流れる雫の向こうで
1.窓際のふたり
「いつか小説を書いて、きっとそれが映画化されてさ。俺は大金持ちになるよ!」
そう語る拓人の言葉に、遥はコーヒーカップを口につけたまま「うんうん」と頷いた。雨の降り止まない6月の夕方、付き合い出したばかりの二人は、歩くと床のきしむ音が鳴る、レトロな雰囲気の喫茶店「アポロ」にいた。
バス停や電停のある国道では、仕事帰りの車が大渋滞を作り、両端の歩道では多くの傘が、家路を求めて狭そうに行き交っていた。窓の外では、降り続く雨の音やバスのクラクション、道路に溜まった雨水を弾きながら走る車の音で騒がしかったのに、アポロの店内ではBGMのジャズの心地よいメロディが響き渡っていた。
「ハァ~。」
遥は疲れた様子でペンを置きコーヒーカップに口を付けると、曇った木枠の窓に小さな発見をして喜んだ。
歩道を行き交うカラフルな傘の列や国道を走る車のライト、それに灯り出した街のネオン達が様々な「色」となって、曇った窓ガラスにぼんやりと映っていた。それはまるで動く油絵のようで美しかった。
「拓人!ほら見て!綺麗!」
遥は子供のように騒いで、割れんばかりの音を立ててカップを置くと、ペンを動かす拓人の腕を叩いた。すると、遥の「ほら!」の勢いで、拓人の書く文字が歪んでしまい、シャープペンシルの芯が音を立てて折れてしまった。
「も~何だよ!」と、拓人は顔を上げると、子供のように純粋な目をして喜ぶ遥の姿に思わず見惚れてしまった。すると窓から目を離した遥と目が合い、拓人は慌てて珈琲を口にして誤魔化した。
「可愛いな」という気持ちが伝わったんじゃないかと恥ずかしかった。「ちょっと!窓を見てよ!」とテーブルを叩いた遥の言葉に、拓人は「う、うん。」とコーヒーカップを置いた。
拓人はアポロのレトロな雰囲気が好きだった。そして何でもない二人のほのぼのとした時間に、この上ない幸せを感じた。
そして「今」が永遠に続けばいいのにと思った。
拓人は窓越しに雨に濡れる外を眺めた。そして大学のゼミで初めて遥と出会った頃を一人振り返っていた。
二人が出会ったのは一年前、大学に入学したばかりの頃に「ゼミ」という少人数で行われる授業で一緒になった時だった。
拓人と遥が選択した十名ちょっとのゼミを担任したのは、大学では厳しくて有名な教授だった。多くの新入生がサークルや部活の先輩から噂を聞き、厳しい教授の授業は選ばなかった。教授のゼミは大学の誰もが避ける有名なゼミだった。
そんなことも知らずに集まった新入生の拓人や遥は、初日の授業で教授のゼミを選択したことを後悔した。教授は毎回の授業で全員の発言を求め、宿題のレポートはとても多く難しいものだった。
しかしある時、ゼミを受ける生徒達の間で変化が起き始めた。
生徒達は厳しい授業やレポート提出に取り組む中で、皆が励まし合い協力するようになった。そして気付けば、夏を迎える頃には十名の生徒達の間には「仲間」と呼び合える強い絆が出来ていた。
生徒達は授業のない日も、一緒にゼミの準備に取り組み、同じ時間を過ごした。放課後の図書館やファミレスは彼らにとって絆を深める場所となった。
ファミレスで始まった交流の場も居酒屋へ変わり、ゲームセンターやカラオケなど多様なものへ広がっていった。夏にはみんなで海へ行き、冬には苦手な教授さえも交えて忘年会を開いた。
もちろん拓人も遥も一緒だったが、その頃は大切な仲間の一人に過ぎなかった。でもいつからだろう、拓人と遥はお互いを意識するようになっていった。
新年を迎え後期の授業も終わりが見えてきた頃になると、「もうすぐ春がくる。そうすればもうゼミも仲間も解散になってしまう。どうか、それまでには気持ちを伝えたい。」と考え、毎日のように焦っていたのは拓人だった。
そして3月になった。ゼミも最後を迎え、厳しかった教授とも同じ時を一緒に過ごした仲間とも解散の時を迎えた。一年間のゼミを通して、新入生だった仲間達も、すっかり大学に溶け込んで身も心も大学生らしくなっていた。
大学内には桜が咲き誇り、また新しい春を迎えた学校は新入生歓迎の準備に追われて騒がしかった。
そんなある日、拓人は初めて遥に電話を掛けた。他のゼミの仲間と同じで、番号は知っていたのだが、それまで受話器を取ったことは無かった。
何日も悩んだ春休みの夜、意を決した拓人は遥の自宅に電話を掛け、あくまで自然を装って「買い物に付き合って」と話した。電話を掛けた家の廊下は寒かったのに、受話器を握る手は緊張で汗ばんでいた。
細身で身長の高い拓人は、サイズの合う洋服を探すのにいつも苦労していた。だから遥に言う理由としては「買い物」が一番だった。
突然の電話に驚いた様子の遥だったが、「うん、いいよ。」と軽く返事をした。
受話器を置いて電話を切り、「フーッ」と大きく息を吐いた拓人は、「何とか自然な電話が出来た」と胸を撫で下ろした。しかし、遥を買い物に誘ったこと以外は何も話さず1分も経たないうちに慌てて切った電話は、全く自然ではなく極めてぎこちないものだった。
そして、拓人が初めての待ち合わせ場所に選んだのが喫茶店「アポロ」だった。
「なんか久しぶりだね」の後、コーヒーカップを受け皿に置く音と共に始まった初めてのデート。結局、口実だった買い物には行くこともなく、二人は一杯のコーヒーで三時間もアポロで過ごすことになる。
無言を心配した拓人だったが、初めての二人きりの会話は絶えることはなかった。ゼミの思い出や教授の話し、そして仲間の話しをして会話が弾んだ。
それはいつも仲間で集まってする会話と何も変わらなかった。しかし大勢の仲間の前では話せなかった「自分はあの時どう感じていた」や「遥はどう思っていたの?」という話しになった時、二人だけでの秘密ができたようで拓人は嬉しかった。
そして時計の針が夕方六時を指し、窓から西陽が射してきた頃、会話はこれから入ってくる新入生の話しになった。
「次はどんな生徒が教授の授業を受けるんだろうね。やっぱり教授は人気ないのかな。」と遥が言うと、拓人はテーブルを見たまま「俺は絶対に教授のゼミを勧めるな…。」と言った。
すると遥が「私も。」と呟いた。「え…」と拓人が顔を上げた時、遥は言葉を遮るように「そろそろ出よっか。」とコーヒーカップを置いた。
その時だった。勇気を振り絞った拓人が「あのさ…。」と切り出した。
