『明日が来なかった町』
その町では、毎年十月十三日が二度やって来る。
誰も不思議には思わなかった。
十三日の翌朝、カレンダーは十三日のままで、テレビのニュースも昨日と同じ日付を告げる。ただし、昨日と同じ事件が起こるわけではない。天気も違えば、電車の遅延も違う。人々は昨日食べたものを覚えているし、昨日喧嘩した夫婦は気まずいまま朝食を取る。
ただ、日付だけが進まない。
それがこの町の決まりだった。
僕がそのことを知ったのは、父の葬式の日だった。
「お父さん、明日になったら帰ってくる?」
妹の美咲がそう聞いたとき、母は何も答えなかった。
僕は十一歳で、美咲は六歳だった。
父は町外れの製材所で働いていた。仕事中に倒れ、そのまま帰ってこなかった。大人たちは心臓がどうとか、発見が遅れたとか話していたけれど、僕にはよく分からなかった。
葬式が終わったのは十月十三日だった。
その夜、母は仏壇の前に座り、父の写真を見ていた。
「お母さん」
「なに」
「明日になったら、少しは悲しくなくなるかな」
母はしばらく黙っていた。
「どうだろうね」
それから、僕の頭を一度だけ撫でた。
「明日になってみないと、分からないね」
ところが、明日は来なかった。
朝起きると、台所のカレンダーは十月十三日だった。
僕は母がめくり忘れたのだと思った。
テレビをつけた。
『おはようございます。十月十三日、火曜日の朝です』
昨日も火曜日だった。
母は驚きもしなかった。
「今日は二回目の十三日だから、学校はお休みよ」
「二回目?」
「そう。この町はね、十三日が二回あるの」
「どうして?」
母は味噌汁の火を止めた。
「昔からそうなの」
大人というものは、説明できないことを何でも昔からそうだと言って済ませる。
僕はそれが嫌いだった。
二回目の十三日は、妙に静かだった。
学校は休みで、商店街の半分はシャッターを下ろしていた。バスは走っていたが、乗客は一人もいなかった。
僕は美咲を連れて川へ行った。
父が生きていた頃、よく魚釣りをした場所だった。
「お兄ちゃん」
「なに」
「昨日のお父さんのお葬式、もう一回やるの?」
「やらないよ」
「じゃあ、昨日とは違う十三日なんだね」
「そうだな」
美咲は川面を眺めていた。
「だったら、お父さんが生きてる十三日も、どこかにあるかな」
僕は答えられなかった。
そのとき、背後から声がした。
「あるよ」
振り向くと、見知らぬ老人が立っていた。
灰色の作業着に、泥のついた長靴。片手に古びた革鞄を提げていた。
「どこに?」
美咲が聞いた。
老人は川の向こうを指差した。
「あの橋を渡った先だ」
そこには橋などなかった。
少なくとも、僕が知る限りでは。
だが老人が指差した場所をよく見ると、確かに橋があった。
赤く錆びた、小さな鉄橋だった。
「昨日まではなかった」
僕が言うと、老人は笑った。
「昨日は必要なかったからな」
「どういう意味?」
「二回目の十三日には、普段は見えないものが見える。会えない人にも会える。ただし、向こうに行けるのは一人だけだ」
老人は僕と美咲を交互に見た。
「それから、日が暮れる前に帰らなければならん」
美咲は僕の袖を引いた。
「お兄ちゃん、お父さんに会いに行こう」
僕は橋を見つめた。
向こう岸には、見慣れた町並みが広がっていた。
ただ一つ違っていたのは、製材所の煙突から白い煙が上がっていたことだった。
父が働いていた製材所は、事故のあと操業を停止していた。
橋を渡ったのは僕だった。
美咲は泣いたけれど、僕は必ず父の言葉を伝えると約束した。
鉄橋は思ったより長かった。
歩いても歩いても対岸が近づかず、途中で振り返ると、美咲の姿はもう見えなかった。
川の水は黒く、流れる音がしなかった。
ようやく渡り終えると、町の空気が変わった。
遠くから踏切の警報音が聞こえた。
自転車に乗った高校生が僕の横を通り過ぎた。
いつもの町だった。
ただ、商店街の時計は午前十時十三分で止まっていた。
僕は走った。
