第十七話 囁き
『英雄の代償』第17話です。
希望を失ったエイドは、ただ囁くように、誰にも届かぬ声で過去をなぞります。
それは痛みではなく、絶望でもない──
ただ、“空っぽ”であることの静かな証明でした。
牢獄に、
夜と昼の区別はなかった。
時間の感覚は、
とうに失われていた。
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エイド・グレイヴは、
壁に背を預けて座っていた。
目は開いていたが、
焦点はどこにも合っていなかった。
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体中の傷は、
膿み、腐りかけていた。
痛みも、
もう遠いものだった。
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ただ、
頭の中だけが、やけに鮮明だった。
記憶が、
脳を焼き付くすように、巡る。
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民衆の石。
カリスの背中。
エステラの涙。
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ひとつ、またひとつ。
希望が、
信頼が、
愛が──
崩れて、溶けて、消えていった。
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エイドは、
口を動かした。
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誰に向かってでもなかった。
ただ、
空気に向かって、
ぼそぼそと呟き続けた。
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「……守りたかったんだ。」
「……信じたかったんだ。」
「……それだけだったのに。」
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声は、かすれていた。
けれど止まらなかった。
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「……なあ、俺、何を間違えた?」
「……どこで、間違えたんだ?」
「……誰か、教えてくれよ。」
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誰も答えなかった。
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鉄格子の向こうには、
誰もいなかった。
兵士たちも、
侍女たちも、
誰も、近づこうとしなかった。
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エイドは、
笑った。
乾いた、音のない笑いだった。
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そして、また呟いた。
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「……エステラ……。」
「……お前は……
本当に、俺を……」
「……いや、もういい……。」
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頭を抱えた。
爪が頭皮を抉った。
血がにじんだ。
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それでも、
エイドは止まらなかった。
囁き続けた。
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「……いらない。
……信じない。
……愛さない。」
「……もう、何もいらない。」
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その声は、
誰にも届かなかった。
届く必要もなかった。
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エイドの世界は、
すでに、彼ひとりきりだった。
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孤独でもなかった。
絶望でもなかった。
ただ──
空っぽだった。
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時間だけが、
腐った空気の中を流れていった。
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どれくらい、そうしていただろう。
ふと、
エイドは、手元に何かを見つけた。
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錆びた、折れた釘だった。
牢の床に転がっていたものだろう。
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エイドは、
それを手に取った。
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そして、
自分の腕に突き立てた。
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血が滲んだ。
でも、
エイドは、ただ、じっと見つめた。
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血が、
鉄の床にぽたぽたと落ちる。
その音だけが、
確かに、自分が”まだ生きている”証だった。
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生きていることが、
何より、痛かった。
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エイドは、
ゆっくりと、目を閉じた。
そして、
今度は──
何も、呟かなかった。
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ただ、
深い深い沈黙の中で、
自分自身を──
完全に、
孤独へと閉じ込めていった。
ご覧いただき、ありがとうございます。
この章では、拷問や裏切りではなく、
「誰にも気づかれない声を出し続ける」という“精神の自傷”を描きました。
エイドが自分にすら届かない“声”を失い、沈黙へ入っていく。
壊れていく過程が最も美しいのは、
まだ“壊れきっていない”からなのかもしれません。




