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婚活に疲れたので、異世界では「書面」で恋を始めます。――騎士団長は冗談まで誠実に清書する

作者: 九条 綾乃
掲載日:2026/02/09


 優しい人ほど、怖い。

 そう思うようになったのは、たぶん「優しさ」がいちばん都合よく形を変えるものだと知ってしまったからだ。


 「いい人なんだけどさ」


 その“いい人”で、私は何人目だろう。


 婚活アプリ。画面に並ぶプロフィール。年収、身長、学歴、休日の過ごし方。指で弾くたびに、心のどこかが削れていく。会う前から審査されて、会ってからも査定されて、帰り道に「次も会えますか?」と聞かれる。断ると悪者、続けると消耗。


 いつから恋愛は、納期とKPIのある業務になったんだろう。

 最初の三回は丁寧で、花束まで持ってきて、私の話を「うんうん」と聞いてくれたのに、四回目から急に圧が強くなる。「じゃあ次はいつ空いてる?」「結婚する気あるの?」。断れば空気が冷え、「時間の無駄」と切り捨てられる。


 別の人は、優しさで私を囲った。「疲れてるでしょ、俺が全部決めるよ」。気づいたら私の予定も休日も服装も友人関係まで、“心配”という名の監視に置き換わっていた。


 だから私は、学んだ。


 甘い言葉の前に、条件。

 善意の前に、境界線。

 “好き”の前に、行動の一貫性。

 そして、ふいに胸の奥に溜め込んでいた疲れが、やっと言葉になる。


 「……私は、誰かの人生の穴埋めじゃない」


 呟いた途端、視界が白く滲んだ。立っていられない。膝が折れる。終電のホームで、世界が遠のいた。



 次に目を開けたとき、天井は見慣れない装飾で、窓の外には青い空と、知らない鳥の声があった。私の言葉は通じず、私は身元不明の“異国の女”として扱われた。

 耳に入るのは、意味にならない音の列。怖かったのは孤独より、分からないまま頷かされることだった。曖昧な返事ひとつで、同意にされる。笑ってごまかした瞬間に、都合のいい解釈を与えてしまう。


 そんな私を見て、治療院の人が簡易の翻訳護符を結んでくれた。完璧な翻訳じゃない。言葉の輪郭が、ぼんやりと分かる程度。それでも、ないよりずっとましだった。

 私はすぐに覚えた。“大事な話ほど、口だけで済ませない”ことを。護符の効き目が薄れて聞き違えたら終わる。だから重要なことは、必ず紙に落としてもらう癖がついた。


 王都ルネリア。魔法と剣が当たり前の国。私はそこで、“字が読める女”として生き延びる道を拾った。仕事で価値を出す。誰かに選ばれて安心するのではなく、自分の足で立つ。


 補給部に引き取られてからは、帳簿と数字に助けられた。意味が取り切れない会話でも、表の構造は嘘をつかない。分からない単語は書いてもらい、必要な言い回しだけ拾う。日常会話くらいなら、なんとかなるまでになった。


 けれど――契約、責任、評価、噂。そういう“人の都合が混ざる話”だけは、今でも口だけでは怖い。だから私は、書面を求める。


 話せるようになった今でも、私は分かっている。言葉はあてにならない。特に、誰かが自分の都合で曖昧にしたいときほど。だから私は、微笑みより先に言う――「用件は書面で」と。


 配属は騎士団補給部。物資と金の流れを管理する部署だ。血の匂いはしないが、人の欲の匂いが濃い。剣で斬れない問題は、いつだって紙の上に現れる。


 そしてある日、その紙の上に――私が潰される形が見えかけた。

 その午後、扉の向こうから鉄の靴音がまっすぐ近づいてきた。


「――君が、サキか」


 低い声が、机に落ちた。


 顔を上げると、男が立っていた。騎士団長アルベルト・ヴァルド。黒い外套、磨かれた胸当て、背筋の直線。氷みたいな青い目。

 噂は聞いていた。「血の気がない」「笑わない」「部下にも情けをかけない」。でも私は噂を信じない。信じるのは記録と、目の前の相手の振る舞いだけだ。


「はい、サキです。用件は書面でいただけますか」


 周囲の空気が固まった。新人の女が騎士団長に向かって“書面”を要求したのだから。けれど私は、曖昧な返事が後で都合よく書き換えられる怖さを知っている。加えて、私はまだ完璧には話せない。重要な依頼なら、なおさら紙で確認したかった。