ここ数日、夜も眠れずに準備してきた言葉があった。その半分も言えなかったけど、拓人は遥に一生懸命、自分の想いを伝えた。途中、声が震えたのが遥に伝わったかなと思うと恥ずかしかった。
そして拓人は言い終わった瞬間、想いを伝えたことを後悔した。今のまま仲間の一人で良かったじゃないかと自分を責めた。そして拓人が「ごめ…」と口にした時、遥は「…うん」と頷いた。
その言葉に驚いた拓人は「ごめ…」と口を広げたまま謝るのをやめ、「ありがとう」と言った。
春休みのある日の夕方、二人は恋人同士になり、それ以来アポロのこの窓際の席が二人にとっての「いつもの場所」になった。
元々は仲間の一人だったからと言って、付き合って3ヶ月が経つ今も、どうも照れ臭いことがあった。それでも今は二人で迎える初めての夏が、とても待ち遠しかった。いろんな計画を立てては、「夏が楽しみだね」と話してコーヒーを少し飲んだ。
遥の「さっ!勉強!」という元気の良い言葉に、拓人はふと思い出の中から我に返った。窓の外ではまだ雨が降り続き、窓ガラスは曇っていた。
遥はカチカチとペンを鳴らして「頑張ろっ!」と微笑んだ。「うん、そうだね。」と言うと、拓人もテーブル一杯に広げた大学の教科書に目を落とした。
テスト前のアポロはまるで大学の図書館のようだった。
3月に付き合い出して、ずっとホットだった二人のコーヒーも、夏を前にアイスコーヒーに変わり、コルクのコースターはグラスの雫で濡れていた。
ギシッと音を立てアポロの外に出ると、降っていた雨は止んでいた。夏の気配を感じさせる"モアッ"とした空気が勉強に疲れた二人の身体を包んだ。
「早く試験終わらないかな…」前期の試験を目前に控え、二人は毎日勉強に追われていた。「試験を乗り切れば夏休み!」そう言って励ますのは、いつも元気な遥だった。二人はアポロを後にし、折りたたみ傘を畳んでカバンに入れ、手をつないで歩いた。
アスファルトに残った雨水を弾いて走る車の音を遮って、遥が「明日もアポロに行く?」と拓人を見上げて聞いた。すると拓人は「こうも毎日アポロだと、さすがにマスターに悪いから、明日は図書館に行こっか」と話した。「そうだね。コーヒーもホットじゃないから、そんなにもたないしね。」そういうと遥と拓人は笑うと、繋いだ手の平をギュッと握り合った。
アポロから二十分ほど歩くと、二人は小高い丘の上にある遥の家の近くまで来ていた。急な上り坂と湿気の強い暑さで、拓人の背中はすっかり汗ばんでいた。そして拓人は遥を家まで送ると、今度はまたさらに駅まで一人で歩かなければならなかった。
「いつもごめんね。」と遥が言うと、拓人は「ううん、一人で考えながら歩くの好きだから」と微笑むと、「それじゃ、また明日ね」と言って雨上がりの下り坂を急いだ。
買ったばかりの携帯電話で、流行りの音楽を聴きながら歩いていく。ユサッユサッと勉強道具がたくさん入った肩掛けカバンが重かった。「そういえば…。もうすぐ遥の誕生日か…。」そう呟くと、何をプレゼントしようかと考えながら帰った。
丘から見渡す夜の街は綺麗で、曇った夜空に星が無いぶん街が輝いてみえた。耳に流れる音楽がBGMになり、目の前に広がる夜景に華を加えた。
―その時だった。
突然足元が明るくなって、拓人の影を地面に映し出した。影はみるみるうちに大きく鮮明になっていく。
「ん?」
拓人が不思議に思い、音楽の鳴るイヤホンを外して振り向いた瞬間だった。
迫り来る眩しい光と轟音に恐怖を感じて身体がすくんだ瞬間、拓人は強い衝撃音と共に宙に舞った。まるで人形の様に跳ね上げられた拓人は、無機質に地面に叩きつけられた。
静かな住宅街の中で無残に教科書が散らばり、転がったイヤホンから、流行りの音楽だけが小さく聞こえていた…。
2.諦められない想い
「啓介はそれでいいのかよ…。何もしないで諦めるのかよ?」
原田は安い焼酎を一口飲んで、煙草の煙に目を細めた。吸殻の溢れる灰皿にタバコを押し当て火を消しながら啓介を見た。諦めるも何もはじめから無理なことぐらい啓介には分かっていた。
啓介と原田、そして西野は地元が同じで中学から高校を一緒に過ごした。啓介はずっと、西野に片思いをしていた。でも、六年もの間、二人は一緒の学校に通ったが、最後まで啓介が西野に想いを告げることはなかった。そんな煮え切らない啓介の姿を、原田はずっとそばで見てきた。
その後、高校を卒業して三人は別々の大学に進学した。別々とはいえ、お互い同じ地元の大学だったから、啓介はずっと西野のことを忘れられずにいた。
そして高校卒業から二年が過ぎ、初雪が降ったばかりの頃、地元で四年ぶりの同窓会が開かれた。安さが売りの居酒屋に二十歳になった中学時代の同級生が集まった。
狭い部屋に二十名が集まり、当時の先生も交えて昔話で盛り上がった。啓介と同じ大学に行っている同級生もいれば、専門学校で美容師を目指す友人や、もう働いている同級生もいた。みんが再会を喜び四年ぶりの懐かしい時間を楽しんだ。
「聞いてんのかよ?おいっ!啓介!」と問いただす原田は酔いが回ったのか、タバコの煙のせいか細くて切れ長の目が更に細くなっていた。啓介と原田はお互いが親友と認め合う、何でも言い合える仲だった。
「連絡取ってみろよ。」
ビールを啓介に注ぎながら、「頑張ってみろよ。」と赤い顔の原田は続けた。簡単に「頑張れ」と言うけれど、西野には同じ大学に通う彼氏がいた。その噂を耳にした時はショックだったが、啓介はもう西野のことを諦めることにしていた。西野のことはもう、昔の思い出として胸の中にしまうことに決めていたのだ。
― 半年前の…あの原田からの電話を取るまでは。
今夜の同窓会から半年前のこと。原田からの一本の電話があり、啓介の気持ちは大きく揺らいだ。
「もしもし、啓介…。」
「ん?どうかした?」
「西野の彼氏が亡くなったらしいぞ。」
「え…西野って?」
「バカ!西野だよ!あの西野だよ!」
「 …。 」
「おい!啓介!聞いてんのかよ!啓介!」
彼氏は西野の自宅付近でひき逃げにあい、即死の状態だったという。
啓介は頭が真っ白になって、電話の向こうで騒ぐ原田の言葉も耳には入らなかった。
それからというもの啓介は、西野のことばかりが気掛かりだった。諦めていたはずの西野が…。
でもその時の啓介は、西野の気を引くチャンスというよりも純粋に心配していたのだった。きっと落ち込んでいる西野の力になりたいと啓介は思った。
