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『明日が来なかった町』

作者: 秋雲 榛名
掲載日:2026/10/12


その町では、毎年十月十三日が二度やって来る。

 誰も不思議には思わなかった。

 十三日の翌朝、カレンダーは十三日のままで、テレビのニュースも昨日と同じ日付を告げる。ただし、昨日と同じ事件が起こるわけではない。天気も違えば、電車の遅延も違う。人々は昨日食べたものを覚えているし、昨日喧嘩した夫婦は気まずいまま朝食を取る。

 ただ、日付だけが進まない。

 それがこの町の決まりだった。

 僕がそのことを知ったのは、父の葬式の日だった。


「お父さん、明日になったら帰ってくる?」

 妹の美咲がそう聞いたとき、母は何も答えなかった。

 僕は十一歳で、美咲は六歳だった。

 父は町外れの製材所で働いていた。仕事中に倒れ、そのまま帰ってこなかった。大人たちは心臓がどうとか、発見が遅れたとか話していたけれど、僕にはよく分からなかった。

 葬式が終わったのは十月十三日だった。

 その夜、母は仏壇の前に座り、父の写真を見ていた。

「お母さん」

「なに」

「明日になったら、少しは悲しくなくなるかな」

 母はしばらく黙っていた。

「どうだろうね」

 それから、僕の頭を一度だけ撫でた。

「明日になってみないと、分からないね」

 ところが、明日は来なかった。

 朝起きると、台所のカレンダーは十月十三日だった。

 僕は母がめくり忘れたのだと思った。

 テレビをつけた。

『おはようございます。十月十三日、火曜日の朝です』

 昨日も火曜日だった。

 母は驚きもしなかった。

「今日は二回目の十三日だから、学校はお休みよ」

「二回目?」

「そう。この町はね、十三日が二回あるの」

「どうして?」

 母は味噌汁の火を止めた。

「昔からそうなの」

 大人というものは、説明できないことを何でも昔からそうだと言って済ませる。

 僕はそれが嫌いだった。


二回目の十三日は、妙に静かだった。

 学校は休みで、商店街の半分はシャッターを下ろしていた。バスは走っていたが、乗客は一人もいなかった。

 僕は美咲を連れて川へ行った。

 父が生きていた頃、よく魚釣りをした場所だった。

「お兄ちゃん」

「なに」

「昨日のお父さんのお葬式、もう一回やるの?」

「やらないよ」

「じゃあ、昨日とは違う十三日なんだね」

「そうだな」

 美咲は川面を眺めていた。

「だったら、お父さんが生きてる十三日も、どこかにあるかな」

 僕は答えられなかった。

 そのとき、背後から声がした。

「あるよ」

 振り向くと、見知らぬ老人が立っていた。

 灰色の作業着に、泥のついた長靴。片手に古びた革鞄を提げていた。

「どこに?」

 美咲が聞いた。

 老人は川の向こうを指差した。

「あの橋を渡った先だ」

 そこには橋などなかった。

 少なくとも、僕が知る限りでは。

 だが老人が指差した場所をよく見ると、確かに橋があった。

 赤く錆びた、小さな鉄橋だった。

「昨日まではなかった」

 僕が言うと、老人は笑った。

「昨日は必要なかったからな」

「どういう意味?」

「二回目の十三日には、普段は見えないものが見える。会えない人にも会える。ただし、向こうに行けるのは一人だけだ」

 老人は僕と美咲を交互に見た。

「それから、日が暮れる前に帰らなければならん」

 美咲は僕の袖を引いた。

「お兄ちゃん、お父さんに会いに行こう」

 僕は橋を見つめた。

 向こう岸には、見慣れた町並みが広がっていた。

 ただ一つ違っていたのは、製材所の煙突から白い煙が上がっていたことだった。

 父が働いていた製材所は、事故のあと操業を停止していた。


橋を渡ったのは僕だった。

 美咲は泣いたけれど、僕は必ず父の言葉を伝えると約束した。

 鉄橋は思ったより長かった。

 歩いても歩いても対岸が近づかず、途中で振り返ると、美咲の姿はもう見えなかった。

 川の水は黒く、流れる音がしなかった。

 ようやく渡り終えると、町の空気が変わった。

 遠くから踏切の警報音が聞こえた。

 自転車に乗った高校生が僕の横を通り過ぎた。

 いつもの町だった。

 ただ、商店街の時計は午前十時十三分で止まっていた。