製材所までの道は覚えていた。
父が忘れ物をしたとき、母に頼まれて弁当を届けたことが何度もあった。
正門の前に着くと、材木を積んだトラックが停まっていた。
運転席から男が降りてきた。
「おい、危ないぞ。子供がこんなところで何してる」
父だった。
僕は何も言えなかった。
父は首にタオルを巻き、いつもの紺色の作業服を着ていた。
「どうした?」
僕は父に抱きついた。
汗と木屑の匂いがした。
父は困ったように笑った。
「なんだよ。今日はずいぶん甘えん坊だな」
その声を聞いた途端、涙が出た。
止めようとしても止まらなかった。
「父ちゃん」
「おう」
「死んじゃったんだよ」
父の手が止まった。
「誰が?」
「父ちゃんが」
しばらく沈黙があった。
製材所の中から機械の音が響いていた。
父は僕の肩に手を置いた。
「そうか」
それだけだった。
「驚かないの?」
「驚いてるよ」
「嘘だ」
「本当だって」
父はしゃがみ、僕と目の高さを合わせた。
「でもな、お前がそんな顔して来たんだから、きっと本当なんだろう」
僕は何度もうなずいた。
父は作業服のポケットから煙草を取り出したが、一本も吸わずにしまった。
「母ちゃんは?」
「ずっと泣いてる」
「美咲は?」
「父ちゃんに会いたがってる」
「そうか」
父は空を見上げた。
雲が一つもなかった。
「困ったなあ」
その言葉が、父らしかった。
父はいつだって、どうしようもないことが起こると、困ったなあと言った。
車が故障したときも、台風で屋根瓦が飛んだときも、美咲が庭の金魚を全部逃がしてしまったときも。
「父ちゃん、一緒に帰ろう」
僕は言った。
「橋を渡れば帰れるんだ」
父は黙っていた。
「帰ろうよ」
「それはできないな」
「どうして!」
思ったより大きな声が出た。
父は少し驚いた顔をした。
「俺は、こっちにいる人間だからな」
「そんなの関係ない!」
僕は父の腕をつかんだ。
「帰ってきてよ。母ちゃんだって、美咲だって、みんな待ってるんだよ!」
父は何も言わなかった。
僕は父を叩いた。
何度も、何度も。
父は避けなかった。
やがて僕が疲れてしまうと、父は僕の頭に手を置いた。
「悪かったな」
それは父が最後に言った言葉と同じだった。
事故の日の朝、父は僕と喧嘩していた。
僕が学校の遠足代をなくしたからだ。
父は怒鳴り、僕も怒鳴り返した。
家を出る直前、父は玄関から顔を出して言った。
「さっきは悪かったな」
僕は無視した。
それが最後だった。
「父ちゃん」
「ん?」
「あの日、返事しなくてごめん」
父は首をかしげた。
「何の話だ?」
「遠足代のこと」
「ああ」
父は少し考えてから笑った。
「あんなこと、まだ気にしてたのか」
「だって」
「いいんだよ」
父は僕の肩を軽く叩いた。
「父ちゃんだって、怒りすぎた」
製材所の時計が鳴った。
正午だった。
僕は父と並んで、工場の裏にある小さな食堂へ行った。
父はカレーライスを二つ注文した。
僕はあまり食べられなかった。
父は僕の残した分まで食べた。
「美咲には何て言えばいい?」
僕が聞くと、父はスプーンを止めた。
「そうだな」
少し考えてから言った。
「父ちゃんは元気だったって言ってくれ」
「死んでるのに?」
「そうだな」
父は苦笑した。
「変な話だな」
午後四時を過ぎると、町に霧が出始めた。
父は僕を川まで送ってくれた。
鉄橋はまだあった。
ただ、来たときよりも古びて見えた。
「そろそろ行け」
父が言った。
「父ちゃん」
「なんだ」
「また来年、会える?」
父は答えなかった。
代わりに、僕の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「母ちゃんを頼んだぞ」
「うん」
「美咲とも仲良くな」
「うん」
「それから」
父は少し言いにくそうにした。
「無理して父ちゃんの代わりになろうとするなよ」
僕は顔を上げた。
「お前はお前でいいんだから」
父は笑っていた。
僕は橋へ向かった。