それでも啓介は何も出来なかった。頭の中は毎日西野でいっぱいだったが、電話を掛ける勇気も自信も…啓介には無かった。そして二人の間では時間ばかりが過ぎていた。
そして今夜の同窓会。結局、啓介は西野に連絡を取れないままだった。中学から高校までの六年間、想いを告げられなかったことをあれほど後悔していたのに、大学生になった今も何も変わっていなかった。
「同窓会なんて興味ないよ。」
電話で渋る啓介だったが、「ほら!行くぞ!」と、わざわざ家まで来た原田に啓介は無理やり連れ出されて来た。
事故のショックがあって、きっと落ち込んでいる西野が同窓会に来ないことぐらい簡単に予想出来た。でも「もしかしたら」と思うと、胸がドキドキするのも事実だった。
しかし期待とは裏腹に、同窓会が始まってみんなが「乾杯!」と大騒ぎする席に西野の姿はなかった。
乾杯の掛け声もせずに、静かに一人でビールを飲む啓介は、西野が来ないことに残念な気持ちもあったが、ホッとしたのが正直な気持ちだった。もし来たとしても、なんと声を掛けたら良いのか、啓介がいくら考えても満足のいく答えは出なかった。
煙の充満した部屋の壁掛け時計を見ると、もう一次会の終わりまで十五分を切っていた。会場を見渡すと、酔いが回った同級生たちは誰一人として元の自分の席には座っていなかった。ただ一人、啓介を除いては…。
「大丈夫だって!今がチャンスだぞ!」
さらに顔を赤くした原田が会場を一周回って、再び啓介のところへ帰って来た。そして原田はしつこく西野のことを語ってきた。
「好きなんだろう?今しかないって…」
原田は急に語尾が小さくなり、首をカクッと曲げてうつむいてしまった。
「原田、おまえ飲み過ぎだって…。」
啓介がうつむいた原田の肩を揺らすと「大丈夫…大丈夫だって…」と呟くだけで顔を上げることはなかった。
田舎な地元の街中はクリスマスムード一色だった。テレビをつければ、「イヴは雪の予報です!」とローカル番組のタレントが必要以上に盛り上がっていた。
― もう事故から半年が経つ。
コップを置いて啓介は思った。「西野はもう落ち着いたかな。会ってみようかな…会ってくれるかな…。原田の言う通り、今がチャンスなのかな」手酌でビールを飲みながら、何度も考えたが答えは出なかった。
そして一次会も終わりの時間を迎え、幹事が締めの挨拶を始めた。
コップに入った水を飲み少し落ち着いた様子の原田は、山盛りになった灰皿にタバコを押し付けた。そして煮え切らない啓介を見ると、「だめだ、こりゃ」と赤い顔を横に振った。
そんな呆れた様子の原田を見ても、啓介は何も言い返せなかった。
「頑張れよ~!」
満天の星空の下、閑静な田舎町に酔っ払いの声が響き渡った。寒さに首をすくめた啓介が後ろを振り返ると、二次会に繰り出す同級生達の中で原田が白い息を吐きながら叫んでいた。
「しつこいな~」
二次会には参加せずに一人で帰るという啓介は、再び前を向くと後ろに向かって大きく手を振って応えた。不思議とあまり酔っていない啓介に、同級生の大きな声は少し照れ臭かったが、真っ直ぐな応援が心に響いて嬉しかった。
「でも…」 少し歩いてはまた、啓介は西野のことを考えたが前向きになれることはなかった。
3.ダイアリー
あの同窓会から一年以上が過ぎ、啓介はもう大学四年になっていた。他人事と思っていた「就職活動」という言葉が、十二月ともなるとさすがに現実的になって、まだ内定が取れていない啓介に重く圧し掛かっていた。
「大丈夫だよ!次があるよ!頑張ろっ!」
肩を落とす啓介の横には、健気に励ます西野がいた。
一足早く地元の企業から就職内定を勝ち取った西野が、未だ就職先が決まらない啓介を「大丈夫だよ!」と励ますのが毎日の日課になりつつあった。
啓介が悩む姿を見ることは、西野にとっても辛かったが、今こうして啓介を励ますことができる事に幸せを感じていた。
― 西野 遥。
啓介が中学の時からずっと想いを寄せていた同級生。遥は二年前、不慮の事故で当時付き合っていた彼氏、拓人を亡くしていた。
人生で最大の苦しみを味わった。辛かった…。どれだけ泣いたのか。もう思い出せなかった。ひき逃げの犯人も結局、見付からないままだったから、くやしさも悲しみもぶつける相手さえ分からず、遥はひとり心を閉ざしていた。
「もう立ち直れない、もうダメかもしれない。」そう思ってはいつも、死ぬことばかり考えていた。心療内科の病院にも通っていたが、二度目の自殺未遂を犯した時、家族は遥を入院させる決意をした。
退院してから自ら命を断とうとすることはなくなったものの、遥は学校にも行かず、家にひきこもる生活が続いていた。
もう事故がいつのことで、どれだけ自分がこんな日々を送っているのか、もう遥も分からなくなっていた。
でもそんな時…、遥を救ってくれた人がいた。それは同じ地元の同級生、啓介だった。
事故から半年が過ぎた頃にとても行く気になれない中学の同窓会があった。病院も退院して家にいた遥に、何回も同級生から携帯が鳴ったが電話に出ることはなかった。
そして欠席した同窓会の翌日の夕方、遥は偶然にも地元の小さい本屋で啓介と再会した。
「西野?」
別々の大学に進んで、二年ぶりの再会だったが啓介の優しそうな表情は、高校生の頃と何も変わっていなかった。
「啓介君…。」
全然変わらない啓介だったが、遥に昔の笑顔はなかった。深くかぶったニット帽に大きなマフラー姿という遥は、ほとんど目と鼻しか見えなかったが、そこに笑顔がないことはすぐに分かった。
母親に頼まれたという牛乳と卵をスーパーのレジ袋に入れて、遥は本屋の入り口に作ってあった来年の日記・ダイアリー帳のコーナーにひとり立っていた。
「凄い種類の手帳だね。」
一つの分厚い手帳を手にとった啓介は手帳を見たまま言った。
「でも、俺には必要ないかな。な~んにも書く予定なんかないしね。」
パラパラと手帳をめくると、再び啓介は棚に手帳を戻した。
「私も…。」
遥は呟くと、薄くて安そうな手帳を手に取った。
「でも…。また何か書き込みたいな…。」
そう言うと遥はうつむいたまま、とても女の子らしいとは言えない薄い手帳を強く握った。
「そうだね…。西野、俺もその手帳を買おっかな。」
棚から同じ手帳を取り上げた啓介は、優しい笑顔で遥を見た。
「うん…。」
そう遥が言った後、二人の間には少しの沈黙が訪れた。啓介も必死に言葉を考えたが、何を話していいのか分からず、考えても考えても次の言葉が出てこなかった。
