この学校ではキャラ作りが必須です
「うーん、ここであってるよな?」
海東 雅孝はその日から入学する、全寮制学校 私立浅治学園を目指して歩いていた。
私立浅治学園は、都心から離れた住宅街、いわばベッドタウンとでもいうべき場所にひっそりと建つ、全寮制の学校である。
都市の風格を損なわない程度に生い茂った緑。そして、哀愁を漂わせる町並み。都市の便利さを保ちながらも、田舎としての風格があるのが、この町の魅力である。
この町は小高い丘や山に囲まれた町であり、住居等はほとんどが高台に位置している。
彼は決めていた。高校に入ったら、一人暮らしをすると。そのため、彼は全寮制の学校を探していた。
そしてこの片田舎に建つ学校、私立浅治学園に入学を希望して、試験も合格し、こうして今その学校に向かって歩いている。
彼がこの学校を選んだのには、理由がある。彼の祖父はこの学校の出身なのである。それだけなら、そこまでこの学校に惹かれることはなかったかもしれない。だが、彼の祖父に関するもう二つの事実が彼をこの学校へと導いた。
彼の祖父はこの学校の校長でもあり、さらに昔は生徒会長を務めたのである。
「あの学校は変わったところじゃよ」
それは雅孝の祖父が浅治学園について話す時に、よく言うことだった。
祖父はよく学校の話をした。もちろん、自分がその学校で校長を務めたというのも一つの理由であったが、もうひとつ理由があった。
よく年寄りにある傾向であるが、自分の若いころの武勇伝を話したがる傾向がある。海東の祖父にもその傾向があった。
そして、その祖父の武勇伝というのが高校時代生徒会長であり、生徒会を運営して学校をまとめあげたということなのである。
「変わったところって?」
「そうじゃな、あの学校にはな日本中の常識はずれ、型はずれな人物が来ているんじゃよ」
「そうじゃ、もう変なやつしかいなかった。もう人間とは思えないようなやつらがな」
「たとえば?」
「そうじゃな、人が飛んだりするのは日常茶飯事じゃった」
「なんだよ、それ」
祖父は冗談をよく言う人間だった。だから、雅孝は祖父の話をほとんど相手にせず、聞き流していた。
「でも、わしはその一癖も二癖もあるやつらを、生徒会長としてまとめあげたんじゃよ」
祖父がこういう話をする時はたいてい、こんな風に自慢話が続くのがいつもの定番であった。
そこまで話がきたところで、雅孝は毎回理解するのである。祖父が自分の業績を、大きなものにするべく、さまざまなことを誇張して話しているのだと。
「へぇ、どんな風に?」
だが、雅孝は若干からかう意味もあって、祖父のこの手の話に毎回付き合っていたのである。
「たとえば、そうじゃな……わしはあの学校の制度のもとを作ったんじゃよ」
「へぇ、学校の制度……いったいどんな?」
「そうじゃな、あの学校ではみんな自分の人格を作らされたのじゃ。みんな仮面をかぶせられたのじゃよ」
「キャラを作るってことかな?」
「まぁ……そんなところじゃ……」
雅孝は、それはたぶん制度とかじゃなくて、学生にとっては普通のことだろう、と心の中で思った――
そんなやりとりもあったりして、浅治学園は雅孝にとって、何かと気になっていた場所なのである。
ところが、今雅孝は困っていた。道に迷ってしまったのである。
「どっちに行けば、いいんだっけ?」
目の前に広がるのは四つに別れた道。ひとつはまるで、森の中に入っていくかのような緑の生い茂った上り坂である。ひとつは、下り坂の道、そして二つは自分の左右に広がる、まっすぐの道である。
浅治学園は高台のあると聞く、だが実はこれまで坂を登ってきてここにたどり着いた上に、どうもこの明らかに緑の中に入っていきそうな上り坂の先に学園があるとは到底思えなかった。
雅孝は地図をにらんで、場所を確かめようとするが、いかんせん彼は地図が苦手で、今自分のいる位置がどこだかよくわからず悪戦苦闘していた。
「少年……おい、少年!」
気づくと、雅孝の目の前に人が立っていた。傾きかけた西日に照らされた金髪がまぶしい。黒くしっかりと縁取りされた目は、こちらを射抜くかのように鋭い。すらっとした長身の体で、手足が長く、美しかった。さらに、着ている服が……
――浅治学園の制服……
ということは、学園までの道は、この人に聞けば分かるだろう。と彼は思った。
「おい、聞いてるか?」
「あ、あの僕、道に迷っちゃって、浅治学園に行きたいんですけど……」
「あぁ、それなら、この上り坂を登っていけばあるが」
なんと、一番可能性が低いと思っていた上り坂が、浅治学園への道らしい。
「ありがとうございます。あの……浅治学園の生徒さんですよね?」
「そうだ……少年、君の名前はなんと言う?」
なんだか不思議なしゃべり方をする人だなぁ、と雅孝は思った。
「海東 雅孝といいますけど……」
「海東、そうか……」
それを聞いて、目の前の女性は何かを納得したようだった。
「?」
対するこちらは何も理解できない。まぁ、でもおそらく校長の名前である「海東」に反応したのだろうと、勝手に判断した。
「わかった……ありがとう。浅治学園にようこそ、これからよろしく頼むぞ、少年」
そういってその女性は自分の横を通り過ぎ、去っていってしまった。
「いったい、何をよろしくされたんだろう……?」
そんな疑問を抱いたが、雅孝は彼女に言われた通りに、上り坂を登っていった。
上り坂を登りきると、浅治学園は確かにそこにあった。とりあえず、今日は寮に入り、明日から学校に行くことになる。
浅治学園は三つの棟から成っている。ひとつは、高1から高3までの教室が入っている一棟、一つは職員室や、生徒会会議室、その他目的に応じた部屋が入っている二棟、そしてもう一つが生徒たちの寮棟である。
寮棟は、二棟と直結していて、そこから入ることが出来る。生徒たちは、教室に向かう時は一回一棟の出入り口から出て、寮棟に向かうか、もしくは二棟を経由して向かうかのどちらかの決断を迫られるのである。
寮に行くと、部屋は相部屋であるものの、幸いなことに雅孝の部屋には雅孝一人しか入っていないようであった。
明日から本格的に学園生活が始まると、雅孝は期待をして、その日は寝てしまった。
だが、彼の思うようにはいかなかった。
「君に頼みがあるんだ」
翌日、雅孝はなぜか職員室で、担任教師にそう言われたのである。
「頼み、というとなんですか?」
今日から入った新入生に、頼みごととはいったい何事だろうと雅孝は思いながらも、そう答えた。
「君に生徒会に入ってもらいたい」
「はい……?」
一瞬思考が止まった。少したってから、雅孝は状況を整理した。なぜ、新入生が生徒会に入るように、教師に頼まれているのだろう。
「あの、僕今日入ったばかりの新入生ですよ……」
「それはわかっている。わかっているんだが、だけど人が足りなくてね……」
生徒会に入ること自体は、別に雅孝はいやではなかった。むしろ、やりたいが、自分には向いていないだろうとあきらめていたことなのである。
その生徒会に、自分は今入るように要請されている。
「別に入るのはいいですけど……」
そうは言ったものの、一つ疑問があった。
「なんで僕なんですか?」
「理由は会長に聞いてくれ。会長が君を選んだんだから」
「はぁ……」
そんな理由を言われても、しっくりこない。いったいその「会長」とやらは、どうやって何人もいる新入生から自分を選んだのだろう。
「で、やってくれるのかい?」
いまひとつ納得いかないところはあるが、
「わかりました……やります」
結局、雅孝は承諾してしまった。
「そうか、ありがとう。……なら、今すぐ生徒会の会議室に行ってくれ。そこに会長もいるだろうから……もし、選ばれた理由を聞きたいなら、その会長に聞いてくれ」
そう言って、教師はその場を去った。
なんだか、初日から波乱万丈の展開である。雅孝は戸惑いながらも、会議室のほうへと向かっていった。
生徒会執行部。
そんな大仰な名前が、書いてある部屋の前に立つ。この先に自分の見たことのない世界が待っている、という思いとともに。
引き受けてもらえるなら、今日の放課後に生徒会の本部に行くといい。そこでみんなが待ってるよ――
教師は、生徒会に入ることを承諾した自分に、そう言ったのである。
生徒会の本部は、職員室がある棟の三階にあった。この浅治学園は二つの棟と寮の棟からなっており、生徒会の本部は、普段授業を受ける教室がある棟とは違う棟にあった。
ドアをノックすると返事があった。教室の中に入ると、その中には何人かの人間がいた。
教室の中では机が四角形を形成するように並べられており、皆が向かいあうように座っていた。
そして、その議長席にあたるところ、ちょうど海東の目の前の席に座る人間を見て、彼は驚いた。
「あ……」
「お、いつぞやの少年」
流れるような金髪。まっすぐこちらを射抜くような目。相も変わらず、黒いアイラインがされていた。それは、この学校に来る道中で出会った女性であった。
そして驚くべき事実がもうひとつ。
彼女の座る机にはネームプレートのように、役職名を刻んだ札がおかれていた。そこにはこう書かれていた。「生徒会長」と。
「やぁやぁいらっしゃい。君のところの担任から事情は聞いてるよ。よく引き受けてくれたね」
教室に入ってきた彼を見て、声をかけたのは気さくな雰囲気を持つ、男子学生であった。