「補給部の帳簿が乱れている。整理を任せたい」


「期間と権限と、関係者への指示権をください。そうでないと責任が持てません」


 騎士団長の眉がわずかに動いた。怒りではない。驚きに近い反応。


「必要な権限は渡す。期限は一月。補給部への命令は、私の名で通す」


「ありがとうございます。あと、私からも条件があります」


 彼は瞬きもしない。視線だけで「言え」と促した。


「夜間の呼び出しは緊急以外しないでください。身体に触れる必要がある場合は、必ず事前に確認を。私生活への詮索はしない。仕事の成果以外で評価しない。約束が守れないなら、この任務は断ります」


 言い切った瞬間、心臓が遅れて跳ねた。ここで怒鳴られたら終わりだ。それでも言った。私はもう“都合のいい存在”に戻りたくない。


 騎士団長は数秒、黙った。剣より鋭い沈黙。


「……それが、君を守るための条件か」


「私の境界線です。守るのは、私自身です」


 彼は腰から革の小袋を外し、机に置いた。中から折り畳まれた羊皮紙と印章を取り出す。


「いいだろう、書こう」


 その場で、彼は約束を紙にした。夜間呼び出しの制限。接触の確認。私生活の不干渉。成果による評価。違反時は任務解除と謝罪。騎士団長の印章が押され、署名が入った。


「これでいいか」


 私は紙を受け取り、厚みを確かめるように指先で撫でた。形になった約束は、不思議と呼吸を楽にした。


「……ありがとうございます」


「君が求めたのは、当然のことだ」


 当然。そんな言葉を、私は久しぶりに聞いた。



 帳簿の整理は、思った以上に泥だった。

 数字が合わない。搬入記録と支出記録が一致しない。署名が同じ筆跡なのに、本人は「書いていない」と言う。印章が薄く擦れていて、押した日付が怪しい。偶然の乱れではない。誰かが意図的に穴を作っている。


 こういう時、剣より強いのは“いつ、どこで、誰が、何を”を揃えることだ。私は補給庫に通い、倉庫番の老人に話を聞き、下級騎士の手当支給日を確認し、部品の発注先の商人の帳面まで突き合わせた。