「啓介君、私…もう行くね。」
マフラーに顔をうずめたままの遥は啓介が「うん」と頷いたのも聞かずに、手にした手帳を持ってレジに向かった。
「また…話せるかな?」
「うん。」
レジで支払いを済ませた遥と、同じ手帳を手にした啓介は再び入り口そばのダイアリーコーナーで話した。
少しの会話だったけど、別れ際に二人は携帯電話の番号を交換して小さい本屋を後にした。
お揃いの手帳…。その中年の男性が使うような薄い手帳に、二人が初めて書き込んだのがお互いの連絡先となった。
本屋を出るともう暗くなっていて、風が冷たく少しの雪が降っていた。「家の近くまで送るよ…。」と言う啓介だったが、遥は黙って首を横に振った。
その様子に啓介はとっさに、彼氏の事故が遥を送った帰りだったことを思い出すと、遥の気持ちを汲んで、ただ「そっか…。」とだけ返し、送ることはしなかった。
そして窓の曇った本屋の前で、寒そうに歩く遥の後ろ姿を見送った。
それから間もなくして、二人は毎日のように電話で話すようになった。何を話すわけでもなく、啓介は遥に電話をかけた。そして季節は冬から春になる頃、遥からも啓介に電話を掛けるようになっていた。
心を閉ざしていた遥を、携帯から聴こえてくる啓介の優しい声は、ゆっくり…ゆっくりと開いて、深い傷を負った心を癒していった。
来る日も来る日も、啓介は遥の苦しみを全て受け止めた。傷ついた遥の気持ちを理解するように努めた。
長い期間、家にひきこもる遥に対し、家族さえもが「いい加減にしっかりしなさい!」と言ってしまう中、啓介は我慢強く慌てることは一切なかった。
― もちろん全てが順調というわけではなかった。
公園に二人でいると突然、遥の中に死んだ拓人のことが蘇っては泣き出し、取り乱したこともあった。
「ごめんね、ごめんね…」と泣き続ける遥の震える肩に、啓介が「西野…」と、そっと触れると「触らないでよ!あなたは分からないでしょ!」とキツい口調で怒鳴った。
「あなたには関係ないでしょ!」の言葉がどれだけ啓介を傷付けただろう。優しさが嬉しいはずなのに、遥はどうしても素直になれなかった。
でも自分でも分かっていた。自分の辛さに啓介を巻き込んでいる自分が嫌いで、啓介と距離を置こうとしたこともあった。
― でも啓介は離れなかった。どんな時も啓介は遥を受け止めてくれた。
そして一年が過ぎた。時間は掛かったが、遥はなんとか立ち直ることが出来た。病院から処方される薬も随分と減って大学にも復学することができ、毎日元気に通うことが出来ていた。
そして遥の心は、啓介と一緒にいた。
一年の時を経て、遥は啓介の優しさに身を委ねることが出来ていた。優しさを素直に受け入れることが出来るようになっていた。そして優しい啓介の前に、拓人のことも忘れられようとしていた。
「たくさん迷惑を掛けた」と、何度も啓介の前から去ろうした。
「私といない方が、啓介はきっと幸せになれる。」と、ひとり悩んでいる時さえも啓介はそっと現れては、優しく遥の肩を抱いてくれた。
― どんな時も優しかった。私の全てを受け止めてくれた。啓介だったら…。
そしていつしか、二人であの日に買ったお揃いの薄い手帳には、二人で一緒に計画した予定ばかりが書かれていた。
4.電話の向こうの静けさ
すっかり立ち直った遥の前には今、就職が決まらずに肩を落とす啓介がいる。遥は「今こそ自分が力にならないと…今度は私が…」と強く思った。
クリスマスを前にした今夜、遥は啓介を家に招待して手料理を振舞うことにしていた。午前中に二人で会うと、上映が始まったばかりの映画を観に行った。啓介はアニメが苦手だったが、遥の希望で日本のアニメ映画を観に行った。
大型の複合映画館が流行る中、地元の商店街にある昔ながらの小さな映画館が遥は好きだった。近くのカフェで時間を合わせた後、二人は前売り券を持って映画館へと賑やかなアーケードを急いだ。
「面白かったでしょ?」
映画館から出てきた遥が、啓介の腕に抱きついて話した。
「ん…あ、ああ。」
映画の終盤で眠ってしまっていたことを、啓介は黙っていることにした。
「ああ~!面白くなかったんでしょっ!」
遥の大きな声も、クリスマスソングの流れるアーケードの中では埋もれてしまった。
「今夜、待ってるね。」そう言うと遥は、啓介が持ってくれていた自分のバックを勢いよく取った。そして振り返ると「私、先に帰るね。いろいろと買出しもあるから。楽しみにしててね!」と指きりのポーズをして走り出し、啓介と街で別れた。
いつもの感謝の気持ちを込めて、遥は何日も前から今夜のメニューを考えた。今夜のためにと、インターネットや本屋で啓介の好みに合うようなメニューとレシピを探した。
街から徒歩の帰り道、遥は地元のスーパーに寄って、たくさんの食材を買い込んだ。「今夜はパスタにしよう、ちょっと高いワインも買ってビックリさせてあげよう。」そう思うと胸が躍った。
スーパーを出ると冬の冷たい風が顔に吹き付け、とても寒かった。さっきまでは昼の日差しが暖かかったのに、吹き付けた冷たい風は、すぐそこまできている冬の気配を感じさせていた。遥は買い物袋を地面に一旦置いて首にマフラーを巻くと、首をすくめて家路を急いだ。
「ね…啓介。」
映画館のある街から大学へ向かう車の中で啓介が電話に出ると、それは街で別れたばかりの遥だった。電話越しに聴こえてくる遥の声は小さく、少し元気がないように感じられた。啓介は遥の様子がおかしいなと思うと、運転する車を路肩に停めてハザードランプを点滅させた。
「どうした、遥。もう家に着いた?」
啓介は街で別れた時とのテンションの変わり様を心配して聞いた。
「ううん、まだ…でも、もうすぐ家に着くよ。それよりさ…、前に啓介は車を持ってるって言っていたよね。」
遥は小さく元気のない声のままで聞いた。
「ああ…。持ってるよ。どうしたんだよ、突然。それがどうかした?」
思いもしない質問に、啓介はキョトンとして答えた。
「ううん…そういえば私、啓介の車を見たことないなって思って。」
まるで感情の入っていないような遥の言葉は続く。
「そりゃそうだよ。だって…ほら、遥は車に乗りたくないって言ってたから。」
遥は拓人の事故以来「車が嫌い」が口癖で、啓介も遥に車を見せるどころか、車の話しさえ、これまで避けてきたのだった。
「なぁ遥、本当にどうしたんだよ。」