色黒の肌をしていて、髪は短く刈り上げている。聞かなくても、運動部に入っているだろうことがわかった。
「あ、今日から生徒会に入ることになりました海東 正孝です。よろしくお願いします」
海東は目の前に座る「会長」から目を離せなかった。
「あぁ、彼女はあんなナリだけど一応『会長』なんだ。もしかしたら聞いているかもしれないけど、この学校はちょっと『特殊』だからね。別に見た目がどうこうかは問題じゃないんだ」
会長から目を離せずにいる海東に気づいたのかその男はそう言った。
「自己紹介をしていなかったね。僕は越前 亮輔。そして、君の目の前にいる会長さんは有沢 優衣だ」
「あ、よろしくおねがいします」
「よくきてくれたな、少年。とりあえずどこかに座ってくれ」
有沢はそうやって海東に着席を促すと、そのまま生徒会の説明を始めた。これからここで仕事をしていく海東のため、である。
「生徒会、といっても特定の仕事は決まっていない。この学校全体にかかわるものならなんでも、扱う。あとはそうだな……この学校の方針で、ある程度のことには教師がかかわらないことになっている。ある程度は自分たち――生徒会を中心に――解決することになっている」
「要は雑用係だろ」
誰かが茶化した。
「まぁそうだな。なんだかんだ言っても体のいい雑用係と言えてしまう。だがそうやって、さまざまな問題に実際に当たって、解決してもらうのが執行係の役だ。そして、……」
そこで有沢はこちらを見た。
「君にはその仕事を手始めにやってもらうことになる」
雑用係。そしてその仕事を実際に実行する執行係――
依頼といってもおそらくいろいろあるだろう。そして、その中にはできれば避けて通りたいようなものもあるはずだ。つまり、執行係とはいわば雑用係である。
その仕事を有沢は自分に任せると言った。
有沢はやってくれるか?と問いかけるかのように、こちらを見つめている。
海東はきっとにらみ返すかのように、有沢を見返した。自分の決意を示すかのように。
今まで自分は、何もできない凡人だったし、実際に何もできなかった。自分には秀でたものはないと――周りではメリットを言ってくれる人間もいたが――少なくとも自分では、そう思っていたし、今でもそう思っている。
だが、そんな自分を変えたいと、心の底では思っていた。今まで彼は逃げ続けてきた。そんな自分を変える機会を。だが、今回その機会が巡ってきた。頼み込まれるという形で、半ば強制的に。
ならば、今この機会を生かしてやろうと、彼はそんな思いをいだいていた。
「わかりました。やります」
「いい返事だな」
そう言って、会長は教室の端にあった映写機のスイッチを押した。スイッチを押すとともに、ホワイトスクリーンが下りてきた。
「ではさっそく君にやってもらいたいことがある」
そういいながら示したホワイトスクリーンには、一枚の写真が表示されていた。
写っていたのは、後ろ向きの女生徒の姿。髪をかきあげ丁度うなじが写るように撮られている。
何の趣味の画像だ? と一瞬思ったが、どうも違う。よく見ると、その女生徒の首筋には赤い点々が横並びについていた。
傷痕である。まるで何かに噛まれたような。
それはどこかで見たことがあった。実際に見たわけではない。映画の一場面、もしくは漫画の一場面で、見たものである。
「ドラキュラ……」
吸血鬼に噛まれた痕――ちょうど傷痕はそれに酷似したつき方をしていた。
「君にこの事件の犯人を突き止めてほしい」
吸血鬼事件。(と海東は勝手にそう呼ぶことにしたが)の概要はこうだ。
この学園の何人かの生徒が、何者かに襲われ、こうして首筋に傷をつけられたというのだ。
「首筋を軽く噛まれただけで、噛まれた痕以外はこれといった外傷もなし。被害にあった三人も他に危害を加えられたりはしなかった、と言っています」
「三人とも襲われた場所と時間は廊下で、夜です」
「夜……?」
海東が疑問をさしはさんだ。
「なんで、夜に生徒が出入りしているんだ?」
それを聞いて、生徒会の面々は顔を見合わせた。そして、クスクスと軽く笑う。なぜ笑うのか、海東には理解ができなかった。
「そうだ、ごめんごめん。新入生の君にはわからないだろうね。この学校は全寮制だからもちろんみんな寮に所属している。で、その学校から寮に通じる道は夜、時間が来てからは封じられてる。封じられてるんだが……」
「あんな、ドア封じられてないも同然ですよ、会長。で、さらに先生も見て見ぬふりだ……」
越前が口を挟んだ。
「……要するにこの学校は夜でも出入り可能ってことだ。実際、夜でもこの学校は結構な数の人間が出入りしてる。いや、していた。連続事件が起こるまでは」
夜の学校に出入りが簡単に可能……その事実を聞いて、やはりこの学校は変わっていると海東は感じた。
「三人に共通しているのは、不思議なことに全員犯人の顔を目撃していない、ということです。三人とも襲われた際には肩をつかまれて、かみつかれたと証言しています。ですが、三人とも襲われてすぐに振り返ってみたが、そこには誰の影も見当たらなかったといいます。ただ、かすかに見えた肩につかまれた手には、この学校の男子制服がチラッと見えたそうです。なので、犯人はこの学校の男子生徒ではないかと」
「でも単に制服を着ていたってだけで、まだ学校の生徒とはいえないんだな?」
「しかし、一番可能性としてはあるので」
「なるほどとりあえず概要はこれで全部か……まぁ、とりあえず君に調査を頼む事件の詳細はこんな感じなんだが?」
そういって会長は、こちらをまっすぐ射抜くような目で、見つめてきた。
「いや、こんな感じといわれましても……」
一挙にいろんな情報が流れてきて戸惑ってしまったが、そもそも海東には前提条件からして理解ができなかった。
「事件の調査ってなんだ?それって生徒会がやることなのか?それに聞く限り、人が襲われたりしてるじゃないか……警察に任せるべきじゃないのか……?」
「事件性がない」
彼女はこちらの反論を押しとどめるようにそう答えた。
「それが警察の答え。で、ついでだからもう一回言っておくわ。ある程度のことは学校内で済ませる。それがこの学校の方針よ」
「ある程度って……この事件がある程度なのか?」
「そんなこといっても仕方ないじゃない。実際別に襲われた側もたいした怪我をしているわけじゃない。教師だっていろんなことを理解して、それに生徒もね……私たちに任せているのよ」
あの学園は変わっているんじゃ――
また、祖父の発言を海東は思い出した。そして、その発言の意味を甘く捉えていたことを知った。どうせ変わっているといっても変な人が多いくらいの意味だろう――そう思っていた。
違った。変わっているどころではない。異常。である。
この学校は世間とは違う常識で動いていると理解すべきなのである。
だが、彼は引き受けるという最初の決心を変えるつもりはなかった。彼は驚くほど、もちろん理解はしがたかったが、自然にこの学校の異常さを受け入れていた。
この異常さのなかで自分のできる限りのことをやってやろう。それくらいの心意気を彼は持っていた。だから、
「わかりました。仕方ありません……その事件の調査やりましょう」
そう、迷いなく言った。
「ありがとう。感謝するよ」
会長は軽く笑みを浮かべながら、そう言った。
「では、君には少し聞き込み調査をしつつ、犯人の調査をしてほしい」
そういって彼女は一枚の写真を取り出した。流れるような黒髪がきれいな女性である。切れ長の目が写真の中からこちらを見ている。
「水沢 奈菜という生徒だ。つい、最近襲われた最新の被害者だ。まだ、いろいろと事情を、私たち生徒会の人間は誰も聞いていない。だから、君に彼女の聞き込みをしてほしい。そこから得る新しい情報もあるだろう。そして――是非とも犯人を突き止めてくれ。よろしく頼む」
水沢 奈菜。吸血鬼事件の第三の被害者。
事前に生徒会が手を回していたのかもしれないが、聞き込みをするという「約束」はすぐに取れた。
事情を聞く場所は屋上である。さながら告白のようである。
だが、彼女の様子を見れば、そんな浮かれ気分も吹っ飛ぶであろう。
こちらをにらみつけるように彼女は見てきたからだ。なんだかこちらが悪いことをしたかのように見てくるのである。
だが、彼女はそのまま黙って後ろを向くと自分の首筋を見せ付けてきた。
「うわ……」
事前に聞いた情報どおりに、彼女の首筋には二つの赤い傷痕がついていた。
彼女は、こちらの驚きに対し、一言も感想を言わずに、特に意にも介さなかったかのようにこちらに向き直った。
笑みの一つもない、凍りついた真顔である。
「あ、えっとじゃあそうだな……いったいどこでいつ襲われたのかな?」
その表情に威圧され、若干緊張しながらも質問した。
「襲われたのは夜よ。そうね……九時くらいだった気がするわ。場所は二階の廊下よ。他の被害者の人たちも、そうなのよね」
「あなた以外に人は?」
「いなかったわ。音すらしなかったし、他に人はいなかったと思うわ……あ、でも犯人がいたわね」
「それであなたはその時間にいったい何を……?」
「別に、単に夜の学校にいたかったからいたかっただけよ」
それが何か問題でも?と言わんばかりの、強圧的な言い方であった。
理由もなく、夜の学校に一人で来るんですか?と聞きたかったが、そんなことを聞いてよさそうな雰囲気ではない。
