと信義の家に出入りしている片桐重命という医師で、信義の家で何度もあったことがあると言ったが、片桐がなぜ訪ねてきたかは高にもわからないようだった。イネはともかく座敷に上がって貰った。


片桐は仏壇に手を合わせたあと、「自分が長崎に行くと云ったら、石井先生が近況をお伺いし、これを持って行くようにと言われました」と懐中から香典を差し出した。イネも高もようやく片桐の来意を納得し、その好意に胸を熱くした。片桐は27、8才の誠実そうな男性に見えた。


「石井先生は今後どのようにお過ごしか御心配されております」との問いに、イネは「高を信義先生にお預けし、産科を学ばせたい」と答えた。「実は、石井先生も高さんがそのような気持ちになられるとよいが…と云っておられました。イネ様のところにおられた〈とう〉さんも、近々助産婦を開業されると聞いております」と片桐は答えた。片桐は5日ほどで東京に帰るとのことであった。イネは信義も同じ考えだったことに喜び、「それは好都合でした。今日にでも信義殿には手紙を出します」と高を連れて行ってくれるように頼んだ。高も覚悟が決まったようで東京行の準備を始めた。イネは波止場まで高を送った。自分は非情な母親のように思えたが、今後の高のことを思えば、いたずらな情を挟むべきでないと思った。


p9 高の悲劇


高が去ってからは、イネは急に寂寞感が自分を包み込むように思えた。前年まで東京で産科医として多忙な日を送っていたのが夢のように思えた。医師免状は持ってはいるが、産科の看板をかかげる気持ちにはなれなかった。信義からは高を一人前の産科医に仕上げるからと温情のこもった手紙が寄せられたが、高からは東京に着き石井の家に身を寄せた旨の簡単なものであった。その年もあけ、明治12年の正月をイネは一人で侘しく迎えた。2月下旬珍しく高から分厚い手紙が届いた。


そこには驚愕すべきことがらが書かれていた。船中でイネと同じようなことが起きたのである。片桐は三瀬の存命中から密かに高の美貌に心を惹かれていたというのだ。


長崎に来たのも高に会いたい一心からであったという。子供まで宿したのもイネと同じであった。自分たち親娘には、共通した不運なめぐりあわせにあるのかも知れぬと思った。高が上京以来ほとんど手紙を寄こさなかった理由が理解できた。その間悩み続けていた高の心中が察せられ、イネは手紙の上に大きな涙粒を落とした。


イネは産科にしようとしたこと、片桐に託したことを後悔した。虚脱したように毎日を過ごした。母として娘にどのようにしてやったら良いのか、高が身ごもっている子を同じ境遇には落としたくはなかった。そのためには高が片桐の妻になることが好ましい。片桐は医師であり、妻帯していない。夫としては、不足はないはずだと思った。高は片桐と結婚し、片桐を楠本家に入り婿させるのが最良の方法だと心が定まって、そのことを信義宛に手紙にして書き送った。


暫くして信義から返事が来た。イネの考えに反対していた。また、高にもその意思はみじんもなく、怒りがおさまらぬので、片桐に詫び証文を書かせ、今後高には近寄らぬよう厳しく伝えたという。


高はしばらくして何の前触れもなく長崎に帰って来た。高はうつろな目をして日々をすごしていた。そんな折、長崎医学校の助教である山脇泰助という人物の使いの者の来訪があった。要件は、高への結婚の申し込みであった。イネは会ったことはなかったが、名前は知っていた。東京大学東校を出た27歳の俊才であった。再婚の高には望めぬ良縁であったが、高はその資格を失くしていた。イネは断るしかなかった。高は男の子を生んだ。イネは名前を周三とした。


再度使いのものが見えて、事情を知った上でどうしても高を妻として迎えたいという話であった。山脇は長崎に帰って来た高を見初めたのである。またシーボルトを尊敬し、イネが立派な女医であることにも敬意を払っていて、その血を受け継ぐ高を医師の妻として迎えたいというのである。