啓介は遥が嫌いな車の話しをしてくることに驚いて聞いた。
「ううん、ちょっと気になって。啓介の車を見てみたいな…って。」
遥は小さい声で話しを続ける。
「もちろん、いいよ。そうだ…車を見てさ、もしも遥の気が向いたらドライブにでも行ってみよっか。」
遥が事故の呪縛から一歩踏み出す"きっかけ"になれるかなと思い、啓介は思い切って聞いてみた。すると電話の向こう側から、小さい声で「…うん。」と聴こえた。
啓介と出会ってから1年。少しずつではあるけど、遥も事故から立ち上がり前を向こうとしていた。啓介はそんな遥が嬉しかった。
「でもさ、遥。俺の車は今、修理中なんだよ。」
そう答えると啓介は、車のハザードランプを押して点滅を止めると、キーを回してエンジンを切った。
「修理中って…どうかしたの?」
小さな遥の声の後ろでは風の音が、ビュービューと鳴っていた。
「ああ…うん、少しエンジンの調子が悪くてね。」
啓介はルームミラーで、自分を追い抜いていく車を目で追いながら話した。
「…そうなんだ。」
そう言った遥が黙ってしまうと、啓介の耳には風の音しか入ってこなかった。
「ね、啓介。」
少しの間の後、遥がゆっくりと話し始めた。
「ん?」
啓介の目が耳に当てた携帯の方を向く。
「私、今夜家で待ってるからね。早く来てね。」
とてもゆっくりした口調は、やっぱり元気がないように思えた。
「ああ、ちょっと大学の就職課に顔を出してからすぐ行くよ。」
啓介が車道を見ると、路肩に停めた啓介の車を邪魔そうに抜いていく運転手と目が合った。
遥の様子が気にはなったが、啓介には就職課から連絡があり、どうしてもいかなければならなかった。電話を切り携帯を折りたたんだ啓介は、エンジンをかけてウインカーを右に出すと、ドアミラーで後方を確認してアクセルを踏み大学へと急いだ。
風の冷たい丘の坂道で、遥は携帯をカバンの中へしまった。そして振り返り、丘のふもとに広がる街並みを見下ろした。すると遥の顔を眩しい夕日が照らして思わず遥は目を細めた。
眩しい夕日に手をかざした遥の手には、小さなライトのようなシルバーのキーホルダーがあった。そしてキーホルダーを握る拳からは、先の切れた細いチェーンがはみ出し、遥の顔の前でぶらぶらと揺れていた。
5.メッセージ
「私、先に帰るね。いろいろと買出しもあるから。楽しみにしててね!」
昔ながらの小さな映画館でアニメ映画を観た後、啓介と別れた遥は帰り道にあるスーパーに寄って食材を買い込んだ。そしてスーパーを出ると両手に買い物袋を下げて長い坂道を上った。
いつもの歩き慣れた坂道のはずなのに、今日は一歩一歩が重かった。肩に掛けたバックやトマトのホール缶、そして白ワインの瓶が重く圧し掛かった。
「ちょっと…休憩!」
息を切らしながら呟くと、両手の袋を地面に下ろした。さっきまではあんなに寒かったのに、身体はもうポカポカと温まっていた。
小高い丘からは、夕日に染まった街を見下ろすことが出来た。
「綺麗…。」息も落ち着いた遥は、絶好の景色に思わず呟いた。
「そうだ、お茶を飲もう。」
肩にかけたバックからお気に入りのタンブラーを取り出しフタを開けようとした。
― その時だった。
フタをひねろうとした拍子にバックから携帯電話が落ちて、坂道の歩道に転がった。
それは拓人の携帯だった。
「え…?」
― 部屋の引き出しに、しまっておいたはずなのに。
「どうして…」
タンブラーをカバンに戻して、歩道に転がった傷だらけの携帯を拾い上げた。遥はバラけた髪を耳に掛けて、手にした電源の入らない携帯を見つめた。
「拓人…。」
― 次の瞬間。
まるで頭に雷が落ちたかのような頭痛が激しく走り、目の前が真っ暗になった。そして遥は歩道にひざをついて、そのままゆっくりと倒れた。
気が付くと遥は薄暗い雨の中に一人、歩道に立っていた。下を見ると目の前にはガードレールがあり、その先の道路では多くの車が行き交っていた。
目の前に広がる景色は自宅近くの閑静な坂道ではなくっていて、そこは大きなビルに囲まれたビジネス街のようだった。
遥は耳に掛けたはずの髪もバラバラになり、全身がずぶ濡れだった。それでもなぜか全然寒くなかった、真冬のはずなのに。
― ここはどこだろう…。
雨に顔を濡らしながら、薄暗い空を見上げると、空は灰色の雨雲で覆われていた。遥は太陽を見付けられなかったが、直感で夕方だと思った。歩道を歩く多くの人はきっと帰宅途中の会社員だと思った。笑顔のない大人達が傘を差して、窮屈そうに歩道を行き交っていた。
でも遥は不思議なことに気が付いた。
濡れた道路を水しぶきを上げて走る車の音、街に響くバスのクラクション、路面電車のゴトゴトという車輪の音、そして雨の降る音や水たまりを歩く音。
そこにあるはずの夕方の街の音が、とても遠くに聴こえた。頭の奥で響くだけで、騒がしいはずの光景がとても静かだった。
― 啓介…?
少し先の歩道に遥は啓介の横顔を見た。ずぶ濡れだった。
― なんで…? 啓介…。 間違いない…。 あれは啓介…。
歩道に立つ啓介は多くの傘で混雑する中、何処かを見つめていた。歩道を歩く人が迷惑そうに、すれ違いざまに立ち尽くす啓介をにらみながら歩いていた。
そしてずぶ濡れで立つ啓介の視線の先を追うと…、そこには小さな喫茶店があった。
― それは遥と拓人がよく通った店「アポロ」だった。
雨、傘、夕方、アポロ…。
どこかで見たような光景を前に、「まさか…」と思った遥は、恐る恐る喫茶店の中を覗いた。すると曇った木枠の窓の向こうには、確かに…あの時の二人がいた。
― 拓人… そして 私も…。
「な…なんで!?」
遥は叫んだ。目の前の世界に、「なんで!?」と繰り返した。でも、声は出なかった。身体も動かず音も遠かった。
無音の中を人の波が遥を追い越して行く。アポロの中で笑顔の拓人… 私…。そしてずぶ濡れの啓介…。
遥は雨に濡れた顔を拭うことも忘れて、呆然と立ち尽くしていた。
するとまた、突然目の前が暗くなった。
遥は閉じた目をゆっくり開けると、もう辺りは夜になっていた。遥はあの丘の坂道に座っていて、濡れていたはずの身体は、まるで嘘かのようにすっかり乾いていた。
― 夢だった…?
乾いた服から目を離すと、手にしていたはずの拓人の携帯は無くなっていた。遥は自分の手のひらを見つめながら、夢だったんだ…と胸を撫で下ろした。
― でも…何だったんだろう。 拓人…。 私に何か言いたいの?
