婚活に疲れたので、異世界では「書面」で恋を始めます。――騎士団長は冗談まで誠実に清書する
優しい人ほど、怖い。
そう思うようになったのは、たぶん「優しさ」がいちばん都合よく形を変えるものだと知ってしまったからだ。
「いい人なんだけどさ」
その“いい人”で、私は何人目だろう。
婚活アプリ。画面に並ぶプロフィール。年収、身長、学歴、休日の過ごし方。指で弾くたびに、心のどこかが削れていく。会う前から審査されて、会ってからも査定されて、帰り道に「次も会えますか?」と聞かれる。断ると悪者、続けると消耗。
いつから恋愛は、納期とKPIのある業務になったんだろう。
最初の三回は丁寧で、花束まで持ってきて、私の話を「うんうん」と聞いてくれたのに、四回目から急に圧が強くなる。「じゃあ次はいつ空いてる?」「結婚する気あるの?」。断れば空気が冷え、「時間の無駄」と切り捨てられる。
別の人は、優しさで私を囲った。「疲れてるでしょ、俺が全部決めるよ」。気づいたら私の予定も休日も服装も友人関係まで、“心配”という名の監視に置き換わっていた。
だから私は、学んだ。
甘い言葉の前に、条件。
善意の前に、境界線。
“好き”の前に、行動の一貫性。
そして、ふいに胸の奥に溜め込んでいた疲れが、やっと言葉になる。
「……私は、誰かの人生の穴埋めじゃない」
呟いた途端、視界が白く滲んだ。立っていられない。膝が折れる。終電のホームで、世界が遠のいた。
*
次に目を開けたとき、天井は見慣れない装飾で、窓の外には青い空と、知らない鳥の声があった。私の言葉は通じず、私は身元不明の“異国の女”として扱われた。
耳に入るのは、意味にならない音の列。怖かったのは孤独より、分からないまま頷かされることだった。曖昧な返事ひとつで、同意にされる。笑ってごまかした瞬間に、都合のいい解釈を与えてしまう。
そんな私を見て、治療院の人が簡易の翻訳護符を結んでくれた。完璧な翻訳じゃない。言葉の輪郭が、ぼんやりと分かる程度。それでも、ないよりずっとましだった。
私はすぐに覚えた。“大事な話ほど、口だけで済ませない”ことを。護符の効き目が薄れて聞き違えたら終わる。だから重要なことは、必ず紙に落としてもらう癖がついた。
王都ルネリア。魔法と剣が当たり前の国。私はそこで、“字が読める女”として生き延びる道を拾った。仕事で価値を出す。誰かに選ばれて安心するのではなく、自分の足で立つ。
補給部に引き取られてからは、帳簿と数字に助けられた。意味が取り切れない会話でも、表の構造は嘘をつかない。分からない単語は書いてもらい、必要な言い回しだけ拾う。日常会話くらいなら、なんとかなるまでになった。
けれど――契約、責任、評価、噂。そういう“人の都合が混ざる話”だけは、今でも口だけでは怖い。だから私は、書面を求める。
話せるようになった今でも、私は分かっている。言葉はあてにならない。特に、誰かが自分の都合で曖昧にしたいときほど。だから私は、微笑みより先に言う――「用件は書面で」と。
配属は騎士団補給部。物資と金の流れを管理する部署だ。血の匂いはしないが、人の欲の匂いが濃い。剣で斬れない問題は、いつだって紙の上に現れる。
そしてある日、その紙の上に――私が潰される形が見えかけた。
その午後、扉の向こうから鉄の靴音がまっすぐ近づいてきた。
「――君が、サキか」
低い声が、机に落ちた。
顔を上げると、男が立っていた。騎士団長アルベルト・ヴァルド。黒い外套、磨かれた胸当て、背筋の直線。氷みたいな青い目。
噂は聞いていた。「血の気がない」「笑わない」「部下にも情けをかけない」。でも私は噂を信じない。信じるのは記録と、目の前の相手の振る舞いだけだ。
「はい、サキです。用件は書面でいただけますか」
周囲の空気が固まった。新人の女が騎士団長に向かって“書面”を要求したのだから。けれど私は、曖昧な返事が後で都合よく書き換えられる怖さを知っている。加えて、私はまだ完璧には話せない。重要な依頼なら、なおさら紙で確認したかった。