「怖くなかったんですか?」
代わりに、彼女がこの事件について、どう思っているかを聞くことになった。
「別に?みんなはすごく『吸血鬼』とやらを恐れてるけど、私は怖くなかったのよね……まぁ結果的に襲われちゃったけど」
「失礼ですが……どんな風に襲われたんですかね」
「そりゃ他の人たちと同じように襲われたわよ。肩をつかまれてね……噛まれたのはそのすぐ後だったわ、振り返る間もないほどにね……で、振り返ったけどそこには誰もいなかったのよ」
「じゃあ犯人の姿は見ていないと?」
「えぇ、服すら見えなかったわよ。男か女かもわからないわ。跡形もなく、消えてしまったわ。さすがに怖くなったわ」
そういうわりには彼女は特に、恐怖を抱いてなさそうであった。
「あ、でも犯人の心当たりはあるわ」
「姿を見てないのに……?」
だが、彼女の言うことが本当なら、これは注目に値する情報である。
「そうね……全く顔は見ていなかったんだけど窓からこの学校の出入り口をしばらく眺めていたのよ、しばらくの間ね。そしたら四人、その出入り口から出て行ったわ。私も朝になるまでずっと見ていたわけじゃないから他に疑わしい人はいるかもしれないけど、その四人の中に犯人がいると、私は思うわ」
そういって彼女は、その四人の「容疑者」の名前をあげていった。
「え……?」
それを聞いて、僕は驚きの声をあげた。そこにあがった名前は、僕にとって意外なものばかりだったからだ。
水沢 奈菜に対する聞き込み調査は、こうして適当なところで区切りをつけた。
そして、僕は翌日からは、彼女がいった四人の「容疑者」に事情を聞くことにした。
翌日の放課後。クラブの活動で活気にあふれる校庭に、その人間はいるはずであった。
僕は大階段の上から校庭を見下ろす。この学校はちょっとした山の斜面に沿うように立っており、校庭は校舎のあるところからはかなり下のほうに存在する。そして、校庭と校舎をつなぐのが長い長い石造りの大階段であり、運動部の人間たちがこの階段をダッシュしたりしていた。
そして僕は、この大階段を下って行ってその人物を探す。僕が向かったのは、野球部の練習場所である。
この学校は、校庭がこの一か所しかなく、テニスコートを使うテニス部を除き、ほとんどの運動部の連中はこの校庭にひしめき合っている。
野球部は、校庭の階段側から見て左の方で、校庭の全面積のほぼ四分の一を緑のネットで囲むことによってかろうじてホームベースを作れるだけの場所を確保し、練習に励んでいた。
「あの~越前さん?越前さんいますか?」
僕は大きな声で、その容疑者となっている名前を呼ぶ。
水沢 菜奈があげた容疑者の名前には意外な人物が含まれていた。その一人が、越前であった。まさか、生徒会に属する人間の名前が含まれているとは、彼にも想像がつかないことであった。
越前の体には、今まで練習していたためか汗が光っている。
「おう、新人くん。調査は進んでるか?」
越前は軽い雰囲気でそう聞いてくる。
「えぇ、今その調査中なんですが……その……」
「何オレが容疑者の一人だったりするわけ?」
こちらが聞きづらそうにしていたのに、彼はあっさりとその事実を言ってしまった。
「えぇ……まぁそんなところです……」
そんな返答をしつつ、彼はこの返事の仕方の意味を考えた。自分が犯人ではないから、こんな返事をしたのか、はたまた犯人だからあえてこのような返事をしたのか。
そんな疑問を抱えつつも、彼は越前にすべての事情を説明した。
「あぁなるほど……彼女はオレが夜学校から出て行くところを見たというわけだな?で、オレが容疑者の一人であると……」
「もちろんあなたでないと僕は思いますが……ですが、一応容疑者の一人であることには変わりないので……事情を聞かせてもらえないでしょうか?」
「そうか……そういうことか……」
自分が容疑者だといわれているのに、彼はまったく動じない。まるで、世間話でもしているかのような調子である。
「練習のためだよ」
越前は語気を強めてそう答えた。
「練習?」
「そう。オレは少しでも強くなりたいからな。夜も学校で練習してんだよ」
越前の話では、彼は練習道具を教室においており、その日も夜の練習を終え、道具を教室において学校を出たという。
「寮からいちいち道具を持ってったり持ち帰ったりするのは面倒だからな……教室に道具置いたりするんだよ。オレは」
教室を通るとなると、寮に行くには外に出て寮の塔に行くのが一番早い。
その話が本当なら彼女が見たの姿は今から帰宅しようとする越前の姿だということになる。
越前の顔を見る。そこには、嘘をついているような表情はない。無論、彼に人がうそをついているかどうかを正確に見極めるような能力はないが。
「だけど、わざわざ夜にグラウンドに出て練習する必要はあったんでしょうか?筋トレとかなら寮でできるんじゃないですか?」
彼は一応、越前に対して仕掛けてみることにした。これを言っていったいどんな反応を彼は示すだろうか。
「この校庭で練習する以上に効果的な練習方法はないよ」
越前はまじめくさってそう答える。
「それは毎日やってるんですか?」
「うーん、毎日ってほどじゃないけれど……一応できる限りはやってるかな」
彼はすごいと単純にそう思った。自分にはそんな努力は出来ないと。
(まったく自分はダメだな……)
こちらは今は多少上からの立場で行かなければダメだというのに、越前の言葉で彼は落ち込んでしまった。
彼はそんな努力をする前に、諦観が先に出てしまう。どうせやってもダメだろう。とそういう考えが、頭を巣食ってしまうのだ。所詮自分は凡人だ、という考えが頭にこびりついていて、それがいつまでたっても晴れないのだ。
特に運動に関しては彼は人以上に苦手意識を持っていた。
基礎能力が違う、自分にはそもそも運動のセンスがない。そんな風に、彼は考えてしまうのである。
目の前の越前も元の運動能力が自分とはケタ違いに違うのだろう。ものすごい根性を持っているのだろう。そして、自分の努力が確実に自分の能力を高めてくれる、とそうまっすぐに、純粋に信じているのだろう。
その根性と精神両方がなければ、昼の部活にしっかり出て、かつ夜の練習もするなんていう芸当はできないはずである。
他の部員にも事情を聴いてみたところ、越前が毎日夜練習をしているのは野球部の中では有名な話だという。
越前は犯人じゃない気がする。調査よりも、自分の心情を思い返すことのほうが大きかった気がするが、そんな感想を抱きながら、沖田は越前の調査を終えた。
だが、越前と一緒に練習した人はいなかった。つまるところ、彼のアリバイを証明する人間はいなかったのである。越前の行動を裏付けるのは結局のところ、越前の言葉だけなので確証はまだ持てなかった。
翌日も、水沢 菜奈が示した四人の容疑者の聞き込み調査であった
正直、沖田は、この人物は最初から容疑者ですらないんじゃないか、と思っていた。
いや、むしろ誰もがそう考えるだろう。というのも、
「じゃいくつか質問する前に……ちょっと首筋を見せてもらってもいいですか?」
沖田は確認のためにそう尋ねた。女は、何も言わずにその要求に応じた。
そこには、二つの横並びになった赤い斑点のような傷痕――最初に証言を聞いた被害者水沢 菜奈と同じ傷痕――があった。
沖田がこの人間を容疑者だと思わない理由。沖田が今から事情を聞こうとしている人間、青木 唯はこの連続する事件の被害者であり、発端となった人物、すなわち最初に「噛まれた」人間なのである。
「で、私が犯人かもしれないって?」
越前に話したのと同じ事情説明を青木にもする。
「いや、僕もまさか君が犯人だとは思わないけど……一応念のために……いったいどうして君はその時間帯に校舎内にいたんだい?」
「何でも何もしょうがないでしょ……私の活動時間がその時間帯なんだから……」
「活動時間っていうのは……?」
「部活の活動時間よ」
「部活?」
「そう……私、天文部よ。夜にしか、活動しようがないのよ」
聞けば、彼女は部室にある望遠鏡を使って、不定期的に夜、学校の屋上から星を観察するのだという。
なるほど全寮制のこの学校ならではの活動方法である。
「で、その時間帯一緒にいた人は?」
活動、というからにはもしかしたら一緒にいた人がいたかもしれない。
そう思い僕は彼女にたずねてみた。
が、しかし、
「別に? 一緒にいた人なんていないわよ。だって基本的に活動って一人でするものだもの」
彼女の話によると、天文部の活動というのは自分ひとりで星を見て記録し、それでもってみんなでその記録を集めあうというものらしい。
そんなわけで結局、この二人目の容疑者も特にアリバイ確認が取れない、ということになってしまったのである。
嘘をついているかどうかは正直言って、よくわからなかった。
だが、もうひとつ質問をぶつけてみることにした。沖田の聞き込みの方法、である。相手が何か嘘をついていれば、何かミスすることを期待して、思いつく限りの質問をぶつけてみるのである。
「水沢 奈菜との関係は?」
「関係も何もそんな子の名前、私は初めて聞いたわよ……」
特に反応が異常に速いわけでも、変な間があるわけでもない。ごく自然な反応であった。
今のところは、特に彼女に対して疑いを持つ理由はない。
