2 井手野下涼
「ところで、梓。この一週間どこに泊まってたの?」
(…………。)
相変わらず立ち直りが早いようで何よりだ。
あたしがアパートに帰っていないことも把握しているらしい。そして、おそらくどこに泊まっていたのかも。勝手に調べたそれをあたしの口で言えば六藤は一番安心するようだ。涼が表社会から消されないためにも、何もないということを伝えておかなければ。
「従兄の家だよ。ほら、よくあたしが話す人。井手野下涼のところ。生物学上は男に分類される人だけど、家族みたいな人だから、間違いはないから安心して。」
「うん。梓の事は信じてるし、従兄だから大丈夫だよ。」
良かった、とあたしは胸をなでおろす。ただでさえ執着が服を着て歩いている状態なのに、勘違いされたら本体が『執着』の得体の知れない何かになってしまいそうだ。
「明日には自分の家に帰るから安心してね。」
「どうして今日じゃないの?」
「従兄が昨日高いお酒買ってくれて、今日の晩飲むつもりだから。約束してたの。」
「……酒?」
「滅多に飲めないお酒だから、今晩まで泊まるね。」
「梓は一緒に酒盛りしてくれる人がいいの?」
「そういう訳じゃないよ。お酒飲んだ六藤くんも好きだから。」
そう、お酒を飲んだ六藤は大人しく寝ているから可愛らしくて好きだ。別に起きている六藤を嫌いという訳でもない。起きている六藤は暴走しがちだから、あたしを困らせる事が多いというだけで。好きは好きだ。
「じゃあ、従兄さんの家まで送らせて?」
「別にいいけど……。」
家の場所なんてとっくに知っているだろうに、ご苦労なことだ。
*~*~*~*~*
六藤を連れてあたしはスーパーに入った。今日が最後になるのだから、夕飯と明日の朝食は頑張ろう。
「うーん。今日は何にしよっかな。」
「梓ちょっと待って、料理してるの?」
「ただで泊めてもらってる訳だし、家事くらいしないと……。あ、鶏肉。」
「梓って料理できたの? できないって言ってた気がするんだけど。」
そういえば、付き合いたての頃に手作り料理が食べたいとさり気なく催促されたことがあった。その時は一人暮らしを始めたばかりで、料理を作る気力がなかったものだから「料理ができない」と言った気がする。
六藤の家に泊まったときは料理係が六藤で、食器洗い係があたしだ。気付いたらそういう決まりになっていた。ぶっちゃけ、あたしの作るご飯より六藤が作った方が何倍も美味しい。
料理好きな男だと思っていたが、あたしが料理ができないから彼が率先して作っていたのだろうか。だとしたら、すごく申し訳なさ過ぎるのだが。
「一人暮らしが長くなると自然とね、いろいろ出来るようになるものみたい。」
「今度、俺の家に来たとき料理作ってくれる?」
「あんまりうまく作れないよ?」
「いい。梓が作ってくれた料理が食べたいから。」
六藤なら焼け焦げ真っ黒になったものでも食べてくれそうだ。
買い物を終え、あたしは涼の家の前まで帰ってきた。
「ここまでで良いよ。ありがとう、六藤くん。」
「うん。また明日。」
やけにあっさりと帰るものだな、と思ったあたしに背を向け六藤が立ち去ろうとしたときだった。
「あず?」
涼の声が聞こえて、あたしは声がした方に顔を向ける。
あたしの視線の先には剣呑な目をした涼がいて、あたしは首を傾げた。
今日は早く帰って来たのだろうか。今まで夜遅く帰ってきていたのに。研究がうまい具合に進んでいるのだろうか。
「どうしたの? 今日は早いね。」
「いや、忘れ物取りに来ただけ。そんなことより、彼は誰?」
彼氏だと紹介しようとして、あたしは思い出す。浮気疑惑があると説明したことを。
どうしようと視線を泳がすあたしに、六藤は気を遣ってしまった。
「初めまして。梓さんとお付き合いさせていただいている。六藤と申します。」
(あ……。どうしよう。)
「お前が? 話は聞いてる。このクズ野郎。」
涼にクズ野郎と言われた六藤は愛想笑いを浮かべたまま「ん?」というような顔をしている。
流石の六藤もぽかんとしてしまっている。
そして、今にも六藤を殴りつけそうな雰囲気の涼にあたしもたじろぐ。
「あの、さ。涼?」
「あずは黙ってて。」
食い気味に言葉を止められる。ひるんでしまいそうになるが、元はあたしが蒔いた種だ。
「いや、ごめん。あの話は嘘というか、えっと……あそこまで言わないと涼が泊めてくれないと思って。その、本当のクズ野郎はあたしなんだけど。怒るならあたしにしてください……。」
「は?」
鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている涼にあたしは畳み掛けるように謝罪する。
「痴話喧嘩で家出してるなんて恥ずかしくて、嘘吐いてごめんなさい。大変申し訳ありませんでした。」
「え? 痴話喧嘩?」
「本当にくだらない内容だったから、どうしても泊めてもらいたくて。」