「補給部の帳簿が乱れている。整理を任せたい」
「期間と権限と、関係者への指示権をください。そうでないと責任が持てません」
騎士団長の眉がわずかに動いた。怒りではない。驚きに近い反応。
「必要な権限は渡す。期限は一月。補給部への命令は、私の名で通す」
「ありがとうございます。あと、私からも条件があります」
彼は瞬きもしない。視線だけで「言え」と促した。
「夜間の呼び出しは緊急以外しないでください。身体に触れる必要がある場合は、必ず事前に確認を。私生活への詮索はしない。仕事の成果以外で評価しない。約束が守れないなら、この任務は断ります」
言い切った瞬間、心臓が遅れて跳ねた。ここで怒鳴られたら終わりだ。それでも言った。私はもう“都合のいい存在”に戻りたくない。
騎士団長は数秒、黙った。剣より鋭い沈黙。
「……それが、君を守るための条件か」
「私の境界線です。守るのは、私自身です」
彼は腰から革の小袋を外し、机に置いた。中から折り畳まれた羊皮紙と印章を取り出す。
「いいだろう、書こう」
その場で、彼は約束を紙にした。夜間呼び出しの制限。接触の確認。私生活の不干渉。成果による評価。違反時は任務解除と謝罪。騎士団長の印章が押され、署名が入った。
「これでいいか」
私は紙を受け取り、厚みを確かめるように指先で撫でた。形になった約束は、不思議と呼吸を楽にした。
「……ありがとうございます」
「君が求めたのは、当然のことだ」
当然。そんな言葉を、私は久しぶりに聞いた。
*
帳簿の整理は、思った以上に泥だった。
数字が合わない。搬入記録と支出記録が一致しない。署名が同じ筆跡なのに、本人は「書いていない」と言う。印章が薄く擦れていて、押した日付が怪しい。偶然の乱れではない。誰かが意図的に穴を作っている。
こういう時、剣より強いのは“いつ、どこで、誰が、何を”を揃えることだ。私は補給庫に通い、倉庫番の老人に話を聞き、下級騎士の手当支給日を確認し、部品の発注先の商人の帳面まで突き合わせた。
やればやるほど見えてくる。穴の中心に、私が置かれる形。
その日の夕方、補給部の執務室に鉄の靴音が響いた。
「サキ、ちょっと来い!」
呼びに来たのは憲兵だった。顔が硬い。
「何かありましたか」
「補給金の一部が消えた。君の机の引き出しから金貨が出たぞ」
頭が真っ白になって、次に浮かんだのは苦い笑いだった。
――ああ、これ。知ってる。
都合が悪くなったら女を悪者にする。外から来た者をスケープゴートにする。誰も責任を取りたくない時、いちばん説明が楽な相手に押し付ける。
私は深呼吸した。ここで取り乱したら相手の思う壺だ。
「正式な手続きを踏んでください。拘束理由と、立会人と、記録官を」
「……生意気なやつだな」
「当然の要求です」
地下の石室は冷えた。椅子に座らされ、机の上に袋が置かれる。確かに金貨が入っていた。見たこともない刻印の金貨。
「君しか触れない引き出しから出た。どう説明する」
「今日の午前、私の席に来た人の記録はありますか。補給部の出入り簿、ありますよね。あと引き出しには鍵がついていません。誰でも開けられます」
「そんなことは――」
「それから、金貨の袋に魔力の残滓は? 鑑定官を呼んでください」
憲兵の顔が歪む。面倒な女、という顔。
そのとき扉が開いた。
「――そこまでだ」
空気が変わる。圧が入ってくる。騎士団長アルベルトが立っていた。
「団長。ですが――」
「私が言った。そこまでだ」
短い一言で憲兵が黙る。騎士団長は金貨袋を一瞥し、憲兵へ淡々と命じた。
「鑑定官を呼べ。出入り簿を持って来い。取り調べ記録は全て残せ。今の侮辱発言も含めてだ」
「侮辱とは……?」
「“生意気”は侮辱だ。職務上必要がない」
胸の奥が、少しだけほどけた。守られたからではない。“侮辱を侮辱だと定義してくれる人”がいることに、息がつけた。