遥は手のひらを握り締めて、ひとり呟いた。
するとその時、静けさの漂う閑静な住宅街に、重くて鈍い衝撃音が響き渡ると、甲高くて大きいブレーキ音が、遥の耳の奥に鋭く突き刺さった。
突然の音に驚いた遥は、座ったまま慌てて振り返った。すると遥よりも少し上の坂道に、赤いスポーツカーが停まっていた。
ライトの眩しさに手をかざして見ると、車の後ろには、男の人が倒れているのが分かった。そして周囲にはカバンや散乱した本などが見えた。
「そんな…。」
遥は呆然と座ったまま、息をするのも忘れて見ていた。
すると車のドアが開き、運転席からゆっくりと、慌てる様子もない男が降りてきた。
黒っぽいジーンズに、白いシャツを着た男。雨にでもうたれたのだろうか、男の髪の毛やシャツは濡れていた。そして男が周囲を見渡した時、遥はそれが誰なのか分かった。
― 啓介…。
目を疑う光景に背筋が凍る…。そして遥は視線を落として、道路に横たわる男の人を見た。
― 拓人…。
静かな住宅街に転がった、拓人のイヤホンから遥のところまで音楽が聞こえた。それは懐かしい音楽だった。
二年前、拓人の葬儀が終わった後、拓人のお母さんが遥へ「きっと拓人は、遥ちゃんにと言うと思うから。」と、力のない手で拓人の携帯を渡された。
その中にあった懐かしい音楽。遥はバッテリーが壊れるまで、毎日聴いては泣いていた。忘れられない音楽だった。
そして今… 目の前に拓人が倒れている。
道路に横たわる拓人の身体の下から、どんどんと血が滲み出てくる。ピクリとも動かない拓人が、絶望的なのは明らかだった。
そんな拓人の横に立ち、無言で見下ろす啓介は遥が知っている優しい啓介とは、まるで別人の様だった。顔には表情がなく、拓人を助ける様子もなかった。
「そんな… 啓介… 拓人… 。」
ほんの少しだが声が出て、遥の頬を涙が流れた。
信じていた啓介が拓人を殺した犯人だった…。遥は曇った夜空を見上げ「こんなの…。」と呟いた。
何もなかったように啓介は、車のドアを開けて乗り込んだその時だった…。
啓介の腰からズボンのポケットにかけて垂れ下げていたチェーンから、何かが外れてコロコロと転がった。それは横たわる拓人のそばまで転がると、小さくて青白い光を遥の方に向けて放っていた。
それに気付かない啓介は、重い音を立ててドアを閉めると、低くてドスの効いたマフラーの音を響かせて、立ち去って行った。
雨上がりの湿った空気の中、電灯の照らす歩道で呆然とする遥からは、もうどんな表情も消えていた。
気が付くと夕日が眩しかった。遥は冬の歩道に座っていて、重い買い物袋に囲まれていた。顔に当たる冷たい風と、手にしたタンブラーから出るお茶の香りと湯気を感じて、遥は現実に戻ったのだと思った。
遥はお茶を口にしないまま、タンブラーのフタを閉め夕日に照らされた街を見た。そして振り返って事故の現場に目をやり、「拓人…」と呟いた。
そして遥がタンブラーをカバンに戻して、立ち上がった時だった。遥は硬い何かを靴のかかとで踏んだことに気付いたと同時に、慌てて足元を浮かせた。するとそこにはキーホルダー式の小さいライトがあった。それは銀色の筒状で、切れた細いチェーンがぶら下がっていた。
髪を耳に掛け、キーホルダーを拾うために伸ばした遥の手は震えていた。そしてキーホルダーを手にした瞬間、きっとこれは夜に鍵穴などを照らす為の道具だろうと思った。
そして遥は、数分前に見たあの夢の光景を思い出した。きっとこのキーホルダーは拓人の事故の現場で、あの「犯人」が落とした物に違いないと思った。
拾い上げたキーホルダーには血のついたような跡があった。赤茶色に汚れた本体をよく見ると、そこには「I.KEISUKE EXCITERS CLUB MEMBER」と彫ってあった。
「啓介…。」
やはりこのキーホルダーは、「啓介」があの時…現場を立ち去る時に落としたキーホルダーだと遥は確信した。
遥は丘から見える夕日を見ると、眩しさに目を細めた。そしてキーホルダーを握り締めて「拓人…あなたなの…」と小さく呟くと、頬を一滴の涙が流れた。
「西野?」
「凄い種類の手帳だね。」
「そうだね…。西野、俺もその手帳を買おっかな。」
「また…話せるかな?」
― 全て仕組まれていた。
あの事故も本屋での再会も、偶然などではなく全て必然だった。啓介は「いい人」を演じ続け、落ち込んだ遥の気持ちを意のままに操っていたのだ。
拓人からのメッセージに、キーホルダーを持つ遥の手に力が入った。でもそこには、事実を受け入れられない自分もいた。事実を理解しつつも、遥は複雑な気持ちに襲われていた。
遥が事故のショックから立ち直ったのは、紛れも無く啓介の優しさだった。啓介が支えてくれたお陰で元気になれた。長い間、啓介を信じ続け、強く抱いていた感謝の気持ち全てが消え去ることはなく、目の前の事実を受け入れることを拒み続けた。
夕日に照らされた町を眺め自問自答を繰り返す遥は、顔に吹き付ける冷たい風も今は気にならなかった。すると遥は肩に掛けたカバンから自分の携帯電話を取り出すと、しばらく目を閉じて何度も深呼吸をした。そしてゆっくり目を開くと、意を決したかのように携帯を開いて、そっと耳に当てた。
「はい、もしもし。」
電話の向こうは、いつものように優しい声の啓介だった。
「ね…啓介。」
遥は目を閉じて話した。
「どうした、遥。もう家に着いた?」
携帯を肩にでも挟んでいるのか、遥の耳には啓介の言葉と一緒に、近くて大きい雑音が入ってくる。
「 ね…啓介は前に車を持ってるって言ってたよね…。」
目を閉じたまま、遥はゆっくりと話した。
「ああ…、でも今は修理中なんだ。」
そう応えた啓介の電話からは、さっきまでの聞こえていた雑音は消え、啓介の声だけが静けさの中響いていた。
― 修理中…?