「だいたい、私は被害者よ?どうして、こんな疑われなければならないのよ?」
青木はなかば逆上気味にそう返してきた。
もう、沖田がこれ以上何か聞き出せそうな雰囲気ではなかった。
「ごめんなさい……でも、一応調査なんで……」
沖田はそういって、ある程度の申し訳なさを抱えながら、彼女のもとから立ち去った。
質問の数が少ないのもあったが、青木は結局なにもボロを出さなかった。
「うーむ……」
沖田は思わずうなってしまった。聞き込み自体はなんとなく慣れた気がする。しかし結局、何も肝心な情報は得られていなかった。
今まで聞き込みをした二人が本当に犯人でないだけなんだろうか、あるいは彼の聞き込みに問題があるのか……
彼は少し焦っていた。
翌日も彼は、調査を行った。時間は午後五時ごろ。
窓に差し込む西日がまぶしい。日はかなり傾いている。
いつ、また新たな被害者が現れるともわからない。彼は、早急に調査を終わらせる必要性にかられていた。
「ん……」
と、そこまで行った所で、彼は見知った顔を見つけた。
「水沢 奈菜?」
そこにいたのは、現時点では最後の被害者である水沢 奈菜であった。彼女はある人物と向かい合っていた。そして、その人物というのが
「荏田 洋子?」
荏田 洋子――彼がこれから事情を聞こうとしていた人物である。
だが、遠目に見ても、平和におしゃべりしているという雰囲気ではない。荏田 洋子は壁を背に、おびえるように上目づかいに水沢 奈菜のことを見ている。
対して、水沢 奈菜の方は片手を、荏田 洋子の進路をふさぐかのように、壁に手をつき、威圧するようににらみつけている。
どうにも、止めたほうがよさげな雰囲気である。
「――!」
何か、水沢が叫んでいる。その内容は、二人に近づくにつれてはっきりと聞こえてきた。
「え、お前が犯人なんだろ? はっきり言えよ。あの日の夜何してたんだよ」
水沢 奈菜はさらに荏田 洋子を威圧するかのように、壁を殴る。
荏田 洋子はその強圧的な態度に、ビクッと体を震わせる。
「わ、私、何もしてない……」
荏田は弱弱しく反論する。
「口答えするなよ。お前が私のこと襲ったんだろ? そうだよな? あんたは私のこと恨んでるはずだからな」
水沢 奈菜は、どうも荏田 洋子を犯人と決め付けて、勝手に断罪しているらしい。
だが、どうもそれだけではなさそうだ。怒りか、はたまた別の感情か、水沢 奈菜は、最初話した時とは全く別人のように、荏田 洋子に対し、威圧的な態度で接していた。
普段の自分なら、昔の自分だったら見過ごして放っておいていただろう。
しかし、今の自分は違う。変わろうと、過去の自分を捨て去ろうとしているのだ。さらに言えば、自分の今の立場上、荏田 洋子の事情聴取という目的もあり、その場に入っていかないわけにいかなかった。
「何やってるんですか」
彼はそのようなことを思案し、勇気を持って、二人の間に入った。
意外と今の自分は冷静である。
荏田も水沢もこちらを振り向いた。
「なんだアンタか……何の用だよ?」
水沢がそのままの強圧的な態度で、返事をした。
「あなたの目の前にいるその人の話を今聞こうとしていたところです。それより、何があったんですかね?あんまり平和な感じじゃないように見えますが……」
「別に……ただ私はこいつを問い詰めてただけだ……一応容疑者の一人だし」
彼女は憮然としてそう言った。そして、急に冷めた表情になると不満げにその場を去っていった。
「大丈夫ですか?」
荏田を心配する。
「……だ、大丈夫……です……」
聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、彼女はそう言った。震えている声で、泣きそうになりながら
「事情聞いてもいいかな?」
「……例の事件のこと?」
「そうですけど……」
彼女がおびえたようにそう言うのを聞くと、なんだかこっちが悪いことをしている気分になる。
でも彼女は声こそ出さなかったが、こっくりとうなずいてくれた。
「じゃ、ちょっといくつか質問をしたいと思います」
二人は西日の差しこむ教室の席に、向かい合って座っていた。
「はい……」
彼女はそう言ったものの、何か落ち着かないようにオドオドしている。
何か怖がっているのだろうか? まるで小動物である。周りを常に警戒している小動物。
もしかして、事情を聞かれるというのが問い詰められるみたいで嫌なのだろうか?
そんな懸念もあって、こちらとしても一言一句に気を付けながら、丁寧に聴取をすすめていかざる得なかった。
「最近の一連の事件は知ってますよね?」
「最近の……なんか人がよく襲われているっていう?」
吸血鬼……という単語は出てこない。吸血鬼事件なんていうのは、生徒会内だけの名称だ。もし知っていたら――といっても名称は漏れることは十分あるだろうし、傷の形から見て、吸血鬼を連想することは容易なのでこれだけで確定するわけではないが――犯人である可能性が高まるところであった。
「そうだ。人が連続で襲われている、で水沢さんが、君が夜の校舎から出たところを見た、と言っている」
水沢 奈菜の名前が出た瞬間に、荏田の肩がビクンと震える。やっぱり二人の間には何かがあったのだろうか? 彼はそんな疑問を抱いた。
「で、その……水沢……さんが見たからなんだって言うんですか」
僕は何度も繰り返した説明を彼女にもする。
「わ、わたしが水沢さんを襲ったっていうんですか……?」
それを聞いたあと、彼女はまたおどおどとし始める。
「そうじゃない」
彼女がパニックにならないように、即否定をする。まったくもって扱いづらい。
「ただ、その日そこを通ったのが、あなたを含めて四人だけなんだ……だから申し訳ないけれど、この事件の調査を頼まれた身としては、一応あなたにも事情を聞かなきゃいけないんだよ」
遠回しにはあなたが犯人の可能性もあると言っているのだが、なるべくそう聞こえないように努めて彼はそう言った。
「わ……わかりました……」
彼の努力のかいもあってか、彼女は事情を聴くことを承諾してくれた。
「協力してくれてありがとう。で、君は昨日の夜はどうして校舎内にいたんだ?」
「忘れ物が……あったから……」
「忘れ物?」
「そう……」
どうしてもそれはその日必要なものだったという。
理由としては少し弱い。わざわざ夜にとりに行く必要はあったのだろうか。
だが、普段だったら夜の学校入る人がたくさんいる、この学校の特殊な事情もある。案外、その程度の理由で校舎に入ることはあるかもしれない。
「そんなに重要なものだったの?」
「うん……それに日中にとりに行くわけにはいかなかったの」
「どうして?」
「誰に会うか分からないから……」
「会うのに何か問題でも……」
「う……」
彼女はその質問には答えずに、そう言ってうつむくだけであった。
理由が正確なものではない。一抹の疑惑が生じる。すなわち彼女こそ犯人なのではないかという疑惑である。
だが彼はその後もまだ思考を続ける。すなわち、それにしてはあまりにも明確な理由がなさすぎではないだろうか?という考えだ。もし仮に自分が犯人だったとしたら、もう少しつじつまの合う嘘をつくだろう。
とりあえずわかっているのは、彼女の行動を証明するのは結局のところ彼女だけということである。要は彼女にもアリバイは存在しない。
「んじゃ、最後に一つだけ質問してもいいかな?」
「はい……」
「今回の被害者……水沢 菜奈さんとはどういった関係なのかな?」
それを言った瞬間、彼女の様子が変わった。
身を何かに突然触れられたかのように、ぶるっと震わせる。今まではおどおどしてはいたが、それでも落ち着いてはいた。
しかし、彼がこの質問をしてから、彼女の様子が豹変した。
目の焦点が定まらない。相変わらず顔は下に向けているが、目が右往左往している。
今すぐにでもここを離れたいかのように身を動かす。
「ど、どうしたの?」
その彼女の様子に、彼は自分が何か悪いことでもしたのだろうかと不安になった。
彼女はおびえていた。見えない何かに。そう、この場にいない何者かに。
「いえ……すいませんちょっと……彼女とはいろいろあったもので……」
やっと落ち着いた彼女は、そう言ったきり体をより一層縮こませてしまった。相も変わらず顔は下を向いたままである。
「……」
彼は黙ってしまった。いったいこのあとどう話をすすめたらいいのやら、全く見当がつかなくなってしまったのだ。
僕と彼女の間でしばしの沈黙が流れた。
「いじめられてるんです……」
その沈黙を破ったのは荏田の方であった。彼女は何かを決心したかのように、顔をあげるとそう言った。
「いじめられてる?……水沢さんに?」
だとしたら、僕が彼女と話を始める前に出会った一場面。水沢が荏田を威圧していた場面。あれはすべて説明がつく。
水沢 奈菜にそんな一面があったとは。彼は意外に思った。
「さっきは助けていただいてありがとうございます……」
「あ、うん……そりゃどうも……」
急に感謝されて戸惑ってしまう。
たしかに意識していなかったが、さっき自分はいじめの現場に出くわし、そして止めたのである。
それを自分で思い返し、今更ながらよくやったものだと思う。今まで有象無象の生徒の一人だった自分が、そんなヒーローじみた――というとおおげさだが――存在になるなんて彼は思ってもみなかった。