騎士団長が私を見た。
「サキ」
「はい」
「怖かったか」
喉の奥が詰まる。怖かった、と言えば弱さになる気がしてしまう。弱さを見せた途端に踏み込まれた経験があるから。
だから私は、逃げずに言った。
「この尋問は、手続きが不適切です」
騎士団長はほんのわずか口元を緩めた。笑ったというより、“それでいい”と認めたような表情。
「正しい」
そして、断言した。
「君は盗んでいない」
根拠も条件も付かない断言。胸が熱くなるのに、同時に怖い。優しさの断言は、時に罠になるから。
「……どうして、そう言えるんですか」
「君は毎日同じ時刻に倉庫へ行き、同じ順で記録を照合し、同じ場所にペンを置く。計算の癖も一貫している。盗みを隠す人間は、そんなことをしない」
淡々とした声。感情ではなく観察と事実。
「それに」
少し間を置いて、彼は続けた。
「君は、約束を書面にした。約束を守る人間は、盗みで信頼を捨てない」
――私の行動を見ていた。
騎士団長は私と憲兵の間に立った。盾みたいに。でも逃げ道を塞がない盾。圧で支配する盾じゃない。
「鑑定官が来るまで、ここにいていい」
結果は予想通りだった。金貨袋には私とは違う魔力の残滓。出入り簿には私の執務時間外の不審な出入り。署名偽造の筆跡も一致。
犯人は補給部の上役――貴族出身の副官だった。横領の穴を私に被せるつもりだったのだろう。外から来た女なら潰しても面倒が少ない、と。
*
会議室での追及に、私は同席しなかった。騎士団長は私に言った。
「見なくていい」
「でも、私のせいで――」
「君のせいではない。君の目に、不要なものを入れるな」
糾弾の光景より、私の回復を優先する判断。甘やかしではなく、必要と不要の切り分け。
その夜、中庭に呼ばれた。冷たい夜風。石畳が月光を返している。
「謝罪する」
騎士団長は深く頭を下げた。騎士団長が、私の前で。
「君を疑う者が出たこと。拘束されたこと。私の組織で起きた。これは私の責任だ」
謝罪されると、胸がざわつく。許さなきゃ悪者になる気がする、あの癖が首をもたげる。
だから私は、ルールに戻った。
「……再発防止策を、書面でください」
彼は即答した。
「明朝、渡そう」
外套の内側から小さな鍵を取り出して、私の手のひらに置いた。
「君専用の部屋の鍵だ。騎士団本部の二階。誰も入れない。休める場所が必要だろう」
鍵は冷たかった。でもすぐに体温に馴染む。
「……どうして、そこまで」
「君が必要だからだ」
“必要”。その言葉に反射で身構える私を、騎士団長は見逃さなかった。
「誤解するな。君を縛りたいわけではない。君が望む形でいい。必要なのは、君がここで倒れないことだ」
触れない。押し付けない。私が握るか、落とすかを私に任せる。
そして、少しだけ言いにくそうに付け足した。
「もう一つ。これは“約束”ではなく、願いだ。……私は、君に近づきたい」
心臓が跳ねる。恋愛の入口の言葉は、怖い。ここから急かされる未来を知っている。
私は怖さを質問に変えた。
「私が不安になって、急に距離を取りたくなったら。団長は、怒りますか」
「怒らない」
即答。さらに、視線を逸らして不器用に言う。
「……寂しいとは言うかもしれない。だが、それで君を縛ることはしない」
責めるためではなく、共有するための言葉。胸の奥が少しだけ緩んだ。
「……それなら」
怖い。でも止めない。
「少しずつでいいので。信じる練習を、させてください」
「なら、私が手本になろう」
月明かりの下で、彼の声は相変わらず不器用で、だから嘘の余地がなかった。
私は一歩近づいた。
「……触れていいですか」
「いい」
私は彼の外套の端を指先でつまんだ。手を繋ぐにはまだ早い。でも布越しなら、怖さが薄い。騎士団長の体がわずかに強張り、すぐ力が抜けた。
「今夜は、何も考えるな。食べて、湯に入って、眠れ。明日の仕事は午前からでいい。夜間の呼び出しはしない。約束する」
