1 中村晴希
とりあえず今は別れないと決めて、それを六藤に伝えたら見ているこっちが赤面してしまうくらい、嬉しそうに笑った。別れなくてよかったと思う。
六藤をこんな表情にしたのが自分だという事実が嬉しかった。
そのあと、自分の家に帰ってから中村からメールが来ているのに気づいて、あたしは思い出す。そういえば、食事の約束をしていた。
(本当は行かない方が良いんだろうな。六藤くんは行っても良いって言ったけど、あんまりいい気はしないよね……。ちゃんと断ろう。)
思い立ったらすぐ行動だ。あたしは早速中村に電話を掛けたが、気の利く子なので既に予約を入れている可能性もある。念のため、早めに言っておかないと。
『もしもし!』
「もしもし、中村くん?」
『はい!珍しいですね先輩が電話かけてくるなんて。』
「あ、うん。明日のことなんだけど……。」
『待ち合わせ場所とか時間とか決めてなかったですね。』
「あの、ごめんね。明日ちょっと、やっぱり行けない。」
『…………え?』
「その、あたしこんな見た目だけど一応彼氏がいるんだ。」
『…………。』
「あ、中村くんがあたしのこと女として見てないこと分かってるから。勘違い野郎じゃないからね。でも、いくら親しい人との食事でもあたしだったら少し嫌な気持ちになってしまうから、念のため。でも中村くんのこと嫌いなわけじゃないので、これからも仲良くしてくれると嬉しいです。」
あたしが言いたいことは言い切った。しかし、いくら優しい中村でも今のわたしの発言はイラっとするだろう。
好きでもない女に、彼氏がいるから男とは食事しないと宣言されているのだ。あたしだったら心の中でぶん殴りたくなる。
ただ、中村に嫌われたところであたしの生活が劇的に変わるわけでもない。多くの学生がいる大学で、あたしの悪口を広められたとしても、あたしの友人達はそんな噂話に興味がないし、どちらかというと姉御肌で女にモテるタイプだ。女からの攻撃は友人が庇ってくれるし、男からの攻撃があったとしても六藤が守ってくれる。
勿論、あたしも大人しそうな見た目をしているが、どちらかというと好戦的な方なので、売られた喧嘩は必ず買う。喧嘩は勝つまで止める気にはならないのがあたしだ。
『先輩、彼氏いたんですね……。』
「うん。あの一応、だけど。」
『彼氏さんに何か言われたんですか?』
「いや、彼は後輩となら行っても良いって言ってくれたよ? でも、あたしが何だか申し訳ないから。」
『後輩となら、ですか……。』
「うん。楽しみだったんだけど、ごめんね。」
『彼氏さんが良いって言ってるなら大丈夫じゃないですか?』
「?」
急に電話越しに聞こえる中村の声が低くなった。ような気がした。しかし次の瞬間には、中村の声色は元に戻っていたから、おそらくあたしの気のせいだろう。
『なにも浮気するつもりとかないんですし、だったら、たまには後輩の愚痴に付き合うのも楽しいかもしれないですよ?』
「確かにそうかもしれないけど……。」
『彼氏さんだって異性の友達とかと遊んでる筈ですし……。その、本音を言えばおれが先輩と色々話したいんで、おれの我が儘聞いてもらえませんか?』
そこまで言われて断るのも自意識過剰な気がした。中村は先輩と話したいと言っているのだ。
「そ、うだね。うん。なんかごめんね。」
『いえいえ! おれが先輩に彼氏いるの知らなかったから、おれの方こそすいません。今度は先輩の彼氏さんにちゃんとお伺い立ててから誘います。』
「あははっ。大丈夫だよ、そんなことしなくたって。」
あたしが報告するだけで六藤は充分だと思う。六藤は一度『良い』と言ったことを覆すような人ではない。
『いえ、挨拶はしておきたいんで。』
「ふふっ。中村くん面白いね。」
『そう、ですか?』
中村はたまに天然っぽいと思う。ただ食事に行くだけなのに、その先輩の彼氏にわざわざ挨拶しようと思うなんて変わっている。
『じゃあ明日の十三時にB棟の入口で!』
「うん。よろしくお願いします。」
*~*~*~*~*
中村の知り合いの店というのは、鍋が看板メニューの素敵なお店だった。
数種類のスープの中から選べて、しかも一度に二種類のスープが楽しめるメニューもあり、あたしたちはそれにした。
二人前で、さらに中村が知り合いということもあり、沢山サービスしてくれたのでボリューム満点だったが、何とか食べきることができた。
食器が下げられていった後、コーヒーが運ばれてきて、あたしは息を吐く。
「ありがとう中村くん。とっても美味しかった。」
「いえ! おれの方こそ一緒に来てもらえて嬉しかったです。ありがとうございます。」
「なんだか久しぶりだね。中村くんとご飯食べるの。」
「高校以来ですかね?大学だと、たまたま会った時くらいしか先輩とご飯食べないですから。」
高校の頃は部活帰りに中村に誘われてご飯に行くことがよくあった。
「そういえば先輩の彼氏さんって同じ大学ですか?」
「そうだよ。」
