第十六話 信じない
『英雄の代償』第16話です。
どんな絶望の中でも、エイドは「信じること」を最後の灯火にしていました。
しかしその光すら、今──彼自身の手で消されてしまいます。
「信じない」という言葉は、彼の“死”よりも深い別れでした。
牢獄の夜は、
果てしなく長かった。
どれだけ時間が過ぎたのか、
わからなかった。
昼も夜もなかった。
ただ、腐った空気と、暗闇だけ。
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エイド・グレイヴは、
その片隅で、動かずにいた。
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体は、
もう感覚がなかった。
痛みも、
空腹も、
喉の渇きも、
すべて鈍くなっていた。
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だが──
心だけが、
まだ、生きていた。
それが、
何より苦しかった。
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ふと、
牢の向こうに、足音が響いた。
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現れたのは、
エステラだった。
薄い布のドレス。
血の気のない顔。
震える手。
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エイドは、
顔を上げた。
その顔には、
もう、笑みも怒りもなかった。
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エステラは、
鉄格子の外から、
小さな声で囁いた。
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「……エイド、ごめん。」
「ごめん、ごめん、ごめん……」
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何度も、
何度も、
繰り返した。
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エイドは、
ただ黙って見ていた。
許すでもない。
怒るでもない。
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ただ、
静かに、
呟いた。
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「……信じない。」
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エステラは、
顔を強張らせた。
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エイドは、
さらに続けた。
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「もう……誰も、信じない。」
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その声は、
静かだった。
怒りも、悲しみもなかった。
ただ、
底なしの、空っぽ。
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エステラは、
震えながら、
鉄格子を握った。
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「……あたしは、本当に……エイドを──」
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エイドは、
そっと目を閉じた。
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そして、
微笑んだ。
空っぽの、
壊れた笑みだった。
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「……いいよ。」
「もう、何もいらない。」
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エステラは、
嗚咽を押し殺した。
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彼女は、
何もできなかった。
今さら何を言っても、
エイドには届かないことを、
痛いほどに理解していた。
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鉄格子の間に、
手を伸ばした。
届かない。
どれだけ伸ばしても、
絶対に、届かなかった。
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やがて、
エステラは、
崩れるようにその場に座り込んだ。
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エイドは、
動かなかった。
ただ、
遠くの壁を見つめていた。
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夜が、深くなっていく。
牢獄には、
誰の祈りも、
誰の希望も、
もはや残っていなかった。
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エイドは、
静かに、静かに、
かつて自分が信じた世界を──
完全に、手放した。
読んでいただき、ありがとうございます。
今回の章は、エイドの“心の死”の完了を描きました。
「もう、誰も信じない」と口にしたとき、彼は世界から離れてしまいました。
ここから先は、“英雄”ではない何かが歩き出す章になります。
次回──かすかな灯火の消えたあとに、何が残るのか。
見届けてください。




