4 黒澤拓人
衝撃を受け過ぎて、あたしは何も言えなくなった。
盗聴器は六藤ならやるだろう、でダメージは食らわなかったが、六藤が拓人に向けた言葉はおかしい。
「気持ち悪いって思うだろ? 僕も気持ち悪いと思う。」
自嘲気味に吐き捨てた言葉に、あたしは何の反応も返せない。気持ち悪いとは思わない。しかし、この短時間で立て直せるほどあたしの脳は出来ていないのだ。
「彼の言ったことは全部本当のことで。僕、何も言い返せなかった。彼が梓ちゃんの家から出ていった後も、追いかけなかった。この歪んでしまった感情を梓ちゃんに知られたくないと思ったんだ。」
「本当の、こと……?」
でも、それならあたしが悩んだ時間、泣いて諦めた過去は何だったのだろう。
好きで好きで、告白して振られて泣いた。
忘れたいのに忘れられなかった。拓人が優しくするから。
だから、諦めきれなくて長い片想いを続けていた。
もう、今のあたしは六藤に救われている。
今更そんな事を言われても、六藤に失望なんてしない。そう、六藤にはしない。
「じゃあ、あたしは一体何のために……?」
失望するとしたら、目の前の初恋の人にだろう。
どうして、あたしの事が好きだったのに突き放して、想いを試すような事を繰り返したのか。
涙を流して、呆然と立ち尽くすあたしを拓人は抱き寄せた。
「すまない! すまなかった。謝ったところで何の意味もない事は分かってる。でも、やっぱり盗聴器とか仕掛けるような男に梓ちゃんは似合わない。」
似合わない? なぜ、拓人にそんなことを言われなければならないのか。拓人だって最低な人間ではないか。
どん、と力を込めて拓人を突き飛ばした。
驚いた顔をしてあたしを見る拓人をきっ、と睨み付ける。
「どうして? どうしてそんな事言うの? 似合わないなんて拓くんには言われたくない! 盗聴器仕掛けてるのなんて、とっくの昔に知ってるもん。盗聴器だけじゃなくて、GPSも監視カメラも、たまに人を付けられてるのも知ってる。全部知ってるけど好きなの!」
「なっ、梓ちゃん。そんな事されて、なんで好きでいられる? 洗脳されてるんじゃないか!?」
「洗脳? そうだね。拓くんにはされたかもしれないね? あたし日向に会うまで、自分を好きになってくれる人なんていないと思ってたから。いくら告白しても、振り向いてくれないのに、勘違いするような事する拓くんのおかげだね。」
八つ当たりに近いことを言っている自覚はある。
だが、あたしは感情を抑えることができない。
「僕は今でも梓ちゃんのことが……。」
「やめて。あたしがその言葉を欲しかったのは昔。今言われても何も思わない。あの時言ってくれなかったのに、何で今更迷わせようとするの?」
拓人に想いを迷わされてはいないが、動揺させられているのが悔しい。泣きそうになりながら、あたしは無理やり唇を笑みの形に歪めた。
「それとも何? 昔に振った女が惜しくなった?」
「違う! 僕はずっと梓ちゃんの事が好き……」
「年の差なんかで怖気づくなら、最初からあたしの事なんて放っておいてくれたら良かったのに!」
「…………。」
黙り込んだ拓人にあたしの興奮も少し落ち着く。
はあはあ、と荒く息を吐いてあたしは涙を乱暴に拭う。
ようやく周囲を見回す余裕ができたあたしは、周りを見てぎょっとする。
金曜日の夜の飲み屋街。そんなところで騒ぎを起こす男女。そんなの、酔っ払いたちには良いネタだ。
いつの間にか、大勢の人々に囲まれていた。
「ねぇちゃん! 頑張れ!」
「兄ちゃんも負けんな! ガツンと言ったれ! 将来、尻に敷かれるぞ! おれと同じ負け犬になるぞ!」
やんややんやと言っている。話の内容は関係ないらしい。
注目を集めていることに恥ずかしくなって、あたしは走ってその場を後にする。早く六藤のところに行って、飲み屋街から出て行きたい。
もう二度とこの辺りの飲み屋に来ないと決めた。
*~*~*~*~*
「梓ちゃんが来たよ。六藤くん。」