約束。行動の一貫性。私の条件を覚えている。
私は小さく頷いた。
*
翌朝、約束通り“再発防止策”が書面で届いた。
出入り管理の改訂。印章管理の二重化。帳簿照合の第三者チェック。権限整理。告発窓口。罰則。淡々と容赦なく、それでも理にかなう文章。最後に一行、手書きの追記。
『君が同じ恐怖を味わわぬように、私が手順を変え、管理する』
胸がきゅっとなる。甘い言葉ではない。けれど、心の奥に手が届く。
日々は少しずつ変わった。
騎士団長は部屋を訪れる前に必ず扉を三回ノックした。返事があるまで開けない。入るときは「入っていいか」と聞く。机の上の紙を勝手に見ない。私が食事を抜きそうな日には、補給部に配慮を命令する。命令が出ると、周囲は私に文句を言えない。
守られる、という形が、初めて“奪われること”ではなく“立て直せること”として体に入ってくる。
ある日、私は騎士団長の机にいつも温い茶があることに気づいた。誰かが入れ替えているのではない。彼自身が湯の温度を見て茶葉を選んでいる。
「団長、意外と……生活能力ありますよね」
「生きるのに必要だ」
「“生きる”って、そんな言い方」
「君も、そうだろう」
見透かされた気がして、言葉が止まった。私は恋愛のためではなく、生存のために境界線を引いている。それを彼は分かっている。
その夜、騎士団長は珍しく仕事を早く切り上げ、私の部屋の前に立った。
「サキ。話がある」
「……どうぞ」
距離を保ったまま椅子に座り、まっすぐこちらを見る。
「君を、私の正式な補佐官にしたい」
「仕事の話ですか」
「仕事だ。だが、それだけではない」
彼は一拍置いた。
「君を、傍に置きたい。公的にも、私的にも」
心臓が跳ねる。ここからが怖い。曖昧な“好き”で生活が壊れた経験がある。
だから私は反射で、確認を求めた。
「……その“私的”の範囲を、明確にしてもらえますか」
恋の話に範囲定義。自分でも可笑しい。でも、それが私のやり方だ。
「君と交際したい」
直球すぎて喉が鳴った。私は照れ隠しに、冗談の逃げ道を作った。
「交際……ですか。じゃあ、その……交際届でも書面で……?」
冗談のつもりだった。半分は照れ隠し。半分は怖さの緩衝材。
ところが騎士団長は、真顔で頷いた。
「必要だな」
「ちょ、ちょっと待ってください。本気で書くんですか」
「君が安心するなら、書こう」
彼は迷いなくペンを走らせた。
『交際に関する覚書』
一、相互の同意なく身体的接触を行わない。
二、交際を理由に相手の交友関係・仕事・生活を制限しない。
三、不安や不満は“機嫌”ではなく言葉で共有する。
四、相手が距離を必要とする場合、その距離を尊重する。
五、交際の終了は一方的な冷却ではなく、話し合いの場を設ける。
六、第三者の噂で相手を断罪しない。必要な場合は当人に確認する。
最後に一行、手書きで。
『君が都合よく扱われる未来を、私は許さない。』
紙にしただけなのに、胸の奥が熱くなる。形にするのは、縛るためではなく、守るため――彼はそこを間違えない。
「……団長、重いです」
「そうだ、重い。重くていい」
初めて、はっきりと感情を乗せた声だった。
「君の人生を軽く扱うくらいなら、私は最初から近づかない」
ずるい。格好いい。怖い。全部が一緒に来る。
私は覚書を受け取り、震える指先を落ち着かせながら言った。
「私、簡単には信じませんよ」
「知っている」
「私は疑い深いです。面倒です。私は逃げます」
「それでもいい」
「この覚書が破られたら……私は、ちゃんと切ります」
「切れ」
止めない。縛らない。
その即答が、いちばん私の心を揺らした。
*
交際が始まった――というより、“交際という箱”に二人で足を入れた、という方が近い。
手を繋ぐのもぎこちない。近づくたびに私は確認する。
「今、触れてもいいですか」
「今日は距離、大丈夫ですか」
「その言い方、圧になってないですか」