周三も実子として育ててもよいということであった。高は過去を断ち切って新しい幸せを掴まねばならない、山脇の厚意に甘えるわけにはいかなかった。イネは周三を楠本家を継ぐ者として自分の養子とした。山脇に嫁いだ高は二女をもうけた。しかしその山脇も早世する。高は「私はよくよく男運がない女です」と、仏壇におさめられた骨壺を見上げながら、切なく泣いた。


p10 その後のイネと高


その後のイネと高であるが、アレクサンダーから東京に出てこないかと誘いがあった。周三も小学校に通うようになっていて成績も群をぬいていた。幼いながら自分の将来は医師と決めているようであった。周三の教育のことも考えて東京行を決めた。明治22年秋、イネは高と三人の孫を連れ長崎を離れた。


上京したイネらはアレクサンダーの案内で、麻布のハインリッヒの家に腰を落ち着けた。楠本医院という木札を掲げて5年ほど産科医院を開いたが、それも閉じた。高は子供の育児に専念したが、その手がはなれてからは琴や三味線に励み、その才を開かせ良家の子女に教えるようになり、その道で生計を成り立たせるようになった。イネは自然と孫の教育係となり、厳しく教育した。周三はその後、慈恵医大に進み医師になった。福沢諭吉の死が新聞に報じられた。イネは視力の衰えた目でその記事を読んだ。


明治36年8月25日、夕食に大好きだった鰻のかば焼きを近くの鰻屋から取り寄せ、食後孫たちと西瓜を食べた。夜半から急にイネは腹痛を訴えた。診察に来た医者は鰻と西瓜の食べ合わせが老いたイネの消火器に悪影響を与えたと診断した。夜半近く昏睡状態におちいった。慈恵医大の医学生であった周三も寮から駆けつけ治療にあたった。8月26日午後8時過ぎ、イネは息をひきとった。76歳であった。





後記


以上が粗筋である。上下2巻、上下に2段、700ページ近いのをまとめるのである。大変。シーボルトの娘として、〈あいのこ〉として生まれたイネの一生が語られるのであるが、動乱する歴史が背景で語られる。そちらの方が多くのページを占める。歴史小説であるから当然と云えば当然だが、それがあって、イネの生き方が浮かび上がってくる。


幕末から明治へ、激動期の時代を生きた主人公を扱った小説に、島崎藤村の『夜明け前』がある、〈木曽路はすべて山の中である…〉で始まるあの小説である。わたしはこの小説と対比させて読んでいた。


『夜明け前』が、主人公青山半蔵は奥深い山の中、中山道に面した宿場町馬篭宿が舞台で主人公はほとんどここを動かない。イネの方は、ベースは長崎であるが、宇和島、岡山、大坂、東京と、この時代としては結構動くのである。『夜明け前』が閉ざされた宿場町、それに対して長崎は開かれた港町、青山半蔵が学んだのが国学、イネは蘭学。激動期という時代は共通するのだが、何かと対照的なのである。


和宮の降嫁の行列が中山道の宿を通る場面がある。それを宿場の自家からじっと眺めて、半蔵は時代が大きく動くことを感じるのである。イネの場合は、もう誕生それ自身が激動の時代を予兆したものであった。


夜明け前の主人公・半蔵は、王政復古に陶酔し、山林を古代のように皆が自由に使う事ができれば、村民の生活はもっと楽にできるであろうと考え、森林の使用を制限する尾張藩を批判していた。下層の人々への同情心が強い半蔵は新しい時代の到来を熱望していた、明治維新に希望を持つが、待っていたのは西洋文化を意識した文明開化と、政府による人々への更なる圧迫など半蔵の希望とは違う物で、更に山林の国有化により一切の伐採が禁じられるという仕打ちであった。


半蔵はこれに対し抗議運動を起こすが、戸長を解任され挫折。意を決して上京し、自らの国学を活かそうと、国学仲間のつてで、教部省に出仕するが、しかし同僚らの国学への冷笑に傷つき辞職。また明治天皇の行列に憂国の和歌を書きつけた扇を献上しようとして騒動を起こす。上京も失敗し、失意のうちに帰郷する。