 僕は走った。

 製材所までの道は覚えていた。

 父が忘れ物をしたとき、母に頼まれて弁当を届けたことが何度もあった。

 正門の前に着くと、材木を積んだトラックが停まっていた。

 運転席から男が降りてきた。

「おい、危ないぞ。子供がこんなところで何してる」

 父だった。

 僕は何も言えなかった。

 父は首にタオルを巻き、いつもの紺色の作業服を着ていた。

「どうした?」

 僕は父に抱きついた。

 汗と木屑の匂いがした。

 父は困ったように笑った。

「なんだよ。今日はずいぶん甘えん坊だな」

 その声を聞いた途端、涙が出た。

 止めようとしても止まらなかった。

「父ちゃん」

「おう」

「死んじゃったんだよ」

 父の手が止まった。

「誰が?」

「父ちゃんが」

 しばらく沈黙があった。

 製材所の中から機械の音が響いていた。

 父は僕の肩に手を置いた。

「そうか」

 それだけだった。

「驚かないの?」

「驚いてるよ」

「嘘だ」

「本当だって」

 父はしゃがみ、僕と目の高さを合わせた。

「でもな、お前がそんな顔して来たんだから、きっと本当なんだろう」

 僕は何度もうなずいた。

 父は作業服のポケットから煙草を取り出したが、一本も吸わずにしまった。

「母ちゃんは?」

「ずっと泣いてる」

「美咲は?」

「父ちゃんに会いたがってる」

「そうか」

 父は空を見上げた。

 雲が一つもなかった。

「困ったなあ」

 その言葉が、父らしかった。

 父はいつだって、どうしようもないことが起こると、困ったなあと言った。

 車が故障したときも、台風で屋根瓦が飛んだときも、美咲が庭の金魚を全部逃がしてしまったときも。

「父ちゃん、一緒に帰ろう」

 僕は言った。

「橋を渡れば帰れるんだ」

 父は黙っていた。

「帰ろうよ」

「それはできないな」

「どうして!」

 思ったより大きな声が出た。

 父は少し驚いた顔をした。

「俺は、こっちにいる人間だからな」

「そんなの関係ない!」

 僕は父の腕をつかんだ。

「帰ってきてよ。母ちゃんだって、美咲だって、みんな待ってるんだよ!」

 父は何も言わなかった。

 僕は父を叩いた。

 何度も、何度も。

 父は避けなかった。

 やがて僕が疲れてしまうと、父は僕の頭に手を置いた。

「悪かったな」

 それは父が最後に言った言葉と同じだった。

 事故の日の朝、父は僕と喧嘩していた。

 僕が学校の遠足代をなくしたからだ。

 父は怒鳴り、僕も怒鳴り返した。

 家を出る直前、父は玄関から顔を出して言った。

「さっきは悪かったな」

 僕は無視した。

 それが最後だった。

「父ちゃん」

「ん?」

「あの日、返事しなくてごめん」

 父は首をかしげた。

「何の話だ?」

「遠足代のこと」

「ああ」

 父は少し考えてから笑った。

「あんなこと、まだ気にしてたのか」

「だって」

「いいんだよ」

 父は僕の肩を軽く叩いた。

「父ちゃんだって、怒りすぎた」

 製材所の時計が鳴った。

 正午だった。

 僕は父と並んで、工場の裏にある小さな食堂へ行った。

 父はカレーライスを二つ注文した。

 僕はあまり食べられなかった。

 父は僕の残した分まで食べた。

「美咲には何て言えばいい?」

 僕が聞くと、父はスプーンを止めた。

「そうだな」

 少し考えてから言った。

「父ちゃんは元気だったって言ってくれ」

「死んでるのに?」

「そうだな」

 父は苦笑した。

「変な話だな」


午後四時を過ぎると、町に霧が出始めた。

 父は僕を川まで送ってくれた。

 鉄橋はまだあった。

 ただ、来たときよりも古びて見えた。

「そろそろ行け」

 父が言った。

「父ちゃん」

「なんだ」

「また来年、会える?」

 父は答えなかった。

 代わりに、僕の頭をくしゃくしゃに撫でた。

「母ちゃんを頼んだぞ」

「うん」

「美咲とも仲良くな」

「うん」

「それから」

 父は少し言いにくそうにした。

「無理して父ちゃんの代わりになろうとするなよ」

 僕は顔を上げた。

「お前はお前でいいんだから」

 父は笑っていた。

 僕は橋へ向かった。

 途中で振り返ると、父はまだそこに立っていた。

 手を振っていた。

 僕も手を振った。