思わず照れてしまう。なるほど、これは悪くない気持ちである。
顔のにやけを見てとられないように、コホンとひとつ咳払いをする。
「……もしよければ、詳しいことを聞かせてもらえないか?」
その先どう話を進めていいかを僕は考えて、調査役からカウンセラーになる決心をした。もし、つらいなら話さなくてもいいよ。という意味を言外に込めてそう言う。
荏田はコクリとうなずき、口を開いて、
「――」
だがしかし、何も言葉を発しなかった。
彼女は静かにそのまま口を閉じた。そして、
「やっぱり詳しいことは言えません……」
何か思いつめるようにそう言った。
「そうですか」
彼はできるだけ、残念そうな調子を出さずにそう言った。
彼女も思いつめることがあったのだろう。考えてみたが、話すのはやっぱりつらいと思ったのかもしれない。彼女の抱えている事情は計り知れない。話したくないなら、それでいい、と彼は思い、その話を打ち切った。
調査よりも、荏田の個人事情に踏み込んでしまったような調査であったが、こうして彼は三日目の調査を終えた。
その、翌日にいよいよ最後の「容疑者」の調査をした。
だが、今回の場合、彼は特にアポイントメントを取る必要も、何もなかった。
その、「容疑者」はたいてい決まった場所にいるのだから。そして、彼がよく知る人物だったのだから。
「……で、あなたは四人目の容疑者なんです……」
生徒会の会議室。その、会長席の前で彼は会長である有沢 優衣の前に立ってそう言った。
「まぁな、その日もいろいろ仕事があったりしたからな。夜まで残っているのも悪くないだろう?」
「前にも言ったと思うが、この学校は全寮制だからな、生徒は割と普通に学校に夜間出入りする。私もやりたい仕事が山積みだったりするとたまにこの会議室にこもって仕事を遅くまでやってる」
自分が容疑者になっているにもかかわらず、淡々と答える会長。いやに落ち着いている。
まさか犯人なのだろうか。いや、だが事件の調査を命じたのは会長自身である。自分を探させるような事件の調査を命じるだろうか。
「もちろん、一緒にいた人間もいなければ、特に証拠もあるわけではないから、私も十分『容疑者』の一人だな」
彼女はお手上げだなというようなジェスチャーをしながら、そう答えた。
「他に君のほうから聞きたいことはあるか?」
「いや、別にいいですよ。特に水沢 奈菜との接点もないのだろう?」
「ないですけど、どうしてわかったんですか?」
「勘だ」
「……」
その返しにはどう答えたらいいのだろう、と海東は悩んだ。
「まぁいい……もう全員調査はしたのか?」
「一応あなたもふくめて、四人とも調査はしましたよ」
「何かわかったかい?」
「何もわからないですよ……全員アリバイなし、全員犯人かと言われればそうですし、犯人じゃないかといえばそうですし……」
「ふむ、なるほど……で、目をつけている人物などいるか?」
全く自分も容疑者の一人のくせに気楽なものだ……と海東は思った。
「そうですね……特に怪しいと思う人はいないんですが……あ……」
「どうした?」
「心当たりになる人物はいないんですが……ちょっと気になる話がありまして」
彼は荏田 洋子が水沢 奈菜にいじめられているという話をした。
「なるほど荏田 洋子が容疑者……なるほどね……」
「詳しい事情は話してはくれなかったんですが……って何か知ってるんですか?」
海東は会長の意味ありげな説明にいったん、事情の説明を止めた。
「いや、その結構荏田が水沢にいじめられてるんじゃないかっていうのは、学校の中でも薄々うわさにはなりかけていてな……生徒会としてもなんとかしようと思っていたところなんだ」
「そうなんですか?」
「そうだ……しかも、最近の話……」
そこまで言ったところで、会長が言葉を止め、何か考えはじめた。
「そういえばいじめられているといううわさが立ち始めたのは、吸血鬼事件が起きているころだったな……」
「それって……もしかして何か関係が……」
容疑者、いじめられている側である荏田 洋子。
被害者、いじめている側である水沢 菜奈。
そして、両者がいじめる・いじめられるの関係になったのは吸血鬼事件の真っ最中――もちろん、うわさが立っただけらしいので確証はないが。
確かに何か匂うような事情である。
彼はさまざまな可能性を思案する。――いじめられた恨みで荏田が水沢を襲った? 最初に浮かんだのはそんな思考。いや、でもそれはおかしい。これは連続の事件。――連続の事件?もしかして、この事件は連続の単独犯なんかではなく、複数の犯人によるもの。彼女は連続事件に乗っかって水沢 菜奈を襲った。あるいは水沢 菜奈を襲った事件が連続事件の一件のように見えた。――あるいは事件の開始時期と二人の関係の発生に特に関連はない?こちらが勝手に何かの意味を見出そうとしただけ?――
いろいろと考えてみたがどれもいまいちピンとこない。
一番しっくりくるのはこの事情は、事件に彩を添える要素でしかなく、この事情自体に意味がないということ。
やっぱり連続事件と考えるのが妥当だし、それが一番理にかなった見解だろう。
「まぁ、だがこの事件は連続事件。たぶんたまたま水沢が被害者で、荏田が容疑者になっただけだろう」
会長もそう言っている。
「そうですよね……」
「これで振りだしだな……でこれからどうする?」
「どうって……」
事情聴取は済んだものの、特に有益な情報はなし。そして、よくよく考えると犯人はどうやって誰にも見られずに襲ったのだろうか。その見当すらつかない。
これからどうする?
そんなことを言われても何も思いつかない。なぜなら、僕は本当の探偵ではないのだから。
「……どうしたらいいんでしょうね?」
「私に泣きつかれても困る」
そうですよね。と返しつつ、彼は頭を抱えた。いったいどうしたものか。と
そして、彼は自分の感情の高ぶりが急速に落ち込んでいくのを感じた。
この事件を解決していく自信がなくなったのだ。
能力がある人はこういう難題でも、きれいに手際よく解決していくのだろう。たとえ聞き込みで解決できなくても、いやたとえ解決できないにしても、ちゃんと犯人を追いつめるくらいのことはしてみせるだろう。
だが、対照的に自分は全然ダメだ。とりあえず聞き込みをしてみたはいいが、ほとんど情報は何もつかめずに状況は一歩も進展していない。
そして次の一手も思いつかない。悲しいことにやはり所詮僕は一介の凡人なのだ。いや、結局自分は凡人の地位から抜け出すことができないのだ。
自分はできる人間を傍から見てるだけの凡人にすぎないのだ。
そんな風に思考が鬱の輪を作った。
「はぁ……」
思わずため息をついてしまう。
「どうした?」
「……いや、次の方法がやっぱり思いつかなくて……」
「そう言われても私にはどうしようもない。君の役目なのだからな……」
「君の役目……」
そう言われ、彼は思い出した。自分のこの役目が急に言われたものであることに。
ふっとさっきまでの落胆とは別の感情がわきあがるのを海東は感じた。
「やっぱり僕には向いてないんですよ。他の人に任せるべきです」
「だが、調べるのが君の今の役目だ」
会長はそう言って突き放す。それを聞いて思わずかっとなった。役目だって?それはそちらが勝手に決めたことじゃないかと。
そして、自分の中にふつふつと沸きあがっていた感情が今どうしたらいいかわからない苛立ちと、やり場のない怒りが入り混じったものだと理解した。
この人に当たってもしょうがないし、八つ当たりなのはわかっている。だが、自分の思い通りに行かないことで、彼はどこかにいらいらした感情を抱えていたのだ。
だからこそ、会長にあたらざるえなかった。
元々自分で臨んだことじゃないのだ。出来なくて当然じゃないか。と
「でも、僕は勝手にこの調査を任せられただけです」
思わず語気を強めてしまう。
「ほう……つまり君の今までの行動は強要されてやったものだとそういうつもりかね」
「いや……でもそっちが勝手に任せたことです」
「それは申し訳ないことをした……なら、他の人に任せるさ」
「へ」
会長はなんてこともないように、そうサラッといってのけた。まるで世間話でもするかのように
怒っている風でもない。失望した風でもない。別に突き放したような響きもない。
まるで当たり前のことのようにそう言った。
そう言われて初めて気が付く。やめたくないと。そして思い出した。
たしかに、若干の強制があった。だが、自分は強制されている、という思いなしに動いていたことを。
自分は活躍して、目立ちたいと思っていたではないかと。
それを自分の能力のなさのせいにして今まで努力するのを怠ってきたじゃないかと。
「……いや、ごめんなさい。続けます」
「謝る必要はない。私たちは君に期待してまかせたのだからな」
相変わらず特に気にしてもいないような会長の返答。
それを聞いて、彼は思考を再開した。
引き受けると言ったはいいがどうしたものだろうか。次の手は。
まて、考え直せ。そもそも最初に聞き込みを始めたのはどうしてだ。
それは最初に聞き込みをすべきだと思ったから……
じゃあ、どうして最初に聞き込みをすべきだと思ったんだ?
自問自答は続く。
探偵とか警察が最初にやることって聞き込みじゃないのか。で、その次にやるのは。
調査?あらたな聞き込み、情報の整理、張り込み……張り込み?