次第に酒に溺れるようになり家産も傾きになる。そして最後の期待をかけて、上京させた学問好きの四男、和助(作者島崎藤村自身がモデル)が期待に反し、英学校への進学を口にする。最後は半蔵が尽くした村人たちによって、狂人として座敷牢に監禁されて果てる。対比させて何かと印象的な作品であった。吉村氏の力量をいかんなく発揮された作品であった。少しくどいところもあったが、一字たりとも飛ばさずに読んだ。この時代を学ぶ歴史の入門書としても最適ではないか。作者の歴史観の押しつけもなくたんたんと事実の経過が語られる。歴史の通史本はどうしても、無味乾燥した味気ないものである。物語、生きた人間の息吹の中で歴史を知るのもいい方法だと思う。


それにしても、石井宗謙、片桐重命、医師としてひとかどに成功した人物なのだろうが、女性に対して不名誉を犯した人物として、いつまでも名を留めなければならないとは、同じ男性として同情しかかってしまう。仕方がない、それが罰というものだ。でもいちばんきつい罰かもしれない。


注釈と人物

注釈


イネと高の名前について


イネは宇和島藩主・伊達宗城から厚遇され、宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤くすもと いとくと名を改める。高は明治になって高子と改名する。


人物


吉村よしむら あきら1927年(昭和2年)~2006年(平成18年)


東京生まれ。習院大学中退。1966年『星への旅』で太宰治賞を受賞。同年発表の『戦艦武蔵』で記録文学に新境地を拓く。同作品や『関東大震災』などにより、1973年菊池寛賞を受賞。現場、証言、史料を周到に取材し、緻密に構成した多彩な記録文学、歴史文学の長編作品を次々に発表。小説家津村節子の夫。


ハインリヒ・フォン・シーボルト


日本に滞在し、日本で岩本はなと結婚して1男1女をもうけた。またオーストリア=ハンガリー帝国大使館の通訳官外交官業務の傍ら、考古学調査を行い『考古説略』を発表、「考古学」という言葉を日本で初めて使用する。


大村益次郎


文政8年(1824年)~明治2年(1869年)。幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務めたが、明治2年軍事施設視察のため出向いた京都で元長州藩士8名によって襲撃され、その傷がもとで亡くなる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、のちに益次郎。周防国の村医の長男として生まれる。防府で、シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学ぶ。後年、大坂に出て緒方洪庵の適塾で学ぶ。適塾の塾頭まで進む。嘉永3年(1850年)、帰郷し、村医となって村田良庵と名乗る。


ペリー来航で蘭学者の必要性が高まり、伊達宗城候のたっての要請で宇和島藩に出仕する。大村はシーボルト門人で高名な蘭学者の二宮敬作を訪ねるのが目的で宇和島行を決意したとも云われている。宇和島に到着した大村(村田蔵六)は、二宮や藩の顧問格であった僧晦厳や高野長英門下で蘭学の造詣の深い藩士大野昌三郎らと知り合う。一級の蘭学者として翻訳、砲台の設置、蒸気船研究と藩主に重要される。藩主伊達宗城の江戸行に同行し江戸詰めになる。宇和島藩御雇の身分のまま、幕府の蕃書調所教授方手伝となり、外交文書、洋書翻訳のほか兵学講義、オランダ語講義などを行う。安政5年、長州藩上屋敷において開催された蘭書会読会に参加し、兵学書の講義を行うが、このとき桂小五郎(のちの木戸孝允)と知り合う。これを機に長州藩の要請により江戸在住のまま同藩士となる。維新への功績は西郷、大久保、竜馬に次ぐものと評価されている。


伊達宗城(1829年~1892年)


福井藩主・松平春嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われ、幕末期に有力藩藩主として影響力を持つ。養父宗紀の殖産興業を中心とした藩政改革を発展させ、宇和島藩を豊かにした。幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招き、軍制の近代化にも着手した。


明治になって、明治2年(1869年)、民部卿兼大蔵卿となって、鉄道敷設のためイギリスからの借款を取り付けた。明治4年には欽差全権大臣として清の全権李鴻章との間で日清修好条規に調印し、その後は主に外国貴賓の接待役に任ぜられた。しかし、その年に中央政界より引退する。明治25年、葬去。












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