「すいません、倉田さん。」
いつもなら、意識が少しはあるのに今日は完全に寝てしまっている。店内まで入ったあたしは、綺麗な美女たちにじろじろと値踏みされていた。
大したことない女、というあたしに対する評価が視線だけで分かる。六藤は相変わらず無駄にモテているようだ。
同じ会社に入ろうと六藤にしつこく言われたこともあったが、同じ会社に入らなくて良かったと心から思う。こんな視線に晒されて、いじめられる可能性だってありそうな職場、そんなの絶対に嫌だ。
「ダメだこりゃ。しょうがない、ここはおじさんが一肌脱ごうか。六藤くんの家まで連れてくよ。案内頼めるかな?」
何度揺らしても起きる気配のない六藤に、倉田はやれやれと首を振った。
「ご、ごめんなさい。よろしくお願いします!」
あたしの体格では六藤を一人で連れていけない。
倉田の言葉に甘えることにした。
ところが、後ろから思わぬ声が聞こえて、あたしは目を見開く。
「すいません。僕が連れて行きます。」
そこには、先程まで言い合いをしていた幼馴染の姿があった。
「拓くん? なんで?」
あの後、あたしの後を追って来たのだろうか。
見知らぬ人の登場に倉田は首を傾げ、あたしに説明を求めるように視線を向けてきた。
「え、あの。」
どう説明したものかと、あたしが言いあぐねていると、見かねた拓人が口を開いた。
「梓ちゃんの幼馴染の黒澤と申します。」
それから、拓人は渋る倉田を説き伏せて、眠る六藤を引き受けた。あたしもこれ以上、倉田に負担を掛けたくないので、拓人を利用することにした。
拓人と一緒にいるのは気まずいが、今は眠っているとはいえ六藤がそばにいる。
落ち着いていられる内に、中途半端に終わった話を完全に終わらせた方が良いだろう。
とりあえず、六藤の会社の飲み会をしていたお店から出て、近くの公園のベンチに移動した。六藤の意識が戻ったら、二人で六藤を支えて連れ帰る予定だ。
居酒屋から公園までもキツかった。意識のない人間を運ぶのはやめた方がいい。
膝に乗せた六藤の頭をゆっくりと撫でる。
「拓くん。さっきはごめんね。ちょっと、荒ぶっちゃった。」
忘れたと思っていた初恋の記憶は、自分で思っていたより激しくて、コントロールできないような代物だった。
こんなに取り乱したのなんて、子供のとき以来だ。
「いや、梓ちゃん。元はといえば俺のせいだから。」
「そうだね。あたしの純情、よくも弄んでくれたね?」
おちゃらけてあたしが言えば、拓人は苦く笑った。
「もっと、早く馬鹿な自分に気付けたら良かったな。結局は自分のことしか考えてなかった。」
「ふふっ。拓くんは変なとこに拘るから、ダメなんじゃない?」
今だって、あの話が本当なら拓人はあたしを忘れられなくて、フラフラしている間に婚期を逃がしている。
しくじった過去、手に入れられなかった好きな子。
そんな無駄なものに拘っているから、一人取り残されるのだ。
「梓ちゃんは、もし俺があの頃に告白したら……どうしてた?」
突拍子もないことを言われて、あたしは目を丸くする。
聞かなくても分かりそうなものだが。
「どうしてたって……。付き合ってたよ? だって、あの頃は拓くんがあたしの世界の全てだったからね。今はこの人が、だけど。」
視線を六藤に落として、あたしは微笑む。
彼の束縛もあたしは慣れてしまった。
泣きそうな顔、狂気を感じさせる言葉、行動。
六藤はそれらであたしを繋ぎ止めたと思っているのだろう。
でも、少し違うのだ。勿論それらも理由の一つではある。しかし、あともう一つ、大事な理由がある。
あたしを大好きだと臆面もなく伝えてくれる姿に惚れている。普通の理由かもしれないが、あたしにはそれが何よりも大事なモノだった。
そんなの誰でもいいじゃないか、と言われたらそれまでだ。あたしもそう思う。
でも、あたしは思うのだ。六藤の束縛をそれだけの理由の許せる人間なんてあたしだけしかいない、と。
「ん…………あずさ?」
