ループ
「プルルル、プルルル」
リビングの電話が鳴った。
留守番をしていた少年は、すぐに受話器を取った。
「もしもし?」
受話器の向こうは、なぜかざわついていた。
すると、近所のおばちゃんの声が飛び込んできた。
「坊ちゃん?……あなたの母さんが、今、事故に遭って――」
言葉が終わるのを待たずに、少年の手から力が抜けた。
そのまま、膝をついて崩れ落ちる。
受話器の向こうではまだ何かを話していたが、もう何も聞き取れなかった。
「ついさっきまで話していたのに……」
信じられない。嘘だと思いたいのに、頭が真っ白になっていく。
放心したまま、涙が溢れ、止まらなかった。
それでも、じっとしていられなかった。
気がつくと、少年は裸足のまま家を飛び出していた。
場所もわからず、搬送先も知らず、ただ――
泣きながら、叫ぶように、走った。
涙で前が見えなくなった。
顔を擦り、目を開く。
そこは、さっきまでいた――自分の家だった。
窓からは、何事もなかったように朝の日差しが差し込んでいた。
まるで、あの電話なんて最初からなかったかのように。
「……なんで、家に?」
戸惑っていると、奥の廊下から足音がした。
振り向くと――
「母さん!」
そこには、いつも通りの母さんが立っていた。
少年は駆け寄り、力いっぱい抱きついた。
「どうしたの?」
母さんは不思議そうに笑っている。
「……生きてたんだね。よかった……いなくならないで……」
少年の言葉に、母さんはそっと頭を撫でながら言った。
「そりゃあ生きてるわよ。あなたをほってどこかに行くもんですか」
そう言って、母さんは買い物袋を持ち上げた。
「ちょっと買い物行ってくるから、留守番お願いね」
そう言って、笑顔で玄関を出て行った。
ぱたん、と戸が閉まる音がした。
少年は立ち尽くしながらも、小さく呟いた。
「ああ……あれは夢だったんだ……」
胸の奥に、安心がじんわり広がっていく。
さっきまでの恐怖が、霧のように消えていく。
いつもの場所で、いつものようにゲーム機の電源を入れる。
何もなかった日常が、確かにここにある。
……と思った、ほんの少しあとだった。
「プルルル、プルルル」
リビングの電話が、再び鳴った。
手が止まる。
「……まさか」
少年は振り返りながら、ゆっくりと受話器を取った。
「もしもし?」
その瞬間、耳に飛び込んできたのは、あの騒がしい音。
そして――
「坊ちゃん?……あなたの母さんが、今、事故に遭って――」
その声は、先ほどとまったく同じだった。
抑揚も、間の取り方も、息遣いまでも。
少年は、もう声も出せず、ただ震える手で受話器を握りしめていた。
その後、少年はおばちゃんに連れられて病院へ向かった。
白く冷たい空間の奥――
無機質な音が響く中、たくさんの管と機械に繋がれて、母さんは静かに横たわっていた。
少年はその姿をただじっと見つめる。
目には、どうしようもない涙があふれていた。
「なんで……? あれは夢だったんじゃないの……?