「くだらないって、どんな事?」
「そっ、それは言えないよ!」
真っ赤になって首を振るあたしに涼は怪訝な顔をする。
「そこは、察してよ。本当にくだらないんだって!」
従兄相手にあの頻度が高いから喧嘩したなんて口が裂けても言えるか。あたしはギラギラとすべての苛立ちを眼光にのせて伝えた。
「はぁ。……分かった。彼と一緒にいるってことは仲直りしたってこと?」
「うん。」
「じゃあ、もう帰って。あの酒は従妹に騙された可哀そうな自分を慰めるために飲むよ。」
「えー。あたしも飲みたい。」
「だーめ。嘘吐きの悪い子にはあげない。」
「ケチ。」
まあ仕方がない。そこまで怒ってないようだからまだ良かったと思う。あのお酒への未練は断ち切ろう。
「涼、本当にお世話になりました。」
荷物を手に持ち、あたしは涼にお辞儀をした。
「もう嘘吐くなよ。」
「はい……。反省は一応しています。」
「一応って。」
呆れたように溜め息をつかれているが、気にしない。もし、涼が喧嘩っ早い人だったら六藤は殴り倒されていたかもしれないのだ。本当に深く反省している。
「梓、荷物持つよ。」
「大丈夫だよ。あたし持てるもん。」
「少しは従兄さんの前でかっこつけさせて?」
そう言って、六藤は強引にあたしの手から荷物を奪った。
「えっと、六藤さんだったっけ。あずをよろしく。」
「はい。こちらこそ、今日まで梓がお世話になりました。」
年上の涼にも物怖じせずに接している六藤を見ると、何だかむずむずしてしまう。
それじゃあ、また。とあたしたちは涼と別れた。
「今日は俺の家来る?」
「いや、いい。自分の家に帰りたいし。」
「さっき言ったように、何日に一回とかじゃなくて梓がしたくなったとき以外は手を出さない。取って食べたりはしないから。来ない?」
「え、っと。」
「キスはするけど、それはいいよね? でも、今までみたいにがっつかないから。俺も反省したよ。いくら梓が煽るような顔しても、体調おかしくするまでしたらダメだね。本当にごめん。」
「もう! 分かったから!」
何度も言わなくても分かってる、と朱の散った顔で睨みつける。
そんなことを六藤の良く通る声で言われたら、他の人に聞こえてしまうではないか。どんなバカップルだ。
むすくれるあたしは気付かなかった。六藤がわざわざ聞こえるように言っていたことに。
あたしたちの後ろでは、涼が呆然とあたしの後ろ姿を見つめていた。
*~*~*~*~*
突然泊めてくれと言ってきた従妹に、涼は最初驚いた。
いくら親戚とはいえ従兄弟は結婚できる。
涼は小学生の頃にそれを知ってひどく安心したのを覚えていた。
従妹である梓とは結婚できるということに。
同じ年頃だったから、梓とはよく一緒に遊んでいた。昔の梓の事なら何でも知っている。
高校からはお互い忙しくなって親戚の集まりにならないと会う機会はなかったが、勉強はテレビ電話などで教えることがあったので、どんどん成長していく梓を見ている。
今回の事で梓に彼氏がいたということを知り、何だか裏切られた気分になった。
昔はなんでも話してくれていたのに。梓の初恋のときだって色々アドバイスを求められた。
なのに、今回は全くそんな気配を見せなかった。
梓を彼女にしているのに、浮気するなんて本物の馬鹿だと思った。クズ野郎が梓の彼氏になれるなら涼だってなれるはずだと。そう思って、梓が家にいる間に何とか振り向いてもらえないかと試行錯誤してみた。
だが、料理を頑張って作ってくれて、お風呂上がりに涼と同じシャンプーの匂いをさせている梓に、早々に参ってしまった。ここまで自分が我慢の利かない人間だったなんて知らないでいたかったとすら思う。
このまま梓がここにいてくれたら、涼の気持ちを受け入れてくれるかもしれないなんて淡い期待を抱いていていた時、梓の彼氏は現れた。
漆黒の髪、少し明るい焦げ茶色の瞳。端正な顔立ちで、身長も梓と並んだ時ちょうどいいバランスだった。彼氏だと説明されるまでもなく涼は分かった。こいつが梓の言っていたクズ野郎だと。
浮気は嘘だと梓に言われてからも、涼は腑に落ちなかった。
涼の知っている梓は痴話喧嘩くらいで家出をしない。
だから、梓の彼氏がわざと聞かせた言葉に驚き、そして納得した。
そう彼女らは二年も付き合っているのだ。肉体関係があってもおかしくない。
でも、涼は六藤がそれを匂わせるまで気付かなかった。いや、気付いていても認めたくなかったのだ。
もう今の梓は涼の知っている彼女じゃない。下ネタにげらげら笑いながらも、少しの照れをのぞかせていた幼い、可愛い従妹ではなく一人の女性だ。人は成長する。
痴話喧嘩をして家出をするのだって、成長した証なのだろう。
昔より何倍も魅力的になった梓を好きになる男がいた。それだけのことだ。
あまりにも長すぎた片想いの原因は、彼女の良さに気付いているのは自分だけだと、そんな勘違いした自分だということに、今になってやっと気付いた。