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短編

一メートル先、右方向

作者: 奈良ひさぎ

 右斜め前の席。

 僕の記憶の限りでは、彼女はいつも、そこに座っていた。僕は別に授業そっちのけで窓の外を見たいとか、教室の中では目立たない位置だからとかではなくて、単に何となく教室の一番後ろ、一番左端の席に座るのが好きだった。だから席替えがあっても、いつもそこを希望していた。席替えは成績順に席を決められる方式で、幸いなことに僕はクラスで五番くらいには成績がよかった。上の四人はわざわざそんな黒板の見えないところには座ろうとしなかったから、いつも安定してその席に座れたというわけだ。


 そしてそんな僕に気づいてほしいかのように、彼女は決まって、僕の右斜め前の席を希望していた。そんなことをしてくるものだから、さすがに名前は覚えた。二宮香奈(にのみや・かな)。彼女に気がいくようになってから気づいた話だが、僕と成績は同じぐらいといったところで、そう考えるとやっぱり僕がずっと例の席を指定してるのを知った上で、右斜め前の席にしているんだと思った。


 気づけば授業中ノートを取る合間に、二宮さんのことばかり見るようになっていた。二宮さんはいかにも真面目だった。ノートを取っては熱心に先生の話を聞いて、ふんふん、とうなずいていた。その場で理解できることはさっさとしてしまおう、という勉強の仕方らしかった。それがすごくいいのだということは僕にも分かっていたが、どうにもできないでいた。そんなところも、僕はまぶしく感じるようになっていた。


 僕と彼女の接点は、ほとんどなかった。休み時間になれば二宮さんはすぐに席を立って他の女の子に話しかけにいっていた。僕が休み時間にすることと言えば、ぽかぽかと陽気にあたりながらうたた寝をするか、やり残していた宿題を片付けるかだ。そして放課後になれば二宮さんは、さっさと荷物をまとめて楽しそうに教室を出て行く。持ち物からテニス部だということは分かっていた。対して僕は放課後になってもまったり西の方角にやってきた太陽に当たって、しばらくうとうとしてから帰る。違うクラスの友達を待って帰っていたから、毎日がそんな感じだった。


 僕が初めてまともに二宮さんの声を聞いたのは、高校二年生の夏休みも終わって、秋が近づきつつある頃だった。数学の授業の初めに宿題を提出することになっていたのだが、休み時間の延長でうとうとしていて、僕はタイミングを逃したのだ。


「北見くんの分も、一緒に出しに行こっか?」


 とんとん、と肩を叩かれその声が聞こえた時、僕は誰だ居眠りの邪魔をするのは、ぐらいにしか思っていなかった。だけど目が覚めて、目の前にいる人の輪郭がはっきりしてきた時、僕は何もやましいことなどしていないはずなのに、何かドキッとした。僕を見つめる顔は、どこか心配そうな表情をしていた。


「……二宮さん?」

「あ、別に迷惑だったらいいの。授業始まっても突っ伏してたから、調子が悪いのかな、とかいろいろ思って」

「あ、いや……」


 結局二宮さんに宿題を出してもらうことになった。二宮さんはそれで終わり、特に僕のことなど気にしていない様子だったが、僕の方はほぼ初めて聞いた二宮さんの声がいつまでも頭の中で響いて、授業に集中するどころじゃなかった。こう言えば気持ち悪いかもしれないが、ずっと聞いていたいような、透き通った声だった。だが、たぶんこの一度きりだ。このまま二宮さんの声は聞くことなく三年になって、クラスが変わって別々になる。ただの偶然がここまで積み重なってきているはずなのに、僕はなぜかものすごく名残惜しくなっていた。


「……あの、よかったら、手伝ってくれない?」


 そう思っていたら、二回目がすぐに訪れた。数学の授業が終わって、みんなの宿題を職員室まで運ぶのに、お手伝い要員として二宮さんは僕を呼んだのだ。何で僕なんだろう、他の女の子でいいはずなのに、と不思議に思いながら、半分以上のノートを引き受けて、僕は二宮さんと一緒に職員室まで行った。