自分で言っていて疲れる。でも、それをしないと過去の影が首を伸ばす。騎士団長は毎回、面倒がらずに答える。
「いい」
「大丈夫だ。嫌なら言え」
「圧なら改める。どの言い方がいい」
すり合わせができる関係は、思った以上に心を休ませる。
ある日、騎士団長が私の部屋に茶を持ってきた。湯気の向こうに、珍しく疲れた顔が見えた。
「今日、何かありましたか」
「社交界から招待状が来た」
王都の貴族が集まる夜会。補給改革の件で、私も同席を求められている。
「私が行くと、面倒が起きますよ」
「起きるだろう」
「行かない方が、団長の立場も――」
「私の立場は、私が守る」
硬い声。それは頑固さではなく覚悟の硬さだった。
「君に求めるのは一つだけだ。君が、君を小さくしないこと」
胸がじんとした。私は“迷惑をかけないように”自分を縮める癖がある。婚活でも職場でも、それで生き延びてきた。でも、それが私を削った。
「……分かりました。行きます」
「衣装の手配はした。採寸が必要だ」
嫌な予感がして一歩引く。
「団長。採寸って、触りますよね」
「触る」
「……採寸は、立会人を」
「わかった。つけよう」
勢いで私は言った。冗談のつもりで。
「あと、採寸の範囲、書面で――」
騎士団長は真顔で頷いた。
「必要だな」
「やめてください、本気で書くの」
「君が安心するなら書く」
数分後、机の上に『採寸に関する確認書』が出来上がっていた。採寸者の氏名、触れる部位の範囲、立会人、所要時間、途中中断の権利、破棄条件まで。
私は紙を見て笑って、それから少し泣きそうになった。ここまでやる人がいることが、まだ信じきれない。
「団長、あなた……本当に、変です」
「君に言われるなら、構わない」
その言い方が、妙に優しい。
*
夜会は、予想通り胃が痛くなる場だった。
視線が刺さる。囁き声が泳ぐ。
「あれが例の……」
「外から来た女よ」
「あの騎士団長様が囲っていらっしゃるとか」
「便利ね、文字が読めるって。本当に文字だけかしら」
言葉の棘は剣より目立たないぶん厄介だ。私は笑顔を作って呼吸を整え、必要な相槌だけ返した。仕事。これは仕事。
問題は、“仕事ではない方”が牙を剥くときだ。
伯爵令嬢がわざとらしく私の前に立った。香水が甘く、息が詰まる。
「あなたがサキさん?」
「そうです。お会いできて光栄です」
「噂を聞いたの。騎士団長殿の“お気に入り”だとか」
お気に入り。物みたいな言い方。
「誤解です。私は――」
「まあまあ。隠さなくていいのよ。外から来た女性は後ろ盾が必要だものね。まさかあのアルベルトが、あなたみたいな地味な女をそばに置くなんて、ね。あなた。どこまで“許して”差し上げているの?」
笑顔のまま喉が凍る。怒れば“下品”。黙れば肯定。どちらも罠。
その瞬間、騎士団長が私の隣に立った。距離は近いが、触れてはいない。けれど彼の影が私を守るように落ちた。
「その言い方は撤回しろ」
「団長殿、冗談ですわ」
「冗談で人を貶めるな」
低い声が会場の空気を切る。
「サキは私の補佐官だ。必要な仕事をしている。――そして、私が交際を申し込んだ相手だ」
ざわめきが起きた。私は心臓が止まりそうになった。公の場で言えば敵が増える。それでも彼は言い切った。隠さない。私の名前で立たせる。
令嬢は驚き、そして少し私を睨みつけ、作り笑いを貼りつけて去っていった。私は息を吐く。足が少し震えていた。
「団長、今の……」
「君を小さくさせる言葉を、私は放置しない」
触れていないのに、支えられている気がした。
*
夜会の帰り、庭園の回廊で立ち止まった。噴水が月に白い。夜風が髪を揺らす。
私は胸のざわつきを冗談で薄めたくて、つい言った。
「団長。今日の“交際相手宣言”も……書面に残しますか」
笑うつもりだった。軽く受け流すつもりだった。
騎士団長は真顔で言う。
「残すべきだな。言葉は歪む」
「やめてくださいってば」
「それが君を守るのではなく、しばるものであるなら、私は作らない」