 やればやるほど見えてくる。穴の中心に、私が置かれる形。


 その日の夕方、補給部の執務室に鉄の靴音が響いた。


「サキ、ちょっと来い!」


 呼びに来たのは憲兵だった。顔が硬い。


「何かありましたか」


「補給金の一部が消えた。君の机の引き出しから金貨が出たぞ」


 頭が真っ白になって、次に浮かんだのは苦い笑いだった。


 ――ああ、これ。知ってる。


 都合が悪くなったら女を悪者にする。外から来た者をスケープゴートにする。誰も責任を取りたくない時、いちばん説明が楽な相手に押し付ける。

 私は深呼吸した。ここで取り乱したら相手の思う壺だ。


「正式な手続きを踏んでください。拘束理由と、立会人と、記録官を」


「……生意気なやつだな」


「当然の要求です」


 地下の石室は冷えた。椅子に座らされ、机の上に袋が置かれる。確かに金貨が入っていた。見たこともない刻印の金貨。


「君しか触れない引き出しから出た。どう説明する」


「今日の午前、私の席に来た人の記録はありますか。補給部の出入り簿、ありますよね。あと引き出しには鍵がついていません。誰でも開けられます」


「そんなことは――」


「それから、金貨の袋に魔力の残滓は? 鑑定官を呼んでください」


 憲兵の顔が歪む。面倒な女、という顔。

 そのとき扉が開いた。


「――そこまでだ」


 空気が変わる。圧が入ってくる。騎士団長アルベルトが立っていた。


「団長。ですが――」


「私が言った。そこまでだ」


 短い一言で憲兵が黙る。騎士団長は金貨袋を一瞥し、憲兵へ淡々と命じた。


「鑑定官を呼べ。出入り簿を持って来い。取り調べ記録は全て残せ。今の侮辱発言も含めてだ」


「侮辱とは……?」


「“生意気”は侮辱だ。職務上必要がない」


 胸の奥が、少しだけほどけた。守られたからではない。“侮辱を侮辱だと定義してくれる人”がいることに、息がつけた。

 騎士団長が私を見た。


「サキ」


「はい」


「怖かったか」


 喉の奥が詰まる。怖かった、と言えば弱さになる気がしてしまう。弱さを見せた途端に踏み込まれた経験があるから。

 だから私は、逃げずに言った。


「この尋問は、手続きが不適切です」


 騎士団長はほんのわずか口元を緩めた。笑ったというより、“それでいい”と認めたような表情。


「正しい」


 そして、断言した。


「君は盗んでいない」


 根拠も条件も付かない断言。胸が熱くなるのに、同時に怖い。優しさの断言は、時に罠になるから。


「……どうして、そう言えるんですか」


「君は毎日同じ時刻に倉庫へ行き、同じ順で記録を照合し、同じ場所にペンを置く。計算の癖も一貫している。盗みを隠す人間は、そんなことをしない」


 淡々とした声。感情ではなく観察と事実。


「それに」


 少し間を置いて、彼は続けた。


「君は、約束を書面にした。約束を守る人間は、盗みで信頼を捨てない」


 ――私の行動を見ていた。

 騎士団長は私と憲兵の間に立った。盾みたいに。でも逃げ道を塞がない盾。圧で支配する盾じゃない。


「鑑定官が来るまで、ここにいていい」


 結果は予想通りだった。金貨袋には私とは違う魔力の残滓。出入り簿には私の執務時間外の不審な出入り。署名偽造の筆跡も一致。

 犯人は補給部の上役――貴族出身の副官だった。横領の穴を私に被せるつもりだったのだろう。外から来た女なら潰しても面倒が少ない、と。