掠れた寝起き特有の声がして、あたしは歪んだ思考から戻る。
「もう、お酒飲み過ぎちゃダメって言ったでしょ?」
「ん。ごめんね?」
寝ている時と寝起きの六藤はとても可愛い。思わず頬を緩めた。
「じゃ、梓ちゃん。行こっか。」
起きた六藤は急に聞こえた他人の声に、びくりと身体を震わせた。どうせ、男があたしの近くにいるのが許せないのだろう。
「日向。起きたところ悪いけど立てる?」
「立てる。梓がキスしてくれたらね。」
あたしは無言でデコピンをする。
おそらく、六藤は声だけで拓人だと分かったのだろう。
だから、見せつけるためにキスをねだった。
「大人しくしてくれたら、後でご褒美あげる。」
痛みに顔をしかめる六藤にそう囁けば、驚くほど早く起き上がった。チョロいな、とあたしはにやりと笑みを浮かべる。
この調子で六藤一人で歩けるかなと思ったが、そんなわけもなく、六藤を拓人と二人で支えながら連れて帰った。
*~*~*~*~*
梓と二人で六藤を運んだ後。
疲れたのか梓は六藤の部屋で寝てしまった。
拓人は近くにあったブランケットを梓の肩に掛けてやる。
ソファーには六藤がだるそうに寝転がっていて、拓人の行動を黙って見ていた。
最初は梓を騙すために酔ったフリをしているのかと思ったが、本当に酒に弱かったらしい。前に梓の実家でやり合った時より覇気がない。
「水、いるか?」
「いえ、お気遣いなく……。」
ぐったりしている六藤を見て、拓人の中の彼とのギャップの差に首を傾げる。果たして、あの時の彼と同一人物なのだろうか。
「黒澤さんに言いたいことがあったんですよ……。」
「なんだ?」
「梓はもう俺のものなんで、手を出そうなんて無駄な足掻きしないでくださいって。」
覇気はないが、口は元気に回るようだ。
少し、本質は梓と似ているのかもしれない。皮肉屋なところとかがそっくりだと思う。
「……流石にもう何もできない。梓ちゃんは君のことが大好きらしい。俺のことなんて少しも想っていない。」
感情を露にして叫ぶ梓を前にして、拓人は何もできなかった。
拓人が深く抉った梓の心の穴は、生意気なこの男が埋めてしまった後だ。
もう取り返せないと、六藤を見る梓の瞳を見て察してしまった。
年を取ると諦めることばかり上手くなってしまう。
今の年齢の時に彼女に出会えていたら――。
躊躇うことなく口説いて、自分のものにできたかもしれない。
拓人が高校生の時、梓は隣に引っ越してきた。
初めて会った時は可愛い子だとしか感じていなかった。
それなのに、二年経った頃に気付いてしまったのだ。
まだまだ幼い彼女を、拓人は恋愛対象として見ていることに。
気付いてからは、苦しくて、苦しくて。もういっそ狂ってしまいたいくらいに、梓を想っていた。
想いを隠すことが難しくなってきた頃に、たまたま告白をしてきた女性がいた。今まで何となくで断ってきた拓人だが、他の女性と付き合えば梓を忘れられると思って、付き合うことにした。
しかし、付き合った彼女と何をするにしても、彼女が梓だったらという妄想ばかりが頭に浮かんでいた。
デートも梓だと思ってする時としない時で気分が全く違う。
そんな風に狂ってしまった拓人に拍車をかけたのが、彼女とデートをしている姿を梓に見られた時だ。
今にも泣き出しそうな潤んだ瞳。ふるふると震える唇。それを見た瞬間に俺は今までにない興奮と安心を覚えた。
それから先はもう、思い出したくもない。
出会えたのが今なら、六藤と拓人の立ち位置は逆だっただろう。それを六藤も感じているからこそ、拓人を誰よりも警戒している。
普段落ち着いている梓を、あそこまで追い詰められるのは、六藤と拓人だけだろう。この広い世界の中で。
しかし、立ち位置は決まってしまった。
今の拓人は梓を怒らせて泣かせることは出来ても、幸せにすることはできない。彼女にはもう愛されないというバチが当たった。
拓人に残ったのは、歪んだ愛の亡骸だけだ。