……なんでまた、こんなことに……」
そのまま、母さんのベッドのそばで泣き疲れ、眠ってしまった。
──そして、目を覚ますと。
自分の部屋だった。
窓からは、何事もなかったように朝の陽射しが差し込んでいる。
まるで、あの出来事なんて最初からなかったかのように。
どこかで、軽やかな足音が聞こえた。
母さんの足音だ。
少年ははっとして飛び起きた。
——母さんを助けなきゃ。
「母さん! 今から買い物に行かなくていいよ。一緒に家にいよう?」
「え?……今日買い物に行くって、なんで知ってるの?」
母さんは少し驚いた顔をしたが、すぐに微笑んだ。
「一緒にいたいのはやまやまだけど、晩御飯がなくてね」
「ダメだよ、行っちゃダメ! ……あ、そうだ。
いま、僕……熱があるかも。だから、ひとりにしないで」
母さんは少年の額に手を当てて、眉をひそめた。
「……ちょっと熱いかも。今日は病院に行こうか」
少年はこくりと頷いた。
——これで、今度こそ助けられるかもしれない。
母さんと一緒に病院へ歩いていくことになった。
道中、少年は最善の注意を払った。
母さんを外側に立たせないように、車道側を自分が歩いた。
横断歩道を渡るときも、何度も何度も左右を確認した。
ようやく病院の前にたどり着いた。
——これで……これで母さんを守れた。
安堵と疲れが、少年の判断を一瞬だけ鈍らせた。
確認もせず、横断歩道を渡りはじめてしまった。
そのときだった。
ブレーキ音。
車が突っ込んでくる。
逃げようとした。でも、体が動かない。
「危ない!」
母さんが、少年を突き飛ばした。
その瞬間、視界の隅に映った――
自分を守ろうとする、決意に満ちた母さんの横顔。
そして――
鈍い、衝撃音。
少年の目の前で、母さんの体が……。
「……やだ……なんで……」
その場に倒れこみ、少年の意識は闇に飲まれた。
目覚めると、また朝の光。
——また、戻ってきた。
今度こそは。
少年は、事故の時間まで母さんを家に留めようとした。
けれど、ダメだった。
時間が過ぎていたのに、事故はまた起きてしまった。
じゃあ、父さんを呼ぼう。
そう思ったが、父さんは昨日から、昔の友人に会いに行ったきり、連絡がつかないらしい。
今度は、最初から病院に向かった。
もっと気をつけて、もっと慎重に――
けれど、そこへ、突っ込んできた車。
また失敗だった。
いったい、何度目の朝だろう。
頭の中は、もう何周目かさえわからない。
なのに、体はまだ――あのときのままの、子どものまま。
でも、それがつらいわけじゃない。
「助けたいだけなのに」
ただそれだけの願いが、毎回、目の前で踏み潰されていく。
そのたびに、心が少しずつ削られていく。
何百回目かの失敗のあと、
まだ母さんが生きている、たったそれだけで、涙があふれた。
止めようなんて思えなかった。
拭うこともできなかった。
見えなくなるほど泣いて、それでも……時間はまた、戻った。
──そしてまた、あの朝。
少年は静かに思った。
母さんを助けなきゃいけない。けど、そばにいるだけじゃダメなんだ。
「何をしても、母さんは目の前から消えてしまう。」
……じゃあ、どうすれば?
少年は、思いついた。
今まではいつも、母さんのそばにいた。家にいた。
けれど、今度は違う。
——事故が起こるその瞬間だけを狙って、母さんに気づかれずに尾行する。
——そして、確実に救い出す。
少年は、静かに決意した。
自分だけが、母さんを救える。
何十回、何百回くり返したって、それだけは変わらない。
いつもの朝と同じように、母さんを玄関で見送った。
けれど、今日は違う。
あらかじめ庭に隠しておいた靴を履き、少し距離を取って後を追う。
父さんの腕時計で、時刻を何度も確かめながら。
——あの時間が近づいてくる。
どこかで、見覚えのある車の音が響いた。
それは、何百回も見てきた光景。
あの車だ。
一瞬、心臓が凍りついた。
「危ない!!」
叫んだ瞬間には、もう体が走り出していた。
母さんの背中が、目の前に迫る。
間に合え――!
咄嗟に体をぶつけて、母さんを押し飛ばす。
その時、母さんがこちらを振り返った。
その顔が、まるで……あの時と同じだった。
優しくて、驚いていて、でもどこか誇らしげな――そんな表情。
一瞬のようで、永遠のようなその時間が、胸の奥深くに焼きついた。
……そして、鈍い衝撃音が、空気を割った。
数時間後。
「……お子さんは、もしかしたら、もう……」
「なんで息子は……先生、どうにもなりませんの?」
母親は泣きながら訴えたが、医師はただ、深く俯いたままだった。
そこへ、ようやく連絡のついた夫が病院に駆けつけてきた。
その顔には、言葉にできないほどの絶望と後悔が浮かんでいた。
「こんな時まで……何をしてたのよ!
なんで、こんな大事な時にいないのよ!」
「っ……すまない。あいつの住んでた場所が、電波の届かない所だったんだ……」
「そんなの、今どうでもいい!
……もう、そんなの……」
言いかけた言葉を噛み殺し、母親は息子のそばに膝をついた。
そして、細い手で、その小さな手を強く握りしめる。
「私が代わってあげたい……」
そう絞り出すように言った声は、かすれていて、震えていた。
やがて、そのまま泣き疲れ、ベッドの脇で母親は眠りに落ちた。
──そして、目を覚ますと。
そこは、自分の家だった。
窓からは、何事もなかったように朝の日差しが差し込んでいる。
まるで、あの出来事なんて――
最初からなかったかのように。