 会議室での追及に、私は同席しなかった。騎士団長は私に言った。


「見なくていい」


「でも、私のせいで――」


「君のせいではない。君の目に、不要なものを入れるな」


 糾弾の光景より、私の回復を優先する判断。甘やかしではなく、必要と不要の切り分け。

 その夜、中庭に呼ばれた。冷たい夜風。石畳が月光を返している。


「謝罪する」


 騎士団長は深く頭を下げた。騎士団長が、私の前で。


「君を疑う者が出たこと。拘束されたこと。私の組織で起きた。これは私の責任だ」


 謝罪されると、胸がざわつく。許さなきゃ悪者になる気がする、あの癖が首をもたげる。

 だから私は、ルールに戻った。


「……再発防止策を、書面でください」


 彼は即答した。


「明朝、渡そう」


 外套の内側から小さな鍵を取り出して、私の手のひらに置いた。


「君専用の部屋の鍵だ。騎士団本部の二階。誰も入れない。休める場所が必要だろう」


 鍵は冷たかった。でもすぐに体温に馴染む。


「……どうして、そこまで」


「君が必要だからだ」


 “必要”。その言葉に反射で身構える私を、騎士団長は見逃さなかった。


「誤解するな。君を縛りたいわけではない。君が望む形でいい。必要なのは、君がここで倒れないことだ」


 触れない。押し付けない。私が握るか、落とすかを私に任せる。

 そして、少しだけ言いにくそうに付け足した。


「もう一つ。これは“約束”ではなく、願いだ。……私は、君に近づきたい」


 心臓が跳ねる。恋愛の入口の言葉は、怖い。ここから急かされる未来を知っている。

 私は怖さを質問に変えた。


「私が不安になって、急に距離を取りたくなったら。団長は、怒りますか」


「怒らない」


 即答。さらに、視線を逸らして不器用に言う。


「……寂しいとは言うかもしれない。だが、それで君を縛ることはしない」


 責めるためではなく、共有するための言葉。胸の奥が少しだけ緩んだ。


「……それなら」


 怖い。でも止めない。


「少しずつでいいので。信じる練習を、させてください」


「なら、私が手本になろう」


 月明かりの下で、彼の声は相変わらず不器用で、だから嘘の余地がなかった。

 私は一歩近づいた。


「……触れていいですか」


「いい」


 私は彼の外套の端を指先でつまんだ。手を繋ぐにはまだ早い。でも布越しなら、怖さが薄い。騎士団長の体がわずかに強張り、すぐ力が抜けた。


「今夜は、何も考えるな。食べて、湯に入って、眠れ。明日の仕事は午前からでいい。夜間の呼び出しはしない。約束する」


 約束。行動の一貫性。私の条件を覚えている。

 私は小さく頷いた。



 翌朝、約束通り“再発防止策”が書面で届いた。

 出入り管理の改訂。印章管理の二重化。帳簿照合の第三者チェック。権限整理。告発窓口。罰則。淡々と容赦なく、それでも理にかなう文章。最後に一行、手書きの追記。


『君が同じ恐怖を味わわぬように、私が手順を変え、管理する』


 胸がきゅっとなる。甘い言葉ではない。けれど、心の奥に手が届く。

 日々は少しずつ変わった。


 騎士団長は部屋を訪れる前に必ず扉を三回ノックした。返事があるまで開けない。入るときは「入っていいか」と聞く。机の上の紙を勝手に見ない。私が食事を抜きそうな日には、補給部に配慮を命令する。命令が出ると、周囲は私に文句を言えない。