それじゃ、この電話は何処で話しているの?耳に入ってくる音から、そこが外じゃないことぐらい分かった。
きっと啓介は嘘をついている。映画館から学校まで直接行く路線バスはない。とても歩いて行ける距離じゃない…。きっと啓介は車を運転しているはず。さっきの近くて大きな雑音は、きっとエンジンの音に違いない。
「待ってるね。」と言い、啓介との通話を終わらせると携帯をカバンに戻した。でもこの電話だけで啓介を犯人に決め付けることは出来なかった。しかし、啓介に対して疑いの念は強くなる一方だった。
― そして遥は、混乱と葛藤の中にいた。
もしもあの優しさが全て、仕組まれていたのなら啓介は感謝するべき人間ではなく、憎むべき人間なのだ。遥はキーホルダーを握り締めて、自分に言い聞かせ続けた。
遥を照らす十二月の夕日は美しく短かった。夕日の暖かさも消え、あっという間に辺りは薄暗くなった。
坂道を上ることでポカポカしていた身体もすっかり冷め、顔に吹き付ける冷たい冬の風に首をすくめた。手にしたキーホルダーをカバンにしまうと、重い買い物袋を両手に抱えた。そして遥は再び事故現場に目をやると、少しの間だけ遥は目を閉じた。そして小さく頷くと、再び丘の上にある自宅を目指して歩き始めた。
6.真実の後に
「ピンポーン」
玄関のチャイムが響き渡った。大学の就職課に行っていた啓介が、遥の手料理を食べるために約束の時間にやってきた。
「はーい。」
エプロン姿の遥はパタパタとスリッパの音を立て、いつものように明るく返事をした。家の中では、レシピ通りに作ったクリームソースの香りが広がっていた。
啓介を迎えるために、エプロンで手を拭きながら台所を後にした。
そして遥は歩きながら、玄関までの廊下がいつもより長いように感じていた。
遥の自宅は同居している両親が不在だった。いつもの賑やかな自宅と違って、今日は静けさが漂っていた。
「お~寒かった~!」
啓介が玄関に入ると暖かい空気が、身体を包み込んだ。
「寒かったでしょ、入って入って!」
そう言うと、遥は玄関のドアを閉めて後ろ手にカギをした。
「電車で来たの?」
遥は啓介の脱いだ靴を並べながら聞いた。
「ああ…大学からそのまま電車に乗ってきたよ。なんで?」
ネックウォーマーをカバンにしまいながら、頬を赤くした啓介が答えた。
「ううん、別に意味はないよ。駅からここまで歩いたのなら寒かっただろうなぁって思って。」
遥は髪を耳に掛けて、家族の靴を玄関の隅に移して整理をしながら続けた。
「遥、料理がんばった?」
玄関にまで広がる美味しそうなクリームソースの香りに、啓介は嬉しそうに遥に聞いてみた。
「うん、口に合うといいな。」遥は啓介の背中を軽く押しながら、可愛く言ってみせた。
「とりあえず座ってよ。」
暖房のついた暖かいリビングに入って遥が言うと、啓介はジャンバーを遥に預けてソファーへと向かった。その後ろ姿を見て遥は一瞬立ち止まったが、すぐにジャンバーを掛けると台所へ向かった。
「これを飲んで待っててね。」
遥は食前酒と言って、買ってきた白ワインを出した。以前、医者から処方された睡眠薬を混ぜて…。
「お~!スゴい!」驚いた啓介はソファーから立ち上がり、準備の整ったテーブルの席についた。
遥は幸せそうな顔をして「美味しい!」と飲む啓介を見ていた。そして台所で包丁を握る手に力が入って震えた。
それから二人で食事をした。何日も考えたパスタを啓介は「美味しい」と言って食べた。「今夜ぐらい就職の話は無しにしよう」と啓介は微笑んで話した。遥も「そうだね」と微笑んで、ワインを啓介のグラスに注いだ。
啓介にとって幸せな時間は、あっという間に1時間が過ぎた。作った料理も全て食べて、啓介は「美味しかったよ」とフォークを置いた。そして最後に残りのワインを一口で飲みグラスを置くと、啓介は「眠くなった」と言い出した。それを見た遥は立ち上がり、「先に食器を洗うね」と言うと、席を外して台所へ向かった。
遥は皿やコップなどが当たる音と蛇口がら出る水の音と共に食器を洗った。リビングが見渡せる対面キッチンで十分ほど食器を洗うと、遥は水道を止めて啓介が横になるのを見届けた。
「憎しみの気持ちだけで、思い切りナイフを突き刺してやりたい。」遥はシンクに手をついて強く拳を握り締めた。
「はぁ…。」
遥はため息をつくと、シンクから両手を離し「やっぱり私には出来ない…」と思った。今までの優しさがたとえ嘘であったとしても、スヤスヤと眠る姿を見ると自分の手で、啓介の命を絶つことは出来なかった。
遥は横になって眠る啓介のところまで行き、ワインで赤くなった顔を見下ろした。その幸せそうな寝顔を見ると、夕方に見た事故直後の表情が嘘のようだった。
遥が啓介のズボンから財布を取り出すと、財布には「EXCITERS CLUB」という大きなステッカーが貼ってあった。
「EXCITERS CLUB」…キーホルダーに彫ってあった言葉と同じだとすぐに気が付いたが、遥はしばらく目を閉じて気持ちを落ち着かせた。
深く息を吸って目を開けると、再び啓介に目をやった。そして今度は財布からベルトまで続く大きなチェーンを辿った。チェーンには財布の他に多くのカギやキーホルダーが付いていた。
遥は胸の鼓動が高鳴るのを感じながら、キーホルダーを一つずつ確認した。
― そして遥は見付けた。
鍵やキーホルダー、それにエンジンスターターのリモコンといった中に、キーホルダーも何も付いていない細いチェーンが、1本だけ寂しくぶら下がっていたのだった。
遥は息を呑み込みながら、エプロンのポケットから坂道で見付けた小さいキーホルダーを取り出すと、二つのチェーンを合わせてみた。
― 違っていて欲しい…。
遥は絶望にも似た確信を感じながらも、何かの間違いであって欲しいと祈った。
…しかし。
そんな遥の願いも虚しく先の切れた互いのチェーンは太さも形状もピッタリと一致してしまった。
キーホルダーを持つ手は震えていた。目を閉じた遥は目の前の現実を必死に受け入れようとしていた。
― 拓人からのメッセージは真実だった。
遥は震える手に力を入れて、キーホルダーを握り締めると、啓介のズボンのポケットにそっと入れた。
ソファーに座った遥は、自分が残したワインをため息と共に一口飲んだ。そしてグラスをテーブルに置くと、リモコンでテレビを消した。
拓人は今、天国でどんな気持ちなんだろう。どんな気持ちで今まで私を見てきたのだろう。
― ごめんね…、ごめんね…拓人。
そう思うと遥は涙が止まらなかった。両手で自分の顔を抑えると、遥は声を出して泣き続けた。
5分ほどした頃、遥は落ち着いたのか泣き止んで立ち上がった。そして、目を真っ赤にした遥は、髪を耳に掛けて台所へ戻った。
「いいよ…入って。」
遥はリビングのドアを少しだけ開けると、暗い廊下に向かって小さく声を掛けた。
「ああ…。」
低い声がテレビの消えた静かなリビングに響いた後、一人の男がゆっくりと入ってきた。
がっちりした体格の男は、両手に軍手をはめていた。右手には太いロープが巻きつけてあり、左手でロープの先端を持っていた。
― その男とは、原田だった。