「へぇ、大学から付き合い始めたんですか?」
「うん。まぁ高校から友達ではあったんだけど、お付き合いを始めたのは大学からなの。」
中村も年頃の男の子らしく恋話に興味があるようだ。今まで彼女もいなかった様なので、恋愛に興味があるなら部活でも一応恋愛でも先輩のあたしが何か話してあげないと。女の子と目も合わせられないような純粋な子なのだから。
「え? もしかして同じ高校の人ですか?」
「ううん、違う。バイト仲間だよ。あたしがバイトしてたパスタのお店の。もしかしたら中村くんも見たことあるかも。よく来てくれてたよね?」
「……もしかして、あのお店で一番かっこよかった人ですか?」
一番かっこよかった人、六藤もかっこいいとは思う。だがあたしの中で一番かっこいい人だと思うのは店長だ。
以前に六藤が『店長と目を合わせたら絶対に確実に妊娠するから、梓は合わせないようにしてね。』と冗談交じりに言っていた事がある。三十路の男性というものは当時のあたしの目から見て、大人の余裕というか色気のようなものが凄まじくて、バイトを始めたばかりの頃は店長に近付かれるたび緊張していた気がする。ただ、あたしのそんな様子を見てけらけら笑ってからかうような人だったのですぐに慣れてしまったが。
「かっこいい人って店長のこと?」
「いや店長さんじゃなくて、おれらと年が近い方で……。いましたよね?確か日向とか呼ばれてた。」
そんな人いたっけな、と少し考えたところで「あっ――。」と思い出した。
(日向って、六藤くんの下の名前だ。どうしよう……。すっかり忘れてた。)
付き合って随分経つのにあたしは六藤を日向と呼ぶことができなかったのだ。
生まれてこの方、男を下の名前で呼ぶのは親戚や幼馴染だけだったので、いくら彼氏といえど何だか気恥ずかしさが勝ってしまい、未だに「六藤くん」のままだった。
「あ、うん。その……ひ、日向っていう人があたしの彼氏なの。」
六藤の下の名前を口に出すのが恥ずかしくて俯いたあたしは気付かなかった。
真っ赤っかになったあたしの姿を見て同じように顔を赤くして息を呑む中村に。
「か、わいいですね先輩。」
「なっ、中村くん何言ってるの?」
「あ! いや、その思わずっ。普段から先輩のことはかわいいと思ってたんですけど……あんまり照れた顔とか見たことないので。こんなにかわいいんだって、思って。」
流石、年上のお姉様方を虜にするだけのことはある。ここまでの破壊力を持つとは。
ただでさえ鍋で身体が温もっていたところにこの褒め攻撃、顔から火は吹き出ているし、汗も全身から吹き出ている。
「もうっ、中村くん! 先輩をいじめちゃダメだよ!」
むっとしてあたしが言い返しても中村は真っ赤な顔で苦笑するだけだ。
「そんな顔だとあんまり意味ない気がします。破壊力はありますけど……。」
今まで築いてきたちっぽけな先輩の威厳というものがなくなってしまった気がする。中村の前では先輩だから胸を張っていられたのに、それを剥がされてしまってはただの臆病な多比良梓になってしまう。
うう、と情けない呻き声をあげて顔を隠したあたしに中村は手を伸ばそうとした。が、
「ダメだよ、梓。他の男の前でそんな顔見せたら――。」
中村の手が届く前にあたしを後ろから抱きすくめる腕があった。
「六藤くん……?」
「可愛い顔は俺だけに見せて?」
そのまま頭の天辺にキスを落とされ変な声が出た。
「ひっ、え。なんでここにいるの!?」
「授業終わったから。少しでも梓と一緒にいたくて。」
それは答えになっていない、と訴えたいのは山々だが、そうすると六藤の異常性を指摘されるかもしれない。
それは嫌だった。あの時友人に指摘されて正気に戻ったのは確かだが、その時おそらくあたしは。
(六藤くんのことを悪く言われたくない。あたしの大好きな人なのに。六藤くんのどこがそんなにおかしいんだろう。少しおかしいかもしれないけど、皆が言うほど酷くないと思うのに。)
好きな人を否定されたことが悲しい気持ちがそこに在った。
でも、こんなに六藤に惹かれて狂わされている事実を知られたくないから、友人の前では『目が覚めた。別れたい。』と言ったのだろう。皆が言う『まともな人』と付き合っていないことを恥じてしまったのだ。
(こんなに好きなのに。あたしは恥ずかしいから、ってだけで別れようとしたんだ。)
溺れる自分が怖いわけではない。恋人が、その愛情が異常なことを恥じているから別れたくなったのだ。他人の目が気になったから、六藤を傷付けてでもあたしは傷付きたくなかった。
(あたし、なんて馬鹿なんだろう……。)
「こんにちは、後輩くん。今日は梓が世話になったね。梓の彼氏の六藤日向といいます。」
「……こんにちは、六藤日向サン。多比良先輩とは高校時代から仲良くさせてもらってます。中村晴希です。よろしくお願いします。」
あたしは己の愚かさに打ちのめされていて、あたしの頭上で睨み合いが始まったことに、気付かなかった。