そして彼は懐から小さな紙束を取り出した。私は目を疑った。
「……持ち歩いてるんですか、それ」
「必要なときに必要だ。これは必要か?」
紙の表題は堂々とこうだった。
『接吻に関する事前確認書(暫定)』
私は噴き出した。涙が出るくらい可笑しいのに、胸の奥が熱い。
「暫定って何ですか」
「改訂の余地がある」
「そこ、真面目に言うところじゃないです!」
騎士団長は一瞬だけ困った顔をした。困った顔ができるんだ、と私は思った。
「……君が嫌なら、やめる」
「嫌じゃないです。そうじゃなくて……」
私は笑いながら、でもまっすぐ言った。
「あなた、誠実すぎて、私の警戒心が行き場を失います」
「警戒心は持ったままでいろ。君の鎧だ。大事な」
鎧を剥がされるのが怖かった。剥がしたら愛される、なんて嘘だ。鎧は生き延びるために必要だった。彼はそれを否定しない。
私は一歩近づいた。
「……私、時々あなたに甘えていいですか」
「いつでも」
「でも、都合よくは扱わないでください」
「扱わない」
短い応酬。言葉が守られる前提で交わされるから、心が休む。
「じゃあ……今だけ。手、繋いでいいですか」
「もちろんだ」
彼の手は大きく、温かかった。握る力は強くない。逃げられる余地がある。その余地が、私を安心させる。
*
数日後、別の形の罠が来た。
王城の文官が私を呼び出したのだ。補給改革がうまくいっているから協力してほしい、と。静かな執務室。丁寧な言葉。けれど言葉の端が、嫌な方向へ滑っていく。
「あなたは大変有能だ。外から来たのに、ここまで成果を出した。素晴らしい」
「ありがとうございます。必要なことをしただけです」
「その“必要”を続けるには後ろ盾がいる。騎士団長殿は強い後ろ盾だ。あなたが“それなりの立場”になれば改革も通しやすい」
私は静かに聞いた。
「“それなりの立場”とは」
文官は笑った。
「正式な婚姻は難しくても、あなたが彼の……特別な存在になればいい。わかるだろう? あなたも守られる。彼もあなたを使える。双方得だ」
ああ、これだ。世界が違っても同じ。
守る、という名目で都合よく使う提案。
特別、という名目で責任を曖昧にする提案。
私は椅子から立ち上がった。声が震えないように呼吸して、言葉を研いだ。
「それは“得”ではありません。“安売り”です」
文官の笑顔が薄くなる。
「現実を見なさい。外から来たあなたが生き残るには――」
「私は、生き残るために自分を切り売りするつもりはありません」
痛くても言う。ここで折れたら、また穴埋めに戻る。
「私は仕事で価値を出します。誰かの都合のいい影にはなりません」
文官が鼻で笑った、その瞬間。
扉が開いた。
「――やはり折れないな」
騎士団長の声。
文官をに鋭い視線を送る。
「一体誰の命令で、彼女にそんな話をした」
文官の顔は蒼白になる。
「誤解です。ただ彼女の将来を――」
「将来を語る資格があるのは、彼女自身だけだ」
正論が、剣より鋭く刺さる。
「彼女を“便利”という言葉で括るな。彼女は道具ではない」
文官は黙った。私は胸の奥のざわつきを抑えきれず、騎士団長に言った。
「団長。あなたが私を守ると言うほど、周りは“私があなたに頼っている”と見ます。私が……あなたの都合のいい立場になった、と」
好きになり始めているからこそ怖い。失いたくないからこそ、曖昧な場所に置かれたくない。
騎士団長は、まっすぐ答えた。
「なら、都合のいい立場にはしない。君が望む形で、堂々と並ぶ」
「堂々と?」
「君を隠さない。君の成果を君の名前だけで残す。私の影には入れない」
胸が熱くなった。私は一歩近づき、でも止まった。触れるのが怖い。逃げたい。でも逃げたら同じ所に戻る。
騎士団長が手を差し出す。いつもの、委ねる形で。
「サキ。君が“都合のいい女”になる未来を、私は最初から拒絶する。君の価値を、私の都合で曲げない」
私はその手に指先を置いた。彼は強く握らない。ただ支える。
*