 守られる、という形が、初めて“奪われること”ではなく“立て直せること”として体に入ってくる。

 ある日、私は騎士団長の机にいつも温い茶があることに気づいた。誰かが入れ替えているのではない。彼自身が湯の温度を見て茶葉を選んでいる。


「団長、意外と……生活能力ありますよね」


「生きるのに必要だ」


「“生きる”って、そんな言い方」


「君も、そうだろう」


 見透かされた気がして、言葉が止まった。私は恋愛のためではなく、生存のために境界線を引いている。それを彼は分かっている。

 その夜、騎士団長は珍しく仕事を早く切り上げ、私の部屋の前に立った。


「サキ。話がある」


「……どうぞ」


 距離を保ったまま椅子に座り、まっすぐこちらを見る。


「君を、私の正式な補佐官にしたい」


「仕事の話ですか」


「仕事だ。だが、それだけではない」


 彼は一拍置いた。


「君を、傍に置きたい。公的にも、私的にも」


 心臓が跳ねる。ここからが怖い。曖昧な“好き”で生活が壊れた経験がある。

 だから私は反射で、確認を求めた。


「……その“私的”の範囲を、明確にしてもらえますか」


 恋の話に範囲定義。自分でも可笑しい。でも、それが私のやり方だ。


「君と交際したい」


 直球すぎて喉が鳴った。私は照れ隠しに、冗談の逃げ道を作った。


「交際……ですか。じゃあ、その……交際届でも書面で……?」


 冗談のつもりだった。半分は照れ隠し。半分は怖さの緩衝材。

 ところが騎士団長は、真顔で頷いた。


「必要だな」


「ちょ、ちょっと待ってください。本気で書くんですか」


「君が安心するなら、書こう」


 彼は迷いなくペンを走らせた。


『交際に関する覚書』

 一、相互の同意なく身体的接触を行わない。

 二、交際を理由に相手の交友関係・仕事・生活を制限しない。

 三、不安や不満は“機嫌”ではなく言葉で共有する。

 四、相手が距離を必要とする場合、その距離を尊重する。

 五、交際の終了は一方的な冷却ではなく、話し合いの場を設ける。

 六、第三者の噂で相手を断罪しない。必要な場合は当人に確認する。


 最後に一行、手書きで。


『君が都合よく扱われる未来を、私は許さない。』


 紙にしただけなのに、胸の奥が熱くなる。形にするのは、縛るためではなく、守るため――彼はそこを間違えない。


「……団長、重いです」


「そうだ、重い。重くていい」


 初めて、はっきりと感情を乗せた声だった。


「君の人生を軽く扱うくらいなら、私は最初から近づかない」


 ずるい。格好いい。怖い。全部が一緒に来る。

 私は覚書を受け取り、震える指先を落ち着かせながら言った。


「私、簡単には信じませんよ」


「知っている」


「私は疑い深いです。面倒です。私は逃げます」


「それでもいい」


「この覚書が破られたら……私は、ちゃんと切ります」


「切れ」


 止めない。縛らない。

 その即答が、いちばん私の心を揺らした。



 交際が始まった――というより、“交際という箱”に二人で足を入れた、という方が近い。

 手を繋ぐのもぎこちない。近づくたびに私は確認する。


「今、触れてもいいですか」


「今日は距離、大丈夫ですか」


「その言い方、圧になってないですか」


 自分で言っていて疲れる。でも、それをしないと過去の影が首を伸ばす。騎士団長は毎回、面倒がらずに答える。


「いい」


「大丈夫だ。嫌なら言え」


「圧なら改める。どの言い方がいい」


 すり合わせができる関係は、思った以上に心を休ませる。

 ある日、騎士団長が私の部屋に茶を持ってきた。湯気の向こうに、珍しく疲れた顔が見えた。


「今日、何かありましたか」


「社交界から招待状が来た」


 王都の貴族が集まる夜会。補給改革の件で、私も同席を求められている。


「私が行くと、面倒が起きますよ」


「起きるだろう」


「行かない方が、団長の立場も――」


「私の立場は、私が守る」


 硬い声。それは頑固さではなく覚悟の硬さだった。


「君に求めるのは一つだけだ。君が、君を小さくしないこと」


 胸がじんとした。私は“迷惑をかけないように”自分を縮める癖がある。婚活でも職場でも、それで生き延びてきた。でも、それが私を削った。


「……分かりました。行きます」


「衣装の手配はした。採寸が必要だ」


 嫌な予感がして一歩引く。


「団長。採寸って、触りますよね」


「触る」


「……採寸は、立会人を」


「わかった。つけよう」


 勢いで私は言った。冗談のつもりで。


「あと、採寸の範囲、書面で――」


 騎士団長は真顔で頷いた。


「必要だな」


「やめてください、本気で書くの」


「君が安心するなら書く」


 数分後、机の上に『採寸に関する確認書』が出来上がっていた。採寸者の氏名、触れる部位の範囲、立会人、所要時間、途中中断の権利、破棄条件まで。


 私は紙を見て笑って、それから少し泣きそうになった。ここまでやる人がいることが、まだ信じきれない。


「団長、あなた……本当に、変です」


「君に言われるなら、構わない」


 その言い方が、妙に優しい。



 夜会は、予想通り胃が痛くなる場だった。

 視線が刺さる。囁き声が泳ぐ。


「あれが例の……」


「外から来た女よ」


「あの騎士団長様が囲っていらっしゃるとか」


「便利ね、文字が読めるって。本当に文字だけかしら」


 言葉の棘は剣より目立たないぶん厄介だ。私は笑顔を作って呼吸を整え、必要な相槌だけ返した。仕事。これは仕事。


 問題は、“仕事ではない方”が牙を剥くときだ。

 伯爵令嬢がわざとらしく私の前に立った。香水が甘く、息が詰まる。


「あなたがサキさん?」


「そうです。お会いできて光栄です」


「噂を聞いたの。騎士団長殿の“お気に入り”だとか」


 お気に入り。物みたいな言い方。


「誤解です。私は――」


「まあまあ。隠さなくていいのよ。外から来た女性は後ろ盾が必要だものね。まさかあのアルベルトが、あなたみたいな地味な女をそばに置くなんて、ね。あなた。どこまで“許して”差し上げているの?」