一旦思考を止める。ある方法が頭の中に浮かんだのである。
いや、だが無茶ではないのか。いや、だがこの方法が手っ取り早いだろうし、たとえこれで正体をつかめなくても何かしらつかめるかもしれない。
僕はその方法を会長に話した。
「ほう……」
会長は特に危険だとも何とも忠告しなかった。
「止めないのですか?」
「止めてほしいのか?」
「いや、そういうわけではないですけど……」
「もちろん危険だろうとは思う。だが、君が納得して選んだならば止めはしない。これは君の事件だからな」
薄情だから止めないのではない。会長が止めないのはこちらを信頼しているからだ。
それを感じさせる一言であった。
「がんばれよ」
会長はただそう言った。
もちろん危険なのは、彼もわかっていた。あまりにも無謀な方法だとも。
でも、これが一番手っ取り早い方法なのだ。
――別にチクリと痛みはあったけどそのあとはなんもねぇよ。
――う~ん。特に困ったことはないかな、逆に話題作りになったっていうか。
被害者の証言をもとに考える。
被害者の実態。別に噛まれたというだけでそれ以外の実害はほとんどない。
ならば、襲われたとしても大した危険はないはずだ。
彼はそう考えた。
そして、行動に移した。現行犯で捕まえようと心に決めて。
たしかに今までの話から聞いて、今まで誰も正体すらつかんでいないのだから、捕まえるのは困難だろう。
それに犯人が現れるかどうかもわからない。
しかし、万にひとつという可能性もあるし、それにこう自ら現場に行くことで何かわかることもあるかもしれない。さらに今他に思いつく方法がない。ならば、やれることはできるだけやろう。彼はそう考えた。
そして、彼は入学して間もないのにもかかわらず、夜間の学校へと立ち入った。自分自身をおとりとするために。
夜の学校には、日中の暑さが残っており少々暑い。だがたとえ冷たい風など吹いていなくても、夜の学校は不気味であり、なんだか恐ろしい。
普段は結構な人数がたとえ夜であっても、学校にいるらしい。
だが、今は吸血鬼騒動のこともあってか、人がいるような雰囲気はない。もちろんその犯人がいそうな雰囲気も感じられない。
もしかしたら、今日は犯人は出歩いていないのかもしれないという考えが頭をよぎる。あっちだって毎夜毎夜出没しているわけではないだろうと。
だが、こうして他の生徒をおぼやかすくらいには出没しているのだ。やはり、ここはなるべくいると考えて行動すべきだろう。
そう考えると、今すぐ後ろにでもその犯人が立っていそうな気がして、おもわず彼は振り返った。
もちろんそこには誰もいない。
「……」
ゴクリと彼はつばを飲む。この感触が、自分の恐怖によるものなのか、それとも本当にいる犯人のものなのかわからなかった。だが、ひとまず彼はこの校舎を歩いていって、その「吸血鬼」とやらを待ち構えることにした。
とりあえず、近くの教室のドアを開ける。そして、近くにあった電気のスイッチをつけた。そして、その教室に誰もいないのを確認してから、スイッチを切り、次の教室へと向かい、また同じようにドアをあけ、スイッチをつけた。
そんなふうに、彼はその動作をひたすら繰り返した。本当にこの学校は緩いことに、そうやって校舎の電気をつけたりすることが簡単にできた。
そうやって彼が電気をつけるのは、そうすれば犯人があぶりだせそうな気がしたから、である。
あとは犯人に自分の位置を知らせる、という役割もこの行為にはあった。
そうして、教室をひとつひとつまわっていると、あるところで人の気配を感じた。
ヒタリヒタリと彼のことをつける足音が、聞こえた気がした。
「……」
思わず後ろを振り返る。が、そこには誰もいない。
気のせいだったのかもしれない。そう思い、また歩き出そうとした。
「……」
すると、今度は自分の後ろに気配を感じた。
彼は振り返ったが、やはり、だれもいない。
「……」
彼はゴクリとつばを飲む。何かがやばい。ひとまず、犯人が近づいているということを、彼は直感で感じた。
だが、彼はそのまま恐怖で逃げ出すようなことはしなかった。そのまま、何事もなかったかのように歩き始めたのである。
だが、今度はさっきまでやっていたドア開きの行為はやらない。確実に犯人は近づいているのだ。今度は犯人に安心して自分を襲わせることが、重要なのである。
自分は犯人を突き止めるためにここにきたのだ。だからここで逃げるわけにはいかない。
彼は決意をしている。
おびき寄せるのだ犯人を。気付いてないかのように歩き続けるのだ。
ぞわり、ぞわり。
彼の全身の毛という毛が逆立つ。確実に何かが近づいてくるのを感じる。
だが、あえて振り向かなかった。そして、その時が来た。
後ろを振り返る間もなく、自分の肩のあたりに手が触れるのを彼は感じた。
これで自分を捕まえて、そのまま首にかみつくはずだ。彼はそう予測した。
自分がここに侵入する前に出来る最低限度のこと。彼はみんなの証言をもとにそうやってこの犯人が襲ってくることを読んでいた。
犯人がどうやってみんなに見つかることなく、襲撃を重ねたのかは正直わからない。しかし、それでも動作を予測できていたおかげでみんなよりは少し早く、犯人に対し対応することが出来た。
すかさずに肩へと来た両手をつかむ。
やわらかい手。女の手であると直感的に理解した。それをつかむ。
「なんでなの!?」
自分がつかまれたことが意外なのか女が叫ぶ。
顔を確認するために、相手の手をつかんだまま振り返る。
そこにいたのは。
「荏田 洋子……」
水沢 菜奈にいじめられていると言っていたいじめられっこ―― であった。
「きみが犯人だったんだな?」
彼女はこちらの拘束から逃れようと、腕をぐいぐい引っ張っている。
「どうして、なんでなの……なんで離れられないのよ……」
荏田はこっちの話を聞いていないのか、なんなのか手を引っ張りながらそんな内容のことをぶつぶつつぶやき続けている。
その様子は事情を聞いたときとはまるで別人であった。
「おい!」
そんな彼女を気付かせるために、大きな声で一喝する。まるで本当に職務質問でもしているかのようだ。
このまかせられた探偵という職がはまってきているのか? などと少しうぬぼれっぽく考える。
「きみが犯人なんだな?」
そんなうぬぼれは置いておいて、さっきと同じ質問を彼はした。
「犯人?そうよ。私が連続事件の犯人よ」
荏田はこれ以上抵抗しても無駄だと思ったのか、あっさりと自分が犯人であることを認めた。
よかった。これで解決した。一件落着。そう思い、彼は気になっていたことを質問した。
「水沢 奈菜を襲ったのは個人的な恨みか?」
だが、事件はそう単純に終わらなかった。
「残念だけど……私は水沢 奈菜を襲ってないわ」
彼女は意地の悪そうな笑みを浮かべて、そう返した。
「きみが連続事件の犯人なんだろう?」
「それは認めてるわ……でも、残念でした。水沢 奈菜だけは私襲ってないのよ?」
表情、特に変化なし。きわめて個人的な判断だが、ここで無駄なうそはつかない気がした。
「きみ、水沢 菜奈は本当に襲ってないのか?」
「えぇ、本当よ。こればっかりは神に誓ってもいいわ」
荏田 洋子は水沢 菜奈を襲っていない。連続事件の犯人は一人ではない。
「嘘だろ……」
「私が犯人なのは確定してるのに、ここで嘘ついてまで困らそうとしないわよ」
当初の予測が崩れた。いじめられた恨みで、この子は連続事件の被害者の一人に水沢菜奈をすえたんじゃないかという予測。
「……じゃ水沢菜奈を襲ったのは誰?」
「知らないわよ。そんなことは」
当初僕は、水沢菜奈はいじめられっこにいじめられたことで、恨まれてそれで次の被害者に選ばれたのだと思っていた。
だが、ちがった。と、なると次の重要になってくるのはこの子のいじめられはじめた時期である。
「君、いじめられはじめられた時期は、事件が始まった時期と同じくらいだって言ったな? それは何か意味があるのか?
はたまた偶然か。彼女が知っているわけないとは思ったが、もし知っていればこれ幸いである。
「さぁね……詳しいことは知らないよ。私には何も伝えられなかったからね。いつの間にかいじめられっこの役になってた。たぶん会長には最初から私が犯人だってわかってたのさ。それで警告の意味を含めて私を『いじめられっこ』の役にしたんだろう……」
「何……?なんだって?」
今の彼女の発言を、彼は何一つ理解できなかった。彼は「理由はわからない」とか、「水沢が自分のことを気に入らない理由」だとかそんなことを聞けると思っていたのである。
だが、彼が今聞いたのは、まるで他人事であるかのような発言である。
いじめられているのがまるで自分でないかのような……いじめられっこというのは自分が演じているだけであるかのような……
それに加えて、
「いじめられっこの役……」
君は今日から探偵だ……。君に任された役目だ――
最初に会長にいわれた発言が蘇る。自分と同じように彼女も「いじめられっこ」の役を得たとでもいうのだろうか。
てっきり会長の発言は、激励程度のものだと思っていた。でも、本当にあれは僕に探偵の役を与えるという意味だとしたら……
「どういうことなんだ……」
思案を繰り返す僕の顔を見て、彼女が薄く笑みを浮かべる。
「……もしかして、あなたこの学校のこと、何も知らないんじゃないでしょうね?」
「この学校のこと……?」
「そうよ。もしかしてあなたここが普通の学校だと思ってるの?」
「普通……じゃないのか?」
確かに少しは変だと思っていた。夜にほぼ勝手に出入りできること。自分がこんな事件の調査なんかしている事実。大した実害がないとはいえ、人が襲われている事件を生徒だけで解決しようとする姿勢。
考えてみればいろいろなことがおかしい。
「普通の全寮制学校なんかじゃないわよ。ここは。……おもしろい! まさか何も知らない人がいたなんて」
彼女は愉快そうに笑う。
「なぁどういうことだ……教えてくれ……」
「嫌だ。このままじらしとく方がおもしろそうだし、そんなことより……」
そう言って彼女は視線を落とした。注がれる視線の先にはずっと自分の手を掴む僕の手である。
「……いい加減はなしてくれない?」
いつの間にかずっとつかんでいたらしい。あ、ごめんといって離しそうになったが考え直す。もしはなした瞬間に逃げられたらどうしようと思ったのだ。
「別に今さら逃げないわよ……だいたい別にあなたの仕事は犯人を突き止めることであって、捕まえることじゃないでしょ」
確かに、僕の仕事は犯人を突き止めることだ。探偵というのはそういうものだ。だから一応、目的は達成しているのだ。加えて、さすがにずっと女の子の手を握っているのも気が引けた。
「ありがとう」
結果として、彼は迷いながらも、その手を放した。宣言通り、彼女は逃げようとする素振りも見せなかった。
しかし、これからどうしようかと思った。無計画なことに、このあとどうするかを彼は全く考えていなかった。
会長はいるだろうか……。いればそっちにいくべきだが。たぶんこの件は自分にまかせた生徒会に一任すべきなのだろう。
ふと、その時にグラウンドの景色が窓から見えた。そこから見えたのはひたすら素振りを繰り返す一人の姿。
「よし……」
彼は決心した。
「あいつのところ連れて行くぞ」
僕はグラウンドで素振りをしている人間を指さしながら言った。
容疑者の一人だが、あの人は生徒会委員だ。
だからひとまず連れて行くことにした。
あの人が何か決めてくれるはずだ。
「そういえばもう一つ気になることがある」
彼は荏田 洋子と暗い校舎の中を進みながら、グラウンドへと向かっていた。
越前は、相も変わらず自分が強くなることを夢見て、夜も練習しているのだろう。
荏田はあきらめた……というよりは、逆に楽しむように、鼻歌を歌ってスキップしながら、むしろ海東についていく。
あなたこの学校のこと、何も知らないんじゃないでしょうね?――
自分が知らない事実が、この学校にはある。彼女はその事実を自分が知っていて、海東が知らないのが愉快で楽しいとでも言いたげに、飛び跳ねる。
(連行っていうより連れていかれてるな)
彼はそんなことを思いながら、ふと疑問を抱いた。
「……ところでどうやって今まで、姿を見られずにすんだんだ? それにどうやって噛んだんだ? あと、そうだ……なんであんな風に襲ったんだ……?」
捕まえて失念していたが、よくよく考えると謎が多い。
姿を見られなかった方法、襲った方法の選択、動機――
さまざまなことが結局のところ、何もわかっていない。
「質問は一個ずつ言って」
「あ、悪い」
「まぁ、でもいろいろ質問を投げかけるのも無理はないわよね……」
彼女はそう言って僕を追い越して僕と向き合った。
「あなた今、何がなんだかわからないって感じでしょ?」
「そうだけど……」
「でもおそらくあなたの疑問のほとんどに、私はひとつの答えで返すことができるわ」
「というのは?」
「私はそういうことが出来る。ただそれだけよ。それが答え」
「は?」
なんだそれは……と彼は心の中で思った。
「そんなもの答えになってない!ただの言葉遊びじゃないか」
「確かにそうね……でもあなたに肝心なこと伝えないで言うとすると、こんな言い方しかないのよ」
「あなたは……」
まだ、荏田 洋子は何か隠しているというのだろか。そして、何を隠しているのか聞いても、きっとこの人はまた答えてくれないのだろう。
きっと誰かが話してくれる。などとそんなことを言って、はぐらかされるに決まってるのだ。
「あなた私に、どうやってみんなに姿を見られなかったのか、って聞いたわよね」
彼女は楽しそうにくるくる周りながら言う。
「まぁ確信的な答えはあるけどね、それを言っちゃうとつまらないから……それを隠しながらいうとすると、こう言うしかないのよ……もう一度いうわ、私にはそういうことが出来るのよ……」
彼女はあくまで僕に事実をはぐらかすつもりらしい。
「でも、実は私の方からもひとつ疑問があるのよ」
「?」
頭に疑問符が浮かんだ。荏田からこちらに対する疑問とは、いったいなんだろう?