「……あ、はじめまして」


 並んで廊下を歩き始めると、すぐに二宮さんがそう言った。


「二宮、香奈です。よろしくね」

「あ、北見悠(きたみ・ゆう)です。よろしく」

「……」

「……」


 それで会話が途切れてしまった。

 そのままだと職員室に着いて、何も話すことなく終わってしまいそうだったから、僕は思い切って口を開いた。


「あ、」

「あの、」


 二宮さんと口を開くタイミングがかぶった。


「……えっと、どうぞ」

「いや、そっちの方が大事な話でしょ」


 その時どんな心理が働いたのかははっきり覚えていないが、二宮さんに譲ってしまった。


「あ、えっと……北見くん、ってさ、ずっと、端っこの席に座ってる、よね?」

「……気づいてたんだ」


 まさか、とも思ったし、やっぱりな、とも思った。


「うん、何となく……それで半分遊びで、私もずっと斜め前の席を取ってたんだけど」

「遊びで?」


 二宮さんのその言葉でやっぱりわざとだったのか、と思うと同時に、どうしてそんなことを、と僕は思った。


「そう。北見くんは何となく見てる限り、他の男の子とは違う感じがしたから……何かあったのかな、って思って」


 そんなことで心配してくれていたのか。


「それは、……別に、特に理由はなかったんだけどな。何だろう、こう、日に当たってのんびりするのが好きっていうか、まあだらしないって見方もできると思うけど」

「あ、いや、そんなこと言いたいんじゃなくて」

「ん?」

「私心配性だから、誰かが他の人と違うところを見つけたら、気になっちゃって。これってたぶん、お節介、って言うんだね」

「お節介だなんて、そんな」


 優しい人だ、と感じた。偽善とかではなくて、無意識に、人に優しくできるからそんなことが言えるんだと、僕は半ば直感した。


「私、何となく思ったの。ひょっとすると、どこかで北見くんとは気が合うんじゃないか、とか」

「今初めて話してるのに?」

「うん。何となく、だけどね。私もずいぶん思い切ったこと、するよね。これでもし私の予想が間違ってたら、絶対気まずいまま終わってたし」

「……そっか」


 今こうやって話せている時点で、少なくとも気が合っているのだ。僕がもっとぶきっちょだったら、あるいは二宮さんがもっと素っ気ない人だったら、こんなことにはならなかったのかもしれない。


 職員室に着くと、他にも用があったらしい二宮さんが、僕に先に行くよう言った。


「やっぱり私の予想は、間違ってなかった。北見くんと話してると、新鮮で楽しいね」

「そう思う?」

「他の子にも言われたりしない? 面白い奴だな、とか」

「……記憶の限りでは、ないかな」

「……そっか、じゃあ私が変な人なのかも」


 ふふふっ、と二宮さんは笑って、じゃあね、と僕に言ってくれた。僕は特に意識することもなく反射的に、じゃあね、と返していた。




 それからもなぜか、二宮さんと一緒になる機会が増えた。これまでそんな気配はまるでなかったくせに、いざ話せば嘘のように会って話す機会ができた。もしかすると今まで僕は記憶がボコボコ抜け落ちてて、二宮さんと出会って話した記憶が全部吹き飛ばされてるんじゃないか、と自分の頭が心配になるぐらいには二宮さんと話した。文化祭の出し物の準備をする時も同じ班に振り分けられていた。十月に入って中間テストが終わると、ついに席替えで二宮さんが僕のすぐ前の席を取ってきた。偶然が重なって話すどころか毎時間ちょっとした相談でも話せる距離になった。


「やっぱり、これは確信なんだけど」

「ん?」

「北見くんといろいろ話すようになってから、ずっと楽しくなったな、って。あ、元々楽しくなかったわけじゃなくて、こう、楽しさが何倍かになった、みたいな」

「ほんとに?」

「ほんとに。帰りに話せないのがもったいないくらいには」

「二宮さん、部活だもんね。僕は特に何もないけど」

「実は」


 二宮さんが人差し指を僕の顔の前に立てて、少し振ってみせた。


「もうすぐテニス部も引退なの。あ、いや、別に清々したみたいな響きだけどそういうことじゃなくて、普通に、ね。私、別に他の子たちみたいにそんなに上手じゃないから。この間の試合でも負けちゃって、あえなく引退」

「そうなんだ……」

「だから一緒に帰るとか、できるんだけど」

「ぶはっ!?」


 なぜか僕にとってその言葉は予想外だった。


「あ、ごめん、びっくりした?」

「……いや、なんでもない」

「じゃあ嫌だったとか?」

「そうでもなくて」

「もし迷惑みたいだったら、今の話はなしにしたいんだけど……」

「え!? いや、全然迷惑じゃない! むしろ喜んで!」


 思わず僕は勢いでそう言っていた。


「そ、そう? ありがとう」


 それから、僕たちはよほど予定が合わない時以外は、一緒に帰るようになっていった。下校している時にも何でもないことで話せるなんて、とそれだけで僕は幸せな気分でいた。このままこれまでの僕みたいに、のんべんだらりと時が過ぎていくんだろうな、と思っていた。それでもいいと思っていた。


 だからこそ、かもしれない。


「あの、さ」


 一緒に帰り始めてから一週間か、二週間しか経っていない頃だった。二宮さんの方から、帰りに改まって話しかけられた。


「なに?」


 いつものように話題を変えようとしただけだろう、と思っていた僕は、そう返事した。すると二宮さんが顔を真っ赤にした。普段の二宮さんならそんなことはなかったはずで、ここでようやく僕は、何となく二宮さんの意図を感じ取った。


「あの……これからも一緒に、帰ってくれる?」

「うん」

「これからも、よ? ずっと、なんだけど……」

「もちろん。もう正直、二宮さんがいないと成り立たないな」


 しまった、と思った。すっかり言い終わってから、僕は僕の言ったことの重要性に気付いた。二宮さんはますます顔を真っ赤にして、


「あ、あの、その、……」


 しどろもどろになっていた。そんな顔をされると僕の方も恥ずかしくなって、耳たぶまで熱くなっているのが分かった。


「わ、私も……そう、思って。北見くんがいないと、隣にいないと、落ち着かないし、何だか、足りないな、って、感じがして……」

「じゃあ、お互い様だ。……もしよかったら、その、付き合ってくれる、とか、」


 後から考えれば何て流れで、という話だ。もうちょっとメリハリをつけるべきだったな、と今では思うが、その時しか言うタイミングはない、と思ってたから仕方ない。僕がそう言ったのが救いになったのか、二宮さんはぱっと明るい顔になって、


「もちろん!」


 と言ってくれた。


 高校二年生の、十月の終わり。高校生活も折り返しになって、僕たちはそんな大事な約束をしたのだ。僕は二宮さんのことを、二宮さんは僕のことを、欠けてはならない、ずっとそばにいてほしい存在としてより一層認識するようになった。

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