その夜、私は自分の部屋で机の上の紙束を見た。任務契約の書面。再発防止策。交際覚書。採寸確認書。暫定の...何か。
紙の山が可笑しくて、ため息が出る。私の人生は、いつからこんなに書類だらけになったんだろう。
でも――この紙は私を縛るための紙じゃない。私を守るために、二人で作った紙だ。
扉が三回ノックされた。
「サキ。入っていいか」
「……どうぞ」
騎士団長が入ってきた。今日は少しだけ緊張しているように見えた。
「話がある」
「はい」
「確認したい」
「……はい」
確認。いちばん私たちらしい。
騎士団長は息を吸い、言った。
「君に触れたい」
心臓が跳ねる。怖い。けれど、彼は待っている。焦らない。追わない。私の言葉を奪わない。
私は冗談で逃げ道を作った。
「……じゃあ、接吻は、例の暫定書面で」
笑うつもりだった。
騎士団長は真顔で頷いた。
「もう、清書してある」
「本当に清書したんですか」
彼は懐から丁寧に折り畳まれた羊皮紙を出した。表題は改訂されている。
『接吻に関する確認書(正式)』
私は声を上げて笑ってしまった。笑いながら、泣きそうになった。
「団長、あなた……真面目が過ぎます」
「君の不安を、冗談で流さないと決めた」
その言葉が胸を打った。私が冗談に逃げても、彼はそこを“曖昧にしていい合図”にしない。
私は紙を受け取り、読んだ。
一、接吻の前に当人の同意を得る。
二、拒否・中断の意思表示があった場合、ただちに止める。
三、拒否によって不機嫌・沈黙・威圧を用いない。
四、同意はその場その場で更新される。過去の同意を持ち出さない。
最後の一文。
『君の“怖い”を、私は罰にしない。』
私は紙を胸に抱えた。涙が一滴落ちた。悔しいほど嬉しい。怖いほど嬉しい。
「……私、あなたが好きです」
言った瞬間、喉が熱くなる。逃げたい。でも目を逸らさない。
騎士団長の目が揺れた。ほんのわずかに。けれど確かに。
「……私もだ」
短い返事。でも逃げない返事。
私は立ち上がり、彼の前に一歩進んだ。自分の足で。
そして、深呼吸して言った。ここが私の、前に進むところだ。
「……今は、書面、いりません」
騎士団長の手がわずかに止まった。
私は続けた。震えそうな声を、背筋で支えて、言葉を研ぐ。
「紙は、私を守ってくれました。あなたも守ってくれました。だから次は――私が私を守ります」
騎士団長は黙って聞いている。逃げない。
「私は、優しさの返礼に自分を差し出すつもりはありません。守られる代わりに黙るのも、曖昧な“特別”の中で安く扱われるのも、もうしません」
私は彼を見上げた。
「あなたの隣に立つなら、対等に立ちたい。私は、私の名前でここに立ちたい」
最後に、私は自分らしく言い切った。強がりではなく、宣言として。
「書面はもう要りません。――でも私は、都合のいい女にはならない。選ぶのは、いつだって私です」
騎士団長は、ゆっくり頷いた。
「……よく言った」
低い声が少しだけ震えていた。
「君が自分を安売りするくらいなら、私は君に触れない。君が対等を望んでこそ、そばにいたい」」
彼は手を伸ばした。いつもの、委ねる形で。
「触れていいか」
私は笑った。今度は冗談じゃない。
「ーーはい」
騎士団長の指先が私の頬に触れた。慎重で、温かくて、怖さを押し潰さない触れ方だった。
唇が重なる。
彼の吐息と熱を感じる。
彼が小さく言う。
「……確認書は、破棄していいか」
私は声を殺して笑った。
「保管は私がします。証拠として」
「証拠?」
「あなたが誠実すぎる男だっていう、確かな証拠です」
騎士団長の口元が、ほんの少しだけ上がった。
優しい人ほど怖い。
その前提は、きっと簡単には消えない。だけど――怖さごと抱えたまま、前に進める相手がいる。
私は、私のまま恋をしていい。
もう都合のいい場所には戻らない。
私は私の名前で、ここに立つ。
(おしまい)
お読みいただき、ありがとうございました。