「あなたがどうして、私を捕まえることができたのか、って言う疑問よ」
今まで、ひとりとして捕まえることができないどころか、姿すら見ることが出来なかった犯人。それをどうして海東はこうもあっさりと、捕まえることが出来たのか。
そう言われ、海東は改めて考えてみた。なぜ、自分には彼女を捕まえることができたのだろうと。
そしてその疑問は次のように変わった――どうして今まで誰も捕まえることが出来なかったのだろう?
確かに襲撃を予測できた分、自分のほうが犯人を捕まえやすい環境にあった、と言えるかもしれない。でもそれにしたって、今まで姿を見た人すらいない、というのはおかしくないだろうか?
彼はそう考え、また事件が複雑になったとため息をつく。
「なんでだ?」
答えが返ってこないことを知りつつ、海東は荏田に聞いた。
「教えるわけないじゃない……と言いたいけど、そのことに関しては私はわからない……むしろあなたに私が教えてほしいくらい。どうして私を捕まえることが出来たのかしら?」
「そんなこと言われても僕にもわからない……」
自分が答えを知っているわけがないだろう。わからないことだらけだ。
彼はそう言い出したい気持ちでいっぱいであった。
「まぁそんなことはおいといて、あなたのとりあえずすることは、水沢菜奈を襲った犯人を捕まえることじゃなくて?」
そうだ。結局まだ事件の解決は済んでいないのだ。水沢菜奈を襲った犯人を突き止め出でもしない限りは、結局海東は探偵としての役割も果たしていないことになるのである。
「越前さーん!」
事情を聞いた時と同じように、海東は呼びかける。
「おぉ、こんな時間に何してるんだ?……ってそのとなりにいる子は?」
「犯人です」
「え?」
越前はそれを聞いて、驚いたような声を出す。それは自分が水沢 奈菜を襲った張本人だからだろうか?それとも、単純に驚いただけだろうか――
「犯人ってお前……」
「えぇ、捕まえたんですよ。だからどうすればいいか、対応を聞きにきたんですよ。生徒会役員であるあなたに」
あえて、まだ他にも犯人がいるという事実は伝えなかった。それによって、もしこの人が犯人なら何かボロを出すと期待して。
そんなわけで、海東はその肝心の部分を言わないで、今までの概要をすべて伝えた。
他の犯人がいるという事実を話さないことに関して、荏田は特に何の反応も示さなかった。
「……あなたも一応容疑者だとは思いますがもうこうして犯人が捕まった以上、疑いも晴れたことですし、生徒会役員として聞きにきたんですよ。どうすればいいか。僕の仕事は犯人を突き止めるまでですし」
あくまで越前が犯人であるという疑いが晴れた前提で話を進める。
「そういうことか……了解した……」
そう言うと、越前は荏田へと向き直った。
「反省してるか?」
越前は荏田に問う。
「反省も何ももう罰は受けてるよ」
「もうしないな?次事件が起きたら、お前を生徒会が問い詰めるからな」
「……わかったよ……」
「よし、それならもういい。さっさと寮に帰れ」
言われ、荏田はそのまま背を向けて、不満げにゆっくりと歩きながら寮へと道を戻っていった。
「いいんですか?それで」
あまりにあっさりとしたやりとりに海東は思わず口をはさんだ。
「じゃあ他にどうしろって言うんだ?拘束でもするのか?」
「いや、そうじゃないですけど……」
それにしたってあまりにもあっさりとしていないだろうか。
「いいんだよ。次何かあったら間違いなくこいつが犯人だし、間違いなくこいつは退学だ。別に警察につきだす必要もない。あとで俺が教師陣には言っておくよ」
この対応、もしかしてこいつが犯人ではないだろうか。ふと考える。
「これで、事件も解決かーやれやれ……」
越前はそう言っているが、海東としては水沢 奈菜を襲った犯人を新たにおいつめなければいけなかった。
次の手を考えなければ。海東はそう思い、今までの容疑者の発言を振り返ってみた。
その時である。
(あれ……)
彼はひとつ、ひっかかる事実があった。そして、それはこの事件の鍵かもしれないと確証した。
「俺もそろそろ帰るかね……君はどうする?」
越前は海東にそう聞きながら、伸びをした。
「僕も今日は寮に帰ります」
「明日、会長にこのことは報告しとけよ?」
「そのつもりです……ところで越前さん」
「何だ?」
「この学校って何か隠してるんですか?」
「え?どういう意味だよそれは」
彼は平然とわけがわからないという風にそう言った。
「いや、なんでもないです、ふと思っただけです……ではまた明日」
そういって、海東は寮へと帰っていった。どうも、荏田の問いかけには答えられそうにないと思いながら。
生徒会室のドアを開けると、そこにはもうすでに会長がいた。
「少年じゃないか、どうした事件は進んでるか?」
「一応、犯人はわかりました。荏田 洋子です」
「ほー、じゃあ事件は解決ってことか?」
「いや、でも水沢 奈菜を襲った犯人がどうも荏田以外に別にいるらしいです」
「じゃあ、解決はしてないということか……」
「でも、もう解決します」
「ほう……何か答えが見えてるのか?」
「そうです……なぜなら、会長、あなたが水沢 奈菜を襲った犯人だからだ」
今まで、ずっと机の上におかれていた紙のたぐいに目を通していた会長が、そう言われてはじめて、こちらを向いた。
「なぜ、そう思う」
「水沢 奈菜を襲った犯人を見つけようと思って、今までいろんな容疑者に聞いた内容を思い返してみたんです。で、その時何かひっかかることがあったんです。会長、あなたの発言がね……」
会長は黙って、こちらの言うことを聞いている。
「会長、あなたは言いましたよね、その日は夜生徒会議室で仕事をしてそのまま夜寮へと直接帰ったって……」
「……」
「あなたはどうして、昇降口から出たんですか?この生徒会室がある塔は、直接寮につながっているのになんで……」
「たまたまだ。たまには昇降口から出たかったんだよ」
「なら二階を伝っていきますね、水沢 奈菜の姿は見ましたか?」
「……あぁ見たさ……事情聞かれたときに言わなかったのは申し訳ない……」
「やっぱり会長さん、あなたは犯人だよ」
「……」
「水沢さんがいたのは三階なんですよ。襲われたあと、見晴らしのいいところに移動したんですよ」
そう言われて、会長は腕を組みなおして、こちらを見た。そして、
「私の負けだよ……そうだ、私が水沢 奈菜を噛んだ」
ついに白状した。
それを聞いて、海東は座り込んだ。事件が解決して、落ち着いてしまったのだ。
「あーよかった……成功して……」
「成功?」
「水沢さんは三階なんかに行ってません。二階で襲われて、そのまま二階から昇降口の方を見てたんですよ」
「……かまかけたのか……」
「そうです」
それを聞いて、会長は愉快そうに頭をかきながら、笑う。
「ハハ……まいったなそりゃ……」
まるで自分が犯人なのがばれたのに、ぜんぜん不安そうでない。
「でも、少年、どうせトリックはわかってないんだろう?」
「う……」
「犯人を突き止めた。おわびだ。教えてやろう」
そういった瞬間に、生徒会長の姿が、消えた。
「え……」
海東は唖然となった。
冗談でも、比喩でもない。本当に、会長は彼の目の前から忽然と、煙のように消えたのである。
「……ま、こんなものトリックでもないし、突き止めようがないんだけれど……」
そんな声とともに、海東は後ろから肩をつかまれ、耳元でささやかれた。
会長がいつの間にか彼の後ろに立っているのだ。
「ひ……」
海東は恐怖を感じた。体が固まってしまって動けない。いったいいつの間に立っていたというのか……
「最初に言ったな、まるでこの事件の被害者は吸血鬼に噛まれたような傷をつけられたと……」
会長が、そういいながら海東の肩あたりを噛んだ。海東は感じた。――二本の牙の感触を
「そう言われるのも当たり前だ」
そう言いながら、会長は今度は緊張で固まって動けない彼の目の前へとまわり、口を開いた。そこには普通の歯に比べて異常に伸びた二本の牙――
「私は本当に吸血鬼だからな……」
「何の冗談ですか……会長」
海東は夢を見ている気分だった。目の前には二本の牙を持った人物が立ち、自分が吸血鬼だと名乗っている。そして、実際この人物は一瞬で自分の後ろから目の前へと行ったのである。
まったくもって信じがたい出来事だった。
そして、海東は自分が逃げ出せないほど恐怖でここから動けないのをさとった。