途中で振り返ると、父はまだそこに立っていた。
手を振っていた。
僕も手を振った。
何度も振った。
霧が濃くなり、父の姿が見えなくなるまで。
翌朝、十月十四日になった。
母は台所で卵焼きを作っていた。
美咲はまだ眠っていた。
僕は母に、父に会ったことを話した。
母は最後まで黙って聞いていた。
「そう」
話し終えると、母はそれだけ言った。
「信じないの?」
「信じるよ」
「本当に?」
母は火を止めた。
「私も昔、あの橋を渡ったことがあるから」
僕は驚いた。
「誰に会いに行ったの?」
「おばあちゃん」
「会えた?」
「うん」
母は少し笑った。
「会えたよ」
「どうして教えてくれなかったの?」
母は卵焼きを皿に移した。
「教えても、どうにもならないことがあるからね」
その言葉が、当時の僕にはひどく冷たく聞こえた。
けれど、今なら少し分かる。
それから三十年が経った。
僕は町を離れ、結婚し、二人の子供を持った。
母は七年前に亡くなった。
美咲は隣町で小さな美容室を営んでいる。
父の顔は、もう写真でしか思い出せない。
声も曖昧になった。
ただ、あの日のカレーライスの味だけは、不思議なほど覚えている。
少し焦げた玉ねぎの匂い。
ぬるい水。
父がスプーンを皿に当てる音。
今年、僕は久しぶりに故郷へ帰った。
十月十三日だった。
町はすっかり変わっていた。
製材所は取り壊され、跡地には大きなホームセンターが建っていた。
商店街には空き店舗が目立ち、川沿いの道も舗装されていた。
夕方、僕は一人で川へ行った。
橋はなかった。
しばらく待った。
日が傾いても、何も起こらなかった。
近くを散歩していた老人に聞いてみた。
「すみません。この町って、十月十三日が二回あるんですよね」
老人は怪訝な顔をした。
「何の話ですか」
「昔はそうだったんです」
「そんなこと、聞いたこともありませんな」
老人は首を振り、去っていった。
僕は川を見つめた。
流れは昔と変わらず、静かだった。
スマートフォンを取り出すと、美咲からメッセージが届いていた。
『今どこ? 晩ご飯、一緒に食べない?』
僕は『今から行く』と返した。
帰ろうとしたときだった。
背後から声がした。
「おい」
振り向いた。
誰もいなかった。
風が吹き、川岸の枯れ草が揺れた。
もう一度、声がした。
「おい、忘れ物だぞ」
父の声だった。
僕は川の向こうを見た。
霧の中に、赤く錆びた鉄橋が見えた。
橋のたもとには、作業服の男が立っていた。
父だった。
三十年前と少しも変わらない姿で。
僕は走りかけた。
だが、足が止まった。
父の隣に、もう一人いた。
母だった。
二人は並んで立っていた。
父は僕に向かって何かを掲げた。
よく見ると、古びた青い帽子だった。
小学生の頃、僕がいつもかぶっていた帽子。
あの日、製材所の食堂に忘れてきたものだった。
父は帽子を振った。
母も手を振っていた。
僕は泣かなかった。
不思議なほど、悲しくなかった。
ただ、胸の奥に長いこと刺さっていた小さな棘が、ようやく抜けたような気がした。
「もう、いいよ」
僕は小さく言った。
「そっちで持ってて」
父が笑ったように見えた。
やがて霧が濃くなり、橋も、父も、母も見えなくなった。
僕はしばらくそこに立っていた。
ポケットの中でスマートフォンが震えた。
美咲からだった。
『お兄ちゃん、まだ? カレー作ったんだけど』
僕は思わず笑ってしまった。
川に背を向け、歩き出した。
明日は十月十四日になる。
たぶん、間違いなく。
それでいいのだと思った。
生きている人間には、明日が必要なのだから。
その夜、僕は美咲の作ったカレーを二杯食べた。
少し焦げた玉ねぎの味がした。
美咲が聞いた。
「お兄ちゃん、どうしたの。泣いてる?」
「いや」
僕は首を振った。
「ちょっと、懐かしくなっただけだよ」
窓の外では、秋の雨が降り始めていた。
時計の針は、静かに十二時を回った。
十月十四日。
今年も、ちゃんと明日が来た。