 笑顔のまま喉が凍る。怒れば“下品”。黙れば肯定。どちらも罠。

 その瞬間、騎士団長が私の隣に立った。距離は近いが、触れてはいない。けれど彼の影が私を守るように落ちた。


「その言い方は撤回しろ」


「団長殿、冗談ですわ」


「冗談で人を貶めるな」


 低い声が会場の空気を切る。


「サキは私の補佐官だ。必要な仕事をしている。――そして、私が交際を申し込んだ相手だ」


 ざわめきが起きた。私は心臓が止まりそうになった。公の場で言えば敵が増える。それでも彼は言い切った。隠さない。私の名前で立たせる。


 令嬢は驚き、そして少し私を睨みつけ、作り笑いを貼りつけて去っていった。私は息を吐く。足が少し震えていた。


「団長、今の……」


「君を小さくさせる言葉を、私は放置しない」


 触れていないのに、支えられている気がした。



 夜会の帰り、庭園の回廊で立ち止まった。噴水が月に白い。夜風が髪を揺らす。

 私は胸のざわつきを冗談で薄めたくて、つい言った。


「団長。今日の“交際相手宣言”も……書面に残しますか」


 笑うつもりだった。軽く受け流すつもりだった。

 騎士団長は真顔で言う。


「残すべきだな。言葉は歪む」


「やめてくださいってば」


「それが君を守るのではなく、しばるものであるなら、私は作らない」


 そして彼は懐から小さな紙束を取り出した。私は目を疑った。


「……持ち歩いてるんですか、それ」


「必要なときに必要だ。これは必要か?」


 紙の表題は堂々とこうだった。


『接吻に関する事前確認書(暫定)』


 私は噴き出した。涙が出るくらい可笑しいのに、胸の奥が熱い。


「暫定って何ですか」


「改訂の余地がある」


「そこ、真面目に言うところじゃないです!」


 騎士団長は一瞬だけ困った顔をした。困った顔ができるんだ、と私は思った。


「……君が嫌なら、やめる」


「嫌じゃないです。そうじゃなくて……」


 私は笑いながら、でもまっすぐ言った。


「あなた、誠実すぎて、私の警戒心が行き場を失います」


「警戒心は持ったままでいろ。君の鎧だ。大事な」


 鎧を剥がされるのが怖かった。剥がしたら愛される、なんて嘘だ。鎧は生き延びるために必要だった。彼はそれを否定しない。


 私は一歩近づいた。


「……私、時々あなたに甘えていいですか」


「いつでも」


「でも、都合よくは扱わないでください」


「扱わない」


 短い応酬。言葉が守られる前提で交わされるから、心が休む。


「じゃあ……今だけ。手、繋いでいいですか」


「もちろんだ」


 彼の手は大きく、温かかった。握る力は強くない。逃げられる余地がある。その余地が、私を安心させる。



 数日後、別の形の罠が来た。

 王城の文官が私を呼び出したのだ。補給改革がうまくいっているから協力してほしい、と。静かな執務室。丁寧な言葉。けれど言葉の端が、嫌な方向へ滑っていく。


「あなたは大変有能だ。外から来たのに、ここまで成果を出した。素晴らしい」


「ありがとうございます。必要なことをしただけです」


「その“必要”を続けるには後ろ盾がいる。騎士団長殿は強い後ろ盾だ。あなたが“それなりの立場”になれば改革も通しやすい」


 私は静かに聞いた。


「“それなりの立場”とは」


 文官は笑った。


「正式な婚姻は難しくても、あなたが彼の……特別な存在になればいい。わかるだろう? あなたも守られる。彼もあなたを使える。双方得だ」


 ああ、これだ。世界が違っても同じ。

 守る、という名目で都合よく使う提案。

 特別、という名目で責任を曖昧にする提案。

 私は椅子から立ち上がった。声が震えないように呼吸して、言葉を研いだ。


「それは“得”ではありません。“安売り”です」


 文官の笑顔が薄くなる。


「現実を見なさい。外から来たあなたが生き残るには――」


「私は、生き残るために自分を切り売りするつもりはありません」


 痛くても言う。ここで折れたら、また穴埋めに戻る。


「私は仕事で価値を出します。誰かの都合のいい影にはなりません」


 文官が鼻で笑った、その瞬間。

 扉が開いた。


「――やはり折れないな」


 騎士団長の声。

文官をに鋭い視線を送る。


「一体誰の命令で、彼女にそんな話をした」

 文官の顔は蒼白になる。


「誤解です。ただ彼女の将来を――」


「将来を語る資格があるのは、彼女自身だけだ」


 正論が、剣より鋭く刺さる。


「彼女を“便利”という言葉で括るな。彼女は道具ではない」


 文官は黙った。私は胸の奥のざわつきを抑えきれず、騎士団長に言った。


「団長。あなたが私を守ると言うほど、周りは“私があなたに頼っている”と見ます。私が……あなたの都合のいい立場になった、と」


 好きになり始めているからこそ怖い。失いたくないからこそ、曖昧な場所に置かれたくない。