 何度も振った。

 霧が濃くなり、父の姿が見えなくなるまで。


翌朝、十月十四日になった。

 母は台所で卵焼きを作っていた。

 美咲はまだ眠っていた。

 僕は母に、父に会ったことを話した。

 母は最後まで黙って聞いていた。

「そう」

 話し終えると、母はそれだけ言った。

「信じないの?」

「信じるよ」

「本当に?」

 母は火を止めた。

「私も昔、あの橋を渡ったことがあるから」

 僕は驚いた。

「誰に会いに行ったの?」

「おばあちゃん」

「会えた?」

「うん」

 母は少し笑った。

「会えたよ」

「どうして教えてくれなかったの?」

 母は卵焼きを皿に移した。

「教えても、どうにもならないことがあるからね」

 その言葉が、当時の僕にはひどく冷たく聞こえた。

 けれど、今なら少し分かる。


それから三十年が経った。

 僕は町を離れ、結婚し、二人の子供を持った。

 母は七年前に亡くなった。

 美咲は隣町で小さな美容室を営んでいる。

 父の顔は、もう写真でしか思い出せない。

 声も曖昧になった。

 ただ、あの日のカレーライスの味だけは、不思議なほど覚えている。

 少し焦げた玉ねぎの匂い。

 ぬるい水。

 父がスプーンを皿に当てる音。

 今年、僕は久しぶりに故郷へ帰った。

 十月十三日だった。

 町はすっかり変わっていた。

 製材所は取り壊され、跡地には大きなホームセンターが建っていた。

 商店街には空き店舗が目立ち、川沿いの道も舗装されていた。

 夕方、僕は一人で川へ行った。

 橋はなかった。

 しばらく待った。

 日が傾いても、何も起こらなかった。

 近くを散歩していた老人に聞いてみた。

「すみません。この町って、十月十三日が二回あるんですよね」

 老人は怪訝な顔をした。

「何の話ですか」

「昔はそうだったんです」

「そんなこと、聞いたこともありませんな」

 老人は首を振り、去っていった。

 僕は川を見つめた。

 流れは昔と変わらず、静かだった。

 スマートフォンを取り出すと、美咲からメッセージが届いていた。

『今どこ? 晩ご飯、一緒に食べない?』

 僕は『今から行く』と返した。

 帰ろうとしたときだった。

 背後から声がした。

「おい」

 振り向いた。

 誰もいなかった。

 風が吹き、川岸の枯れ草が揺れた。

 もう一度、声がした。

「おい、忘れ物だぞ」

 父の声だった。

 僕は川の向こうを見た。

 霧の中に、赤く錆びた鉄橋が見えた。

 橋のたもとには、作業服の男が立っていた。

 父だった。

 三十年前と少しも変わらない姿で。

 僕は走りかけた。

 だが、足が止まった。

 父の隣に、もう一人いた。

 母だった。

 二人は並んで立っていた。

 父は僕に向かって何かを掲げた。

 よく見ると、古びた青い帽子だった。

 小学生の頃、僕がいつもかぶっていた帽子。

 あの日、製材所の食堂に忘れてきたものだった。

 父は帽子を振った。

 母も手を振っていた。

 僕は泣かなかった。

 不思議なほど、悲しくなかった。

 ただ、胸の奥に長いこと刺さっていた小さな棘が、ようやく抜けたような気がした。

「もう、いいよ」

 僕は小さく言った。

「そっちで持ってて」

 父が笑ったように見えた。

 やがて霧が濃くなり、橋も、父も、母も見えなくなった。

 僕はしばらくそこに立っていた。

 ポケットの中でスマートフォンが震えた。

 美咲からだった。

『お兄ちゃん、まだ? カレー作ったんだけど』

 僕は思わず笑ってしまった。

 川に背を向け、歩き出した。

 明日は十月十四日になる。

 たぶん、間違いなく。

 それでいいのだと思った。

 生きている人間には、明日が必要なのだから。

 その夜、僕は美咲の作ったカレーを二杯食べた。

 少し焦げた玉ねぎの味がした。

 美咲が聞いた。

「お兄ちゃん、どうしたの。泣いてる?」

「いや」

 僕は首を振った。

「ちょっと、懐かしくなっただけだよ」

 窓の外では、秋の雨が降り始めていた。

 時計の針は、静かに十二時を回った。

 十月十四日。

 今年も、ちゃんと明日が来た。

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