啓介の親友である同級生の原田は、黒い帽子を深く被り、アゴには無精ひげが生えていた。いつもの明るい性格が、まるで嘘かのように物静かで暗い顔をしていた。
台所の前を通る原田とすれ違いざまに目が合うと、遥は黙って頷き、原田も黙って頷いた。
― 遥に想いを寄せる原田は、彼女のいいなりも同然だった。
今から二年ほど前、遥と啓介が本屋で再会を果たし、少しずつ親しくなっていった頃、三人はよく一緒に遊んだ。いつも元気で活発な原田は、大人しい啓介と遥を盛り上げた。
そして恋のキューピット役を買って出た原田は、宣言通り啓介と遥の間を取り持ったのだった。
しかし原田は間も無く、キューピット役を買って出たことを後悔することになる。遥のことが気になるようになり、恋心を持つようになっていたのだ。
原田の遥に対する想いは日に日に強くなり、ついには啓介から遥を奪いたいとさえ考えるようになっていた。
遥はある日、原田に告白をされた。遥も原田のことが好きだった。啓介とはタイプの異なる原田のパワーに、いつも遥は元気をもらって笑いが耐えなかった。
啓介には秘密にして、二人で飲みに行ったこともあった。そして酔っ払った二人はその勢いで一夜を共にしたこともあった。
でも…、啓介に助けられた想いの強い遥は、原田と付き合うことはなかった。
原田も遥の気持ちを知っていたし、簡単に自分だけの彼女にするのは無理だと感じていた。でも「いつかきっと…」という気持ちが消えることはなかった。
そんな複雑な関係がもう1年になろうとしていた。
― 数時間前。
夕日の照りつけるあの坂道で、拓人からのメッセージを受け取った遥は決心をした。そして遥は原田に電話をして「啓介を殺して」と頼んだ。
― 「啓介がいなくなったら、一緒になろう」と言って。
遥にとって、原田を操るのは簡単だった。そして遥を自分のものにしたい原田は喜んでそれを引き受けた。「これで遥と一緒になれる。」と信じていたのだ。
自分の手を掛けずに、啓介を殺すことが出来る方法を探した遥にとって、原田は打ってつけの存在だった。全てを終わらせたい一心の遥は、原田とのその後のことなど何も考えていなかった。
原田は横になる啓介に近づいて膝をつき、啓介の顔にタオルをかぶせた。そしてロープを首に掛けると、左手にもロープを巻きつけた。
そして両手に力を入れる前に、もう一度原田は遥を見て大きく深呼吸をした。
原田が再び啓介に目を降ろした瞬間、意を決したと感じた遥は、二人に背を向けリビングの外に出た。
ドアを背にして、遥は暗い廊下に立ち尽くした。廊下にはガラス戸から漏れるリビングの明かりが遥の影を映し出していた。
「拓人、これでいいんだよね。」そう呟くと、遥はそっと目を閉じた。
そして…原田の「終わったよ」と言う低い声が聞こえると、何故か遥はニヤけた笑いが止まらなくなった。
廊下に映る遥の大きな影は、肩が小さく上下に揺れていた。
「…って、もぉ~何よこれ! 超ぉ~!恐いじゃん!」
遥の大きい声が、ジャズのBGMが流れる静かなアポロの店内に響いた。
「ああ~!もう~!声が大きいって!」慌てた拓人が、人差し指を口に当てて興奮する遥をなだめた。
「しかも、何で主人公が私と同じ【遥】って名前なのよ!私ってそんなに恐い!?」
嫌味のように遥は小声で怒鳴ると、拓人が書いた小説の原稿を突き返した。
「もう!フィクションだよ!考え過ぎだって!」つられた拓人も小声で言い返してコーヒーを置いくと、テーブルの上に投げられた原稿を取り上げた。
「いい出来だと思うけどなぁ。」
パラパラと原稿をめくりながら、拓人はまたコーヒーを一口飲んだ。
「も~う!勉強もしないで!テスト前なんだよ!」
と遥は教科書を開いてシャーペンをカチカチと鳴らしながら言った。
「分かったよ、もう…。」
拓人は残念そうに原稿をカバンに入れると、渋々教科書を開いてペンを握った。
木枠の窓は曇り、降り続く外の雨はまだ止みそうになかった。
7.ひかり
雨の止んだアポロからの帰り道、二人は濡れたアスファルトを眺め、毎日のように続く夕立に少し早い夏の気配を感じていた。
手をつないだまま水たまりを飛び越える遥に、手を引っ張られた拓人は、「あぶないよ!」と言って、ズレた肩掛けカバンを肩に掛け直した。
「ねぇ、ほら夜景がきれいだよ!」
手を離した遥は小高い丘にある急な坂道の歩道で立ち止まって、「ほら、こっちにおいでよ拓人!」と手を振った。
「なぁ、遥…。」
足元を見たまま拓人はつぶやいた。
「ん?なぁに?」
遥が振り向いて、風で乱れた髪を耳に掛けながら拓人に聞いた。
「もし俺が死んだら、小説みたいに落ち込んでくれる?」
恋人同士によく有りがちな、ほのぼのとした質問も心配性の拓人は、遥の答えに自信がなく楽しい気持ちでは聞けなかった。
「う~ん、どうだろう…」
再び拓人に背を向けて、夜景を見ながら遥は小さい声で言った。「え…。」拓人は思ってもいない反応に少し驚いて、思わず声が出た。
すると遥が振り向いて、髪を耳に掛けながら笑顔で言った。
「も~!当たり前でしょ!」
遥は走り出し、すぐそばの自宅前まで行くと、振り返って「もっと素敵な小説書いて!お金持ちになってよ~!」と笑った。そして「じゃ~ね!」と笑顔で手を振ると、拓人は照れ臭そうに手を振って応えた。
最後に投げキッスのゼスチャーをした遥が、家に入るのを見届けると、拓人は今来た道を、再び駅に向かって歩き始めた。
― いつも中途半端だよね。
少し前にささいな事で口喧嘩をした時、遥に言われた言葉を拓人は忘れられなかった。
夢ばかりを語る拓人に、遥が呟いた「もういいよ、いつも口ばっかりなんだから。」という言葉。そんな言葉に拓人は言い返す言葉もなく落ち込んだ。…ずっとそう思っていたんだ、と。
でも言われてみればそうだった。机の上で語るだけで、結局自分は何も動いていない。遥がいつでも話を聞いてくれるから、少し「お喋り」になっていた自分に気付いて…拓人は悔いた。
― このままじゃいけない。
「だから小説だけは完成させたい、世間が認めてくれるような立派な作品を書いて、きっと遥を見返してやりたい」そう心に誓ったことがあった。
拓人は歩きながら、あの日のことを思い出していた。「中途半端ね」という言葉を思い出すことで、拓人はいつも士気を高めていた。
早く帰ってペンを取りたい…今は試験勉強なんかよりも小説を書きたい。そう思うとやる気が溢れ、胸が高鳴った。今回の小説は遥にダメ出しされたけど、拓人の中にはすでに次に執筆する小説のアイデアもあった。
夜空は曇っていたが、拓人の目は希望に輝いていた。買ったばかりの携帯にイヤホンをはめて流行りの音楽を聴き、目の前に広がる街の夜景を見ながら歩いた。夕方までの雨で濡れたアスファルトを滑らないように注意しながら。
すると突然、拓人の足元が急に明るくなった。
後方から拓人を照らす光は、湿ったアスファルトに拓人の影を映し出した。そして影はみるみるうちに大きく鮮明になっていく…。
拓人はイヤホンを外して振り向くと、耳には迫り来るエンジンの轟音が飛び込んできた。
そして、振り向き様に眩しい車のライトに手をかざすと、拓人は呟いた…。
「ウソだろ…。」
おしまい