 騎士団長は、まっすぐ答えた。


「なら、都合のいい立場にはしない。君が望む形で、堂々と並ぶ」


「堂々と?」


「君を隠さない。君の成果を君の名前だけで残す。私の影には入れない」


 胸が熱くなった。私は一歩近づき、でも止まった。触れるのが怖い。逃げたい。でも逃げたら同じ所に戻る。


 騎士団長が手を差し出す。いつもの、委ねる形で。


「サキ。君が“都合のいい女”になる未来を、私は最初から拒絶する。君の価値を、私の都合で曲げない」

 私はその手に指先を置いた。彼は強く握らない。ただ支える。



 その夜、私は自分の部屋で机の上の紙束を見た。任務契約の書面。再発防止策。交際覚書。採寸確認書。暫定の...何か。


 紙の山が可笑しくて、ため息が出る。私の人生は、いつからこんなに書類だらけになったんだろう。

 でも――この紙は私を縛るための紙じゃない。私を守るために、二人で作った紙だ。

 扉が三回ノックされた。


「サキ。入っていいか」


「……どうぞ」


 騎士団長が入ってきた。今日は少しだけ緊張しているように見えた。


「話がある」


「はい」


「確認したい」


「……はい」


 確認。いちばん私たちらしい。

 騎士団長は息を吸い、言った。


「君に触れたい」


 心臓が跳ねる。怖い。けれど、彼は待っている。焦らない。追わない。私の言葉を奪わない。

 私は冗談で逃げ道を作った。


「……じゃあ、接吻は、例の暫定書面で」


 笑うつもりだった。

 騎士団長は真顔で頷いた。


「もう、清書してある」


「本当に清書したんですか」


 彼は懐から丁寧に折り畳まれた羊皮紙を出した。表題は改訂されている。


『接吻に関する確認書(正式)』


 私は声を上げて笑ってしまった。笑いながら、泣きそうになった。


「団長、あなた……真面目が過ぎます」


「君の不安を、冗談で流さないと決めた」


 その言葉が胸を打った。私が冗談に逃げても、彼はそこを“曖昧にしていい合図”にしない。

 私は紙を受け取り、読んだ。


 一、接吻の前に当人の同意を得る。

 二、拒否・中断の意思表示があった場合、ただちに止める。

 三、拒否によって不機嫌・沈黙・威圧を用いない。

 四、同意はその場その場で更新される。過去の同意を持ち出さない。


 最後の一文。

『君の“怖い”を、私は罰にしない。』


 私は紙を胸に抱えた。涙が一滴落ちた。悔しいほど嬉しい。怖いほど嬉しい。


「……私、あなたが好きです」


 言った瞬間、喉が熱くなる。逃げたい。でも目を逸らさない。

 騎士団長の目が揺れた。ほんのわずかに。けれど確かに。


「……私もだ」


 短い返事。でも逃げない返事。

 私は立ち上がり、彼の前に一歩進んだ。自分の足で。

 そして、深呼吸して言った。ここが私の、前に進むところだ。


「……今は、書面、いりません」


 騎士団長の手がわずかに止まった。

 私は続けた。震えそうな声を、背筋で支えて、言葉を研ぐ。


「紙は、私を守ってくれました。あなたも守ってくれました。だから次は――私が私を守ります」


 騎士団長は黙って聞いている。逃げない。


「私は、優しさの返礼に自分を差し出すつもりはありません。守られる代わりに黙るのも、曖昧な“特別”の中で安く扱われるのも、もうしません」


 私は彼を見上げた。


「あなたの隣に立つなら、対等に立ちたい。私は、私の名前でここに立ちたい」


 最後に、私は自分らしく言い切った。強がりではなく、宣言として。


「書面はもう要りません。――でも私は、都合のいい女にはならない。選ぶのは、いつだって私です」


 騎士団長は、ゆっくり頷いた。


「……よく言った」


 低い声が少しだけ震えていた。


「君が自分を安売りするくらいなら、私は君に触れない。君が対等を望んでこそ、そばにいたい」」


 彼は手を伸ばした。いつもの、委ねる形で。


「触れていいか」


 私は笑った。今度は冗談じゃない。


「ーーはい」


 騎士団長の指先が私の頬に触れた。慎重で、温かくて、怖さを押し潰さない触れ方だった。

 唇が重なる。

 彼の吐息と熱を感じる。


 彼が小さく言う。


「……確認書は、破棄していいか」


 私は声を殺して笑った。


「保管は私がします。証拠として」


「証拠?」


「あなたが誠実すぎる男だっていう、確かな証拠です」


 騎士団長の口元が、ほんの少しだけ上がった。


 優しい人ほど怖い。

 その前提は、きっと簡単には消えない。だけど――怖さごと抱えたまま、前に進める相手がいる。


 私は、私のまま恋をしていい。


 もう都合のいい場所には戻らない。

 私は私の名前で、ここに立つ。


(おしまい)

お読みいただき、ありがとうございました。


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