「冗談ではない。気づかれずに水沢に近づくことができたのも、水沢に姿を見られずに立ち去ることができたのも私が吸血鬼だからだ……」
そういって、会長は今度は海東の目の前から、元いた会長席へと移動した。もちろん、彼の目にも止まらぬ速さでである。
まるで、彼の目にその映像を焼き付けるように。
この高速の移動があったから、水沢 奈菜に襲った直後に見られることがなかったのだ。
「でも、あなたが襲ったのは水沢 奈菜だけのはず……」
「簡単な話だ……荏田も吸血鬼だ……」
たしかに簡単な話である。しかし海東はトリックもへったくれもない、結末に腰を抜かしてしまった。
――私はこういうことが出来る。ただ、それだけよ
荏田の発言の意味が今わかる。彼女が言っていたのは、吸血鬼ならば、それくらいは可能、そういうことだったのだ。
「納得してくれたか?」
海東は妙な落ち着きを得て、息を吐いた。あまりにも現実からかけ離れすぎていて、もう力も抜けてしまったのだ。
「まったく信じられませんけど……目の前でこんなことされちゃね……」
「なら、良かった。で、私をこれからどうするつもりだ?」
「……どうするも何も……何をしたらいいか……」
非現実的なことが起こりすぎ、海東は思考を停止した。
「じゃ、ちょっとこっちの話を聞いてもらいたい」
「話?」
「あぁ……事件のこともあるし、この学校のこともだ」
――あなた、この学校のこと何も知らないのね
荏田の発言が頭によみがえってきた。
(この人がその答えも知っているのかもしれない……)
会長がすべての答えを知っている。彼はこの時、そう思った。
「聞きます……いや、聞かせてください」
「ありがとう……実のことをいうと、この事件解決を君に任せたのは一種の試験なのだよ。君がこの学校でやってけるかどうかの」
「試験?」
「そうだ、試験だ。でも、無事犯人を突き止めたから合格だ。おめでとう」
「はぁ……ありがとうございます」
そういって会長が握手を求めて着たので、彼は握手をした。
「では、本題に入ろう。とりあえずこの学校のことから話すべきだろうな。事件ともつながってくることだしな」
そうして、会長の話が始まった。
「……この学校は戦後に出来た。人もそこそこ集まり、経営もよく成り立っていたんだ。だが、しばらくして異変が起きた。窓ガラスが急に誰も何もしてないのに割れる。突然何もないところから発火するという風にな……明らかに普通の人間によるものじゃないものがな」
「それは……」
「もちろん、普通の人間の仕業じゃない。あとでわかったことだが、この学校はどうも、そういう人間が集まるらしい。私みたいな、普通じゃない人間がな。超能力者、吸血鬼、魔術師――本当に何でもいたらしい」
ゴクリとつばを飲む。普通に聞けば、ただの作り話だと笑い飛ばしただろう。だが、今は本当に自分の目の前に吸血鬼がいるのだ。
「そんな時に生徒会長になったのが、君のじいさんだ。君のじいさんは私のように人間じゃない種族でもなければ、別に能力を持っているわけでもなかった。いたって普通の人物だった。でも、不思議なことに彼が生徒会長になってから、ピタリとそういった異変はやんだんだ。今まで、対応に右往左往していた教師陣も一安心した。――今、考えてみれば、それが君のじいさんの能力だったんだろうな……」
「生徒会のやることに教師が口出ししないのは……」
「そのころからだ。生徒会中心で、この学校が動くようになったのは。実際そのほうがいろんなことがうまくいった。そして、会長――君のじっちゃんは制度を定めた」
「制度?」
「そう。この学校にくるやつは、なぜか知らんが普通のやつらじゃないからな、だから普通の人間のフリをさせることにしたのさ。いざこざが起こらないように。役割を与えてな」
――君はこれから探偵だ
――私はいじめられっこの役になったのよ
(そういうことか……)
自分に言われたこと、そして荏田が言われていたこと。すべてが今自分の中で納得できるものとして、つながった。
「君のじっちゃんはそのまま校長になり、学校は安定した。普通の人のふりをするっていう制度のおかげでな、いざこざを起こすやつがいなくなったからな……だが、ここのところはその制度を破るやつが増えてきた。で、私は考えたんだ。これは、君のじいさんが校長職をひき、その抑止力がなくなったからじゃないかってな。そんな中、なんの因果が君がきた。そして私は考えた。君なら、あらたな抑止力になるかもしれないとな」
「そのための試験だったんですか?」
「そうだ。だから、本来この学校に来る生徒にはこの学校の制度が伝えられるんだが、君には伝えなかった。もし君があの校長の一族なら、それでも絶対に与えられた役を演じてくれると信じてたからな。そして、私の判断は正しかった」
「はぁ……」
そう言われても実感がない。なんせ、自分は今まで普通の生活を送ってきたし、今までそんな能力を持っているなんていう意識もなく暮らしてきたからだ。
「ま、でも一応その制度を破ったのが、荏田と私っていうわけだ」
平然と自分が制度を破ったの告白する会長。
「制度を破ったってどういうことですか?」
「私たちは一応こうやって身分を与えられてやっているわけだ。だから、その身分から外れるようなことをしてはいけないんだ。つまり、吸血鬼なんていう本来もっている能力を発揮しちゃいけない」
荏田と会長は人を噛むという本来の「吸血鬼」としての行動を起こしたというわけだ。
「まぁといっても最初に事件を起こしたのは荏田なんだ。彼女はある日突然、夜出没し、人を噛んだ」
それがあの天文学部の人間ってわけだ。
「実をいうと、こちらは途中から犯人が荏田だとわかっていた。君を試すためにあえて言わなかったが。で、そういうわけで私は彼女に罰を与えた」
「それがいじめっられっこの役ってわけですか」
「あぁそうだ。幸い、特に危害も加えてなかったのでな。それくらいで止めといた。ところが、そこで心配なことがあったのだ」
「心配?」
「水沢 奈菜のことだよ」
「水沢 奈菜の何が心配だったんですか?」
「水沢 奈菜はいじめっ子の役だった。だから、私は心配した。荏田 洋子がもしかしたら水沢 奈菜を襲うんじゃないかと。だから私は先んじて襲っておいたのだ。彼女を。吸血鬼にするために」
「吸血鬼にするため」
「そうだ。聞いたことがあるだろ?吸血鬼に血を吸われた人間は吸血鬼になるって」
「……」
「心配するな、合意の上だし、別に太陽に当てられたら死ぬわけではない。ただ、何か万が一のことがあったときのために彼女に抵抗力をつけておきたかったのだ。もちろん、水沢が君に何も言わなかったのも君の試験のためだ」
「はぁ……」
「一応、これが全部の学校のこと、事件のことすべての真相だ……」
「……」
「そして、これが君がこれから生きていく舞台だ」
彼はただただ今まで話された内容を反芻するしかなかった。あまりにも突拍子もない話である。本当にこんな学校で生きていけるのだろうか。彼は不安になった。
「大丈夫だ。心配しているだろうが、君が本当にあの会長の一族ならなんとかできる。もし、心配でしょうがないなら、私が相談に乗るぞ。もうここにはいれないが」
「え?」
海東は会長の最後の言葉に耳を疑った。
もうここにはいない?
「いないってどういうことですか?」
「退学するってことだ」
「退学ってなんで……」
「当たり前だろう。一番制度を守るべき会長が制度を破ったんだ。退学は当然だろう」
「でも、それは水沢さんを守るためであって」
「それでも規則は規則だ。それに、私ももうこの学校は十分楽しんだよ。なんせ、五十年もいたのだからな」
会長はそう言って、何事もなかったかのように、ドアのほうへと向かった。
「ではな、少年。相談したかったらいつでも乗るぞ。最初に会った場所でな」
そういって会長はドアから出て行った。
「有沢さん!」
彼はすぐに追いかけて、ドアから廊下をみっわたした。そこにはもう会長の姿はなかった。
翌日、会長の退学が生徒全員に通達された。
寮からも会長は出払ったという。
海東は気になった。そして、その日寮から抜け出した。
最初に会長と、出会った場所。学校への通り道。
その壁に見知った顔が座っていた。
「よう、少年」
会長はそこにいた。
彼女は退学してもまだ、相変わらずそこにいたのである。




